14.




 ドイツ語講義を受ける為、僕は席に座っていた。ノートと教科書を机に並べながら、頭の中には鬼塚から聞いた神木の話ばかりが浮かんでいる。
 聞くべきではなかったかも知れない。けれど、聞かずにいたらもっと後悔しただろう。
 自分に言い訳していると解っているが、僕は考えずにはいられなかった。


「ねえ」


 風鈴の音色にも似た澄んだ声が、した。
 勢いよく振り返った先で、陽炎のようにぼんやりとした存在感の神木が、へらへらと笑っていた。


「俺、藤原のこと嫌いじゃないんだけど、男は範囲外なんだ」


 申し訳無さそうな神木に、少し前の僕だったなら呆れていた筈だ。
 僕が神木のことを嗅ぎ回っているとでも、植嶋から聞いたんだろう。神木の言葉が何処か演技臭くて、表情が嘘臭い。綺麗な顔の下に何を隠しているのか想像もつかない僕は、どれだけ恵まれて生きて来たんだろうか。
 見当外れな言葉ではぐらかしたつもりだっただろう神木は、僕の反応を見て困ったように微笑んだ。それは幼児の我儘を許容する慈愛に満ちた笑みだった。


「ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの皮肉めいた批判的な名言は、僕等大学生世代に人気がある。僕も例に漏れず、彼の残した言葉には感銘を受けたよ」


 講義室には、若々しい教授が資料を抱えて現れた。
 指先でざっと生徒の数を数え、資料を配布する。その指先に、きっと神木はいなかった。


「著書である『残された思想』の中に、こんな言葉がある。――同情する者は自分が強者であると信じている。だから、助けることができるとあらば、すぐにでも介入したくなる」


 へらへらと笑いながら吐き出されたそれが拒絶であることくらい、僕にも解っている。
 拒絶であるけれど、それは突き放す訳ではない。境界線を引いたのだ。お互いの為に、踏み込んで欲しくないから。


「藤原は優しいねぇ」


 しみじみと、歌うように神木が言う。


「お前がそんな顔する必要なんて、何にも無いのに」


 そんな顔って、どんな顔だよ。
 僕は背を向け、黙って鼻を啜った。




15.




「呑みに行こうか」


 何時もの調子で、綺麗な微笑みを浮かべながら、神木が言った。
 気を遣っているのかも知れない。否、僕を気遣っているのは明白だった。神木が僕を気遣う理由なんて一つも無い。むしろ、部外者の僕等が勝手に神木の過去を覗いたのだから、嫌悪されても気遣われる謂れも無かった。
 断る訳にも行かず、僕はバイトを休んで神木と駅前の居酒屋へ向かった。
 平日の居酒屋は閑古鳥が鳴いている。隠れ家的な和風の落ち着いた雰囲気だった。僕等は個室へ案内され、対面するように座った。神木はビールを、僕はウーロンハイを注文した。
 特に話題も無かったけれど、何か話さなければいけない。僕が勝手な居心地の悪さ故に焦燥感を抱えているのを知ってか知らずか、神木は普段通り飄々としていた。
 如何やら、この居酒屋は神木の行き付けらしい。串焼きが美味いんだと嬉しそうに神木が語っている間に飲み物が運び込まれた。
 僕等は乾杯をした。
 ウーロン茶独特の香りと苦みを感じながら、僕は居心地の悪さを飲み下そうと思った。そっと見遣ると、神木は喉を鳴らしてビールを飲み下している。実に美味そうだった。


「なあ、神木――」


 このまま何事も無かったかのように振る舞うのは、僕には無理だった。勝手に過去を覗きながら、罪悪感から解放されたいと僕は口を開いている。
 神木の感情は読めない。けれど、神木は僕の言葉を遮って言った。


「シズクちゃんから聞いたんだろ?」


 シズクちゃんとは、鬼塚のことらしい。神木が彼女を下の名前で呼ぶとは知らなかった。
 僕が見当違いのところで驚いていると気付いたのか、神木は丁寧に言った。


「中学の同級生なんだ。家も近所で、まあ幼馴染みたいなものなのかな」


 意外だな、と僕は適当な相槌を打つ。
 もしかすると、以前、植嶋が言っていた神木の同級生とは鬼塚のことだったのかも知れない。
 うだつの上がらない僕を見て、困ったように眉間に皺を寄せて神木は人差し指を突き付けた。


「『一喜一憂を除いて、人生に一体何が残るというのか』」
「……誰の言葉だ?」
「里中一文」


 聞いても、それが何者なのか僕には解らなかった。
 神木はビールを舐めるように呑みながら微笑む。それがまるで許しの言葉であったかのように、何故だか僕は肩の荷が下りた気がした。始めから神木は怒ってなんていないのだから、僕の勝手な罪悪感だったのだろうけれど。
 当たり障りの無い世間話に、神木の巧みな話術と酒の力もあって僕は腹が捩れる程笑った。何が可笑しいのか解らないけれど、僕等は笑い合った。
 少しすると、何時の間に呼んだのか植嶋もやって来た。
 植嶋が何時ものように合コンの話を始め、神木が褒めているのか貶しているのか解らない感想を述べ、僕は終始笑っていた。
 何故だか楓と鬼塚まで集まり、小さな個室は忽ち満員となった。それぞれの近況報告に、植嶋が訳の解らない茶々を入れ、神木が巧みな合いの手を入れ、話しは大いに盛り上がった。
 そして、僕等は上機嫌のまま、平日ということもあって早々に店を出た。駅前は帰宅する学生や会社員で溢れており、僕等は酔いを醒ますべく河川敷を散歩することにした。生憎、鬼塚は明日は一限目から講義が入っていると言って駅前で別れた。
 河川敷は傍にある大型スーパーや鉄橋の灯りに照らされ、比較的明るかった。酒に弱い神木も足取りは確りとしていて、口調もはっきりしている。対照的に植嶋は先日の合コンでの失敗に落ち込んだ為かかなり呑んでいたように思う。鼻歌交じりに植嶋は僕等の半歩前を歩いていた。
 僕に気を遣ったのか、神木は歩を進め植嶋の隣に並んだ。自然と僕と楓は横になる。
 耳打ちするように、楓が言った。


「神木君、元気そうだね」


 僕は頷いた。元気も何も、神木は始めから落ち込んでなんかいない。むしろ、神木は被害者でありながら、加害者である僕を励まそうとしていたのだ。
 変わり者だけど、人格者だと思う。僕は神木の溜息が出るような綺麗な横顔を見て、胸のつっかえが取れた気になる。
 神木と植嶋は何が可笑しいのか盛り上がっていた。酔っ払いだった。
 楽しかった。こんな日々がこれからも続けばいいと思った。だから、僕は気付かなかったのだ。これが幸せの頂点で、後は落ちるだけであるということに。




16.




 あ、と思った時には、植嶋は水彩のような水色の空に浮かんでいた。
 誰も動けなかった。スローモーションのように着水し、派手な飛沫を上げて植嶋の姿が視界から消える。僕は反射的に神木を見た。
 表情は無い。誰もが見惚れるような綺麗な面に、何故だか僕の背筋に冷たいものが走った。
 飲み会の翌日だった。昨日の今日で照れ臭いやら恥ずかしいやら、僕は如何いった顔をすべきか解らなかったけれど、神木は何時も通りだった。僕等の共通選択科目であるドイツ語講義が休講だったので、時間を持て余した僕等は河川敷を散歩することにしたのだ。其処に植嶋がやって来て、昨日のように並んで談笑しながら歩いていた――筈だった。
 それ程深くも無い川に転落した植嶋が勢い良く起き上がる。水浴びをした烏のように身震いする植嶋に、無表情の神木は軽い足取りで地面を蹴ると、狼のように一気に襲い掛かった。
 再度、派手な飛沫を上げて植嶋が水面に沈む。


「う、植嶋! 神木!」


 動揺に染まった僕の呼び掛けは、如何にも間抜けだったに違いない。
 片手で植嶋を水面下へ押し込む神木の口元が、緩やかな弧を描く。笑っている? ――否、怒っている。
 何が起こっているのか、解らない。植嶋の何が、神木の逆鱗に触れたのかも解らない。神木の紅い舌が、上唇を嘗める。その紅さがやけに艶めかしく見えた。
 神木からは、肌が粟立つような冷気が漏れ出しているようだ。それが殺気にも近い怒気だとは、思いもしなかった。
 神木が怒るなんて、思わなかったのだ。
 何処か常人離れ、仙人然としている神木が、同級生を相手に殺意を露わにするなんて有り得ない筈だった。
 僕は濡れることも厭わず――というか、そんなことへ気を回す余裕も無く川へ踏み込んだ。
 神木の右腕が振り上げられる。それは水中で呼吸も儘ならずもがく植嶋へ容赦無く振り下ろされた。
 水面の反発すら存在しないように、神木の拳は剃刀のような鋭さで植嶋の頬を打ち付けた。紅い飛沫と共に、岸辺から楓の悲鳴が上がった。
 僕は必死だった。神木を後ろから羽交い絞めにして、如何にか植嶋を解放しようとした。けれど、この痩躯の何処にそんな力があるのかと恐怖すら覚える程に、神木の身体に込められた力は狂気染みている。
 このままじゃ、殺してしまう――。
 本気でそう思った。その時、植嶋の指先が、神木の左腕の皮膚をぶつりと破った。
 一瞬の沈黙。
 左腕から流れ出た血液、それが合図だったかのように、神木の身体は一気に弛緩した。僕が支えていなければ、そのまま水中に沈んでしまいそうだった。
 植嶋が起き上り、文字通り必死に呼吸を繰り返す。酸欠に陥った植嶋の顔色は死人のように蒼く、両目は生理的な涙に濡れている。苦しげに咳き込む植嶋の首には、真っ青な手形が鮮やかに浮かんでいて、それが神木の狂気を物語っているようだった。
 俯いた神木の顔は見えない。最早、自力で立ち上がる力すら無いようだった。それでも警戒心の解けない植嶋が、柄にも無く一定の距離を保ちながら様子を窺っている。
 神木が、ゆっくりと顔を上げた。

 笑っていた。
 先程の狂気染みたそれでは無く、失敗を咎められた幼児のようなあどけない苦笑だった。


「……帰るよ」
「はあ?」


 言葉の通り、神木は確かな足取りで僕の支えから離れると、対岸へと向かって歩き出した。
 ざぶざぶと迷いなく進む神木を止めることも出来ず、植嶋を残して離れることも出来ず、結局、僕は立ち尽くす。
 無言で川を渡って行く神木は振り返らない。
 如何にか呼吸を整えたらしい植嶋は、首元を摩りながら声を上げた。


「気にしてねーから!」


 訳が解らなかった
 植嶋は舌打ちを一つ零し、振り返らない背中へ呼び掛ける。


「神木!」


 神木は、岸辺へ上がると漸く振り返った。
 ずぶ濡れで不格好な筈なのに、何故だかそれすら絵になっている。まるで其処には結界があるかのように、神木の周囲は何時だって侵し難い神聖な空気に満ちている。


「悪かった」


 背中に日光を受けた神木の表情は暗く、はっきりと見えなかった。けれど、笑っているとは思えず、泣いているような気さえした。
 それきり神木は何も言わず、早足に逃げるように立ち去った。


「……謝ってんじゃねーよ」


 悔しげな植嶋の声だけが、僕の耳に焼き付いた。
 この時、僕は追及すべきだったのだ。神木にも植嶋にも、何があったのか、何を思ったのか、無理矢理にでも訊くべきだった。そうすれば、最悪の結末だけは、免れたかも知れなかったのに。




2014.5.4