7.
アナウンサーが、狂ったように喚いている。 僕は行き付けの定食屋で、何時ものように生姜焼き定食を頬張っている。正面に座る楓は、部屋の隅に収まった小さなテレビをじっと見詰めていた。 連日報道されているのは、数年前に世間を騒がせた通り魔事件の犯人が、刑務所から脱獄したまま行方不明ということだった。物騒な世の中になったものだと、僕等は傍観者の立場で首都圏を走り回るパトカーにそっと敬礼する。 僕の隣には、植嶋が座っている。回鍋肉定食を小動物のようにちまちまと抓みながら、これ見よがしに溜息を零していた。 植嶋自慢の綺麗な顔には、無残な青痣が浮かんでいる。訳を聞いてくれと言わんばかりにぶすっと食事を続ける植嶋を、僕等は華麗にスルーして来た。面倒事には首を突っ込まないと決めている。 「物騒な事件だよな」 植嶋がぽつりと言った。楓は既に聞き流す対応に決めていたらしく、見向きもしない。 仕方なく、僕は必要以上の干渉をしないよう無言で頷いた。植嶋は僕の反応に目聡く気付くと、途端に表情をぱっと明るくして口を開いた。 「物騒と言えばさぁ」 正面で、横顔を向けていた楓が声にはせず確かに『馬鹿』と言った。 僕は地雷を踏んだのだろうか。我関せずとテレビだけを見詰めている楓を恨みがましく睨むけれど、植嶋は僕へ嬉々として話し掛ける。 「昨日、合コンがあったんだよ。可愛い女の子がいてさあ、俺に気があるみたいな態度だったんだ。俺もこれは行けると思って、あわよくばお持ち帰り出来ないかと二人きりで駅まで歩いてたんだよね」 流石に僕も諦め、大して興味も無い植嶋の話に耳を傾けることにする。 「その子がさあ、俺の手を引いて、人通りの少ない裏道に連れて行く訳よ。丁度、ホテル街。行けると思うだろ?」 否定も肯定も自分の首を絞めることになると悟って、僕は曖昧に頷いておく。植嶋は箸を置き、此処からが盛り上がるところだと言うように声を荒げる。 「そしたら、見たことも無いような大男が二人、現れたんだよ。一昔前のチンピラみたいなセンスの無い服着て、夜なのにやくざみたいなサングラスしてさぁ!」 チンピラとやくざの違いが、僕にはよく解らない。 植嶋の声はテレビの音声を掻き消す程に大きくなり、公共の迷惑と化している。 「俺の女の手を出すとは良い度胸じゃねぇかって、いきなり顔面パンチ! 見ろよこの、青痣!」 植嶋は自分の右頬を指差し、捲し立てた。 そもそも、これから殴りますよと宣言する筈も無いだろう。僕は定食屋自家製の蕪の漬物を抓む。 其処で漸く、楓はテレビから視線を僕等へと向けた。 「要するに、植嶋君は美人局に引っ掛かって、殴られたんだね」 まるで僕等が愚か者だと罵るような目で楓が言う。植嶋が弾かれるように言い返した。 「金も盗られたんだ!」 楓の目には憐憫が浮かぶが、植嶋は気付かず憤慨している。 やれやれと言わんばかりに、楓は目を細める。 「その話、誰かにした?」 「ああ、神木にもしたよ」 「何て言ってた?」 嬉しそうに、楓の口元が弧を描く。植嶋は神木を真似るように、人差し指を突き付け、気取るように言った。 「怒るだけならサルでもできる。何でも楽しく行きましょう。格闘家、桜庭和志の言葉」 それを聞いて、僕等は同時に噴き出した。 馬鹿にしているようでいて、力強く励ましているようでもある。僕等の反応に口を尖らせた植嶋が、不満そうに「格闘技でも、習おうかなぁ」と呟いた。 |
8.
僕等の通う大学には芝生の敷き詰められた中庭がある。業者を呼んで定期的な手入れを行っているこの中庭は、学校側としても維持費が掛かっている為か学生達に厳しい規則を順守させている。 飲食禁止。運動禁止。ポイ捨て、喫煙禁止。 中庭へ通じるホールの出入口にはポスター、芝生には立札。そんなに大切ならば一般開放何てしなければいいのに、と僕は思う。 僕は午後の講義を受けるべく、校舎を移動する為に中庭を通過するところだった。傍に設置された白いベンチで、可憐な少女が膝にハードカバーの本を広げている。絵になる美しい光景に、僕は足を止める。見惚れたのではない。その少女を、僕は知っていた。 「鬼塚さん?」 名を呼ぶと、ぱっと上げられた表情が可愛らしい。 日に焼けない白い面が、僕に気付くと柔らかく緩められた。飲み会で一度会っただけだったが、彼女も僕のことを覚えていてくれたようだった。 「久しぶりだね。何を読んでるの?」 時刻を確認しつつ、僕が尋ねると彼女が本を持ち上げて表紙を見せてくれた。 秋に公開予定の恋愛映画の原作だった。女の子らしい。僕の頬も緩む。鬼塚さんは本を閉じると、僕を真っ直ぐに見上げて問い掛けた。 「藤原君は、この後、授業?」 そっと小首を傾げる仕草に、「ううん、暇なんだ」とその言葉を如何にか呑み込んで、僕は頷く。 見上げる双眸が如何しようもなく庇護欲を掻き立てるのだ。 「鬼塚さんは?」 「休講があって、暇潰し」 悪戯っぽく笑う仕草にさえ、心を奪われそうになる。長話は危険だなと判断し、僕は距離を取る。 「そういえば、藤原君、この前、痴漢捕まえたんだって?」 「いや、あれは」 咄嗟に否定の言葉を口にしながら、僕は黙る。 神木が捕まえた痴漢は示談を申し出て、被害者もそれを了承。女子中学生を救った神木は手柄も感謝の言葉も受け取らず、早々に透明人間の如く姿を晦ませた。結果としてその場に居合わせた僕と楓が事情聴取を受け、解放と同時に名誉を手にしたのだった。 飄々として掴めない、正に浮雲のような神木を理解するのは不可能だろう。 先日の一件を語ろうとして、僕は時計に目を向ける。講義が始まるまで時間が無い。 僕が慌ただしく別れの挨拶を告げ、校舎へ向けて駆けて行くのを、鬼塚さんは優しい微笑みで見送ってくれた。僕は最後に振り返る。美しく手入れの行き届いた芝生で、再び読書を始めた鬼塚さんは、誰かを待っているように見えた。 |
9.
平成のジャック・ザ・リッパー、脱獄。 毒々しい派手な色合いのテロップが、テレビ画面下を埋めている。若者の行き交う町、ビルに設置された大型のビジョンを通行人がぼんやりと見上げていた。 日曜日。バイトは休みで、特に予定も無く僕は若者の一人として町をうろついている。僕のように目的も無く彷徨う若者がどれくらいいるのだろう。反対に、確かな目的を持って進路を決定する若者はどのくらいだろう。 怨めしいくらいの快晴。青空に雲は無い。空は穏やかなのに、町は脱獄囚の為にパトカーが何台も行き交い妙な重圧を感じさせる。咎められる謂れも無いのに、警察の制服を見ると何故だか背筋を伸ばさなければいけないように思う。楓が言うには、それは刷り込みらしい。僕等は集団の象徴である制服に対して恐怖を感じるように刷り込まれている。 慌ただしく公道を走るパトカー、町を闊歩する警察官。奇抜な服装で個性を演出する若者。混沌とした町中で、僕は陽炎のような空気の歪みに気付く。 目を凝らす。此方へ向かってせかせかと歩くのは、透明人間こと、神木だ。相変わらず理解出来ないくらい影が薄い。視力に何の問題も無い筈の僕の視界に、神木は意識しなければ陽炎のようにしか見えず、気付くと消えてしまう。 「神木!」 呼べば、神木は僕を見て足を止めた。一瞬、目が細められた。 気付いていたけれど、黙って通り過ぎようとしたのだろう。神木の癖に、と訳も無く苛立った。 神木は渋々僕へ向かって歩み寄った。早足に歩いていた姿からして、何か予定があったのだろうか。 「偶然だな。こんなところで何してんだよ」 「いじめっ子みたいな絡み方するなよな」 不満げに、神木が口を尖らす。 「俺が何処にいようが、関係無いだろ」 「そりゃ、そうだけどな」 つっけんどんな神木の物言いには、不思議と怒りを感じなかった。幼児の我儘を許すそれに似ていると思う。 「何処かに行くところだったのか?」 「別に、散歩してただけだよ?」 心底不思議そうに、神木が言う。 その割には、やけに早足だったけど。あれは目的地がある人間と同じ歩行だったと僕は密かに確信する。けれど、神木とてそれを語るつもりは無いらしく、居心地悪そうに目を逸らしている。 僕等の間に沈黙が流れ、神木がそれじゃ、と歩き出そうとした時、声を掛けられた。 「葵君?」 それが誰を指すのか一瞬解らなかった。 神木葵は、呼び掛けに対して酷く億劫そうに顔を向ける。立っていたのは権威の象徴、二人の制服警官だった。 「久しぶりだねぇ、葵君。元気だったか?」 「はい、お蔭様で」 誰? ほら、神木警部補の息子だよ。 ああ、あの? 大きくなったなぁ。 神木をそっちのけで、二人の警官の表情が綻ぶ。対照的に、神木は人形のような無表情だった。 「じゃあ、すみませんが、俺達これから出掛けるところだったんで、失礼します」 丁寧ながら、取り付く島なく神木は歩き出す。早く行くぞと意味不明に僕も急かされ、軽く会釈して追い掛けた。 僕は神木を追い掛けながら、その背中に向けて問い掛けた。 「お前、警察官と知り合いなのか?」 「いいや、全然」 「神木警部補が如何とか言ってたじゃないか」 競歩のように歩き続けていた神木は、足を止めた。 振り返る神木は、相変わらずはっとするくらい綺麗な顔をしていた。 「俺の親が警官なんだよ。あの人達は、その部下」 「へえ」 意外だな、と僕は思う。神木の親が警察官とは如何しても想像付き難い。そもそも、神木自体が謎に包まれている。 「神木の親って、警察なんだ」 「もう死んだけどね」 素っ気無く、気にする風でも無く神木は言った。 まるで、空は青いですよ、当たり前じゃないですか、と言われているようだった。 「俺の親っていうか、家族っていうか、家系が代々警察官なんだよ」 「すごいな」 「すごくないよ。皆、死んじゃったし」 欠伸交じりに、神木が言う。二の句の告げない僕は、神木の本心が何処にあるのか解らない。 悲観も諦観も無い。神木はポケットに手を突っ込み、僕に向かって笑い掛けた。 「じゃあ、また、大学で」 「ああ、うん」 僕が問い掛ける間も無く、神木は背を向け歩き出している。 追い掛けるべきかと逡巡した時、神木は既に陽炎の如く視界から消え失せていた。 |
10.
「神木の家族なんて聞いて如何するんだよ」 行き付けの定食屋に、僕は植嶋を呼び出した。頬の青痣は変色し、見た目は良くないけれど、回復しつつあるようだ。 僕はミックスフライ定食を注文し、中華そばを啜る植嶋と対峙する。 植嶋とて、神木と大して親しい間柄ではないだろう。入学してまだ三か月経っていない。だが、僕よりも遥かに広い交友関係を持ち、情報通である植嶋ならば、多少なりとも神木について知っている筈だった。 「家族っていうか、警察官の家系らしいぜ」 植嶋は水を一口流し込んだ。 「すげーイケメンなのに妙に影薄いし、警察官の家系っていうのに哲学科だし、神木って謎が多いんだよな」 グラスに貼り付いた結露を、まるで何かの実験であるかのように植嶋は注意深く指先で掬う。それは慎重に言葉を選んでいるような、まるで貴重な化石を刷毛で丁寧に発掘しているかのようだった。 「文学部に、あいつと同じ高校出身の奴がいて、聞いた話なんだけど」 植嶋はグラスを一心に見詰めたまま言った。 「神木の両親はガキの頃に殉職したらしい。それからは兄貴と二人暮らしだったらしいけど、中学の時、事件に巻き込まれて死んだんだって」 僕は黙った。言うべき言葉は何も無かった。 けれど、聞いてしまったからには後に引けない。植嶋が言った。 「その巻き込まれた事件っていうのが」 上げられた視線は、部屋の隅にある小さなテレビだった。古臭いブラウン管に、色褪せた映像が映る。今日も変わらず報道されるのは、脱獄した通り魔、平成のジャック・ザ・リッパーと謳われる犯罪者だった。 |
2014.3.21