*黒と白 4 瞼を押し開けると、薄暗い中で煤けた天井が遠くに見えた。服が水を吸ったような重さを感じながら体を起こす。酷い気だるさがあったが、それ以上に現状に対する溜息を吐く方が先決だろう。手足の自由が利かず、肩や膝を動かしたりして抵抗するが外れない。足は鉄の鎖に繋がれているが、腕は感触からして単純な紐では無く本格的な革のベルトでは無いかと予測した。 脳内での最新の記憶を呼び起こす。途端に、空蝉の嫌な笑みが浮かび、黒薙は自分の情けなさに再び小さく溜息を吐く。 周囲を見回すが、物置のように思えた。ダンボールやコンテナが山積みになり、少し離れたところに業務用らしい灰色の扉をしたエレベーターがある。天井と床を突き抜ける配水管らしい太い管に足の鎖が繋がれていて移動は不可能。窓は無く腕も後ろを向いているので時間が分からない。あれからどのくらいの時間が経っただろう。携帯も落としてしまったし、佐倉はどうしたのか。 観念するようにまた倒れ込むと、固く冷えた床のタイルに後頭部をぶつけた。夏なのに冷たいのは冷房か、地下故か、夜なのか。 エレベーターの方から低い呻き声のような音が聞こえた。近付いて来る。スイッチの上にある小さな黒い画面にデジタルの数字が光っていた。現在『B4』で下がって来ていると言う事はここも地下だ。それも随分と深い。 チン、と簡素な音が鳴り、低い音と共に扉が開く。黄色い光が眩しく漏れていた。下りて来た人間は六人。内、一人は空蝉だ。裾の破れた色の薄いジーンズを履いている。足音を響かせて一メートル程離れたところで立ち止まり、ガチャガチャと何かの用意を始めた。 「お目覚めか?」 黒薙はそのままの体勢で声の主である空蝉を睨む。周りにいる三人は揃って白衣を纏い、二人は黒いスーツで見張りのようにエレベーターの前に立っている。並々ならぬ状況に息を呑んだ。 「お前GLAYを探してんだったな」 空蝉は前にしゃがみ込み、掌にGLAYを数粒乗せて見せる。 だが。 「俺が探してんのは本物だ」 はっきりと黒薙は告げた。 「お前、それが何故分かる?」 「何故? お前等には分からないのか」 黒薙は眉を寄せて、信じられないと言う顔をしたが、空蝉達が黒薙を見る目もそれと同じだ。 職場であるGLAY対策本部にいる職員の中で、本物と偽物を見分けられるのは黒薙ただ一人。超能力のように見られているが何の事は無い。黒薙にしてみれば幼稚園児と格闘家の違いが分かるかと訊かれているようなもので一目瞭然だ。ただし、それは目に見える違いではなく肌で感じるのもの。 空蝉は興味深そうに見つめた後、傍に寄って膝を着く。咄嗟に黒薙も体を起こして身構えた。 「黒薙」 口元が微かに笑っている。その口から何が出ても驚くまいと黒薙は想像を巡らせた。それが死刑宣告だろうが、ミサイルが出て来ようが驚かない。そう思った矢先だった。 「俺達の仲間にならねぇか?」 「――はっ?」 耳を疑った。言葉は分かったが理解が追い付けない。この男、何を言っている? 「お前は警察にしとくにゃ勿体無ェ男だ。このまま燻らせておくのも惜しい」 「だからと言って、俺がお前等の仲間になるとでも思ってんのか?」 「思ってねぇ。今は、な」 空蝉の意味深な言葉の意味を黒薙は追う。「どういう事だ」と問う前に背後で蠢いていた白衣の集団が用意を終えたように空蝉を呼んだ。空蝉は振り返り、片手を上げて合図をして下がる。代わりに白衣の集団が進み出た。その手に持っているのが注射器だと気付き、同時に眩暈のような痛みが脳を襲う。覚えのある気分の悪さだ。 注射器の中は半透明の液体で満たされ、針の先端からは雫が零れている。常人にはただの水にしか見えない無色透明の液体が黒薙にだけは何か分かった。 「GLAYか……?」 空蝉が口角を上げて笑みを浮かべた。 GLAYの液体など知らない。知っているのはあの灰色をした錠剤だけだ。 「現在の錠剤はまだ試作段階。お前等のお陰で貿易も楽じゃねぇからな、液体だけでなく気体としても開発中だ」 ゾッとした。もし、その無色の液体が水に混ぜられて全国に流れたらどうなる? その気体が百貨店なんかの空調に混ぜられたらどうなる? 国民の殆どが知らない間に薬漬けになってしまう。 「この液体はまだ実験が出来てねぇ。会いてェ死者はいねぇかも知れねぇが、一度あの世を見て来いよ」 注射器を持つ眼鏡の男が横にしゃがみ込み、他の二人が黒薙をうつ伏せに地面に抑え付ける。機械のような冷静さに寒気がした。精一杯の抵抗のつもりがまるで動かない。 針が右腕に迫る。チクリした小さな痛み、それが注射針だと気付き、黒薙は抵抗を止めた。下手に暴れれば針が折れて血管に入り込む可能性もある。そのまま心臓に流れたら終わりだ。目を閉じて時間の経過を待った。 GLAYが体内に流れ込む。最後の一滴まで絞り出し、眼鏡の男は針を抜いた。点のような傷から俄かに血が滲む。病院ならアルコール綿でも着けてくれるだろうが、当然の放置。空蝉は合図を送って三人を下がらせた。 黒薙は動かない。死んでない証拠に背中が激しく上下しているが、起き上がれる状況ではなかった。顔から見る見るうちに血が引いていくのがよく分かる。 酷い嘔吐感と眩暈。心臓が握られているように息苦しく、視界がずっと回転を続けている。唇を噛んで堪えようとするが、絶え切れずに皮が音を立てて破れて血が零れ落ちた。封じられたままの腕には血管が浮び上がり、握り締めた手にも血は滲む。嗚咽のような呻き声が小さく漏れていた。 (何だ、コレ) 血管の中を虫が這いずっているような、内臓を生物が食い破ろうとしているような、表皮の全てを針で突つかれているような気持ち悪さが襲う。冷や汗が流れ落ち、血と涎の混ざったものが口の端から零れる。目は充血したまま大きく開かれているが、涙は無い。 『死ぬ』 いっその事、その方が楽かとさえ考えた。拷問されているような苦しみだった。堪える為の行動が限られていて、それが一つずつ減って行く。唇は千切れ指先から力が抜ける。――だが、その瞬間は訪れた。 プツン、と糸が切れるような音が脳内で妙に響いた。途端に今まで纏わりついていた感覚全てが消え去り、視界の端にチカチカと輝く黄色い光が見える。天国の光かと思う程に眩しく美しく、それは全ての不快感を拭い去るように輝く。 『死者に会える』 その言葉が脳裏を過った。 会いたい死者ならいる。今更ながら、空蝉の言葉に心の中で返答する。その光の向こうを見ようと目を凝らすが、眩しくて目を細めた。太陽のように目が焼けそうだった。でも、その向こうに彼女が、逢がいるなら。GLAY中毒者は皆こんな心理なのだろう。黒薙は其処で意識を手放した。 瞳を閉ざした黒薙を見下ろし、空蝉はクッと自嘲気味に小さく笑った。眼鏡の男は片付けを追えて空蝉を見る。 「さっきの話は本気ですか。この男を仲間に……」 「本気だ。今までGLAYを見分ける人間がいたか?」 眼鏡の男は小さく首を振る。 「しかし、コイツは警察。それもあの麻取で――」 「そんな男が」 空蝉は言葉を遮って笑う。新しい玩具を手に入れた子供のような無邪気な笑みだが、何か寒いものを覚えた。 「そんな男がGLAYに堕ちて行く。こんな面白い悲劇はねぇと思わねぇか?」 そのまま空蝉は踵を返し、エレベーターへ向かって歩き出した。冷えた足音がだんだん黒薙から遠ざかり、待機していた扉の向こうに乗り込む。一緒に下りて来た内の数人も同じく乗り込み、黒薙の他に眼鏡の男ともう一人の白衣が残った。 低い音で呻きながら扉が閉まると部屋の中はそれまで以上に薄暗くなる。白衣の男が何気無く壁のスイッチに手を伸ばした。パッと蛍光灯の白い光が室内を照らす。埃っぽい部屋の中に詰まれたダンボールやコンテナの姿がはっきりとなった。中身は全て、種類は違えども麻薬だ。海外からの輸入品、そして、海外への輸出品。 眼鏡の男は隅からパイプ椅子を引っ張り出し、黒薙の正面に座った。そして、荷物の中から黒いバインダーを取り出して足を組む。実験を観察する為だ。 ピクリとも動かない黒薙は死体のように思えた。ついさっきまで激しく動いていた背中は微かに上下しているものの、眠っていると言うよりは、やはり死体に近い。ぼんやり見つめていると空蝉の言葉が過る。「こんな面白い悲劇はねぇと思わねぇか?」末恐ろしい男だ、と。 無邪気に笑いながら、人を虫のように平気で殺す。ある意味平等なのだろうが、普通の神経ではない。あれで何の薬物にも侵されていないと言う事実が疑わしいくらいだ。 そういえば、と思い出す。ついさっきここに運ばれた他の連中はどうするのだろう? 恐らく黒薙の仲間だろうが、間抜け過ぎる。一網打尽ではないか。同じく実験するのだろうかと考え、時計を確認した。午前一時五十三分、やがて不吉な時刻になる。ぼんやりとそんな事を考えた。 * ふっと白神の瞼が開かれた。妙な薬品を嗅がされた後とは思えない程普通に目を冷ましたが、二日酔いの後のように体が重く頭に内側から殴られているような痛みがある。周りを見渡すと、同じく拉致された永塚と佐倉が転がっていた。手足は拘束されていないが、見覚えの無い密室に閉じ込められている。掘れる程に埃が溜まり、気管には良くないなと考えて小さく咽た。 窓も無いので唯一の出入り口らしき鉄の扉に近付くが、ノブに鍵穴がある。押したり引いたりしてみるが、当然のように開かずびくともしない。他の出口を探し、何気無く天井を見上げると通気口があった。小さいので自分には不可能だろうと判断して眠ったままだった永塚を揺り起こす。驚いたのか跳ね上がるように目を覚ました。 「り、龍さん!」 「遅ようございます」 その声に佐倉も同じく目を覚ます。皆同じく服が埃だらけだった。埃の上で動いたので部屋の下層部分には埃が舞い起こり、目を覚ました直後の二人は咽返って立ち上がった。 「何処だ、ここ」 「知るか。おい、幸太郎」 白神は通気口を指差す。其処も同じく埃がこびり付いていて、こんな状況でなければ極力関わりたくない。永塚はなるほど、と頷く。 「俺なら行けそうです」 「よし。じゃあ、肩車するから行って来てくれ」 白神は腕を捲くった。しゃがみ込んで永塚を乗せ、立ち上がる。 一瞬ぐら付いたが、永塚は手を伸ばして埃だらけの通気口を掴む。パラパラと黒っぽい埃が落ちて来るが今更気にならない。ガコン、と音を立てて網状の蓋が外れ、ポッカリと闇に染まった入口が広がる。その向こうも酷い埃なんだろうな、と考えた。 永塚は手を掛け、白神の肩に足を置くと一気に飛び込んだ。足が遅れて飛び込み、少しして埃塗れでひょっこりと永塚は顔を出す。 「行って来ます」 「ああ、気ィ付けろよ」 手を振り、永塚は消えた。微かに物音がしていたがすぐに遠くなる。部屋には再び静けさが訪れた。 居た堪れなそうに佐倉が何か言おうと顔を上げ、口を開くがまた顔を伏せる。 「佐倉君」 白神が呼ぶと、すぐさま佐倉が顔を上げた。 「君、何で警察なんかやってるの?」 「それは」 「警察なんか無用の長物だと思わない?」 佐倉の目がカッと開かれ、飛びかかって来ると思ったが何もせずに肩を落として壁に寄り掛かった。そのまま、小さくではあるが頷く。デジャウだ。黒薙も頷いた。 「警察は腐ってますよ。警視総監なんか親の七光りで着いた馬鹿だし、幹部なんか天下りばっかりだ。自分の私腹を肥やす事ばかりに頭が回って、GLAYの事なんか黙認してる。国会に手を回して税金取り立てて、俺達みたいな部署から予算どんどん削って。本当、無用の長物だ」 佐倉は何処か冷めた目を向ける。 「でもね、俺は警察辞めませんよ。灯さんがいる限り、首が繋がっている限り警察に生きる」 「何でだよ」 「高校卒業した翌日にお袋は死にました。俺は何も出来なくて、せめて天国にいるお袋に恥じない息子になろうと思って警察に入ったんです」 「単純だな」 白神が小さく鼻で笑うのを、佐倉は何か納得するように見つめた。 「入った当初は絶望しましたよ。でもね、俺の配属された部署には灯さんがいた。だから、警察続けられてんです」 「灯が何かしたかよ」 「あの人は迷わない。いつでも真っ直ぐ前を見据えている。いつだって背中真っ直ぐ伸ばして、どんな事にも真剣だ。ちょっと無愛想ですけど」 「ああ、無愛想だろ。頭堅ェし」 冗談っぽく白神が言うと、佐倉は困ったように眉をハの字にして苦笑した。 「でもね、アンタみたいに笑顔の仮面付けて皆を欺いてる人よりはずっと信頼出来る。あの人は、俺が警察になった理由聞いても笑いませんでしたよ」 一瞬、黒薙には表情が欠落している事を言おうと思ったが、止めた。彼ならどちらにしても笑わなかっただろう。 『仮面』と言う言葉が胸に突き刺さる。見破られない自信があったので少しショックだった。客の前ではもっと巧く笑えるようじゃないと駄目だな、とも考える。 「アンタは何でホストや揉め事解決屋なんかやってんですか?」 今度は佐倉が質問する番らしい。白神は考えるような素振りをして、口を開いた。 「情報が欲しいから」 「情報?」 「GLAYだよ」 「何故」 「……」 白神は答えなかった。丁度その時、ガチャリと鍵の開く音がした。重々しい扉は軋んだ音と共にゆっくりと開き、その向こうで口元に笑みを浮かべる永塚の顔を表せる。 部屋の中にいた二人はすぐさま部屋を出るが、佐倉はその廊下を見て息を呑んだ。 灰色に染まる薄暗い廊下に、男が五人倒れている。うつ伏せであったり、仰向けであったり、壁に背を預けたりと様々だが、皆気絶しているようだ。恐らく永塚の仕業だろうと見当を付けるが驚きを隠せない。どう見ても永塚は小柄で何処にでもいそうな一般人だ。 呆然としている佐倉に気付き、白神はニヤリと笑った。 そのまま永塚は現在地と建物の内部に大よその見当を付けて説明を始め、終わった頃に白神は顔を上げて歩き出した。 「何処へ行くんですか?」 「脱出だよ」 平然と白神は言った。 「灯さんは」 「放置だ。自分で何とかするよ」 途端に裏切られたような目を向ける佐倉に白神は向き直り、小さく溜息を吐く。 「あのな、お前アイツを見縊ってんじゃねーよ。自分の事くらい自分で何とかするさ」 「……確かに、あの人は化物並に強いっすけど、一人じゃ無理です。俺は行きます」 佐倉はそう言い残して走り出した。埃塗れの白いスーツが角に消えるまで見送り、白神は再び歩き出す。その後ろを永塚が追う。 「携帯取られたのは痛いよな」 「どの道電波は通じませんよ」 ポケットに手を伸ばすが、空になっている。何でもかんでもポケットに入れる癖があるので配られたビラや名詞、ゴミなんかも入っていた筈だ。焼肉屋のの割引券も入っていた事を思い出し、小さく後悔した。 現在恐らく地下三階。場所の特定は出来ないが、少なくともあのクラブでは無いだろう。この建物は地下五階、地上三階の小さなビルで、表向きはしがない印刷会社。だが、裏はこの通りGLAYと密接に関わっているようだ。 「幸太郎、お前は上に行ってあいつ等に連絡しろ。俺はここを探る」 「分かりました」 永塚は「気を付けて」と残してすぐさま走り出した。残った白神は言葉の通り別の道を行く。だんだん離れて行く足音が聞こえなくなると廊下は静寂が支配し、自分の足音だけが空気に染み入る様に響く。説明された記憶を頼りに白神は階段を目指した。 隠すなら地上よりも地下の五階部分だろう。後を追うつもりは無いが、白神は佐倉と同じ道を辿った。 一方、連絡を取る為に地上へ急ぐ永塚は廊下を疾走していた。脱走はまだ知られていないらしく静かなもので、等間隔の乾いた足音だけが反響する。 階段を駆け登り、『B1』の案内を確認した。電波は流石にもう届くだろうが、肝心の携帯が無い。舌打ちしつつ地上を目指した。が、首を上げた途端大きな黒い影が目の前に落ちる。男が三人、サングラスを掛けたヤクザのような風体で体格が良い。それぞれ武器を構えている辺りを見ると待ち伏せらしい。そうすると、脱走はもう知られていて空蝉に泳がされている事になる。 (嫌なヤツだ) 不快に思いつつ、ナイフを真っ直ぐ構えて向かって来る男を避ける。その勢いを殺させないで後ろに押すと、いとも簡単に階段から転げ落ちて動かなくなった。 警棒を持つ蟷螂のような顔をした細身の男が構える横、腹の大きな男が懐から黒い塊を取り出す。それが銃であると判断するのに時間はそう掛からず、低い姿勢のまま短い足の間に足を滑らせて金的を食らわした。グラリと揺れる巨体が前に倒れて来る。それを避けたと同時に頭の上で風を切る音がした。 鞭のように撓る警棒を髪が掠める。それを避けられると予想出来なかった蟷螂男の体が傾く。永塚は先程倒した巨体を足場にして警棒を持つ手を蹴り上げた。「うっ」と呻く声、そのまま反対の足を男の項に落とす。思わず笑みが漏れる改心の一撃が決まり、蟷螂男はそのまま崩れるように階段から転げ落ちた。 永塚は踏み台にした男の懐から銃と携帯を取り出す。銃は取り合えずジーンズのポケットに突っ込み、携帯を開く。初期設定のままのシンプルな待ち受け画面に時計が浮び、午前二時半を知らせていた。 そのまま記憶している番号を押し、携帯を耳に当てた。呼び出し音が数回、ガチャリと繋がる。 「はい、柊です」 暢気な高い声が聞こえ、永塚は一息吐いてから歩き出した。 電話の相手、柊明日香は揉め事解決屋の一員の女の子である。 「明日香? ちょっと今マズイ状況なんだけど応援に来てくれないかなぁ」 「その声は幸太郎。アンタN地区に行ったんじゃないの? 其処、F地区なんですけどー」 「F地区?」 訊き返しつつ、内心そうじゃないかと思っていた。 永塚がこれまでの経緯を説明すると、早速「馬鹿じゃないの?」と手厳しい一言を貰う。明日香は高校中退故か元々なのか口が悪く、手も早い。 「龍さんは?」 「ちょっと別行動中。とにかく、俺入口近くにいるようにするから電波辿って来て」 其処で永塚は電話を切った。虚しい音を聞きながら携帯を閉じ、『1階』の案内を確認する。デパートの非常階段のように狭い空間に階段が押し込まれていて、灰色のくすんだ壁に更に濃い灰色の冷たい扉が嵌め込まれている。鍵は掛かっていないのでノブを回し、開くと調べた通り寂れた印刷所があった。 大きな機械がところ狭しと並び、いずれも汚れたカバーが掛けられ埃が溜まっている。随分使われていないようだが、床に溜まった深い埃には幾つも足跡が残っていた。 永塚は埃を立てないようにゆっくりと出口を探し、周囲を見渡した。薄暗い中では機械の陰に人が潜んでいても分からない。気配は無いが、手練なら用意に気配を殺す事も出来るだろう。 警戒を解かずに探すが、光の無い空間は密室を思わせた。硝子張りの出入り口は自動ドアのようだが、その先でシャッターが完全に閉じている。このままだと、明日香達が到着したところで中へは入れない。だが、目を凝らすとぼんやりと隅の方に扉が見えた。 近寄り、ノブに触れる。冷たい感触が指先から伝わった。鍵穴はあるが、掛かっていない。不自然だが、虎穴に入らずんば虎子を得ず。扉を開き、足を踏み入れた。 その瞬間、目が眩むようなオレンジ色の光が飛び込んだ。心臓が跳ねたが、外灯だ。外に出られたらしい。 其処は裏口なのか外灯がポツンと一つ忘れられたように灯る路地裏のようだった。ゴミ捨て場が近いのか生臭さが鼻を突く。 脱出を白神に告げようと考えるが、彼が今何処にいるか分からないし連絡手段が無い。明日香に言った以上戻る訳にも行かず、仕方なく壁に寄り掛かった。途端に緊張の糸が切れたように疲れが背中に圧し掛かって来る。クラブで嗅がされた薬の影響が残っているのか体が酷くだるかった。そのままずるずると背中を預けながらしゃがみ込み、携帯を握り締めたまま顔を伏せる。瞼が重く垂れ下がって来る。 (眠い) 眠る訳にも行かず、一先ず立ち上がって正面に回ろうと考えた。 眠気のせいか視界がはっきりしない。神経の全てがだんだんと衰えていくのが分かった。足を引き摺るように進み、表通りに出ようとしたところで佐倉と黒薙を思い出す。 (連絡した方がいいのかな) そう考えたが、ここで警察に動かれても面倒だ。取り出し掛けた携帯を再びポケットに押し込むと、銃が指に触れた。そう、今警察が来たら銃砲刀所持法違反だろう。 午前三時の狭い空には満月が朱を帯びて上り、鉛色の雲が風に流されていた。 嫌な予感。それを感じながら永塚は人気の無い表通りに出た。 2007.9.5 |