透明人間の手記


―1.告発―

 真っ赤だった。
 瀕死の太陽と、回転灯と、野次馬の火照った頬と、夥しい鮮血。
 忙しなく動き回る制服警官の群れを、俺は規制線の外から見ていた。
 白い半袖シャツを着た若い刑事が、僕の前にしゃがみ込んだ。長い間、この灼熱の太陽の下で動き回っていたのだろう。汗と、血の臭いがする。
 僕は規制線、黄色いテープの中へ導かれた。それでも、血塗れの現場へ入ることは許されず、傍に停められたパトカーへ招かれる。僕の姿をマスコミから隠したのだろう。野次馬の中にはカメラを担いだ男や、マイクを持ったリポーターが混ざっている。
 喧しい外界と扉一枚を隔て、刑事は何も言わない。


「兄ちゃんは?」


 刑事の顔が、解り易く曇る。
 嗚呼、死んだのだな。


「お兄さんは、立派な警官だった」


 殉職か。また、殉職したのか。
 父さんも、母さんも、兄さんも、皆殉職だ。立派な警官は殉職するのか。


「ねえ、刑事さん」


 車窓の向こうで、リポーターが喧しく喚いている。
 平成のジャック・ザ・リッパーの逮捕報道だろう。
 犯人逮捕。犯人逮捕。犯人逮捕。
 何の犯人だ。兄さんを殺した犯人というなら。


「兄ちゃんを殺したのは僕だよ」


 若い刑事は、如何受け止めただろう。
 痛ましそうに顔を顰め、僕の肩を抱き寄せた。





―2.気配―


 家の中は静かだ。自分以外の生物は存在しない。
 交番勤務の巡査である兄はまだ帰宅していない。玄関の鍵を落とす。チェーンも掛ける。この屋内へ誰も侵入出来ないように、気休めでも結界を作る。
 両親は既に死別している。頼れる親類は近辺にいない。
 学校指定の鞄を床へ下ろす。今の中央に卓袱台。テレビは無いが、新聞はある。卓袱台へ広げるが、内容はまるで頭に入って来ない。
 部屋の中は、焼けた畳の匂いがする。嗅ぎ慣れた匂いだ。自宅なのだから、当たり前だろう。
 だが、この居心地の悪さは何だろうか。
 周囲を探ろうと首を回せば、頬がずきりと痛んだ。手を当てると、僅かに熱を持ち腫れていることが解る。

 兄ちゃん。

 呼び掛ける。兄はまだ帰って来ない。
 気配が、する。
 ポストに投函された大量の封筒。購入先なんて特定出来ないだろう大量生産のそれを開く。
 溢れ出すのは、写真だ。
 隠し取りされた自分の写真だった。それから、髪の毛の束。

 お前を見ている。私に気付いて。

 そんなメッセージが込められているようで、全身が粟立った。今この瞬間すら誰かに見張られているような気がして、怖くて怖くて堪らない。人の気配が恐ろしいのに、独りきりでいることもまた、怖かった。
 両親はもういない。兄はまだ帰って来ない。

 乾いた音がした。
 薄い扉が、叩かれたのだ。
 チャイムを使わず、ノックをする意味とは何だろう。

 怖い。玄関へ近付くことすら出来ない。

 兄ちゃん。
 呼び掛ける。兄はまだ、帰って来ない。
 頬に触れる。熱を持ち、腫れている。振り上げられた拳を思い出す。硬く乾いた拳だ。幾度と無く振り上げられた拳を、忘れる筈も無い。降り注ぐ暴力にはもう、慣れている。
 けれど、それでも。


「兄ちゃん、助けて」


 ノックは、止まない。





―3.外野―


 おお、久しぶりだな。
 元気だったか。
 元気な訳ねーだろ、なあ。
 ちゃんと飯食ってるか。
 何かあったら言えよ。
 大丈夫か、力になるからな。
 何でも相談に乗るよ。
 困っていたら助けるよ。
 今すぐは無理でも、ゆっくり調子戻してね。
 ずっと心配していたんだよ。
 会いたかった。

 ねえ、それで。
 なあ、それで。

 それで、それで、それで。


「あの事件のこと、詳しく教えて」


 人影が揺れる。風に揺れる木陰のようだ。
 人々のざわめきなのか、木々のさざめきなのか。
 甲高い悲鳴、地を這う嗚咽。酷い耳鳴りだ。誰の声も判別出来ない。
 声だけじゃない。顔も、解らない。
 誰だ。誰だ、こいつ等。

 肩を叩く手が、重い。捕らえて離さない無言の脅迫のようだ。
 人垣が柵のように取り囲んでいる。此処は牢獄か、地獄か。

 高音なのか、低音なのか。
 視覚も聴覚も急激に閉ざされて行く。


 嗚呼、もう、いいか。


 暗転。





―4.代用者―


 唯一の肉親である兄貴が死に、代わりに香坂と名乗る刑事がやって来た。
 兄貴の同僚で、自分に何かあった時は弟を頼むと託されていたらしい。
 香坂さんはぶっきら棒で、無愛想だけど、不器用ながらに優しい人だった。だから、俺は兄貴の代替品だったんだと錯覚した。

 兄貴の代替品が香坂さんなのか?
 兄貴は香坂さんの代替品だったのか?

 口にできない疑問ばかりが増えていく。香坂さんは多忙で、偶に家を覗きに来たり、飯に誘って来る名義上の保護者だった。それでも、携帯に届く「元気にしてるか」なんて愛想のかけらも無い言葉が俺にとって救いだったのは間違いない。
 ポストに投函される意味不明の葉書は、香坂さんが定期的に廃棄してくれる。異臭を放つ白い液体も掃除してくれる。マスコミの詰問からも守ってくれる。時々、ありもので肉野菜炒めを作って食わせてくれる。
 いい人だ。頼りになる人だ。
 だから、縋れなかった。
 死んだ兄貴との顔合わせを思い出す。青白い作り物のような首筋は丁寧にぐるりと一周縫合されていた。傷だらけの面は、ストーカーの送って来た俺の隠し撮り写真と同じだった。だから、兄貴も同じ目に遭わされたのだろうか。次はきっと、香坂さんの番だ。
 兄貴が焼骨され、俺も写真を焼却した。
 チャイムが鳴り、ノックの音が転がった。

「葵、いるんだろ?」
「今留守です」
「堂々と居留守使うんじゃねーよ、タコ」

 香坂さんは口が悪い。
 俺は香坂さんを迎えるべく玄関へ向かった。





―5.真実―


 香坂さんは事件のことは口にしなかった。不器用なひとだから、話題を避けているのがありありと解った。兄貴も嘘や隠し事が苦手だったなあ。
 だけど、香坂さんは俺に何か聞きたいことがあるようだった。 俺に答えられることないいけれど。
 俺も聞きたいことがあった。聞かなければならなかった。

「兄はどうして死んだのですか」

 一瞬、香坂さんは表情を引き攣らせた。
 徐に懐から煙草を取り出す。ニコチンを吸い込んだ口から、僕を避けるように遠慮がちに煙を吐き出す。心を落ち着ける一つの儀式なのだろう。

「殺人鬼と、交戦してな。兄貴は命に代えても犯人を捕縛した英雄なんだぞ」
「首を切り落とされても?」
「そうだ」

 殺人鬼、平成のジャック・ザ・リッパー、朝比奈香理を思い出す。
 兄貴が死んだ場所は俺の通学路だった。執拗なストーカー被害に苦しむ俺の為に巡回経路を変えていたんだろう。まさか、そのストーカーがあの朝比奈だったなんて、夢にも思わなかっただろう。
 俺なら予測できた筈だ。兄貴の行為がどんな結果を齎すのか解った筈だった。

「蓮の交戦した場所は、巡回経路から随分離れた場所だった。そこはお前が使う通学路で、朝比奈の自宅周辺だ。……俺には、蓮が朝比奈に会いに行ったように思えるんだ」

 香坂さんは目を伏せ、此方の様子を慎重に窺いながら言った。

「朝比奈の自宅から、お前の隠し撮り写真が大量に発見された。蓮がストーカー被害について調べていた形跡もあるし」

 其処で香坂さんは一度言葉を切った。
 俺は、笑った。そんな、今更なことを訊いてどうするんだ。

「朝比奈の狙いは、お前だったんじゃないか?」

 笑い声を、殺し切れなかった。
 信じられないものを見るような目で、香坂さんが俺を睨む。
 まだ、そんなことを知りたがるのか。今更なんだよ。もう終わったことなんだ。

「俺には解りませんよ。もう、終わったことなんだ」

 声が反響する。俺の笑い声だ。
 汚れた四畳半の其処此処に跳ね返っては頭上から降って来る。


 暗転。





―6.慟哭―


 お兄ちゃん。
 お兄ちゃん。
 お兄ちゃん。

 お兄ちゃん。


 助けてくれ。





―7.神様―


 全部、偶然だったんだ。
 けれど、今更それを口にして誰が信じてくれるだろう。何が変わるだろう。何の意味も無いなら、何もかも隠した方がマシだ。

 短気で粗暴だけど、実は優しく不器用だった兄貴が、俺は大好きだったんだよ。
 殴り合いの喧嘩をしょっちゅうした。お互いに納得出来ないことはとことん話し合い、最終的に殴り合いになった。
 大抵俺が負けて、病院送りになることも一度や二度ではなかった。それでも俺は謝らなかった。
 兄貴も絶対に謝らなかった。けれど、どんなに遅くなっても毎日見舞いに来てくれた。それが俺達の仲直りだった。
 男手一つで育ててくれた兄貴は警察官だった。県内で通り魔が多発していると聞いて、警戒区域から外れているのにわざわざ俺が毎日使う道だからとこっそりと巡回経路を変更していた。
 弟思いで、ぶっきらぼうだけど温かくて、自分のことを後回しに俺のことばかりを優先していた兄貴。笑顔なんて殆ど見せたことも無かったけど、冷たい物言いの陰には俺への労わりが常に覗いていた。
 そんな兄貴が、最後はいかれた殺人鬼に殺されてお終いだなんて、あんまりじゃないか。
 少しくらい報われたって、いいじゃないか。
 遺影の中ですら笑わなかった兄貴を見て、神様なんて絶対にいないと思った。









お前が望んだものではなくても、お前が選んだものなんだよ。








2014.8.16