1.




「要するにさ」


 楓の口癖だった。
 苛立ちを呑み込んだ彼女の口調は、幼児の悪戯を許容するようでいて、「次は無いぞ」と脅し付けるようでもある。
 僕は昼食の焼きそばパンを忙しなく咀嚼しながら、彼女の弁論を聞き入れる姿勢を整えた。箸を置いた楓は食事を中断し、僕の目を真っ直ぐに覗き込む。


「神様っていうのは、概念なんだよ。苦しい時や辛い時に祈りたい、縋りたい存在が神様。想像上の存在。人類の創り上げた愚かな妄想の代表格。塗り固めた嘘と積み重ねた言い訳の名前が、神様なんだ。その存在の是非を問うことは難しい。想像する人の頭の中には存在するし、否定する人の中にはいない。宗教戦争っていうのは、実に難しい哲学的な問題だよねぇ」


 ねぇ、と僕に答えを求められても困るけれど。
 楓は手持無沙汰な時、唐突な話題を振ることが多い。彼女曰く、沈黙程に耐え難い苦痛の時間は存在しないとのことだから、ふとした時に訪れる静寂を打ち消す為の苦肉の策なのだろうと思う。
 前置き、導入部分の無い彼女の話は大半の人間には理解不能だ。穏やかな昼食時間にわざわざ持ち出す必要の無い話題を口にする彼女に付き合えるのは、僕ぐらいの者だろう。周囲は合コンが如何だとか、彼女彼氏が如何だとか、テレビ番組が如何だとか実に平和的な会話で時間を浪費している。


「哲学と言えば」


 話題転換。彼女の脳の切り替わりは非常に早い。
 僕はもう一口焼きそばパンを頬張り、「先をどうぞ」と視線で促す。


「平成のニーチェって知ってる?」


 咀嚼した焼きそばパンの残骸を飲み下し、僕は首を振る。
 楓は肩に掛かる赤茶の髪を払い、指を突き付けた。


「哲学部の学生なんだよ」


 哲学部。
 僕の通う首都圏某所の大学は緑溢れた田園風景に溶け込んでいる。充実した施設と無数の学科を抱える大学はそれなりの偏差値を必要とするけれど、入学さえすれば後は殆ど他の大学と同じ平凡なものだ。学生の大半は合コンやらバイトやらに時間を消費し、青春を謳歌している。それは僕の在籍する法学部も同様だった。
 唯一の例外が、楓の言う哲学部の学生だ。彼等は皆が青春を謳う中、密室に閉じ籠って黙々と読書したり、人生とは何かを思考したり、人間の愚かさを憐れんだりしている。大学生の最終目標である就職には最も不利であり、彼等の最多進路は自殺だという。そんな危険な学部が如何して何十年と言う歴史を誇り、現在も存在しているのか僕には解らない。伝統を守った結果が、日本人の死因十位以内に入る自殺なのだから、呆れたら良いのか、笑えば良いのか、嘆けば良いのか。
 楓はふっと窓の外に視線を向け、すぐに戻した。僕もつられて目を向けるけれど、長閑な春の田園風景に異常は何一つ無く、今日も平和そのものだ。


「楓と話が合うかも知れないね」


 何の脈絡も無い弁論を趣味とする楓ならば、件の平成のニーチェとも会話が弾むかも知れない。


「そうだね。一度、話してみたいね」
「どんな人なんだろう。哲学部っていうと、キテレツ大百科のベンゾウさんみたいなビン底眼鏡の貧乏学生を想像するけれど」
「冷えた安い豚肉みたいな、聞き取り難い話し方をするんじゃないかな」


 楓の的を射た表現に、僕は思わず笑った。
 話し合いの結果、がり勉で、根暗で、お堅い昭和の学生のイメージに僕等は行き着いた。
 時代錯誤のチャイムが鳴り響く。直に始まるドイツ語講義に備えるべく、僕等は机上を片付け始める。垢抜けた学生達の賑やかな団欒は波が引くように静まり、扉を滑らせるようにして教授が登場した。春らしい淡い水色のシャツを纏った三十代半ばと思わしき男性が、つまらなそうな無表情で教壇の上で資料の整理をする。
 最大百人を収容する講義室は空席が疎らに存在し、僕らの座る後方は殆ど無人だった。惰眠を貪る金髪の学生は、教授の登場も気付かずに突っ伏したままだった。教授はチャイムの鳴り終わりと共に軽い挨拶を口にし、そそくさと資料を配布する。
 前方から回って来た資料を、僕は空席の為に立ち上がって受け取りに行く。これから決闘へ向かうのか気合いの入ったキャバ嬢のような少女から資料を受け、僕は軽く目を通しながら席へ戻った。目がちかちかするような細かな字でびっしりと埋められたプリントを楓に手渡す。


「ねえ」


 周囲の雑音を置き去りにするような声が、僕の鼓膜を震わせた。マイクでも使ったのかと顔を上げれば、教授は余った資料を受け取り纏めているところだった。
 聞き違いか。僕は再度資料へ目を通す。


「もう一枚、無いかな」


 何処か遠慮がちな声が、今度こそ間違い無く聞こえた。
 後ろだ。僕がゴルゴ13ならば今頃銃を突き付けていた筈だ。振り返った先、白いカーテンが風を孕んで大きく揺れていた。


「あ」


 楓が声を上げた。
 僕等の座る席より二列程後ろで、一人の青年が不満げに口を尖らせている。
 気付かなかった。何せ、まるで存在感が無いのだ。酸素の方が彼よりも存在感があるような気さえした。楓は突然現れた彼を訝しげに見詰めている。けれど、恐らく、彼は突然現れたのではなく、初めから其処に存在したのだろう。
 黒い短髪を適度にワックスで立たせた、如何にも今時の学生だ。落ち着いた深緑のカーディガンを羽織り、中には清潔感のある白いシャツを着ている。くっきりとした二重、通った鼻筋、長い睫、形の良い眉。ああ、イケメンだな。僕は訳も無く納得した。
 僕は手元の資料が二枚重なっていたことに気付き、彼へ手渡す。


「どうも」


 社交辞令ですが、とでも続きそうな感謝の言葉を投げ、彼は資料を受け取った。長い睫が春の日差しを受け、滑らかな頬に影を落としていた。
 恐らく、この講義室にいる殆ど全ての人間が彼を認識していないんじゃないかと、彼が実は幽霊であっても僕は驚かないだろう。そのくらい、存在感が希薄だ。その癖、一度認識すると目を離せないような奇妙な感覚に囚われた。
 透明人間だ。僕は思った。
 口を半開きのまま呆けている僕の脇腹を、楓が肘で小突く。
 教授が、マイクを片手に講義を開始する。僕は慌てて前へ向き直り、楓を横目に睨む。


「何だよ」
「透明人間みたい」


 奇遇にも同じ感覚を味わったことに、僕は小さな感動を覚える。
 さり気無く視線を後ろへ投げた時、僕の肘にぶつかってペンケースが机から転がり落ちた。なだらかな斜面を逆走し、彼の足元へ導かれるように行き着く。
 彼はまるでそうすることが解り切っていたかのようにペンケースを拾い上げ、僕へと差し出した。


「あ、すみません」


 習慣のように吐き出された謝罪に、彼は嫌味の無い綺麗な笑顔を返した。
 彼が彼女ならば、きっと僕は赤面したと思う。透明人間は、透き通るような目で教壇を真っ直ぐに見詰めている。透明人間は、僕等の視線に気付くと小首を傾げて、言った。


「何を見ているんだ。今は教授の有難い講義へ耳を傾けるべきじゃないかな」


 忠告する風でも無く、叱り付ける訳でも無く、諭すような穏やかさで透明人間が言う。
 僕等は、一瞬、彼が何を言っているのか解らなかった。唄うような穏やかな口調で、透明人間は続けた。


「実業家のウォーリー・エイモスはこう言った。最大の誤りは、人の話を聞かないことだと、ね」


 口角を釣り上げ、悪戯っぽく笑く。口元から覗く白い歯が、透明人間の印象を何処か幼く見せた。
 僕等は促されるように揃って前を向く。他人に注意されたような居心地の悪さは感じなかった。まるで、道端で親切を受けたような有難さすら感じた。
 睡魔との激しい格闘の末、僕等は如何にかドイツ語講義の時間を乗り切った。
 試合終了を告げるゴングのようなチャイムと同時に、僕は振り返る。其処には既に透明人間はいなかった。




2.




 テレビ局が占拠されたのかと思った。
 何せ、幾らチャンネルを回しても、同じ内容を繰り返し報道し続けているのだ。夥しい数のパトカーが赤いランプを点灯させ、首都圏界隈を埋め尽くしている。早口で捲し立てるアナウンサーの表情は真剣そのもので、この世の終わりがとうとうやって来たのか、なんて長閑な田園風景を横目に僕は思った。
 楓は全国チェーンの某珈琲ショッププロデュースのカフェオレに舌鼓を打っている。大学ロビーの突き抜けるような高い天井からは、青春を謳歌する学生達の生き急ぐような賑やかな声が反響し、蝉時雨のように降り注ぐ。
 青いベンチに腰掛け、僕等は意味も無く時間を潰していた。楓が言うところ、これは人間観察という非常に有意義な時間らしい。この間の沈黙は思考に没頭すべき時間であり、口を挟むべきではないそうだ。
 バイトへ行くらしい早足の学生。携帯電話と喧嘩する少女。クラブ活動へ向かうジャージの青年。僕は行き交うそれ等ぼんやりと眺めながら、蟻の行列を想像した。蟻は仲間へ餌の場所を知らせる為に、特殊なフェロモンを道標のように分泌するらしい。人間が蟻ならば、ロビーは既にフェロモンで埋め尽くされ迷子が続出しているだろう。
 新入生歓迎会と称した飲み会が、春は毎日のように開催されている。二回生である僕は、新入生の何処か浮足立った様を懐かしく思った。一年という月日は長いようであっという間だ。何が変わったかは明確に説明出来ないけれど、彼等に比べて僕は確実に老いたと思う。
 法学部はがり勉の巣窟のように一般的に思われるけれど、実際は違う。他の学部と同じように真面目な学生もいれば、その逆も然りで人それぞれだった。学部による差別は無い。


「藤原くん、木村さん」


 ベンチに座る僕等の前に、数人の男女が並ぶ。今時の流行らしい服装は判を捺したようで、まるで何かの集団の制服にも見えた。
 先頭の少女が口元に笑みを浮かべている。


「今日、新歓で飲みがあるんだけど、如何?」


 今更説明する必要も無いだろうが、彼女の言葉を翻訳すると「今夜、新入生歓迎会として飲み会を企画しているが、君達は参加するか」ということだ。先頭の少女、飯田さんは飲み会を企画することが趣味なのか、大抵幹事役を務めている。
 楓は乗り気で無かったが、退屈を持て余していた僕は二つ返事でそれを了承する。飯田さんは満足げに時間と場所、参加費を告げて立ち去って行った。
 僕等は基本的に飲み会へ参加することは少ない。気の置けない大勢の人間と酒を酌み交わす理由が解らないし、学生の本分は勉強であるし、何よりお金が無かった。僕は駅前の本屋で週四日アルバイトしているが、汗水流して漸く手に入れた賃金を無意味に浪費することは好ましくないと思う。人脈を広げることや、一時的な快楽に身を委ねることにも興味が無い。その点は楓も同様だ。


「人間関係は大切にするべきだよ」


 不満げに口を尖らす楓に、僕は言い訳染みた言葉を告げた。
 午後八時半。駅前にある全国チェーン店の居酒屋は大学生の群れに占拠されていた。通常は個室として利用されている障子を全て取っ払い、二十歳になったばかりの若者が覚えたての酒を馬鹿げた掛け声と共に一気飲みする。乱痴気騒ぎをする彼等が将来この国を背負っていくのかと思うと頭の痛くなる問題ではあるが、若気の至りという言葉もある。
 座敷の一角に胡坐を掻き、ビールジョッキを引き寄せる。凍り付いたジョッキグラスには並々と生ビールが注がれ、白い泡が表面張力として膨らんでいた。
 総勢五十人程だろうか。新人歓迎会という名目でありながら、宴の中心は飯田さん達だった。
 楓は同じ法学部のテニスサークルの仲間へ連れられ、何処かで大して好きでも無いアルコールを飲み下していることだろう。僕がジョッキグラスに口を着け、ちびちびとビールを啜っていると、隣に男子学生がどかりと胡坐を掻いた。


「よくやるよなぁ、毎度毎度」


 茶髪をワックスで立てた、派手な柄のシャツを着た男だった。
 浅黒い肌に三白眼が印象的だった。


「藤原が参加するなんて珍しいな」
「偶にはね」
「なあ、知ってるか。飯田さん、この店の店長と出来てるらしいぜ」


 三白眼の男子学生、植嶋は声を潜めるように言った。生暖かい酒気が頬を撫で、僕は思わず距離を取る。植嶋は気にする様子も無い。


「定期的に飲み会を企画して、店に金を落とさせてるんだよ。嫌だねぇ、世の中汚れ切ってる」


 植嶋はジントニックを一口飲み下した。掘り炬燵のようなテーブルにグラスを置くと、添えられたライムが僅かに傾いた。植嶋が世の中を幾ら憂いたとしても何も変わらないだろうと思うけれど、僕は黙ってビールを飲み下した。


「なあ、お前って木村ちゃんと付き合ってんの?」
「楓? さあ、如何なんだろう」


 曖昧な僕の答えに不服らしい植嶋が詰め寄り、折角開いた距離が縮まった。


「はっきりしろよ。ぼやぼやしてっと、横から掻っ攫われしまうぞ。ほら、あれだ。烏が生ゴミ漁るみたいな」
「鳶に油揚げを攫われる、だろ」


 余りに酷い言い間違いだ。僕は眉間に寄った皺を指先で撫でる。
 植嶋はもう一口ジントニックを飲み下す。一気に半分程が減った。


「そんな細かいことは良いんだよ。それよりさ、今度合コンがあるんだけど、お前も来ないか?」
「何処の誰と」
「家政科の女子短大生。先週、駅前で声掛けられてさぁ」


 植嶋は大学では有名な女好きで、週に二回は合コンを企画、若しくは参加している。その資金は彼の懸命なアルバイトによって賄われているらしいが、楓の入手した情報に寄れば実家が所謂ブルジョワなのだそうだ。年中酒気を漂わせるような植嶋だが、何処か男臭い容姿は女受けするらしく彼女が途切れたことはない。


「三対三の予定だからさ、こっちはもう一人誘わないといけないんだよ。お前、誰か知らないか?」
「その三人に、僕は含まれている訳?」
「どうせ予定も無いだろ。来週の金曜だ」


 脳内でアルバイトの予定を確認する。確かに予定は、無かった。
 僕の返事を聞くより早く、植嶋は沈黙を了承と取ったらしく上機嫌で笑っていた。僕等の遣り取りを正面の少女が微笑ましげに見ている。
 美しい花畑が似合いそうな可愛らしい少女だった。アルコールの為か頬がほんのりと紅い。植嶋はジントニック片手に声を掛ける。


「あ、鬼塚じゃん。イエーイ、飲んでる?」


 訳の解らない植嶋の絡み酒にも、気を悪くした風も無く鬼塚が微笑む。背景に可憐な花が咲き乱れたようだった。
 植嶋は彼女を紹介し始める。


「こいつ、鬼塚シズク。シズクって、あのジブリのヒロインと同じ名前なんだぜ」
「聞けば解る」
「そんで、このつまらなそうな男は藤原水樹。本屋なんかでバイトしてるから、クソ真面目で頭が固いんだよ」


 侮辱のような紹介へ僕は控訴申立てするべきかも知れない。けれど、鬼塚が控えめに声を上げて笑うので如何でも良くなった。


「藤原君って、木村さんと付き合ってるの?」
「友達以上、恋人未満ってところだよな」


 勝手に受け答えする植嶋は、既に十分脳までアルコールが回っているようで呂律が上手く回っていなかった。酔っ払いの相手は非常に疲れるので、僕は否定も肯定もせず黙ってビールを飲み下した。




3.




 大学傍の商店街にあるちょっと寂れた定食屋は、学生御用達としてそこそこ繁盛しているらしい。
 油っぽい店内にはメニューが記された色褪せた紙が彼方此方にぶら下げられている。僕は週に一度はこの定食屋で生姜焼き定食を注文する。大学入学に伴って地方から上京した僕は、現在安いアパートで一人暮らしをする苦学生の一人だ。この定食屋の生姜焼きは、故郷にいる母の味を想起させる何処か懐かしい感じがして好きだった。
 四足の丸椅子は座り心地が悪く、それぞれの足のバランスが悪いのかがたがたと揺れる。店の隅に設置される年代物のブラウン管のテレビは、飽きもせず同じようなニュースを繰り返し報道しているが、学生達の座る椅子の騒音によって遮られ続けている。
 僕の正面には楓がいる。回鍋肉定食を頬張りながら、その目は小さなブラウン管を睨んでいた。


「マスコミは報道の自由を主張するけど」


 味噌汁を啜り、楓が言った。


「報道しない自由だってあるよね」
「それは、視聴者の自由だろ。嫌なら見なければ良い」
「でも、連日これだけ報道していれば、見ない訳にはいかないじゃない」


 酷い剣幕で捲し立てるアナウンサーは、まるでこの世の終わりが来たような悲壮感に満ちている。


「世の中、メディア機器が増え過ぎたよね」
「時代だろ」


 僕は付け合せのポテトサラダを口へ運ぶ。
 楓の主張は理解出来なくも無いが、マスコミがそれだけ騒ぎ立てる理由があるのだ。民衆の危機とばかりの声を大にして叫ぶニュースを聞き流しながら、僕は意味も無く頷いた。


「情報社会だなんて言うけど、人間が情報を動かしているのか、情報が人間を動かしているのか解らないね」
「視点の問題だろ」


 議論したがる楓は生まれて来る時代を間違えたのだろう。かの三島由紀夫の生きる時代だったならば、学生運動に参加して熱烈な舌戦を世間と繰り広げていたのかも知れない。
 蕪の漬物に箸を伸ばし、楓が言った。


「そういえば、植嶋君に、君と付き合っているのか訊かれたんだけど」


 一瞬、咀嚼を忘れそうになったけれど、僕は平静を装いながらポテトサラダを飲み下した。
 植嶋の奴。胸の内で悪態吐きながら、僕は問い掛ける。


「何て答えたの?」
「視点の問題だ」


 なるほど、と自分の言葉を引用されたことも忘れ僕は頷いた。
 楓は箸を僕に突き付けて言った。


「君は曖昧なことを言ったらしいね。男らしくない返答だったと、植嶋君が嘆いていたよ」
「あいつは一体、僕の何なんだ」
「私達の関係は友達以上、恋人未満。素晴らしい表現だよね。考えた人はきっと天才だよ」


 芝居掛かった大袈裟な仕草で、楓が切々と訴える。


「不満は無いよ。この微温湯みたいな関係、私は嫌いじゃないもの」


 嫌味無く微笑む楓の真意は読めない。僕等の間には友達以上、恋人未満という境界線が引かれているのだ。あと一歩を踏み出す勇気は、未だ無い。
 僕は話を逸らすように、ブラウン管を見遣る。通常の報道番組では特番が組まれたらしい。


「物騒な世の中になったねぇ」


 画面の右上には、常に同じフレーズが浮かんでいる。
 平成の切り裂きジャック、脱獄。なんて不穏なニュースなんだろう。僕は微温湯のような世の中に降って沸いた物騒な話題を嘆いた。平成のニーチェに、平成の切り裂きジャック。揃いも揃って輪廻転生しまくりじゃないか。僕は箸を置いた。




2014.3.8