*不夜城 2


 黒薙は運ばれた病院の男子トイレにいた。正面には水滴の張り付いた長方形の鏡があり、酷くやつれた自分の顔を水色タイルの壁を背景に映している。
 採血や脳波などの検査は何の問題も無く全て午前の内に終わったので、午後は予定通り本部に戻って鬼のようなデスクワーク。昨日、本部を出る前に見た書類のタワーを思い出すと気が重くなる。労働基準法は何処へ消えたのだ。
 何気無く目の下に刻み込まれた隈に触れた。五日連続の徹夜による勲章だ。診断結果の不眠症と胃潰瘍で長期の療養を勧められた事を思い出したが、そんな暇は何処にも無い。
 換気された清浄な空気を感じ、無性に煙草が吸いたくなった。過去、これほどの長時間の禁煙に成功した事があっただろうか。
 トイレから出ると、予想通り佐倉が壁に寄り掛かって待っていた。一度本部に戻ってからわざわざ迎えに来てくれたので、そんな暇あるなら仕事しろとは叱れない。

「携帯は白神さんが持ってます。後で届けに来てくれるみたいですよ」
「そうか」

 別に携帯など有っても無くても困らない。
 黒薙は捲り上げていたシャツの袖を下ろした。琉璃がアイロンを掛けてくれているが、今は皺だらけの上に機械油の染みが出来ている。ネクタイは上着の内ポケットの中に入れたままなので手元には無い。

「どのくらい仕事残ってた?」
「え?」
「俺の机に書類が塔になってたじゃねぇか。一旦、本部に戻ったんだろ」
「ああ、菊崎さんが片付けたみたいです」

 そうか、と返事をするのが早いか、黒薙はもう歩き出している。一秒でも惜しいと言うような早足で、乾いた足音が静かな廊下に反響している。少し遅れて佐倉が追った。
 正面口まで行けば人が多く、平日の昼間だと言うのに儲かっている事を喜ぶべきか、患者の量を嘆くべきかが少し悩まれる。擦れ違い、横切って行く人の群れを器用に避けながら自動ドアを潜る。正面に見覚えの有る青いセダンが横付けられているのが見えた。丁度、助手席の金髪が目に付く。

「灯」

 締まりの無い笑顔を向けて白神が軽く手を挙げた。黒薙が何も返さなかったので、白神は思い切り携帯を二台ぶつけるようにして返す。

「どうも」

 無愛想な顔が呆れたように見たので、白神は相変わらずだなと苦笑した。

「本部に帰るとこだ。話あるなら、また今度にしてくれ」
「こっちは朝から待ってんだ。GLAYについて聞かせろよ」
「お前には関係ねェ」
「隈」

 白神がニヤリと笑って目の下を指差す。

「お前、痩せたな」

 黒薙は興味を失ったように相手にしないで、そのまま佐倉の車が止めてあるだろう駐車場に足を向けた。白神はダッシュボードの中から一冊の黒いファイルを取り出し、その表紙を捲る。
 『極秘』の文字が目を引き、黒薙は踏み出した筈の一歩を空中に留まらせた。

「それは」
「あの施設から盗って来たもんだよ」

 手を伸ばすが、ファイルは触れる直前で逃げた。食えない笑みを浮かべる白神を睨み、舌打ちする。

「犯罪組織の持ち物だろうと、それは立派な窃盗だ。寄越せ、没収だ」
「こんなところで権力振り翳すなよ。脅されなくても渡すけどな、情報は交換しようや」

 黒薙は姿勢を戻して無い煙草の為にポケットを探った。白神がそれに気付いて一箱投げて寄越すが、佐倉が空中で横取りする。代わりにガムを差し出され、黒薙は舌打ちしてから包み紙を開いた。

「……俺が投与されたのは」

 ガムを噛んでいるので、言葉の数の割に顎が頻りに動いている。
 相変わらずの無表情だが、深い隈の上で瞼が少し下がっているので酷く体調が悪そうに見えた。

「GLAYの液体だった。本物だと思う。ただ、聞く以上の効果は無かった」
「気体も作られてるみたいだぜ」
「ああ、それも聞いた。けどな、俺個人の感想として液体は恐らく錠剤の効果の足元にも及ばない。そうすると気体は殆ど効果無いだろう」
「今はまだ効果が出ていないだけかも知れない」
「そうかもな。だけど、現時点でそれ以上の事は分からない」

 そっちの番だ、と黒薙は手を伸ばした。白神はその手にファイルを乗せる。
 黒薙はそのファイルを引き寄せてゆっくりと頁を捲る。隣で佐倉が覗き込んでいたが、二人で目を丸くしてすぐに閉じてしまった。恐らく、実験動物のように殺された人間の写真を見たのだろう。
 揃って白神を親の仇のように睨んでいる。

「……ンだよ。俺が悪ィのか?」
「いや、思わぬ収穫だ」

 小さく咳き込んだ黒薙の顔はまたいつもの無表情だった。表情を持っていない癖に、目の中で様々な色を見せるから他の誰よりも表情豊かに思える。常に仮面を被って自分も他人も誤魔化し続けている白神よりはずっと分かり易い。

「青、行くぞ」

 そう言って見せた背中が酷く細い。佐倉が追い掛ける。
 白神は曲がり角に消えるまで見送り、車の窓を閉めた。車内は冷房が効いているが、指先が冷えてしまわない絶妙な強さに設定されている。奈那子は発車させた。
 病院が遠くなり、急な下り坂に差し掛かる。

「収穫あったのは向こうだけのようね」

 奈那子は言った。白神は苦笑しつつ窓の景色を見ている。

「手持ちのカードは無くなってしまったじゃない」
「いや、これでいいんだ。どうせ、あのカードは俺じゃ持て余す」
「あの二人も持て余してた」

 ファイルを開いた時の二人の顔が脳裏を過った。そのまま頁を閉じたところまで鮮明に思い出す。正反対に見えるのに似たもの同士だ。それはあの二人が素直過ぎるのか、それとも白神が歪んでいるのか。

「あのカードを使えるのは、あいつ等じゃない」
「本部に持ち帰らせて調べさせるんでしょ」
「そう」

 端からあの二人には期待していない。狙いは最新技術の粋を集めたGLAY対策本部の科学調査班だ。空蝉に泳がされている感は否めないが、黒薙が持ち返った液体状のGLAYとあのファイルの内容から幾らかの的確な情報は掴むだろう。

「龍ちゃんは本当に悪い男ね」

 皮肉そうに奈那子は呟いたが、その表情には呆れが映っている。

「この後どうするの?」
「家に帰って寝たいとこだけど……、仕事ほっぽり出して来ちまった。一旦戻らねぇとな」
「分かった」

 奈那子はアクセルを踏んだ。それまでゆっくりと流れていた景色が速度を増して後ろへ飛んで行く。
 昼間の町は活気を取り戻していたが、それが何処か仮初の姿であるように感じられた。



 黒薙と佐倉が本部に戻ると、目の下に隈を作った菊崎が出迎えた。机の上の塔は既に無くなっていたが、美月が新たに書類の山を運んで来たのを肩越しに見て二人は絶句した。彼は振り返った時に倒れてしまうのではないだろうか。
 本部がこんなに忙しいのは、犯罪の件数が多過ぎるからだ。今もこの国の何処かじゃ凶悪犯罪が起こり、悲劇が生まれる。地方には支部があるが、結局は全て本部に報告されるので仕事は膨大になる。それを捌くだけの人数がここにはいない。
 仕事に必要なものは事務的な能力だけではなく、犯罪と戦うだけの強さが必要だった。その両方を兼ね揃えた人間は希少なので、大抵はどちらかになる。佐倉などは間違い無く後者だ。しかも、そんな条件付で命の保証も無い仕事だと言うのに給料は安いし内容は厳しい。幾ら募集したところで人が集まる訳も無い。
 だから、ここで働く人間は皆物好きだし、曲者が揃う。

「お互い頑張ろうぜ」

 黒薙は菊崎の肩を叩いて自分の席に向かった。机の上に出来た新たな塔を見て菊崎は言葉を失っている。
 自分の使い慣れた業務用机に向き合い、隣りの菊崎の机の上から書類を半分程引き寄せた。いつもの場所に灰皿を置き、美月の運んで来たコーヒーを手元に置く。引出しの置くから煙草を一箱とライターを取り出した。だが、その引出しにいつものものが無い事に気付く。

「菊崎、俺の机漁った?」
「そんな暇ある筈無いだろ」

 なら、犯人は美月だ。
 黒薙は小さく溜息を吐いて、睡眠薬と精神安定剤の消えた引き出しを閉じた。塔の天辺に手を伸ばして書類を見つめると、昨日の事件の報告書だった。首都圏の駅前の銃乱射事件。こんな凶悪犯罪が万引きのように横行し、テレビを付ければいつもの事のように淡々とキャスターが話す辺り、この国はもう終わろうとしているのだと思う。
 犯罪の悪化と増加が齎したのは、命と言う概念の曖昧化ではないだろうか。人が死ぬ事に対して、年々感情を動かす事が鈍くなっている。この本部で勤務するには、そうでなければ狂ってしまうのかも知れない。
 二十歳で就職し、一年と経たない間に人を殺している。トラックを暴走させた無差別殺人事件で、犯人を硝子越しに頭を撃ち抜いたのだ。即死だった。
 それに対して当時は相当気に病んだし、体重も落とした。だが、その行為に対して渡されたのは一枚の報告書と書かれた紙切れだった。その立て篭もり事件については交渉など単なる建前だったのだ。発生した時点で撃ち殺す事は決定していて、黒薙はそれにただ従った。勿論、人を殺すのに『ただ』なんて表現をしていい筈無いのは分かっている。
 犯罪に対する抑止力。そう言って肩を叩いて励ましてくれた三つ上の先輩も、その年に起こった銃乱射事件の流れ弾に当たって死んだ。酷く、呆気無い。一体何の為に戦い、生きたんだ。その先輩が死んでも黒薙の人生は続いて行くし、事件は終わらず仕事はある。虚しさばかりが残った。
 書類を見たまま制止している黒薙に気付き、菊崎がその書類を取り上げた。

「これは俺がやる」
「何で」

 黒薙は取り返して机に置いた。別に、先輩の事を思い出して感傷に浸っていた訳では無い。

「浦和さんに報告しに行かないのか?」
「後でな」
「副部長がいなくなってからだろ?」

 淀み無く走っていた手が止まった。菊崎を睨んだが、動じない。
 本部長の浦和悠子の下には副部長と言うポストがある。要するにナンバーツーだが、彼女がいない時は副部長が指揮を取る。
 副部長は久坂賢治と言う若い男で、根っからのエリートで文武両道の割には気さくなので皆から慕われている。だが、黒薙だけはどうも久坂が好きになれない。元々、好き嫌いは殆ど無いのに彼だけは強烈に嫌っている。そういう人間は天地が引っ繰り返っても永遠に好きにならない。黒薙にとって久坂はそういう人間だ。
 浦和や菊崎はそれを分かっているから、なるべく二人を関わらせない。公私混合する程我侭ではないがその計らいは助かる。

「久坂さんは良い人だよ」
「知ってるよ」

 菊崎はもう何も言わなかった。
 暫く静かに書類の塔を処理していたのだが、黒薙は手を止めた。数日前の事件が紛れ込んでいて、その詳細まで覚えていない。そもそも担当は黒薙ではないが、現在その担当者は出払っているのでいない。
 そういう時は保管庫に行って調べなければならない。面倒だなと思った時、丁度佐倉が肩の関節を鳴らしながら後ろを通り掛かった。

「青」

 佐倉が振り返る。

「ちょっと保管庫行って書類取って来て」
「はあ」

 気の無い声が返って来る。佐倉は菊崎の方を見た。
 菊崎は机の引出しから銀色の鍵を取り出して渡した。保管庫の管理は、日々デスクワークに勤しむ菊崎の担当になっている。それは菊崎に対する信頼でもある。どんなに忙しくても佐倉にはまさか預けられないだろう。
 佐倉は重い足取りでオフィスを出て行った。保管庫はこの階には無い。

「黒薙君」

 黒薙は振り返らず、眉間に皺を寄せた。
 本部では分け隔て無く『灯』と呼ばれている黒薙をそう呼ぶのは一人しかいない。菊崎に肘で小突かれて漸く振り返った。予想した通り、人の良さそうな笑顔を浮かべた眼鏡の男がいる。東大卒のエリート、久坂賢治。

「何ですか」

 不愉快さを隠さない態度と声で黒薙は言った。何度も言うが、黒薙は久坂が死ぬ程嫌いだ。

「仕事だよ」

 そう言って机の上の塔を更に高くした。咥えていた煙草を灰皿に押し付けて、思わず胸倉を掴み掛ろうと立ち上がって菊崎に止められた。久坂は気にも留めない。
 これが美月なら溜息を吐いて煙草の本数を増やす程度だが、相手が久坂だとそうも行かない。生理的に受け付けないのだ。同じ空気を吸っている事さえ不愉快になる。

「君が僕を嫌うのは勝手だけどね」

 久坂は溜息を吐いた。嫌われていると分かっているのなら放って置けばいいのだが、副部長と言う中間管理職のポジションがそれを許さない。

「仕事に私情を持ち込むのは関心しないな」
「何時誰が持ち込みましたか」

 そう言う黒薙は久坂を噛み付きそうな目で睨んでいる。今も菊崎が止めていなければ殴り掛かろうと言う勢いがあった。

「そう、ならいいんだけど」

 久坂は踵を返した。その濃紺のスーツ姿を黒薙は猛犬のように睨んでいる。其処で佐倉が戻った。

「また、副部長ですか」

 付き合いの長い佐倉はすぐに悟って、諦めたように机の上にファイルを置いた。黒薙は菊崎に促されて深呼吸を繰り返し、漸く席に着く。苛立ちは収まらない。

「何が、『君が僕を嫌うのは勝手だけどね』だ。俺が悪いみてェな言い方しやがって」
「お前が悪いじゃないか」
「あいつも俺が嫌いなんだからお互い様だ」

 黒薙は久坂が憎い程嫌いだが、久坂もまさか黒薙の事を良く思っている筈も無い。言葉一つとっても黒薙に浴びせる言葉は棘がある。
 だが、どちらが先に嫌ったかと小学生のような理論を持ち出すなら、悪いのは間違い無く黒薙だ。

「灯先輩」

 美月が苛立っている黒薙の肩を叩いた。振り返って見たのが穏やかな美月の顔だったので、黒薙は毒気を抜かれて肩を落とした。風船が針で突つかれて萎む様に似ている。

「部長が呼んでます」
「狸のお陰で忙しい」

 黒薙は久坂を陰で『狸』と呼んでいる。がっちりした体格で人が良さそうな風体だが、黒薙から見れば腹の底が知れないので正しく狸だ。

「俺が代わろう」
「いいよ」

 菊崎が塔を奪おうとしたのを遮ろうとして、黒薙の手は美月に捕まった。

「早くして下さい。ほら、青も」

 半ば引き摺られるように腕を引かれる黒薙の後を佐倉がひょっこりと追う。慕われているのか嘗められているのか分からない姿を見ながら菊崎は苦笑し、机に向き直った。取り残されたような虚しさは、消えない。

 本部長室に入ると、変わらず浦和は椅子に座って構えていた。黒薙等が囚人のように机の前に並ぶ。

「次は自分から報告に来れると良いわね」

 嫌味ったらしく浦和は言うが、黒薙は気にしない。ここから久坂を追い払わなかった浦和が悪いとさえ思っている。

「で?」

 黒薙が言うと、浦和は小さく溜息を吐いた。職場の人間関係は悪く無いが、黒薙の久坂嫌いだけが大きな問題になっている。どう説得しても解決しない頭の痛い問題だ。

「F地区大学内で銃乱射事件が起こったわ。犯人は恐らくGLAY常用者、逃亡して銀行に立て篭もってる」

 銃乱射事件。なんてタイムリーなんだろう、と黒薙はぼんやり考えた。

「そんなもん、他の部署に任せりゃいい。GLAYが関わってるからって何でもかんでも手ェ出してどうするんだ」
「何処も手一杯よ」
「こっちだってそうさ。愚痴のつもりはねェが、俺はもう徹夜五日過ぎた」
「寝れる時に寝ない灯先輩が悪いんです」
「薬泥棒に言われたくねェ」

 美月は笑った。

「これが終わったら二日の休暇をあげる」
「本当だな、約束しろよ」

 黒薙は踵を返した。その横に佐倉が並んで歩いている。
 扉の閉まる音が長く響いて、美月は浦和の方に向き直った。

「GLAYについてですけど」
「何か分かった?」

 美月は首を振った。黒薙が持ち込んだファイルと、投与されたGLAYについての調査に彼女も加わっている。実は科学調査班の一員である。

「まだ詳しいところは分かりませんけど、灯先輩が投与されたのはもしかすると後天性なのかも知れません」
「そう……」

 浦和は面倒臭そうに溜息を吐きつつ、ブラインドの隙間から外を眺めた。ビルの群れが日の光を遮って町に大きな影を落としている。狭い空を横切って行く鳥は鳩だろうか。
 鳩はビルの硝子窓に映った空を見間違え、衝突してしまう事があると言う。その話を聞いた時、酷く不憫に思った。以前、空は鳥や虫達だけの領域だった。それが今は人間が侵略してしまっている。その人間も今は滅ぼうとしているのだから実に救えない話だ。

「本当に、困った子」

 そう言ってブラインドを閉じた。
 浦和は四つ下の黒薙を弟のように見ている。エリート揃いのGLAY対策本部では曲者過ぎて問題児の域だが、その中で真っ直ぐ貫いた信念があり、存外素直なので嫌いになれない。
 黒薙は仕事で出ると必ずと言って言い程次の問題を引っ張り出して来る。本人の知らないところで潔癖だから、問題の末端を解決しても何の意味も無いと分かっているので根元から潰そうとする。要するに芋蔓だ。根こそぎ掘り出さないと気が済まない。だから、それがGLAYに関する事になると終わりが見えないので仕事が終わらない。
 不器用なのだ、と浦和は思っている。また、其処が可愛いとも思う。



 黒薙はくしゃみをした。自分では気付いていないが、体はそんなに丈夫ではない。佐倉が心配そうに覗き込むが無視する。
 エレベーターを待っている廊下は節約の為にクーラーが効いていない。黒薙は舌打ちした。それを佐倉は久坂の事だと思って苦笑する。

「副部長は良い人なんですが、どうも灯さんとだけは相性が悪い」

 その言葉のお陰で、オフィスを出る直前に言われた嫌味を思い出してしまった。

――やあ、また外出かい。何時見てもこんがり焼けていて羨ましい事だ

 黒薙は言い返そうとしたが、佐倉が縋るような目で見つめたので何も言わずに出て行った。佐倉が挨拶する時は非常に和やかなので、久坂は相当に黒薙の事が嫌いなのだろう。周りの人間も久坂の豹変ぶりに、それを名物のように見ている。
 黒薙は無言で壁を蹴った。
 そもそも黒薙は地黒ではなく、元々はその特殊な出生も関係して病的に白かった。自然と事件の担当が増えたせいで焼けたに過ぎない。

「あの狸……!」

 佐倉が宥めていると、エレベーターが到着した。黒薙を押し込んで扉を閉めるが、怒りは当分収まりそうも無い。元々短気なのによく堪えている方だとは思う。
 黒薙は背を向けて遠くの景色を忌々しそうに見つめている。佐倉は小さく笑った。

「まあ、いいじゃないですか」
「いい訳ねェだろ」
「いいですよ。俺はちゃんと分かってます」

 ガクリ、と項垂れた。
 丁度、エレベーターが玄関のある一階に到着した。佐倉が余りにも明るく笑うので、黒薙は顔を上げて歩き出す。表情にこそ何も無いが、目の奥で笑みが見られた。
 人の行き交いが激しいのは玄関だからだけだろうか。黒薙はそんな事を思いながらスーツの男を避けて進む。相手は軽く謝って早足に去って行った。忙しいのは何処も同じだ。
 扉付近には喫煙所があり、黒薙などよく入り浸っている。ふと視線を寄越すと菊崎が休憩中なのか携帯を弄っていた。
 菊崎は両親を早くに亡くし、五人兄弟の長男として家族を養って来た苦労人だから面倒見がいい。その家族に連絡しているのかも知れない。

「菊崎さん」

 佐倉に呼ばれて、顔を上げた。

「事件?」
「F地区の駅前銃乱射犯が銀行に立て篭もりました」
「銃乱射……、気を付けろよ」

 菊崎がじろりと黒薙を見る。

「誰に言ってんだよ」

 黒薙は歩き出す。佐倉が挨拶してから後を追った。
 菊崎は、まだ携帯を弄っている。



2007.10.3