*黒と白 3
地獄への狭い階段を下り、黒薙は時計を確認する。午後七時五分。既に地下からは音楽が重低音のように低く壁を伝って響いていた。オレンジ色の明かりは所々電球が切れていて足元がよく見えない。火取り虫が羽ばたいて鱗粉が舞い、思わず手で扇いだ。
階段を下る程に音が大きくなる。辿り着いた最下層の扉を押し開けた瞬間、眩暈がした。酷いアルコールと香水の臭い、耳障りな音楽と熱気。踏み入れた瞬間、一歩後退りそうになったが、すぐ後ろにいた佐倉にぶつかった。
「大丈夫ですか?」
答えず、軽く咳き込む。天井のミラーボールの反射が催眠術のように視界でチカチカと揺れた。
暗い室内で男も女も関係無く体を揺らして音楽に酔う。黒薙の目にはどれも中毒者にしか見えなかったが、佐倉は楽しそうに音楽を口ずさんでいた。
「懐かしいなぁ」
「来た事あんのかよ」
「ここは無いですけど。酒呑んだら駄目ですよね?」
「それ、本気で訊いてるのか?」
睨むと、佐倉は楽しそうに笑った。彼には人を遠ざける黒薙の眼光が効かない。
佐倉は元来飲兵衛で、新人歓迎会の時からその呑みっぷりを披露して来た。ザルを通り越して枠なのだろう。文字通り、浴びるように呑む。それでもアルコール中毒にならないのは流石としか言いようが無い。
「どうやって探すんですか?」
「訊く」
ダンスフロアに向かって佐倉の背を押した。振り返った顔に驚愕が浮び、信じられないとでも言うように自分を指差している。
「俺ですか?!」
「先輩にやらせる気かよ」
そう吐き捨てて、黒薙はさっさとカウンター席に向かった。残された佐倉は困ったように眉を下げて立ち尽くしていたかと思えば、ポリポリと頭を掻きながらダンスフロアの端に固まる女の子の集団へと歩き始める。ネクタイを外し、上着を脱いで腕に掛けてシャツを着崩して袖を捲くった。
それを確認してから黒薙は一本足の回転するカウンター席に着く。思った以上にクッションは固く、誰かが座った後なのか不快な生温さを覚えた。黒薙が座った事に気付くと、すかさずバーテンダーがシェイカーを持って前に現れた。黒いベストを着た洒落たバーにいそうな姿だが、顔に軽薄さが覗える。
「何か飲むかい?」
「ああ……」
メニューを探すが、無い。少しだけ考えて「アルコールの無いもの」と頼んだ。バーテンダーは眉を寄せたが当然の反応だろう。お門違いにも程がある。
「悪いな、俺は酒が呑めないんだ」
そう付け加えると、渋々ながら納得した様子で冷えた烏龍茶を出してくれた。正直なところ、さっきの喫茶店でアイスコーヒーを飲まなかった為に喉が乾いて仕方が無かった。喉の皮が張り付くようで言葉が今一つはっきりしない。すぐにでも飲みたい衝動を抑えつつ、黒薙は烏龍茶を見つめて顔を上げた。正面でまだ不機嫌そうな顔のバーテンダーが他の客に出すのかシェイカーを振っている。
「兄さん、GLAYって知ってるか?」
バーテンダーの動きが一瞬、止まった。そのまま黒薙の言葉には答えないで少し離れたところの女二人に慣れた手付きで酒を出し、一呼吸置いてから正面に戻って腰を屈め、声を潜めた。
「欲しいのか?」
「ああ、ずっと探している。巷に出回ってるのは皆偽モンだしな」
「本物が欲しいんだな」
言葉遊びを愉しむような、ゆっくりとした口調で確認する。口角が僅かに上がり、獲物を見つけた獅子のようにも思えた。だが、心臓は高鳴った。同時に心の中で佐倉を行かせた事を後悔した。
彼は持っているともいないとも言っていないけれど期待が高まる。勘が何か近いものを感じてそれを知らせる。
「持っているのか?」
同じように声を潜めて訊くと、バーテンダーは首を振った。だが、鼓動がまだ鳴っている。推理小説で、ここで終わりじゃない、と次の事件が起こった時のような感覚がした。まだ、終わりじゃない。
「俺は持ってない。だが、持っている人はこの店にいる」
「誰だ?」
答えない。
黒薙は目を伏せて烏龍茶に手を伸ばした。グラスを通して冷えた感触が指先に伝わる。そのまま持ち上げ、口を付けた。口の中に水分が染み込んで行くような心地良さが全身に染み渡る。ゴクリと喉が鳴った。
沈黙を続けるバーテンダーが言わんとしている事を黒薙は肌で感じ取っていた。恐らく、言えないから探せと言う事だろう。背後で踊り狂う若者の群れを一目見て溜息を吐いた。やはり、佐倉を行かせて良かった。
「特徴と……か……」
言い掛けて、前につんのめるような眩暈が襲った。視界がグニャリと歪んで天地が分からない。色とりどりのライトが生物のように蠢いている。咄嗟にカウンターを掴むが、地面が激しく揺れているような気持ち悪さの為に椅子から落ちた。膝に鈍い痛みを感じ、その反動で携帯が音を立てて遠くへ飛び見失う。人と物の判断が出来ない程に視界がはっきりしない。周りにミラーボールがあるような眩しさから目を伏せるが、自分の手さえ歪んで見える。
酒を呑んだ後とよく似た状態だった。でも、酒の類は呑んでいない筈だ。
「黒薙灯だな」
聞き覚えの無い声が頭上から降った。だが、今自分は何処を向いているのだろうか? 上は何処だ?
歪む視界で人影のようなものが見えた。黒い影のようだが、声の主だろう。
「誰だ……」
「俺か?」
ククッ、と喉が鳴る。笑い方で表情が分かる気がした。口角を上げた意地悪な、それでいて無邪気な子供の笑顔だ。平気な顔をして命を奪える無知な子供。職業柄、そういう人間が一番危険である事は知っている。中毒になる人間の大半はそういった若者だ。
それが眩暈から来るものか判断は付かないが、全身が粟立った。そう、本物のGLAYと対峙した時と同じだ。悪寒が体に纏わり付いて耳元で囁くように危険を知らせる。
「空蝉、と聞けば分かるだろ?」
その名を聞いた瞬間、混濁した意識が僅かにはっきりした。ぼんやりと歪むものが椅子であり、カウンターであると分かる。そして、自分がさっき座っていた隣の椅子で予想通りの笑顔で見下ろすラフな服装の男。二十代半ばだろうか、黒い髪がライトを反射している。
どうしようもない悪寒以上に、見覚えがあると言う事実が気分を悪化させた。
「何で、ここに……」
指名手配書が脳裏を掠める。
現在の職場に配属された初日に浦和からされたのは建物の案内では無く、数人の指名手配犯だった。常に生命の危険が伴う職業で、追うだけで無く追われる事もある。殉職者は多く、その内の殆どがある男による犯行だと説明された。
暗い部屋の白いスクリーンに映し出された男の名は、空蝉と言った。本名は知らない。現在、最も危険なテロリストで単独で遭遇したなら有無を言わず逃げろとさえ言われた。
心臓が音を立て、頭の中で危険信号が真っ赤になって光っている。逃げろ、と。
「GLAYが欲しいんだろ?」
空蝉は口角を上げ、ポケットから半透明の小さなメディカルケースを取り出した。それをもったいぶるように目の前で左右に振って音を立てる。カタカタと鳴るケースの中には恐らくGLAYが入っているのだろうが、音を聞く程に頭の中は冷静になって行く。危険信号が青くなる。
「偽物なんざいらねーよ」
黒薙は精一杯睨み付けた。
瞼が重い。あの烏龍茶に睡眠薬でも入っていたのだろう。地面に沈み込んで行くような感覚を堪える程吐き気が増す。それでも、必死に睨んだ。そのGLAYは偽物だ。
「これが偽物だと?」
空蝉はまた、口角を上げて愉しそうに笑った。しきりに誘うように動かしていた手が止まり、メディカルケースが掌に納まっている。
「俺は、本物を知っている」
黒薙の黒い双眸が光った。その瞬間、空蝉は目を伏せて笑い出した。
「ハハハハハハハッ!」
笑い声が響き、空蝉は腹を抱えて可笑しそうに肩を震わせる。一方で黒薙の意識は飛ぶ寸前だった。
揺れていた視界が白く霞み、意識が遠退く。笑い声が遠い。佐倉は何をしているんだろう。
「おもしれェヤツだ。GLAYを見分けられるのか?」
黒薙の意識は混濁し、淀んだ沼の中に潜り込んでいる。空蝉はそれを興味深そうに見下ろし、席を立った。客は踊り狂って気付かず、バーテンダーも何も知らぬ素振りでシェイカーを振る。
「運んでおけ」
そう命令して空蝉は去った。客に紛れ込んでいた男達はゾロゾロと現れて取り囲み、黒薙を持ち上げる。辛うじて意識の残るまま、黒薙は遠くに消えようとする背中を睨み付けた。
手配書が脳裏を過る。テロリスト、危険、そして……GLAYの重要参考人。
「お前だけは許さねぇからな……」
消え入りそうな声が届き、空蝉は足を止めて振り返った。口角が上がっているが、既に意識が無い事に気付いてつまらなそうに舌打ちした。ここでまだ意識があったら、どうしてやっただろう?
空蝉は小さく手を挙げて合図すると、また歩き出した。
カウンターから少し離れたダンスフロアとの境目に黒い携帯が転がっている。シールなど貼っていないし、ストラップも無い。暗い足元で携帯は闇に沈んでいた。その時、白い着信ランプが闇に浮ぶ。低い音を立てて床に振動を微かに伝え、フロアを分ける段差から硬質な音を立てながら落ちた。着信は止まない。
振動がナメクジのように携帯を移動させる。だんだんと人の多い方向へ進み、大勢の足が近付いた。地面を踏み付けてリズムを取るスニーカー、忙しなく動くハイヒール、そして、ゆっくりと近付く革靴。佐倉は携帯を拾い上げた。
携帯を拾って何気無く開き、着信画面が消えて其処に待ち受け画像の写真が出現した。黒薙と男女の三人。男の方は見覚えがあり、名前は忘れてしまったが職業がホストだった事は辛うじて覚えている。それが黒薙の携帯だと気付くのに時間は掛からなかった。
「何でここに……」
思わず声に漏らした。慌てて周囲を見渡すが、それらしい人影は無い。
彼が後輩を置いて何処かへ消える事は無い。最後に見たのはカウンターに向かう後姿だった。それだけを頼りにカウンターの中でシェイカーを振るバーテンダーの元に走る。足元に落ちていたファーストフードの紙袋を踏み付けたが気にならなかった。
到着するなりカウンターに思い切り両手を打ち付けた佐倉を見ると、バーテンダーは目を丸くした。それでも他の客は自分達の会話やダンスに夢中で一瞥も寄越さない。
「ここに、男の人が座っていませんでしたか? 年は二十二で黒髪で浅黒い感じで、結構格好良い人なんで印象に残ると思うんですが」
「さぁ」
素っ気無く、バーテンダーは背を向けた。目が細く額が広い。狐のようだと密かに思った。
「ここに来た筈です」
佐倉がしつこく食い下がると、バーテンダーはあからさまに嫌な顔をした。酔っ払いを相手にするような面倒臭そうな呆れた顔。
「こっちもね、一日に何十人も客の相手してんでね。いちいち覚えてはいませんよ」
「たった今です。知らない筈が無いんだ」
この男は何かを知っている。佐倉の勘がそう告げた。
『頼れるものが無くなったら、最後は自分の勘を信じろ』とは黒薙の教えで。彼は神仏よりも自分の勘を信じていたが、今は正にその時だろう。
その教えと同時に、彼の言葉が思い出される。「死ぬのは恐くない」ついさっきの無愛想な顔で言った彼の言葉だ。やめてくれ。
「知らないって、言っているでしょ」
ピシャリと言い切った瞬間、背後に幾つもの気配が立った。振り返ると大きな影が包み、周りの景色を覆い隠していた。黒いサングラスに背広を着た、秘密企業の社員と言った風だ。非合法的な感じがひしひしと伝わる。そこで思い直す。ボディーガードのようにも見えた。主が危険と分かれば懐から黒い鉄の塊を取り出すのだ。
五人。冷静に数え、突破口を探った。正面の男に金的をかまして潜り抜ければ脱出は不可能じゃない。何度も頭の中でシュミレーションする。不可能じゃない。自分の勘を信じろ。
だが、脱出したところで八方塞じゃないか。その後どうすればいい?
無事では済まないかも知れないが、このまま喧嘩して裏に連れて行かれた方が賢いのかも知れない。普段なら幾ら賢くてもやらない手だが、非常事態だ。自分の勘を信じろ。
その時だ。左端でカウンターに右肘を置いて睨みを利かせていた男の姿勢がグラリと揺れた。頭が後ろに揺れ、そのまま前のめりに倒れた。佐倉は咄嗟に避ける。周囲を隠していた男達が動揺して距離を置いた。
足元に転がった男を見てから、その向こうにいる人物に目をやった。ついさっき見た顔だ。
「アンタ……」
名前が出て来ない。人の良さそうな、軽薄そうとも取れる笑顔を張り付けて佇む黒いスーツの男。胸元の大きく開いた赤いカラーシャツの中に銀色のネックレスが光っている。
「君、灯の仲間だろ?」
金髪を掻き揚げながら笑った。仕草一つ一つが精錬され、思わず目を奪われる。何もしていないが、流石ホストと合の手を入れたくなる容貌だ。
「名前、何て言ったっけ。変な名前だったよね」
「……佐倉、青です」
「ああ、そうだ佐倉君だ」
佐倉君、と数回繰り返して笑った。ついさっきまで一緒に行動していた黒薙はまったく笑わない人間なので違和感を覚えた。尤も、佐倉にとっては彼よりも変に飾り立てしない黒薙の方が一緒にいて気が楽だが。
「俺の名前忘れた? 白神龍だよ、よろしく」
そうだ、そうだった。頭の中で手を打つ。初めて聞いた時仰々しい名前だと思った事も同時に思い出した。聞いた話ではホストだけでなく、揉め事解決屋と言うものもやっている胡散臭い男だ。
その白神の後ろでぼんやりしている青年がいる。佐倉は、白神を思い出す事は出来なかったが彼は覚えていた。揉め事解決屋を共に営む永塚幸太郎。初対面で酷く丁寧に挨拶された。
「灯、いねぇの? 電話出ないけど」
ぼんやりと、携帯に着信があった事を思い出した。其処で携帯を見ると、佐倉が持っている事に気付いた白神が首を傾げる。
便所か、と一瞬考えるが、わざわざそれで携帯を預けるだろうか。
携帯だけを残して黒薙がいない。後輩はいかにも怪しい男に囲まれている。少なくとも、平和な状況では無いと分かる。白神は距離を置く男達を無視してバーテンダーの方に顔を向けた。
「ねぇ、お兄さん。ここに小さい男が来たでしょ」
小さい、と言うのは白神の感覚だ。黒薙は確かに体格が良くないが、百八十を越える長身から見れば殆どの人間は小さい事になってしまう。
バーテンダーは一瞬言葉に詰まったが、首を振った。
「おかしいな。そんな筈は無いだろ」
と言ってから佐倉を見た。もちろん頷く。白神は再びバーテンダーに向き直り、笑顔で「ねぇ」と言った。佐倉や永塚にはその「ねぇ」には脅しのような意味合いが含まれているように感じられた。
「ここにいたと言う証拠でもあるのか」
バーテンダーの顔色が良くない。冷や汗がこめかみから流れ落ちた。
言葉に詰まった佐倉の目が上方向に泳ぎ、その先の壁の染みを見つめた。染みは助言なんてくれない。だが、白神は眉を寄せ、平然として
「お前だって、ここにアイツがいなかった証拠はねぇじゃねぇか」
と言った。子供の水掛け論だが、言い切った白神に何かしらの恐怖を覚えたバーテンダーが今度は口篭もった。それを幸いと感じた白神が助け舟を出す。無論、泥舟だ。
「いなかった証拠なら、すぐにでも出せるぜ?」
バーテンダーが食い付く。かちかち山の狸を彷彿とさせた。
「俺達がこの店を隅々まで調べてやるよ。言っておくけど、コイツは警官だ」
挑戦的な笑みを浮かべたまま佐倉を指差す。思わず、肩が震えた。其処で合図のように目配せされたので佐倉は懐から警察手帳を提示する。バーテンダーの顔が強張ったのは、僅かに一瞬だった。
警察など恐くない。バーテンダーの余裕の出来た顔がそう言っている。
「調べる権限が何処にあるんだ」
「調べちゃ悪いもんがあんだろ? ヤバイ薬とか、さ」
白神はポケットから薄ピンクの小さなケースを取り出し、カウンターに置いた。中にある小さな何かが微かな音を立てる。
「探し物があるんだよ」
そう言って、ケースを開けた。中には灰色をした爪より小さな錠剤が一粒収まっている。
「GLAYだ」何処からか黒薙の声が聞こえた気がした。
「何でそれを持っているんですか」
佐倉が怪訝そうに眉を寄せる。さっきは利用しようとした警察と言う立場が今度は邪魔になる。白神は面倒臭そうに預かって来た事を説明してからバーテンダーを睨んだ。
「GLAYの本物が欲しい」
本物、と言う響きに殆どの者が反応する。佐倉がピクリと動いたのは白神にとっても想定外だった。巷で溢れるGLAYが偽物だと知るのはほんの一握りの人間だけだから、黒薙が教えたのだろうとぼんやり考える。
死者に会える幻のドラッグ、GLAYがここにある。自然と高鳴る心臓を抑え込んだ。
「今日はお客さんが多いなァ」
クックッと喉を鳴らしながら空蝉がカウンター奥から現れる。白神は眉を顰めただけだたが、佐倉は思いきり指を指して「あっ」と声を上げた。
「空蝉! テメェ何でここに!」
思わず飛び掛かりそうになる佐倉の後ろ襟を掴み、白神は空蝉に向き直った。彼を包む空気が冷たく、嫌なものを覚えた。そう、丁度墓場の冷気に似ている。何処と無く死臭が漂っている気がした。
空蝉は暢気にポケットから煙草を取り出し、火を点ける。闇の中で青とオレンジの混ざった炎が浮び上がって顔を照らした。佐倉は今にも飛び掛かろうと言うように睨んでいたが、その手元を見て動きを止めた。襟を掴んでいた白神の体制が僅かに狂う。
「お前、それ……」
佐倉が見つめていたのはライターだった。青い蛍光色の何処にでも売っているような百円ライターだが、コンビニのテープが貼ってある。夕方、一度黒薙から取ったものと一致した。
「灯さんのライターじゃねぇか!」
ダン、と鈍い音が響く。佐倉がカウンターを殴り付けた音だ。それでも周囲の人間は興味を示さないで自分の行動を続ける。RPGのコンピュータプレイヤーを思い出した。同じ言葉を話し、同じ行動を繰り替える村人。
「どういう事だ」
白神が訊くと、また、空蝉は喉を鳴らしてライターを人参のようにぶら下げる。佐倉の目には焦りと怒りの入り混じった色が浮かんでいた。
「黒薙灯は預かっている。中々興味深い実験材料だよ」
「実験材料……?」
「GLAYを嗅ぎ分ける優秀な鼻を持ってるみたいじゃねぇか」
意味が分からないままで白神と永塚は佐倉を見る。だが、眉を寄せたままで黙り込んでいる。
「後々厄介な事になりそうなんでな」
「……うるせェ! 灯さんは何処だ!」
佐倉は右足を振り上げてカウンターに乗り上げた。その瞬間、天井から白い煙が空気の抜けるような音と共に吹き出て室内に広がり始めた。生物のように人を呑み込み、包み込む。白神は咄嗟に肘の辺りで顔半分を覆った。
煙を顔に受けた佐倉が乗り上げた姿勢のまま、後ろに倒れ込む。永塚に衝突し、二人は倒れたまま起き上がらない。
毒か、と脳裏を過った。白神は身を伏せるが、体が重い。
「毒じゃねぇよ。安心しな」
空蝉の笑い声が遠くなる。ゆっくりと体が傾き、瞼が急激に重く下がった。沈んで行くような感覚。一瞬見えた空蝉と仲間の顔はマスクで覆われていた。
(準備の良い事で……)
白神は意識を手放した。
2007.8.30 |