*黒と白 5


 黒薙が重い瞼を開けたのは、薬を投与されてから僅か一時間後の事だった。腕に張り付けた器具の一つが意識が浮上した事を知らせ、傍にいた眼鏡の研究員は目を疑った。黒い糸のような線は緩やかな波を描き、それは深い睡眠を続けていた事を証明しているのにいきなり波は高波へと変わる。傍に寄った時、黒薙は再び瞼を下ろしていた。
 長年使われ続けた公式をいきなり否定されたような衝撃があったが、何の事は無い。機械の故障だろう。
 そんな事を考えながら一先ず腕を封じるベルトを外し、実際に脈を計ろうとした。余程警戒したのかベルトは中々外れなかった。だが、思いきり引っ張り鉄の留め具を穴から抜く。ベルトは役目を終えたかのように冷たいコンクリートの地面に伏せた。その瞬間、視界に何かが映った。それは下から突然出現し、目にも止まらぬ速さで通り過ぎる。だが、その男が最後に見たのは自分の背後にあった筈の機械だった。強烈なアッパーが白目を剥かせ、男を一撃で冷たい地面へ沈めた。傍らでその様子を見ていたもう一人の男はまるで反応出来ず、何が起こったのかすら分からなかった。
 だが、黒薙の黒々とした双眸が睨み付けて来た時全てを理解した。非戦闘員である研究員は悲鳴を上げて後退さり、トランシーバーのような機器に向かって懸命に何かを伝えている。黒薙は眼鏡の男のポケットに黒い塊を見つけ、素早く奪い取った。重々しいトカレフがその姿を現す。
 幸運だが、何故、こんな男がこんな銃を持っているのかが気になった。ともかく安全装置を外し、足を繋ぐ鎖に銃口を向けて発砲した。肩が外れる程の衝撃が返ったが、鎖は弾け飛ぶように壊れた。続けざまに二発、両足首を繋ぐ部分と柱に繋がる部分へ。
 銃声はトランシーバーの向こう側まで響く。どよめきが研究員の持つ機器を通じて黒薙の耳にも届いた。だが、もう遅い。自由になった足で立ち上がる。立ち眩みはあったが、そのまま残った研究員の項付近に手刀を落とした。体がグラリと傾き、崩れる。
 部屋から自分以外の気配が消えた事を確認してから黒薙は自分のポケットを探った。携帯をクラブで落としてからろくなものは入っていなかっただろうが、煙草もライターも無く、当然の如く空になっている。唯一の脱出口であるエレベーターに目をやるとだんだんと近付いている事が分かった。
 黒薙は傍にあったコンテナをエレベーターの横に柱のように並べ、その上に乗った。やがて、陳腐な音と共に到着したエレベーターが開き、何処ぞの殺し屋のような黒スーツ・黒ネクタイ・サングラスのいかにも怪しい男達が銃を構えて飛び出す。全員が出た事を見計らい、柱を崩す。雪崩のようにコンテナは男達の上に降り注ぎ、生き埋めにして行った。それを足場にエレベーターの前へ下りると、中で待っていたかのように小柄な男が銃を構えていた。
 しまった、と思う間も無い。だが、黒薙は盗んだトカレフで男の手を撃ち抜いた。爆発音のようなものが鼓膜を揺らす。小さく悲鳴を上げて男の持っていた銃は運良く黒薙の足元に飛んだ。
 血塗れの手を抱えて呻き声を発する男のネクタイを掴み、エレベーターの外に投げ飛ばす。コンクリートの硬い壁に衝突したらしく、鈍い音を響かせて男は動かなくなった。頭の隅で死んだか、とひやりとしたが生きているようだ。微かに胸が上下している。
 黒薙はそれを確認してからエレベーターを閉じた。狭い個室は窮屈で息が詰まるが、両手両足を一杯に広げて天井まで上る。証明を押し上げると暗い空間が見えた。エレベーターの上によじ登り、また証明を元通りに直す。薄暗い中に黒い脂で光るワイヤーが真っ直ぐに天地を貫いていた。何となく、蜘蛛の糸と言う話を思い出して余り気分のいいものではなかった。
 エレベーターが一度大きく揺れ、上へ向かって動き出す。ワイヤーを上って行く箱は滑稽に見えた。
 自分だけが助かろうと他人を蹴落とした盗賊は、地獄に再び落ちる。先程まで居たあの地下室が地獄ならば、この箱は何処へ向かうのだろうか。話のように糸が切れて落下するだろうか。
 ぼんやりそんな事を考えながら上を見上げる。天井は見えないが、とても天国があるようには思えない。溜息を吐きつつ靴を脱ぎ、靴下を脱いでポケットにしまい、また靴を履く。ふと目を落とし、注射された後を見つめた。小さな傷に固まった血が張り付いている。
 死者に会える神のドラッグ、GLAYが体内に侵入した。確かに、死者の仲間になるかと思う程の苦しみだったが特に変化は見られない。

(あれは、本物のGLAYだったのか?)

 今更の事を疑問に感じた。
 黒薙は本物と偽物を見分ける事が出来る。見分けると言っても目利きをする訳では無く、GLAYが語り掛けて来るように肌で感じるのだ。偽物は其処等のドラッグと大差無いが、本物は寒気のようなものが感じられた。
 これは本部でも僅か一握りの人間しか知らない黒薙の特技だ。始めは自分が特殊だとは知らず驚いたが、もしかすると作った側の人間なら分かるのではないかと思っていた。だが、それはやはり黒薙の専売特許らしい。
 その特技が知らせた危険信号が誤ったとは信じられない、と言うよりは信じたくない。あの瞬間、確かにGLAYは何処かにあったのだ。だが、現在自分の体調を見る限り本物を注射されたとは考え難い。
 その時、ふと思い出した。あの液体のGLAYは、試作だったのだ。まだ完成していない不完全なドラッグ。その効果は偽物程度かそれ以下だったと考えるのが妥当だろう。だから、研究員にそれを調べさせた。

(固体では廃人にさせ、液体では偽物以下。そうすると気体の効果はそれよりも弱い事になる。……じゃあ、空蝉の作ろうとしているGLAYって何だ? あのドラッグを使って何をしようとしているんだ?)

 何かが根本から間違っている。そんな気がして黒薙は訳の分からない悪寒に身震いした。
 やがてエレベーターはゆっくりと止まり、内部に何者かが侵入して揺れる。そういえば、血痕を残したままだったとぼんやりと思い出すが後の祭だ。男達の動揺する声を聞きつつ、黒薙は下がって行くエレベーターから離れ、閉じられたままの扉の縁に飛び移った。足場が消えた後には奈落の底に続くような闇が居座っている。用意していた靴下を手袋のように嵌め、覚悟を決めるように口を結んで今度はワイヤーに飛び移る。予想していたが油でどんどん滑り、落ちて行く。だが、手袋がそれを食い止めてくれた。歯を食い縛り、手に力を込めてワイヤーを上って行く。最上階まで行く余裕は無かったが、その先の扉が無い。仕方なく只管上を目指さるを得なかった。
 ますます蜘蛛の糸だ。黒薙は心の中で悪態吐く。
 上っても上っても終わりの見えない蜘蛛の糸。一休みしたいが場所が無い。手を休めればどんどん落ちて行く。そんな自分を蟻地獄へ落ちた蟻を想像したが、少し違う。あれは泥沼と一緒だ。もがくほど沈んで行くのだから。これはもがいてももがかなくても落ちて行く。もしかしたら、賽の河原に近いかも知れない。親より先に死んだ子供が罰せられる三途の川原。父母供養の為に石を積み上げて塔を作るのだが、完成しそうになると鬼が来て壊す。報われない努力の事だ。
 父も母も自分を残して勝手に逝ってしまったので関係無いかも知れないが、妙に当て嵌まっている辺り笑える。もちろん、表情にする事は未だに出来ないが。
 やがて扉が見えた。その頃には蟻地獄も泥沼も、賽の河原も頭の中から消えていた。
 扉の前で止まり、意を決して飛び移る。幅五センチ程の縁につま先を乗せ、両手は左右に伸ばして体を支える。少し体制が安定したところで手袋代わりの靴下を下に落とした。
 どうしようかと考え、黒薙は深呼吸をした。一か八か。覚悟を決めて両手を扉の隙間に当てて左右に引いた。当然、手の支えを無くした体は後ろに傾く。落ちれば死ぬ。扉だってただの扉ではない。通常なら開かない機械の扉だ。
 だが、黒薙は賭けに勝った。扉が俄かに隙間を開け光を零す。其処に素早く手を滑り込ませて落ちそうだった体を再び支えた。後はもう楽だ。体を支えつつ扉を開ければいい。
 無理矢理こじ開けた扉は黒薙が通った後も閉まらないままだったが、気にする事も無い。現在地を確認する方が重要だった。黒薙は今自分が何地区のどんな建物にいるかも知らない。連絡手段も無いので、まさか佐倉や白神達が同じ建物内部にいるとは夢にも思わない。壁に凭れ掛かって深く息を吐いた。無性に煙草が吸いたくなってポケットに手を伸ばすが、空である事は確認済みだ。疲れがどっと背中に圧し掛かった。
 到着したはいいが、其処は緑色のタイルが敷き詰められた明るい病院の廊下のようだった。先程までの騒がしさが嘘のように静かで耳が痛くなる。少し先には緑色をしたシダ類のような観葉植物が鉢に植わっている。黒いベンチが並んでいたらいよいよ病院だな、と考えながら黒薙は体を起こした。全身が軋むように、痛む。
 廊下は真っ直ぐ進んだところで二手に分かれ、両側に同じクリーム色をしたプラスチックのような扉に曇り硝子が嵌め込まれている。微かにする物音に耳を澄ますが、液体や蒸気の音くらいしか分からない。ただ、実験室と呼ぶのが相応しいと感じた。
 少し悩んで右に決めた。観葉植物が右の壁際に寄り添っていたからだ。なるべく気配を消し、足音を立てないように進んでノブに手を掛ける。ポケットに無理矢理突っ込んでいたトカレフを取り出して構えた。扉の傍で息を潜め、集中して一気に扉を開いた。途端に得体の知れない薬品の臭いが鼻を突く。
 中には予想した通りの品が並んでいた。透明なフラスコやビーカー、試験管。管の中を通過する無色の液体。中には毒々しい赤の液体の溜まる丸型フラスコなどもある。何年か前に見た大学教授の実験室もこんな感じだった。室内は無人で、実験器具だけが呼吸のように微かな音を立てる。ぼんやりとそれに見入った。純粋に懐かしさを感じたからだ。
 黒薙は理系の学部を卒業した。腹を裂かれた鮒や蛙には少し同情したが生物学も好きだったし、並んだ公式に何桁もの数字の羅列が表す確立の物理学、化学式や変化に物体の構成を知る化学。嘗て、逢や白神に科学オタクと呼ばれる程没頭した次期があった。物事をとことん追求するのが好きだったのだ。人の数だけ答えのある文系とは違い、理数は確実な答えが必ず出る。それが好きだった。
 だが、決して文系が苦手だった訳では無い。むしろ、高校までは理数の方が出来なかった。教師にも文系の大学を薦められたがそれを蹴って猛勉強し、理系に進んだのだ。
 心の何処かで分かっていた。この世の中の全てを知る事など、人間一人の人生では不可能だと。幾ら公式を当て嵌めても計算出来ない答えが世界には幾つもある事を。どんなに逃げたって結果は変わらないのだと。
 確実なものが欲しかった。永遠に変わらないものが欲しかった。それこそ、一足す一は永遠にニであるように。

「よくここまで来たじゃねぇか」

 空蝉の人を小馬鹿にしたような口調が突然背後から聞こえたが、黒薙は振り返らなかった。ただぼんやりと眩しい蛍光灯の明かりを見つめ、小さな窓から暗い外を見つめる。

「何故逃げなかった?」
「ここに来ようとして来た訳じゃねぇ。必死に上ってたらここに来ただけだ」

 黒薙は何気無く乱雑に置かれた三角フラスコに手を伸ばした。洗ったばかりなのか、使用後なのか内側に水滴が付いている。部屋に入った瞬間は気分を悪くした薬品の臭いが懐かしく、何処か愛しく感じた。黒薙はフラスコを置いて隣りの試験管を掴む。冷たい硬質な感触を抱きつつ訊いた。

「ここでGLAYを作ってる訳じゃねぇだろ?」
「ここは単なる実験室だ。液体や気体の試作はここでやっている」
「液体も気体も、固体のGLAYには及ばねぇよ」

 試験管を置き、ふらふらと歩き出す。一本の管に目を留め、それを伝うように視線を送るとさっきの毒々しい赤のフラスコに行き付いた。途中途中にある得体の知れない器具が無色の液体を変化させているのだろう。

「空蝉、GLAYで何をしようとしてるんだ?」

 漸く、黒薙は振り返った。空蝉は銃を右手にぶら下げて黒薙の動きを見ていたが、振り返った事に気付いて自嘲を浮かべる。

「GLAY対策本部はそれも知らねぇのか」
「テロ、要人暗殺、国家破壊工作。穏やかじゃねぇ事は分かってらァ」

 沈黙が訪れ、黒薙は窓の傍に移動した。遠くの道路では車が黄色いヘッドライトを灯しながら凄い勢いで走り抜けている。高速道路だろうか。目を凝らすと青い看板に白い文字で簡単な地図が記されている。F地区。随分遠くまで運ばれたものだと思った。

「国を潰そうなんて無意味な事は止めた方がいい。お前が手を下さなくても、この国は終わろうとしている。わざわざ手を汚す必要なんてねぇんじゃねぇのか?」

 空蝉の手に銃が握られている事は理解していたが、黒薙の心境は驚くほど穏やかだった。

「邪魔されれば邪魔される程、燃えて来る性質でな」

 緩々と銃口が黒薙の方を向く。それでも表情一つ変えないこの男が、正直、空蝉にとっては不気味に思えた。液体版のGLAYを投与して地獄の苦しみを味わいながらも苦悶の表情と言う程のものは無かった。嫌悪程度の表情で、その時点で空蝉は失敗作だと理解していた。

「そりゃ、厄介な性質で」

 一瞬、黒薙の目に光が映った。それに何かを感じ取った空蝉だが、背後からの襲来者の一撃をかわし切る事は出来なかった。鋭い蹴りが頬を掠め血が滲む。
 入れ違うように佐倉が室内に転がり込み、空蝉が倒れるように廊下へ出た。

「灯さん! 無事ですか!」
「何で来やがった」
「ついでです。俺も拉致られて来ましたから」

 ニッと佐倉は黒薙に向かって笑った。その得意げな顔が、公園でフリスビーを拾って尻尾を振りながら帰って来た柴犬を彷彿とさせる。

「ったく、相変わらず役立たずだな」
「へへ、すみません」
「……でも、ありがとよ」

 黒薙はポケットからトカレフを取り出し、銃を構えようとする空蝉の前に踊り出た。空間を揺るがす銃声が室内に響き渡り、発射された銃弾が空蝉の足を掠める。少し遅れて発砲された空蝉の銃弾は二人の背後の実験器具を大袈裟な音と共に粉々に砕いた。降り注ぐような硝子の破片に佐倉は思わず「わっ」と声を上げて身を伏せ、黒薙は其方に目を奪われた。
 その絶好の機会に、空蝉は発砲しなかった。その代わりに黒薙が目を戻した時、空蝉の姿は確認出来なかった。すぐに追って廊下に出て、エレベーターを確認してから反対側の扉を蹴破る。其処もやはり実験室で同じような器具が黒い机の上に設置されている。空蝉は神隠しのように消え失せた。人間が消える訳は無いから隠し通路でもあるのだろう。
 大物を取り逃がした。その事実以上に、極度の疲労に背中に圧し掛かる。黒薙は空蝉の気配がその階から消えた事を確認して座り込んだ。佐倉もすぐに追って廊下に出て来ていたが、黒薙が座り込んでいるのを見て驚き、駆け寄る。

「大丈夫ですか?」
「本部に連絡してくれ」
「はい、勿論」
「科学班も頼む。俺の体にGLAYが残ってる内に」
「えっ?」

 説明が面倒になり、黒薙はすぐに立ち上がった。また癖でポケットを探り、煙草を探す。無い事に気付いて小さく溜息を吐くと佐倉がそれを悟り、小さく笑った。

「煙草なら、空蝉が盗んでましたよ」
「……うるせぇ、携帯探したんだよ」

 佐倉を一層笑わせる結果になった嘘を最後に、黒薙は歩き出した。閉じ込められていた佐倉は頭から被ったように埃塗れだが、油塗れのワイヤーを上り続けた黒薙は油で所々黒くなっている。何だか可笑しくなって来て佐倉はまた、小さく笑った。黒薙は口を尖らせてやれやれと小さく息を吐いた。




 白神は永塚と別れた後、地下への階段を下っていた。わざとなのか欠陥なのか、階数を知らせる案内が分かり難い。灰色のコンクリートの壁に『B4』と刻まれている。所々に失神した男が転がっているが、恐らく佐倉の仕業だろうと考えた。ご丁寧に一人一人両手両足をネクタイやベルトで縛って動きを封じている。大雑把そうに見えて意外と几帳面なのかも知れない。
 そのお陰で誰にも出くわす事無く辿り付けそうだったが、最下層へ続く筈の階段が無い。初めから存在しないかのようにコンクリートの壁が立ち塞がっていた。
 永塚の情報を疑う訳では無いが、もしかするとここまでかも知れないと思った。別の入口を探そうとして薄暗い廊下をポケットに手を突っ込んだまま歩く。武器の一つでも得られたら良かったのだが、佐倉が想像以上に几帳面で武器を倒した男から全て奪っていた。それ全てを持ち歩ける訳も無いから何処かで処分したのだろうが見当が付かない。黒薙なら袋に纏めて何処かの部屋に放って鍵を掛けるだろう。神経質に見えてかなり大雑把だ。
 暫く廊下を歩き、自分だけの足音が反響する。変わり映えしない景色に見飽きた時、壁に埋め込まれた鉄の扉が現れた。半開きだったので佐倉が調べたのだろうが、一応確認する。中からは空調が整備されているのか涼しい風が漏れていた。
 壁一面に放送局で見るような何かの大掛かりな機械が設置され、沢山のテレビのような画面が並んでいた。中には何も映っていないものもあるが、他を見る限り監視カメラだろう。等間隔の時間を置いてで画面が切り替わる。見覚えのある部屋が映り、消えた。白神達が閉じ込められていた部屋だ。あの部屋の中には見る限りカメラなど確認出来なかったが、どの道、脱走は分かっていた筈。それでもあの程度の追っ手しか来なかったのは何故だろう。

(嘗められたのか? それとも、空蝉の手の平の上だったって訳か?)

 心の中で自嘲した。
 ぼんやりと画面を見つめながら進んでいると、足が何かにぶつかった。失神した男だ。丁寧に両手両足が縛ってあるので佐倉の仕業だと分かる。ここまで几帳面だと馬鹿馬鹿しさ以上に可愛らしさを感じた。漢字ドリルの文字を一生懸命なぞっている小学生を連想させる。
 機械は得意では無いが、ここのカメラで何か調べられないものかと手元のスイッチに触れてみた。番号が付いていて地図も何も無い状況では判断出来ないが、番号の若い方から押して見る。『カメラ1』と書かれた赤いボタンを押すと、カチリと鳴って点灯した。すぐ上の小さな画面が切り替わり、映し出したのはどうやら外らしく、暗くてよく分からないがゴミ溜めのようだ。オレンジ色の外灯が光っている。だんだん数字を大きくして押して行くが、四十七中の三十八までは特に異変は見られなかった。犯人は佐倉か永塚か判断は着かないが、倒され失神した様子の男達が転がっているだけ。そして、三十九。パッと消えていた画面に薄暗い、それまでとは雰囲気の違う部屋が映し出された。
 地下室らしいが、何かの機材の前で白衣を着た男が二人倒れている。大量のダンボールやコンテナが置かれ、部屋の作りがまるで違う。倉庫なのかも知れない。『カメラ40』を押すと違う視点からの映像が見られた。唯一の出入り口らしきエレベーターの前で雪崩に遭ったように数人の男が潰されている。少し離れたところで手から出血した男がうつ伏せになり、死んでいるのかと思えば微かに背中が上下していた。そして、ギリギリ映っている柱のような配水管に千切れた鎖が繋がれている。

(灯がここにいたと考えるのが妥当かな)

 そう思いつつ次のスイッチを選ぶ。黒薙の事はどうでもいい。放っておいても勝手に何とかするからだ。今も捕まっているようならまだ可愛げもあるだろうが、心配するまでも無い。
 『カメラ41』は、また雰囲気がガラリと変わる。病院の廊下のように何処か清潔感のある明るい空間。見覚えが無いので最上階だろう。その後『カメラ47』まで確認したがこれといって目を引くようなものは何も無かった。
 骨折り損だったと傍にある回転椅子の背に体重を預ける。キィと微かに鳴き、背凭れが傾いた。ふっと目を閉じると、視界の端でキラキラした何かが見え、慌てて目を開いて擦った。すると、コンタクトレンズがポトリと机の上に落ちる。面倒臭そうに溜息を吐いて拾い、また着けた。着けたまま眠ったので目が痛い。
 何気無く椅子を回転させて後ろを見ると、何か色々な資料がファイルされて棚に並んでいた。ここは監視だけではなくこの建物の核になる部屋なのかも知れない。
 棚には鍵が掛かっていなかった。カラカラと軽い音を立てて硝子張りになっていた戸が開き、綺麗に色分けされて整頓されたファイルの群れが顔を出す。取り合えず一番端にしまわれている黒いファイルを取り出す。いずれもタグには詳細が書かれていないので中身は見当も付かないが、表紙を捲って目を疑った。
 『極秘』の文字が目に飛び込む。
 そんな書類が鍵も掛けられていない棚の中に置かれているなど有り得ないが、読んで見る価値はある。白神は頁を捲った。
 中身はGLAYについての詳細だった。引き起こす症状、材料、中には人体実験がファイル数冊に跨って記録されている。読む程に鳥肌が立った。まるで戦争の証であるかのように生々しく、痛々しい。試作段階のGLAYを投与されたのは子供から大人まで。初期段階では皆血を吐いて死に、次の段階では謎の発疹の後に死亡。鬼籍かと思う程に死者が記録されている。僅か九歳の少女が狂って自らの喉元を裂いた写真が載っていた時には目を向けられなかった。
 そうして頁を捲り、化学式が目に映る。本物か偽物かは分からないが、それは紛れも無いGLAYの作り方だった。

(何故、こんなところに……)

 それが本物でも偽物であっても正しい記録ならば、現在のGLAYに対する解毒剤が作れるかも知れない。白神はそれを夢中で読み耽った。
 記録にはGLAYの液状のものや霧状のものを作った事も書かれている。それに対する人体実験の記録は無いので、GLAYの最新の記録だろう。

(それが完成していたなら、恐ろしい事になるな)

 白神はその実験が数時間前にこの建物で行われた、失敗に終わった事を知らない。
 大学時代は文系を先攻していたが、実は理数系の頭脳を持っているので理解が追い付かなくても化学式なんかを見ているとわくわくする。それなのに、文学を選んだ。それは仕方の無い事だった。
 数学や科学は真実を追究する、と言えば格好付くだろうか。万人が同じ答えと結果を弾き出せる、つまり、真理。蛙から生まれるのは何かしらの理由で変異しようが蛙には変わり無く、まさか人間が産声を上げる筈も無い。それは未来永劫変わる事の無いものだ。
 だが、この世界に不動のものが一体どれくらいあるのか。いつか蛙が人間になる時が来るかも知れないし、掛け算の答えが変わるかも知れない。そう、未来は分からない。変わらないものなど殆ど無い(それもある意味真理ではあるが)と悟ってからは理数系を諦めた。以来、どちらかと言えば苦手分野だった文系に進んだ。
 その時、黒薙と逢は何処から出したか分からないような妙な声を上げて驚いた。青い目を丸くして動揺を隠さずに質問攻めする逢の後ろで黒薙はいつも通りの無表情で口を尖らせていた。
 逢はもういないが、同じような状況になった時、黒薙は同じく無表情で口を尖らすだろう。そう、変わらない。変わらないものは全く無い訳じゃないのだ。
 ふと視線を落とすと小さなプラスチックの半透明の箱の中に四台の携帯が転がされていた。見覚えのあるもの、言うまでも無く自分のものだ。白神は自分の携帯を取って開く。『圏外』の表示に溜息が出た。一応全ての携帯を調べたが、どれも圏外。特殊な電波でも出てるのかとSF的な事を考えたが、見覚えのある黒い携帯を開いて頭が真っ白になった。
 待ち受け画面に設定された写真。仏頂面でカメラから視線を逸らした黒薙、真ん中で楽しそうな笑顔を向ける逢、今では思い出せないくらい明るく笑う自分。黒薙の携帯も自分と同じ写真が設定されていたのだ。
 確か大学の入学式、三人並んで撮った最初で最後の写真。本当に、変わらないものはあるのか?
 過去を思い返しながら、白神は携帯をそっと閉じた。結局、どちらを選んだとしても半端な人間にしかなれなかったのではないだろうか。それならば、逢のように音楽などの芸術の道に進む方が正しかったのか。
 訳の分からない虚しさから空蝉を連想した。あの男ではなく、蝉の抜け殻の事だ。確か蝉と言う意味もあったか、と思い直すがどうでもいい事だ。
 棚に手を伸ばし、その瞬間に眩暈が襲った。脳が揺れるようで棚に伸ばした手が虚空を切って机に触れ、体を支える。自業自得だと逢の笑う声が聞こえた気がした。彼女の笑いや言葉はどんな風にしても嫌味には聞こえなかった。
 死者に会える神のドラッグ。本当に死者に会えるのなら、それは救いだと思っていた。結局、残ったのは後悔と酷い後遺症。
 白神は嘗て偽物のGLAYに手を出して依存症に陥った。家族が強盗に殺された中学三年、其処から二年間薬に溺れた。病院や警察に行かずに手を引く事が出来たのは彼女のお陰だろう。だけど、その彼女も今はもう何処にもいない。
 ゆっくりと腕時計を外す。すると、無数のリストカットの跡が残っていた。ふいに佐倉の声が脳裏を掠める。

――あの人は迷わない。いつでも真っ直ぐ前を見据えている。いつだって背中真っ直ぐ伸ばして、どんな事にも真剣だ。

 黒薙とは高校以来の仲で、人生で出会えた事を喜ぶべき親友だ。佐倉の言う通り黒薙はいつでも前を見据えている。それがずっと羨ましくて、疑問だった。
 そうやって生きれたらどんなに幸せだろう。彼の人生が他人から見ればどれほどの同情を買う不幸の連続だったとしても白神にとっては黒薙が羨ましかった。
 どれくらいの時間そうしていたのか、棚の前で目を伏せたまま立ち尽くしていた。敵陣の中でも時々人が変わったようにぼーっとしている事がある。それが後遺症なのかは誰にも分からない。

「龍ちゃん」

 少し高いその声で白神は我に返った。何時の間に現れたのか、高瀬奈那子は困ったように眉を下げている。すっと背の高い女性で、その姿は其処等のOLとはまるで違う雰囲気を持っていた。白神と同い年の二十二歳で、揉め事解決屋の仲間ではあるが検事としても現在活躍し、密かに探偵の資格も持つ。

「幸太郎から連絡受けて助けに来たんだけど、遅かったみたいね」

 そう言って奈那子はさっきまで白神が没頭していた監視カメラの画面の一つを指差した。『カメラ47』の映す映像は恐らく最上階、汚い顔で地面に座り込んでいる黒薙、其処に佐倉が駆け寄る。向こうも終わったようだ。
 結局、GLAYの事は殆ど何も掴めなかったが、一つ分かった事がある。空蝉と言う男の事だ。あの男は抜け殻なのか、それとも蝉なのか。
 画面に見入っていると、奈那子の後ろからひょっこりと永塚と明日香が顔を出す。

「龍さん大丈夫ですか? 何か、敵さんすごい状態ですけど」
「几帳面よねー」
「俺じゃねぇよ、佐倉君だ」

 やっぱり、と永塚と明日香が顔を見合わせる。奈那子は小さく笑った。

「じゃ、帰りましょうよ。すぐに警察も来る筈」
「連絡したのか?」
「ええ、一応」

 白神は永塚の頭に手を置き、「お人好し」と呟いた。そして、皆に見られる前に素早く時計を嵌め直して永塚にオレンジ色の携帯を投げて寄越す。残った二つは黒薙と佐倉のだが、一先ずポケットに突っ込む。

「帰るか」

 振り返ると、いつものメンバーが其処で笑っていた。
 腹の底から込み上げる可笑しな感情がある。白神はそれをそっと胸に戻して歩き出した。


2007.9.24