*不夜城 4

 佐倉が本部に戻ると、美月が蒼い顔で出迎えた。既に事件の連絡が届いているらしい。机で大量の書類を片付けていた菊崎も傍に駆け寄って来た。余程酷い顔をしているのか、二人とも言葉を見つけられずにいる。虚ろな目のまま、黒薙の姿を探すがあの仏頂面は何処にも無かった。

「灯さんは……」
「家に帰ったよ。徹夜が続いてたから、今頃寝ている筈だ」

 菊崎は佐倉の肩を叩いた。

「目の前で殺されたんだってな」

 痛ましそうな目を向け、菊崎は肩を落とす。ぼんやりしていると久坂が傍に来て反対の肩を叩いた。

「気に病む事は無い。……まったく、黒薙君もこのくらい落ち込んでくれればいいのに」

 不満げに言う久坂を美月が宥めている。何か違和感を覚えて佐倉は顔を上げた。

「灯さんが何かしたんですか?」
「一人、女の子を守れなかったらしいじゃないか」

 その菊崎の言葉に愕然とした。佐倉は目を丸くしたまま、情報の誤りを伝える。

「違う」
「どうした?」
「守れなかったんじゃない。俺が、殺したんです」

 佐倉は自分の掌を見つめた。まだ、あの血液がこびり付いている。
 あの時、黒薙の言う通りに少女を発見した時点で脱出すれば良かった。そうすれば、あの子は死ななかっただろう。
 動揺している佐倉の様子に気付いて菊崎等は首を傾げる。
 本部に届いた事件内容は、黒薙が銀行に突入して犯人三人を射殺したと言うものだった。その際少女一人が犠牲になった。それを警察機関から聞いたのだが、担当した黒薙はそのまま帰宅してしまっていた。

「なるほどね」

 佐倉の言葉で大よそ察した菊崎は小さく溜息を吐いた。黒薙とは二年以上の付き合いだから、何を考えているのかは大体分かる。昔から、多くの事を自己完結させる節があった。

「さっき、灯から連絡があった。わざわざ俺に掛けて来たって事は内密にして欲しかったのか面倒だったのかは分からないけども、兎に角、お前とのチームを解消してくれってさ」

 菊崎は苦笑する。

「お前は暫く俺と組んでデスクワーク。灯は単独」
「はい」

 佐倉はそれ以上何も言わず、俯いた。その肩を菊崎が叩き、席に戻って行く。その時、本部長室の扉が大きな音を立てて開いた。

「灯は帰って来た?」

 浦和が切羽詰った顔で言うが、探す人物がいないと気付いて肩を落とした。

「何か事件だったら俺行きますよ」
「いえ、いいわ。灯は……」
「帰りました。でも、徹夜続いてたからそろそろ本当に無理です」

 美月が困ったように笑う。仕方無さそうに久坂が進み出たので、浦和はその事件を預けた。

「無愛想だけど、結構頼りにされてんだよな」

 菊崎が笑った。





 薄暗い廊下を一人の少女が歩いている。フローリングの床はひんやりと冷たい。家の主はいない。数日前に戻ったが、大量の書類を持ち込んで一睡もせずに早朝出て行った。GLAY対策本部は相当忙しいらしく、連休をもらってもすぐに呼び出される。居候の身だけども、今では誰の家か分からない。
 琉璃はぼんやりと廊下を歩き、立ち止まる。声が聞こえた。
 誰の声か分からない。男、女、老人、子供、悲鳴、怒号。何を言っている。
 来ないで、何処かに行って。

――でも、呼んでる。



 銀行立て篭もり事件が片付くと、黒薙は早々に帰路を辿った。パトカーで家まで送ってもらえたのは幸運だった。何せ、返り血を浴びて酷い姿だ。そのまま電車やバスに乗れば間違い無く通報されるだろう。
 自宅のマンションに到着し、部屋に入って真っ直ぐに風呂場に向かった。まずシャツを漂白剤に着ける。機械油だけならまだしも、血塗れの服を同居人に洗濯させる訳にはいかない。
 シャツの汚れが抜ける間に体を洗ってしまう。風呂から上がって白く戻ったシャツの漂白剤を流して他の洗濯物と一緒に洗濯機に放り込む。重い体を引き摺って食事しようと炊飯器を覗いて見るが、空だった。
 そう言えば、同居人の姿が見えない。

「琉璃、いないのか?」

 何気無く琉璃の姿を探し、部屋も覗いたがいない。首を傾げつつ自分の部屋を開けた。
 数日前に家を出た時のままの状態だと思ったが、自分のベッドに同居人が眠っていた。溜息を吐いて傍に寄ってみるが、眠っているので反応が無い。

「おい、琉璃。自分の部屋で寝ろよ」

 細い肩を揺らすと、微かに呻き声が聞こえた。まるで起きる気配葉無く、体勢が崩れて横顔が見えた。眼の端が紅くなり、涙が滲んでいる。

「琉璃……?」

 心配になって何気無く髪に手を伸ばすと、薄っすらと目が開いた。寝ぼけているのか虚ろだ。宝石のような透き通る青い目が涙に揺れている。

「大丈夫か?」
「灯」

 すっと琉璃の手が伸びる。黒薙の顔を両手で挟むようにして青い目が黒い双眸を子供のように覗き込んでいた。

「声が聞こえる」

 琉璃はゆっくりと起き上がって首に手を回した。元々琉璃は甘えるような性格では無かったので、黒薙は何も言わずにされるようにしている。

「何て言ってる」
「呼んでる。ここにいちゃいけないって」

 涙が頬を伝っている。黒薙は眉を寄せた。

「どうしよう」

 でも、何処にも行けない。
 涙が頬を伝っては落ちて行く。黒薙はその肩を抱き締めた。お互い、細い。

「何言ってんだ。ここにいろよ」
「でも、呼んでる」
「聞くな」

 抱き締めた肩が震えていた。
 暫く抱き締めていると、震えが止んで寝息が聞こえ始めたのでベッドに戻した。疲れているのに子守りする事になったが、それに対する怒りは全く沸いて来ない。いや、怒る権利なんて無い。

(……呼ばれてんのは、俺だよ)

 人のベッドで寝るからそうなる。
 琉璃は元々感性が鋭いから人の意識に同調するところがある。だから、お互い部屋の位置を正反対にした。

 黒薙は自分の部屋を出て冷蔵庫を開けた。おかずは幾つか残っているが、肝心の主食が無い。仕方無く食パンを一枚トースターに入れた。
 まともな食事は久しぶりだった。それ以上に、睡眠は久しぶりだ。不眠症と拒食症が同時進行しているから体も削がれるように細くなってしまう。
 眠れないのは、夢見が悪いからだ。眠ると酷い悪夢が牙を剥いて襲って来る。

 思考の渦の中に呑み込まれそうになると、丁度トースターが鳴った。黒薙は意識を取り戻し、息を弾ませる。時々、自分の中に取り込まれて戻って来れなくなりそうな時があった。だから、長時間の睡眠は取れないし、一人だけでは眠らない。この家には琉璃がいるし、本部に行けば菊崎達がいる。

 そう遠くない未来、自分の渦の中に取り込まれて抜け出せなくなるだろう。その時、どうなるのだろうか。永遠に閉じ込められるのか、死ぬのか。

 マーガリンを塗っただけの食パンを齧りながらテレビを点ける。丁度、昼間の銀行立て篭もり事件を報道していた。犯人を入れて死者十一人。内、一人はあの少女だ。
 あの少女を外に運び出した時、母親がすぐに駆け寄って来た。人質の中にいた一人の中年女性だったので見覚えがあった。助けられなかった事を言うと、頬を叩かれた。そうして、涙を滲ませた。

――人殺し


 その叫び声が脳を離れない。頭蓋骨の中で反響しては渦になり、溢れ返っては引き返す。だから、いつまで経っても出て行かない。
 人殺しと呼ばれても仕方が無いと分かっている。だけど、その言葉に何の感慨も覚えなくなったのは何時からだろうか。奪っても、血塗れになっても、分からない。

――人を殺す時、何を考えますか?
――それは、灯さんが冷たいからですか? それとも、皆そうならざるを得ないんですか?

 別に、自分が温かい人間だ何て思った事は無い。冷たい人間で構わない。そうでなければ、守れない。

「灯……」

 部屋の向こうから微かに琉璃の声が聞こえた。気付くと、食パンを落としている。

「――クソッ」

 悪態吐いてから食パンを口に突っ込んだ。寝ようと思い、ソファに寝転ぶ。途端に、見計らったようにチャイムが鳴った。眠ろうとしていたので意識が混濁している。目は見えているが、足に感覚が無いので現実かどうかいまいちはっきりしない。
 玄関に立って低い声で対応すると、聞き慣れた声が返事をする。

「俺だよ」

 白神の声だった。溜息を吐いて扉を開けると、金髪と笑顔が見えた。あの仮面のような張り付けた笑顔ではなかったので仕方無く家に入る許可をする。白神は土産と言っていかにも高そうなワインを見せた。

「こんな高そうなのいいのかよ」
「いいよ、貰いもんだ。開けようぜ」

 時刻はまだ夕方に差し掛かり、空が橙に染まったばかりだ。白神はそろそろ出勤の時間ではないかと思ったが、口に出すのも面倒なので放っておいた。

「琉璃は?」
「寝てる、俺の部屋で」

 白神が目を細めたので、黒薙は同じく睨むような視線を投げる。白神は噴出すように笑った。

「冗談だよ」
「……俺も寝るところなんだ、悪いが」
「そう思ったから酒持って来てやってんだよ」

 黒薙の不眠症は白神も知っている。削がれるように細くなって行く体だとか、やつれた顔に深くなる目の下の隈だとか。
 白神にとって黒薙は親友だから、失う訳にはいかない。それなのに、黒薙は簡単に死んでしまいそうな生き方をする。残される者の哀しみを分かっているくせに、だ。

「寝れるのか?」
「ああ」
「薬は?」
「美月に取られた」

 GLAY対策本部の人間は何だかんだと黒薙に対して過保護だ。禁煙も勧められていたし、定期的な食事も予定に組まれていた。だから、安心出来る。
 だが、不眠症はどうしようもない。薬に頼っているいたが、どう考えても体に良い訳が無い。規定の何倍もの量を酒と一緒に呑むのだから重症だろう。だから、白神は空いた時間に黒薙を町に連れ出して酔い潰させる。それが良い訳では無いが、薬よりは幾分マシだろう。
 そんな黒薙だが、薬やアルコールに頼らずに眠れる時がある。
 人を、殺した日だ。

「……テレビ見たぜ。三人殺したのか」
「ああ。まだ、良い方だ」

 GLAY対策本部で働いていると、嫌でも殺人は付いて回る。大規模なテロ活動など、酷い時は何十人も殺した。
 白神は来ていたジャケットをソファで寝そべっている黒薙に投げ付けた。殆ど反応が返って来ない。

「もう、寝るか?」
「客がいるのに寝る訳ねぇだろ」

 背中を向けてながら言う。暫く黙り込んでいたかと思うと、黒薙は首を回して白神を見た。

「仕事は?」
「明日の五時からだよ。お前は?」
「ニ連休」

 それだけ言って、黒薙は眠りに落ちた。
 死と睡眠は似ている。魂が何処かに落ちて行くようだ。ふとした瞬間、意識は常に螺旋階段を下って行く。先の見えない常闇は口を大きく開けて今も待っている。

 頭の中で声がする。無数の声は性別も歳も全てが疎らなのに、皆同じ事を叫ぶ。
 辛い、恐い、痛い、哀しい。渦を巻いた感情が形を成しては牙を剥く。押し寄せる憎悪の波が少しずつ迫って来る。罵声の中に混ざった恐怖は慄きながらも排除を叫び、誘うように無数の白い手が闇の中で踊るように浮んでいる。足元は血塗れで一歩踏み出す度に水音が遠くまで響き、視界は赤と黒に塗り潰され、音は叫びに埋まって行く。
 少女が一人、立っている。細い肩を震わせて、しゃくり上げながら俯いていた。水音に気付いて上げた白い面、血の気が無い紙のような顔。小さな口が、呼んでいる。

――人殺し

 その奥で、頭から被ったように血塗れの人の大群が、白い手の群れからゆっくりと抜け出しながら歩いて来る。老若男女、皆狂ったように異口同音に叫ぶ。
 掌は血塗れで、いつのまにか右手には銃が握り締められていた。
 意識が、螺旋階段を下って行く。


「灯!」

 ふっと意識は突然に浮上した。瞼を開けると、見下ろしている金髪が見える。その向こうでいつもの部屋の景色が広がり、あの闇は何処にも存在しない。
 それなのに、いつもの現実に戻った筈なのに、声が止まない。呼んでいる。

「おい、しっかりしろ」

 焦点の合わない黒薙の肩を揺らすと、漸く目に力が戻り安心する。それまで気付かなかったが、右頬が紅く腫れていた。体を起こして頭を抱えている黒薙の顔色は酷く悪いが、その頭を左右に振って意識を無理矢理戻す。

「どのくらい寝てた?」
「五時間ちょっとだな。右頬腫れてるぞ」

 既に目を覚ましていた琉璃が救急箱を取りに走る足音が聞こえた。

「叩かれたんだ」
「誰に」
「助けられなかった子供の、親に」

 あの銀行立て篭もり事件で、目の前で死んだ小さな少女。あの大きな目は沢山のものを見る事が出来ただろう。あの小さな足でも多くの場所を歩いただろう。生きられた筈の命が、掌の隙間から零れ落ちて行く。
 頭の中で声がする。何処まで行く、何時まで続ける。ヒタヒタと近付いて来る足音は一体誰のものだろうか。頭の中で幻聴が荒れ狂っては現実の世界を侵食して行く。

「どうしてお前が殴られるんだ」
「救えなかったからだ」

 地に伏し、抱え上げた体はとても小さかった。細くて頼り無かった。それでも、生きていた。地面に両足を着いて呼吸をしていたのだ。ただそれだけの命なのに、救う事は出来なかった。
 奪って、殺して、壊して。その先に一体何が残る。正面から睨み付ける母親の叱咤と、周囲の人間の白い目。取り零したものが後ろからずっと睨み付けている。――振り返れない。

「お前が悪い訳じゃない。八つ当たりじゃねぇか」
「向こうだって分かってる。だけど、そうやって縋り付かないと立っていられないから」
「だから、お前が背負うのか?」

 黒薙は答えなかったが、白神が舌打ちして「随分と、今回の事件は堪えたみたいだな」と皮肉そうに呟くと顔を上げた。

「犯人の一人と互いに銃を所持したまま遭遇した。だが、そいつは俺の名前を確認して背中を向けて逃げようとしたんだ」
「お前の名前は結構知れ渡ってるぜ」
「なら、尚更殺すと思わないか?」
「何が言いたい」
「妙だろ。まるで、俺を殺せない理由があったみたいじゃねぇか」

 白神は首を傾げた。
 救急箱を持って来た琉璃が黒薙の隣に座り、頬に湿布を当てる。ヒヤリと冷たい感触が伝わった。

「殺せない理由? お前にしては随分と自意識過剰だな」
「理由は俺だって分からねェよ。ただ、そいつが妙にビビってたから」
「だから、恐かったんだろ。お前がさ」

 もう白神は笑っているが、黒薙ばかりが腑に落ちない顔をしている。琉璃は不思議そうにその横顔を見つめた。

「何か理由があると、あたしは思うけど」
「理由ねぇ」

 そう言われて首を捻るが、暫く沈黙が流れた。

「実験動物……」

 黒薙は呟いた。二人は復唱して首を傾げる。

「俺に新薬を投与したから、その経過を観察してるんじゃ」
「犯人は玄人だったのかよ」
「いや、違う」
「せいぜい下っ端だろ? そんな奴等が関係する程薄い組織かよ」
「そう思うけどな。上層部と下層部でズレが生じてて、下層部が勝手に動いてる……訳は無いか」
「お前は考え過ぎだよ。大体、下層部の人間がどうやって情報を得るんだよ。それじゃあ、まるで――」

 白神は手で口を覆った。正面で黒薙が首を傾げる。

「……ンだよ、気持ち悪ィな」
「黒薙、これはまだ、仮定だ」
「もったいぶってんじゃねぇ」
「――裏切り者がいる」

 その瞬間、黒薙の目が鋭くなった。睨むような黒い瞳に歪んだ景色が映り込んでいる。

「いない」
「決め付けるな。お互い、何の根拠もねェ」

 白神はそう言ったが、黒薙は不て腐れたようにまた、ソファに横たわった。向けた背中が酷く細い。
 何処まで行く、何時まで続ける。闇の向こうの住人はその問いを繰り返す。殺した者、守れなかった者は硝子玉のような無機質な目を並べて見ている。
 目の前にいたのに、手を伸ばせば届いたのに守れなかった人がいる。

「寒ィ」

 黒薙は起き上がった。寒さを感じた肌が総毛立つ。
 ゆっくりと自室へと向かう足取りが酷く重く、誰かを背負っているように体が動かない。声が止まない。「大丈夫か」と言う白神の問いを無視して扉を閉め、ベッドに倒れ込んだ。沈もうとする体をベッドのスプリングが押し返し、その中で意識はどんどん下降を続ける。
 何処まで、何時まで。



 電話が、鳴っている。
 目を覚まして気付けば、翌日の早朝四時だった。リビングで白神がソファに眠り、琉璃は部屋に戻ったらしい。白く霞んだ視界の中で携帯のバイブレーションがフローリングを鳴らして酷い重低音になっていた。
 携帯を取った時、ニ連休はたった一日の睡眠に消えた。



2007.10.20