*不夜城 1


 誰が通報したのか、すぐに警察は転がるように駆け込んだ。揃った濃紺の制服にシールド、防弾チョッキ。身動き出来る敵なんか何処にもいないのにご苦労な事だ。統制された蟻のような動きを横目に見ながら黒薙と佐倉は建物を後にした。
 出口には救急車が数台待機している。少し離れたところで、後輩の妹尾美月が灰色のバインダーを抱えて立っていた。黒薙を見つけて、すぐに車へと促す。車内中央のベッドに座り、佐倉が乗り込んだのを確認すると後部の扉が音を立てて閉まった。
 エンジンの掛かる音、車は走り出した。
 円滑な運転は流石に手馴れている。運転手の被った白いヘルメットは朝陽をフロント硝子に反射していた。
 腕に微かな痛みを感じ、見ると銀色の針が皮膚を貫いている。注射針が血管に入り込んで、酷く薄い色をした血液を採取している。ここのところまともな食事も睡眠もしていない為に酷い貧血なので、採血は余り好ましいものではない。
 美月はそんな事はお構い無しで、一秒でも惜しいとでも言うように脈と体温を計り始める。
 この後は病院に運ばれて検査が続くだろう。うんざりしながら、採られた自分の血液を見つめた。朝陽を浴びている血はやはり、薄い。こんな液体にGLAYは果してどれ程含まれているのか。そうでなくとも持病になった不眠症の為に規定以上の睡眠薬を摂取しているのだから、どの道まともな結果は出ないだろう。検査は間違い無く長引く。
 一体、何時になれば眠れるのだろう。意識を喪失するのと睡眠は意味が違う。最後に眠ったのは何時だ。家に帰っても机に向き合って書類と格闘を続けていたからベッドは置物になっている。
 頼む、眠らせてくれ。
 別に睡魔が訪れた訳でも無いが、切実に願った。出来るなら夢を見る事も無く深い眠りに着きたい。その為には肉体的にも精神的にも何も考えられないくらいに疲労して、規定以上の睡眠薬を投与して、大して強くも無い酒を呷らなければならない。この不眠症は何時になれば治るんだ。

「灯さん、大丈夫ですか?」
「何が?」

 睨むように目を細めると、佐倉は首を竦めた。
 八つ当たりしているつもりは無い。そう見えたならそれだけの事であって、弁解も謝罪も必要無い。そんな面倒臭い付き合いが必要なら、佐倉と組んだりしていない。

「隈が凄いですよ。昨日、帰宅しましたよね?」
「したよ」
「寝てないんですか?」

 もう、会話が面倒臭い。
 胸の中にささくれ立つ苛立ちを抑え切れず、無性に煙草が欲しくなる。せめて精神安定剤。しまった、どちらの机の引出しの奥だ。黒薙は盛大に溜息を吐く。

「検査、きっと引っ掛かりますね」

 測定結果を纏めている美月は人事だと思って顔も向けない。余計なお世話だ、誰のせいだと思ってる。
 この後病院に行って検査、職場に戻ってデスクワーク。あの机の上に出来あがった塔はどうなっただろう。幾ら菊崎と言えど一晩で片付く量では無かった筈だ。
 食事は何時摂れる、睡眠は、帰宅は。せめて、煙草。

「眠ってもいいですよ。そのままでも検査出来ますから」
「そうかよ」

 素っ気無く返して寝転がる。後輩に囲まれた固いベッドは酷く居心地が悪い。安眠する為のものじゃないから当然だろうが。
 四日の残業、帰宅後のデスクワークで徹夜一日、本日意識喪失ながらも睡眠は無し。それでも訪れない睡魔はそんなに俺の事が嫌いなのか。
 眠らなくても死なないのなら別に構わない。それなら睡魔など糞食らえだけども、生命活動はそんなに楽じゃない。食事も水分補給も必要だ。なのに、代わりに薬物と煙草ばかり摂取している。違法ドラッグの薬中とは別の意味でそろそろ危険かも知れない。

「煙草、ねェか?」
「救急車に灰皿はありません」
「携帯灰皿は持ってる」
「常識は持ってないみたいですけど」

 佐倉と美月が顔を見合わせて笑う声が降って来る。救急車は高速道路に入ったが、周りの車はそれ以上の速さで追い抜かして行く。
 スピード違反じゃないのか、取り締まらないと。
 そんな事を考えていると同業者のサイレンが朝の町に響き渡った。途端にスピードを落とすその他大勢の車。追われた車はあっという間に小さくなるが、パトカーはそれをカーチェイスのように追う。殆ど同じスピードで何時になれば追い付ける鼬ごっこなのだろうか。何時になれば、追い付ける。
 俺は何時になったら、眠れるんだ。
 叫び出したい苛立ちを溜息の中に込め、黒薙は始まろうとしている今日を睨み付ける。金色に光る太陽が憎たらしい程に眩しく、目が険しくなった。
 夜は、何時だ。


 黒薙等の職場があるF地区には大きな建物が幾つもある。
 それは病院だったり、警察署だったり、役所だったりと公共の建物の反面で大手企業の高層ビルやスナック・パブ・ホストクラブ等もある。夜はおそらく日本で最も明るい。夜中を過ぎても明かりが消える事は無いし、人々の賑わいが消える事も無い。だから、この町に夜は無い。黒薙は諦めにも近い思いでそう考えている。
 だから、自宅は其処から離れたHと言う地区に置いた。明る過ぎる夜は精神を蝕む毒でしかない。尤も、最近では家よりも職場に泊まる方が多くなってしまったが。

 その不夜城の群れが朝陽を浴びて塔のような影を浮び上がらせている。何故、朝方よりも夜中の方が騒がしいのだろうか。だから、昼夜逆転の生活をしなければならなくなる。
 昔と変わらない風を装い続けているこの町の片隅では誰かが人を殺し、当然誰かの命が終わり、誰かが傷付いて、誰かが泣く。一つの地区に幾つも残酷なエピソードが繰り広げられているのだから、テレビで見るような愛憎劇は滑稽で酷く安っぽい。ホラー映画は喜劇に変わる。感動が無関心になり、心がどんどん冷えて行く。

 だから、こんな町で生まれ育った筈の佐倉が普通に笑い、泣き、怒れるのは砂漠が草原に変わる程の奇跡なのでは無いだろうかと思う。何時の間にか眠ってしまった後輩に弟を見るような目を向けた。兄弟なんていなけれど。
 生い立ちを考えれば仕方の無い事だが、自分に『表情』と言うものが欠落している事をそれなりにコンプレックスに感じている。楽しい時に笑えず、泣きたい時に泣けず。何を考えているのか分からないから不気味に思われる。他人の評価なんてどうでもいいけれど。
 それなのに、世の中にはわざとそうしている人間もいる。偽物の笑顔を張り付けて、偽物の涙を武器にする。そういう人間が吐き気を催す程に嫌いだ。だから、自分に正直に生きている佐倉のような純粋な人間の重要さがよく分かる。

 不夜城は、人間を機械にする工場なのでは無いかとも思った。
 働く人々は何処か虚ろで淋しい。感情を殺し切った顔で機械のように流れ作業に手を加えて同じ毎日を繰り返す。この国は一体何処に行こうとしているんだ。個性が重宝される時代は何処へ消えた。逆に、個性とは何だ。一人一人違う人間だと言いながらも、皆一様に同じ仕事に就いて、同じ作業をする。それなら個性なんて始めから存在する必要が無いと思うのは極端だろうか。

「灯先輩、人の心を定義して下さい」

 美月は硝子の向こう側の景色を睨むように見つめながら呟いた。彼女は時々、壊れたように、もしくは何処か縋り付くように突拍子も無い質問をぶつけて来る。抑揚の無い声は機械の合成音声、エレベーターの声と同じだ。
 『精神作用の元になるもの』
 辞書にはそう書かれているだろうが、彼女が望んでいるのはきっとそんな言葉じゃない。

「教えて下さい。どうすれば心は心でなくなるんですか?」
「機械にでもなりたいのか」
「なれたら、きっと楽でしょうね」

 なれるものか、と否定の言葉は喉の奥から二酸化炭素になって消えた。疲労のせいか呼吸が辛い。

「私は十歳の時に父を亡くして、十八歳で母を殺しました」

 黒薙は横たえていた上半身を起こす。骨が僅かに軋む音がした。
 妹尾美月は現在、二十歳。佐倉と並ぶ最年少。
 出会ったのは彼女が十八歳で黒薙が二十歳の頃の事だから二年前。GLAY対策本部に配属されて初めて携わった事件だった。

 崖下に住む老夫婦からの通報で、女が上から降って来たのだと言う。当時新米だった黒薙は先輩に連れられて崖の上に行った。
 確か、雪が降っていた。
 場所はこのF地区の片隅、小学校の見渡せる切り立った崖の上。薄化粧の地面は少しぬかるんで、足跡が薄く残った。その縁にしゃがみ込んで下方を見つめる少女の小さな背中、それが美月だった。
 町を歩けばごまんと見つける金髪の、いかにも遊んでいそうな派手な風体をしていた。小さく舌打ちした先輩の後を追い、到着した婦警やらに付き添われてパトカーの中に消えて行く背中を見つめた。現場検証を始める先輩は少し怒ったような顔だったのを記憶している。
 美月は母親と二人暮しで高校三年生、と言っても不登校気味で卒業も危うく進路など決定していなかった。恐らくそのままだったなら水商売に足を踏み入れて泥沼の毎日を送る事になっていたに違いない。
 そんな分かり切った未来は突然変わった。母親がGLAYに手を出し、狂ってしまったからだ。
 人が薬物に手を出す原因など些細な事だ。人間関係、興味本位、ストレス、体調不良。安っぽい甘い言葉に騙されて壊れて行く。彼女の母もその一人だった。
 中毒に陥り、更に薬を買い足す事も出来ずに狂ってしまい、一人娘と共に心中を図った。それに抵抗した娘、母親は一人で落ちて死んだ。
 所詮は正当防衛。彼女が罪になる筈も無い。

 それは世界に有り触れたちっぽけな悲劇の一つでしかない。だけど、そんな些細な出来事で人間の人生なんてものは一転も二転もしてしまう。たった一つ壊れただけで連鎖的に大切なものが壊れて行く。
 今まで自分の生きて来た世界の崩壊を目の当たりにした少女を、黒薙は引き取った。同情による行動だった。先輩もそれを分かっていたから忠告したが、首を縦には振れなかった。

 目の前で落ちようとしているものがあると、それが何であっても受け止めようとする癖がある。
 逢が死んで一年と経たない内の出来事だった。

「殺した訳じゃない。事故だった」
「事故と言うのは過程でしょう。結果を見れば殺人。違いますか?」

 黒薙は黙った。
 美月がどうして欲しいのか分からない。理解出来たなら望みを叶えてやる事も出来るだろうが、それを察する事が出来ない以上は救ってやれないのかも知れない。
 救いが欲しい。本当に必要なものは、何だ。

「起こった事象は誰にも変えられない」

 退屈そうに、後ろへ飛んで行く景色を黒薙は見つめている。不夜城は朝を迎えても変わらない。夜と朝の変化が存在しないから終始が曖昧になる。
 黒薙は俯いている美月に目を戻した。

「お前が殺したと思ってるならそれでいいじゃねェか。過程だ結果だ言ってる必要もねェ。どっちにしたって死者は死者だし、過去は変わらねェ。お前は殺人者だとして裁かれれば満足なのか? そうじゃないだろ」
「私は……」
「私は?」

 今度は美月が押し黙る。続かない言葉が沈黙を作り出し、静かな空間が形になって背中に圧し掛かった。

「心の定義なんざ下らねェ。お前は自分が罪人だと言いながら、それが正当な事だったんだと思い込みたいだけじゃねェか。そんなもんはどうでもいいんだよ。過程や結果よりも全体を見ろよ。母は死んで、お前は生きてる。其処からどうするかが心なんだろ」

 睡魔は一向に訪れないが、美月との会話を無理矢理終了させる為に再び横になった。
 彼女は妹のような存在だが、黒薙に対して依存している節がある。それは美月を引き取った自分の責任だ。

 黒薙はH地区の2LDKマンションの五階の一室に居を構えている。丁度その頃から二人暮しをしていて、同居人は逢の妹の琉璃と言う。当時、中学二年生。
 姉を失ったばかりの瑠璃は精神的にも不安定である筈なのに年上の美月の世話を焼いてくれた。引き取ったと言うのに、仕事に忙殺される日々を送っていて構ってやる事も出来なかった。淋しさから彼女達がGLAYに手を出しても責められなかっただろうが、或る日帰宅すると美月の髪は黒くなっていてバイトを始める為の書類を書いて欲しいと言った。
 それが何の因果か、今では彼女は黒薙と同じ職場で働くようになった。それは正直言って好ましいものでは無かったけども反対する権利も持っていなかった。
 二十歳を迎えて美月は黒薙の家を出て一人暮しを始めたが、意外としっかり者なので上手く生活しているようだ。
 未だに家に来る事があるが、それは一種の甘えなのだろう。

 車が高速を下りる。景色を見つめていた黒薙は救急車の多さに疑問を感じていたが、それがあの建物で暴れたせいだとすぐに気付いた。大した怪我ではないにせよ、何処もベッドが埋まってしまって盥回しにされているのだろう。

 何も言わない美月が現在何を考えているのかを察する事は出来ない。さっきの言葉を思い返しているのかも知れないが、黒薙もそれに関しては終わった話だと関わろうとは思わない。
 必要なのは救いだ。温かい言葉を掛けて、慰めて、正当化して。それが正しい答えで、自分は間違っていたとしても、一向に構わない。正解や不正解なんか始めから求めていないから弁解するつもりは毛頭無い。彼女もそれを承知して黒薙に質問を投げ掛けたのだから。
 正解や不正解は、黒薙にとっては意味の無いものでしかない。そんな言葉を気にしていたら出来る事などほんの僅かだ。警察としてそれはどうなのかと言われても、それは仕方が無いの一言で終了させるべき話題だ。
 今までの人生は正解か不正解か、と問われれば不正解でしかないのだから今更な話だ。何時何処で死ぬかも分からない、そういう人生を選んでしまったのは自分だからそれに対しては覚悟も責任もある。だからこそ、諦められない。他人の評価なんてどうでもいいし、自分は選んだ道を這いつくばってでも進むだけだ。

 一向に眠れない目で昇って行く朝日を見た。不夜城の街の朝が始まる。




 白神は昇った朝陽を退屈そうに見つめている。今日も昨日と同じように日が昇り、沈む。多少角度と時間が違うだろうが、そんな事は些細な違いであって取り上げるべき事柄でもない。
 奈那子の運転する青いセダンは高速を抜け、見慣れた町の界隈を通り過ぎる。早朝マラソンに勤しむ老夫婦と愛犬の散歩を楽しむ親子。至って平和な町並みに吐き気がした。
 今日もこの国じゃ凶悪な事件が起こり続け、誰かの上に不幸が落ちて来る。それを理解している癖に笑い合う滑稽さが馬鹿らしい。死は最も親しい隣人なのに。
 あの建物で暴れたらしい永塚は、後部座席で明日香と肩を並べて寝入っている。バックミラーでその姿を確認すると、胸の中で多大な面積を閉めていたどす黒い吐き気を催す物体が消えて行くのが分かった。単純な自分を自嘲する。

「必要な情報は手に入った?」

 奈那子は前を見つめたまま言った。

「さぁ、今は持ってる手札がどんな意味を持っているのかも分からない」
「ポーカーみたいね」

 車が右折する。

「ポーカーならまだいい。得意だから」
「逆ポーカーフェイスで騙すものね」

 奈那子は笑った。微かな笑い声が静かな車内に溶け込む。
 商店街の朝が始まろうとしている。寂れた豆腐屋が、白い三角巾の老婆によって最初にシャッターが開かれた。午前七時、町は殆ど眠っている。
 白神は携帯を取り出す。シルバーボディで滑らかな線を描いているが、見覚えの無い小さな傷が幾つか付いている。奪われて乱暴に扱われたのだろう。舌打ちしたい気を抑えて開き、リダイヤルする。が、バイブレーションの音が自分のポケットから聞こえた。
 しまった、と胸の中で呟いて、ポケットから携帯を三台取り出す。黒薙と佐倉と永塚の分だ。

「後で警察署に寄ってくれ」
「とうとう出頭する気になったの?」
「とっくに時効だ。別の用事だよ」

 白神は大きく背伸びした。狭い車内で天井にぶつかったが、背骨が伸びて音が鳴る。
 ポケットに突っ込んだケースは当然無い。桃木から受け取ったGLAY、あれが本物だったのかどうかはもう分からない。

「面倒臭いな。あいつの方から来りゃいいのに」
「警察は忙しいもの」
「そういう検事さんは暇そうだね」
「失礼ね。たまたまよ」

 奈那子は敏腕検事として名を馳せ、忙しい日々を送っている。それがホスト兼揉め事解決屋などを営む白神と仕事しているのは、ほんの些細な事がきっかけでしかない。
 およそ二年前。彼女の調べている事件に揉め事解決屋として白神と永塚は関わった。白神の情報網は検事や探偵の比ではなく、他愛の無い事件ではあったが、呆気無く解決した。それ以来なんだかんだと関わって今に至る。
 明日香は検事見習として奈那子にくっ付いていたので、それ以来、解決屋は四人になった。

「GLAYの被害が拡大を続けているから、灯君達程ではなくても忙しいのよ」

 ぼんやりと黒薙を思い出す。
 見る度に痩せ、何時からか眼の下の隈は刻印のようになって消えない。年を追うごとに険しくなる目付きから考えても、其処の忙しさは並では無いだろう。
 それに対して、白神は昼夜逆転の生活だが寝る間も惜しんでいる彼等よりも稼いでいるのだからこの世の中は狂っている。自分が言うのも可笑しいが、真面目に働いているのは馬鹿らしい。
 そう、この世界は狂っている。だから、滅ぼうとしているんだろう。

「なんで、検事なんか選んだ?」
「悪い事が許せないからよ」
「切りがねェよ

 白神は笑った。
 悪い事など、世界に溢れ返っているのに。裁いても裁いても沸いて来る人間の咎に終わりは無い。そんな世界で何に希望を見出して行けばいいのか分からない。

「幾ら裁かれても犯罪は無くならないけども、放置すれば崩壊は免れない」
「お前が幾ら頑張ったところで世界の崩壊は止まらないよ」
「分かってる。だから、私は一人じゃない」

 奈那子は表情一つ変えず、当然の事のように前を見つめたまま言った。
 独りじゃない。その一言には重みがある。自分には天地が引っ繰り返っても言えない言葉だと知り、白神は自嘲の笑みを浮かべた。

「私が独りきりなら、それは無謀な事。でも、独りじゃない」

 この国が崩壊しようとしている事を多くの人が理解している。それを促す人もいるし、傍観者もいる。その中でも僅かに抵抗する人達がいる。
 奈那子は眼の端で白神を見たが、窓の外を見つめているので表情は覗えない。自分の言葉がどれだけ届いたのかは分からない。白神は周りに壁を作って、その中に干渉される事を恐れるように拒絶しているから幾ら言葉をぶつけても心に響かない。
 白神の拒絶は、ある種の異常性を秘めていた。だから、いつかそれが爆発した時はもう誰の手にも負えないで、触れる者を全て傷付ける刃のような人間になってしまうのではないかと恐怖にも近い気持ちで見つめている。
 奈那子や永塚、明日香に対して心を許している事は確かだろうけども、決して壁の内側に入れようとはしない。壁の中に何があるのかは奈那子には想像も付かない。自分自身の事を話したがらないからだ。

(独りじゃない――、か)

 白神は奈那子の言葉を胸の中で繰り返しつつ、変わって行く窓の外を眺めている。だんだんと人通りが増え、陰りは路地裏に追い込まれた。

「そういえば」

 奈那子が思い出したように呟いた。

「『空蝉』と言う男の事なんだけど」
「何か分かったのか?」
「当然よ。空蝉は今最も危険とされている指名手配犯じゃない」

 それで佐倉のあの反応か。
 白神は黙り込んだ。

「GLAYの最重要参考人で、要人殺害の犯人ともされているテロリスト」
「なるほどね」

 空蝉の乾いた笑いが今も頭の中に響いている。GLAYのボスとしての威圧感は十分過ぎる程にあり、寒気すらした。むしろ、そんな男に向かって反射的に飛びかかった佐倉が異常だ。
 あの男の目的は一体何だ。
 要人暗殺、テロ、国家破壊工作。そうした先で何が掴めるのだろうか。奪って、傷付けて、失って、その先に一体何が残る。

(何が残るんだ……、和泉)

 脳裏に一人の男の何とも言えない顔が過った。
 白神には『和泉嵐』と言う一人の幼馴染がいる。小学校よりも昔からの友人だから最も古い付き合いになるが、中学の時のある出来事により卒業以来顔を見ていない。探すつもりは無いし心配もしていないが、連絡などしなくとも和泉の消息は掴めた。
 揉め事解決屋をのらりくらりと始めた頃、空蝉等のGLAYを中心とした過激派グループと一つのグループが互いに拮抗しながら成立していた。そのグループのリーダーが、和泉嵐だった。
 幼馴染は知らぬ間に犯罪者になっていた。
 当然、黒薙は知らない。白神が過去とは言え和泉と繋がっていると知れば問い詰めるだろうし、黙っていた事を許す筈も無い。和泉は彼の仲間も大量に殺しているからだ。
 だが、それは些細な事だ。黒薙が許そうが許すまいがどうだっていい。
 白神にとって重要なのはGLAYだけだから、和泉が何処でテロを起こして黒薙等に追われようが関係無い。

 その時、ポケットに突っ込んでおいた携帯が振動した。取り出してみると、それは黒薙のものだった。小さなサブディスプレイに『着信』の文字が表示されている。
 一度は無視してポケットに戻したが、一向に止まないので奈那子の制止も知らないふりで携帯を開いた。画面にCallingの文字、下に『菊崎硝矢』と着信相手。
 覚えの無い名前に首を傾げつつ通話ボタンを押した。

「はい、黒薙灯の携帯です」
『あれ? 灯いないんですか』

 やはり、聞いた事の無い若い男の声。同僚だろうと考えた。

「訳有りで携帯預かってます。後で警察署行くんで」

 菊崎が返事するよりも先に、向こう側から何か物音が聞こえた。今度は覚えのある佐倉の声が微かに届く。

『白神さん、俺です。佐倉青です』
「ああ、携帯預かってるよ。後で届けに行く」
『マジっすか。じゃあ、お言葉に甘えて』
「灯は?」
『灯さんは病院で検査です。なんか、GLAYを投与されたらしいんで』
「何だって?」

 白神は咄嗟に声を荒げた。電話の向こうで佐倉が驚き、「大した事無いんスけど」と声が僅かに揺れる。
 すぐに病院の名前を聞き出し、手元の紙に書いて奈那子に見せた。少し驚いた顔をしたが、車は曲がる予定だった角を素早く通り過ぎる。
 灯の心配なんざしてねェ。
 喉から出そうになった言葉を呑み込み、何か付け加えようとしている佐倉との対話を切った。奈那子が前を見つめたまま問うので、白神は笑った。それは自然の笑みだったが、普段の張り付けた人の良さそうな笑顔とは違って悪役じみている。

「GLAYの手掛かりだぜ」
「そう」

 嬉しそうな白神の横で奈那子はハンドルを切った。規定速度を越えているであろう赤いスポーツカーが簡単に追い越され、運転手に驚愕が映る。
 エンジンの唸る音、加速した為の重力が前からぶつかって来るが、後部座席の二人は目覚める気配すら無い。
 町並みが消え、何の感慨も覚えない灰色の塀に変わる。早朝の高速道路は空いている為、見晴らしがいい。
 塀の向こうで高層ビルの群れが朝陽を浴びて黒く浮び上がっていた。夜の無い町にまた、朝が来る。何時になったら今日が終わるのか誰にも分からない。
 目を細めて見た景色は焦燥感を抱かせる。エンジンの音だけが響く車内、白神はラジオを入れた。最新の人気ランキング上位が流れるが、どれも聞いたような歌ばかりで苛立ちは増す。音程を変えたり、混ぜたり、入れ替えたりしてるが、結局言っているのはどれも下らない綺麗事ばかりだ。
 人の事を短気だと言っていられないな、と白神は小さく笑った。


2007.9.27