4.




 世間って狭い。

 落ち着いた雰囲気の隠れ家的なバーで、僕は植嶋の企画した合コンに参加していた。冴えない大学生である僕等の前に現れたのは、獲物を仕留める鋭い牙を隠す女豹の三人組だった。先に到着していた僕等の待つ個室へ彼女等が現れた瞬間の緊張感は、背中を冷たい汗が伝うようだった。
 まあまあかな。彼女達の心の声が聞こえて来そうな気がした。
 品定めするような視線を巡らせ、笑顔を張り付けて座る彼女等は、春先だというのに薄着だった。
 植嶋の慣れた口上によって僕等はそれぞれ乾杯する。壁際に座る植嶋の巧みな話術で空気は少しずつ熱を帯び、初対面に弱い僕の緊張も、酒の助けもあって和らいでいた。三人組で現れた彼女達に対する僕等の席は、一つだけ空いている。電車の遅延によって到着が遅れているらしい。
 それぞれの自己紹介やら、世間話やら、僕等が二杯目のアルコールを注文する頃になって、最後の参加者は現れた。――と、思われた。
 品のある暖簾が動いたように見えたのは、気のせいだったのか。風が吹いたのか。暖簾の動きを目の端に捉えながら、僕は会話に置いて行かれないように意識を戻す。


「遅れてごめんね」


 皆が肩を跳ねさせた。驚愕に、酔いは一気に冷めた。
 陽炎のように空気が揺れている。違う。人が、立っている。
 植嶋が軽く手を上げた。


「おいおい、遅ぇよ」


 笑いながら言う植嶋に、困ったように青年が眉を下げる。促される間も無く僕の隣に座った彼を、つい最近見たことがあった。
 透明人間だ。目の前にいるのに、存在感が恐ろしく希薄で、まるで幽霊のようだった。けれど、その容姿は現実離れして麗しい。女豹三人組は始めこそ驚愕に固まっていたものの、すぐに平静を取り戻して身形を整え始めた。黒いリュックサックを脇に置き、蛍光色のウインドブレーカーを脱いで透明人間が笑う。淡いブルーのシャツは清潔感がある。
 僕の正面に座る白いワンピースの少女が、透明人間に見惚れている。頬が紅いのは、アルコールの影響だけではないだろう。
 植嶋が腰を上げ、彼の紹介を始めた。


「こいつ、俺達と同じ大学二回生の神木葵。イケメンだろ?」


 女の子の中では、合コンには自分より容姿の劣った友人を誘うらしい。けれど、僕等男子の中にそんな牽制は皆無だった(植嶋にはあったかも知れないが)。神木は王子様のような完璧な微笑みを張り付けて軽く頭を下げた。
 神木が座ったところを見計らって、店員が追加注文と御通しを運びに来る。御絞りを受け取りながら、神木はメニューを見ることも無くソルティドッグを頼んだ。
 間も無く、気泡の浮かぶ透明なアルコール飲料が運ばれる。植嶋が仕切り直すように乾杯の音頭を取った。
 グラスがぶつかり合って、それぞれアルコールを飲み下す。少女達の視線は神木へ一直線だった。
 僕は居心地の悪さに、植嶋へ問い掛ける。


「如何いう知り合いなんだよ」
「前に合コンした時に、店で偶然会ったんだよ。その時はこいつが店員だったんだけど」


 少女達の穴を空けるような視線の集中砲火を受けながら、神木は美しく微笑む。机上のソルティドッグと相まって、その透明感が増しているような気がした。


「神木君ってモテそうだね」
「そんなことないよ」
「ウソー!」


 遅れて登場した神木が三人の少女を独り占めしているようだ。
 女好きで有名な植嶋にしては、失策だったんじゃないかと僕は見遣る。植嶋は飽きもせずジントニックを飲み下しながら笑った。盛り上がる四人を余所に、僕は声を潜めて問い掛ける。


「お前らしくない展開じゃないか」
「大丈夫、大丈夫」


 既に酔いが回っているのかと案じるくらい、植嶋は締まりが無く笑っている。
 植嶋程に女好きではないけれど、僕にだって自己顕示欲、異性に好かれたいという欲求は少なからず存在する。置いてけ堀の状況を受け入れる植嶋の真意が汲み取れず、僕は困惑した。
 白いワンピースの彼女が、神木に問い掛ける。


「彼女作らないの? モテそうなのに、如何して?」


 意味深に神木は黙り、不敵に笑う。突き付けた人差し指はデジャヴだった。
 弾劾されるかの如き迫力に少女が続ける言葉を失う。神木が言った。


「ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェはこう言った。愛せなければ、通過せよ」


 勿体ぶるように、神木はソルティドッグを飲み下す。


「愛せるような人に会えなかったんだよ、今この瞬間も、ね」


 鳥肌が立ったのは、台詞の寒さのせいではない。彼の言葉はまるで呪文のように皆の鼓膜に、嫌味無く刻み込まれる。まるで、優れた教師に素晴らしい教訓を教えて頂いたかのような歓びを覚える。
 沈黙。植嶋が言った。


「な? こいつ頭おかしいんだよ」


 可笑しくて堪らないと腹を抱える植嶋がいなければ、僕等はきっと拍手喝采を浴びせていただろう。
 僕は楓の言葉を思い出す。哲学部の、平成のニーチェ。
 こいつだ。確証も無く、僕は確信した。




5.




 結論から言うと、合コンは大失敗だった。
 何故なら、合コンが盛り上がりそれぞれメールアドレスを交換しようかというその瞬間に、神木が机の上に盛大に嘔吐したのだ。
 吐瀉物に塗れた個室から僕等は緊急避難し、アドレス交換どころではなくなってしまった。妙な気まずさのまま僕等は解散を余儀なくされ、植嶋は道端で座り込む神木を見下ろして溜息を吐いた。
 日に焼けていない神木の顔は目に見えて真っ青だった。僕は神木の傍にしゃがみ、今にも嘔吐しそうなその背中を摩り続ける。
 如何にか落ち着いたらしい神木が、真っ青な死人のような顔で立ち上がる。土気色でもイケメンは崩れないなんて恐ろしい。


「神木、大丈夫?」
「うん。吐いたらちょっと落ち着いた」


 たった二杯カクテルを飲んだだけでこの為体では、バーでアルバイトをしていたなんて眉唾ものだ。
 植嶋は逃した獲物を悔やむように、雑踏へ紛れた三人の少女の面影を未だに探している。其処此処で上機嫌な若者が闊歩しているが、其処に植嶋の求める出会いは存在しないだろう。
 帰宅するには惜しい時間帯だが、ゾンビのような神木を連れて歩ける程に余裕も無い。折角の華の金曜だというのに、とんだ災難だと僕は米神を押さえた。


「神木は家何処?」
「駅前のアパート」


 仕方ない、駅まで送ろう。
 僕が溜息を零すと、神木は訝しげに言った。


「そんな顔をするなよ。聖書の中にこんな一節がある。人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれん、と」
「それはお前が言うことではなくて、僕等の台詞だろ」


 血色の悪い顔で、神木が「それもそうか」とあっけらかんと笑った。
 飄々としていて掴み所が無く、何処か憎めない男だと思った。これが平成のニーチェ。毎年自殺者を多数輩出する哲学部のエース。
 駅前は混雑している。これから酒を酌み交わそうとするスーツ姿の企業戦士が、仲間を引き連れて雑居ビルの居酒屋へ突入していく。対する僕等は撤退を余儀なくされた敗北者なのだろう。
 逃した獲物を諦め、植嶋が元の陽気さを取り戻して言った。


「仕方無ぇ。神木の家で飲み直そうぜ」
「無理だろ」
「俺は別に構わないけど」


 頭痛がするのか額を押さえながら、呻くように神木が言う。アルコールを口にしたらまた周囲は吐瀉物に塗れるだろうし、とてもじゃないが飲ませられない。
 僕等は神木に案内されながら駅前のボロアパートに辿り付いた。二階建ての木造アパートは今にも崩れ落ちそうで、幽霊の出る曰く付きの物件と紹介されても何ら疑問に思わなかっただろう。神木の存在感の希薄さが既に幽霊そのものだったが。
 赤く錆び付いた階段を上り、薄い玄関の扉を開ける。闇に包まれた室内からは冷気が零れ、僕等の頬を撫でて行った。先頭に立って僕等を招く神木の白い面は、闇の中で仄かに発光しているように見える。不気味さに足を踏み出せない僕を余所に、植嶋は何の躊躇も無く靴を脱ぎ捨て進入する。
 僕が渋々靴を脱ぎ揃えたところで、漸く神木は電灯のスイッチを押した。瞬時に照らされた室内は引っ越したばかりなのか、殆どの荷物が段ボールに積み込まれ、家具は冷蔵庫くらいしか存在しない。食器の一つも無い廊下と一体化した台所を抜け、畳の敷かれた居住区へ到達する。
 神木は僕等を持て成すこともなく、煎餅布団に倒れ込んだ。
 このまま眠るつもりだろうか。穏やかに上下する薄っぺらな背中を見遣るが、起きる気配は無い。
 植嶋は自宅のように、冷蔵庫を勝手に開けて缶ビールを取り出す。貧乏学生らしい第三のビールだった。


「勝手な奴だなぁ、神木は」


 メディア機器の一つも無い部屋を見回し、植嶋が言った。
 言葉に反して上機嫌で植嶋はビールを飲み下す。神木は眠ってしまったらしい。


「めちゃくちゃ面白いだろ、こいつ」
「というか、頭がおかしい」
「でも、妙な説得力がある」


 僕は黙った。植嶋は嬉しそうだ。


「多分、教師とか宣教師に向いてるんじゃないか?」
「詐欺師じゃなくて?」


 植嶋が笑った。




6.




「惚れ薬ってあるだろ」


 混雑を極める満員電車で、神木が言った。
 楓のように、何の前置きも導入も無い唐突な議題だった。
 僕と楓は授業のレポートを纏めるべく国立図書館へ、地下鉄を乗り継いで向かう途中だった。偶然乗り合わせた透明人間こと、神木が僕等の正面に立ち塞がるようにして声を掛けて来たのだ。僕は一瞬、新手の宗教勧誘かと思った。
 議論好きの楓は神木を物珍しそうに見ているが、既に聞き入る体勢を取っている。


「好意を持つ相手を、自分へ惚れされる薬だ。もしも現実にそんなものが存在するのなら、一体どんな薬なんだろう」
「催淫剤や自白剤の一種なんじゃないかな」
「なるほど。薬物によって相手の精神作用に影響を齎すと言う点においては、最も近しい答えかも知れない」


 興味深げに、顎に指を当て思考する神木は正に平成のニーチェと呼ばれるに相応しい。


「惚れ薬というものが実在すると仮定しよう。ならば、その効果はどの程度なんだろう。どれくらいの用量で、持続時間はどの程度なのか」
「漫画なんかでは、数滴で事足りるみたいだけど。しかも大抵は持続時間は短くて、切れる頃には二人の関係は薬に関係無く進行しているんだよね。実は惚れ薬ではなくて、ただの水だったってパターンもある。二人に薬なんて必要無かったんだーってね」


 楓が皮肉っぽく嗤った。
 神木が大きな目で楓をじっと見詰めた。透き通るような綺麗な瞳に、楓が一瞬たじろぎ、ばつが悪そうに目を逸らす。神木の口元が微かに弧を描いた。


「ただの水だったとしても、ビタミン剤だったとしても、二人の距離を縮めた切欠ならば、それは惚れ薬なんじゃないかな? 結果、二人は結ばれたんだから!」


 突然、祝福の声を上げた神木に僕等は揃って肩を跳ねさせた。前述の通り、此処は満員の電車内だ。普通の神経ならば関わり合いになりたくない筈なのに、何故だか邪険に出来ない不思議な魅力が神木にはある。


「つまり、惚れ薬というのは概念なのさ。使用者にとっては水だって惚れ薬だ」
「それはちょっと、曖昧過ぎるんじゃないの」


 僕が声を潜めて苦言を呈するが、神木は気にする風でも無く誇らしげに微笑んだ。後光が差すかのような美しい微笑みだ。


「定義出来ない曖昧なもの程、美しいものは無いんだよ。イングランドの劇作家、ウィリアム・シェイクスピアはこう言った。どのくらいと言えるような愛は卑しい愛に過ぎぬ、とね」


 目の前にいたのが植嶋だったなら、僕は平手でその頬を叩いていただろう。
 まるで神木が神の使いであるかのように、周囲の乗客が目を見開き羨望と畏敬の視線を送っている。楓は目を真ん丸にして「平成のニーチェだ」と呟いた。
 微笑みを浮かべた神木は背後に鋭い視線を投げ掛けた。彼の有難い教義が届いていないだろう茹だるような車内の一角、神木が吸い寄せられるように歩き始めた。強引に突き進む神木へ迷惑そうな視線が送られるが、気にする様子は無い。
 険しい顔で、神木の腕が迷いなく伸ばされた。掴み上げられたのは冴えない小太りの中年の腕だった。車内が一瞬にしてざわめき、沈黙する。状況を呑み込めず僕は暫し呆然とした。窓際で縋るように壁へ手を這わせる女子中学生が振り返る。恐怖に染まった蒼白い顔は強張っていた。


「もう大丈夫だよ」


 にこりと、神木が微笑む。少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
 電車は静かに駅のホームへ滑り込む。動かない乗客に、ホームで待機していた客は満員の車内に嫌そうな顔をする。けれど、強引に男の腕を引いて歩き出した神木の酷い剣幕に、人々は割れるように道を空けた。まるで十戒で有名なモーセが起こしたと言われる海割れの奇跡のようだった。
 モーセ――ではなく神木が、中年の腕を引きながら思い出したように立ち止まった。


「君達にとっての惚れ薬は、一体何だろうね」


 扉が、閉じた。




2014.3.16