17.




 植嶋慶太という男のことを紹介しよう。
 彼は某大学の経済学部二回生。一見すると軽薄な今時の若者といった風である。外見的な特徴はワックスで立たせたつんつん頭と吊り上がった目で、性格を一言で表すなら女好きだ。
 毎晩のように合コンへ繰り出しては一夜限りの出会いを求め、浴びるように酒を飲んでは女の子に逃げられている。彼は彼らしく青春を謳歌しているのだろう。美人局に引っ掛かったこともあるし、女の尻を追い掛けて他校へ乗り込んだこともある。底抜けに明るくて飄々として掴み所が無いように見えて、直情的で短絡的、単純な馬鹿だ。只、悪い奴では無い。
 大学食堂は昼を過ぎ、午後の講義が始まっている為か閑散としている。夏を間近にした日差しは厳しく、気温は上昇し既に初夏と呼んでも支障無いだろう。大型連休を目前に、僕は菌類のように、日差しを避け息を殺している植嶋を見ていた。
 植嶋は、魂が抜けてしまったように口を半開きにして、茫洋と視線を漂わせている。
 こいつらしくない――。
 高々一か月足らずの付き合いでありながら、僕は植嶋を知った気になっている。否、何処の誰が見ても同じ感想を持っただろう。僕が目の前にわざとらしく立つと、植嶋はゆるゆると顔を上げた。


「よう」


 声を掛けると、植嶋はああ、とも、うう、とも付かない呻き声のようなうだつの上がらない声を出した。
 植嶋は皺の縒った白いシャツに、マフラーのように首へストールを巻いていた。
 僕は正面に座った。


「神木、知らないか?」


 問い掛けると、漸く植嶋が僕へ視線を向けた。
 普段とは明らかに異なる覇気のない瞳だった。


「会っていないし、見てもいないし、連絡も取っていない」
「そっか……」


 植嶋と神木が殴り合い――否、あれは一方的な暴力だった――をしてから、一週間が経過している。神木は透明人間の如き存在感で、大学構内から姿を消している。僕は神木の連絡先を知らない為、連絡の取りようも無い。
 僕等を避けている。
 植嶋は窓の外をぼんやりと眺めている。スカーフの隙間から僅かに覗く青痣が痛々しい。それは先日、神木によって付けられた傷跡だった。
 穏やかな散歩の途中、神木は何かに激昂し、植嶋に襲い掛かったのだ。植嶋を絞殺さんばかりの剣幕でその首筋を捕まえ、川の中へ押さえ込んだ。植嶋の抵抗した指先が神木の腕、その皮膚を破かなければ彼は正気に戻ることは無かっただろう。


「神木って、何者なんだろうなあ」


 知りたいようで、知らぬべきのようにも思う。
 哲学部のエース、平成のニーチェ。呼称はあれど、それ等は彼の内面どころが外面すら捉えていないような気がした。
 僕が黙って考え込んでいると、俯いて携帯を忙しなく操作していた植嶋が、勢いよく顔を上げた。
 よしッ。
 声を上げて立ち上がった植嶋に、僕は瞠目する。振り返った植嶋は何かを決意したような強い目で僕を見下ろしていた。


「旅行しよう」
「はあ?」


 突拍子も無い提案だった。
 けれど、植嶋は僕の反論等初めから受け付けるつもりが無いようで、再び携帯へ目を向けた。
 滑らかな操作だ。掌に収まる携帯を素早く耳へ当て、強い眼差しのまま口を開く。


「――神木、今何処にいるんだ?」


 件の神木だ。僕は言葉を失う。


「今すぐ中庭に来い。いいから。五分以内だぞ!」


 相手の言葉を聞かず、植嶋は早々に通話を終えた。
 呆気に取られる僕の横に座り、植嶋は尚も携帯を操作している。横目に覗き込むが、如何やら植嶋は本気で旅を決行するつもりらしく、既に宿や交通手段を検索し始めている。


「おいおい、本気かよ……」


 僕の苦言なんて植嶋には届かない。無言で宿探しをする植嶋の隣で、僕は溜息を零す。
 目の前に、細い影が落ちた。




18.




「急に何の用だよ」


 くっきりとした二重瞼、長い睫に彩られた大きな瞳、通った鼻筋、形の良い眉。不健康でない程度に肌は白く、きめ細かい。清潔感のある黒い短髪。蛍光色のウインドブレーカーに、アウトドアなリュックを肩へ担いでいる。
 容姿端麗、眉目秀麗。――神木葵は、息を弾ませながら僕等の前へ現れた。
 気付いた植嶋は、神木の顔を訝しげに見た。


「早かったな。どうせ暇だったんだろ」
「折角来てやったのに、酷い言い草だな。帰っていいか?」


 先日の一件なんて嘘だったかのように、普段通りの二人の遣り取りに僕は安心した。理不尽な要求と失礼な言動にも決して激昂しない、何時もの穏やかな神木だ。
 けれど、何処かで神木の逆鱗に触れてしまわないかと、冷や冷やする。あの時は、今以上に穏やかで笑顔すら浮かべていたのだ。
 僕が様子を窺っていることに気付いているのかいないのか、神木は視線すら向けず植嶋と軽口を叩き合っている。


「旅行って、急だな。何時だよ。まさか、来週のゴールデンウィークじゃないよな」
「連休しかないだろ」
「バイトがあるから、無理だよ。連休は稼ぎ時なんだ」
「学生の本分は学業だろ」
「何が学業だ。遊びじゃないか」
「本を読むだけが勉強じゃないだろ」
「話を摩り替えるなよ。大体、それを言うならアルバイトだって社会勉強じゃないか」


 植嶋のめちゃくちゃな話にも惑わされず、神木ははっきりと言った。舌戦で神木に適う訳が無い。
 呆気無く押し黙った植嶋に、神木は溜息を零す。


「憲法記念日なら、空けられるよ」


 仕方が無い、と酷く厭そうに神木が折れた。植嶋は嬉しそうな顔くらいしたら良いのに、まるで結末が解り切っていたかのように、至極当然であるかのように一度頷いただけだった。神木とて、それを咎めることはない。




19.




「愚か者だな」


 吐き捨てるように、植嶋が言った。僕は珍しく正論だなと納得した。
 僕等五人は春の大型連休に、一泊二日の旅行を計画した。植嶋の急な提案にも関わらず全員が参加出来たのは偶然か奇跡だろう。
 老人会のような温泉地へ、大凡、大学生らしくない旅行ながら、僕は密かに楽しみにしていた。学校行事でない旅行を女子と共にするのが初めてだったからだ。
 その道すがら、神木が得体の知れない大きな鞄を抱えていたことには気付いていた。アウトドアなリュックは小さ目だったが、少なくとも、僕は然程気にしていなかった。けれど、宿に着いて早々、神木はその大きな鞄を片手に、満面の笑みで言ったのだ。
 渓流釣りに、行って来る、と。

 何を言っているんだろうと、僕は思った。だって、集団とはいえたった五人の旅行なのに、協調性が無いにも程があるだろう。呆気に取られた僕が反論する間も無く、神木はそそくさと宿を出て行った。残された植嶋が吐き捨てるのも当然というものだ。
 どうせ旅行の内容なんて決まっていない。拘束力も持たないと植嶋は全てを投げ捨て畳へ転がった。仕方が無いな、と僕も荷物の整理を始める。
 寝転がったままの、植嶋がぽつりと言った。


「逃げたのかな」


 意味が解らず、僕は戸惑った。けれど、すぐに思い至る。
 神木なりに、先日、植嶋へ殴り掛かったことを気にしているのかも知れない。密室で僕等と過ごすことを気まずく思ったのかも知れない。全ては僕の憶測だ。だけど、僕が思う以上に神木は繊細で、植嶋は敏感なのだろう。
 僕は荷物整理を止め、寝転ぶ植嶋へ向き直った。


「なあ、この前、何が神木の逆鱗に触れたんだろう」


 問えば、植嶋は珍しくばつの悪そうな顔をした。
 植嶋が言った。


「解んねー」
「はあ?」


 むくりと起き上がった植嶋が、後頭部を掻き毟りながら言う。


「俺だって吃驚したんだよ。何の話をしてたかも覚えてない。それまでニコニコしてたのに、いきなり殴り掛かって来たんだ」


 訳解んねーよ。
 言葉とは裏腹に、その口調に憤りは感じられない。――否、苛立ちはあるのだろう。けれどその矛先は、あの日殴り掛かった神木ではなく、地雷を踏んでしまっただろう植嶋自身へ向けられているようだった。
 植嶋は息を吐き出した。そして、勢いよく顔を上げた。


「あいつの兄貴が殺されたって事件、本人に詳しく聞いてみないか?」
「……悪趣味だ」


 僕の反論にも関わらず、植嶋の表情は晴れやかだった。


「神木ってバリア張ってるだろ。いや、警戒網かな。その内部は地雷だらけで、踏み出せば何時何処で爆発するのか解らない」


 その通りだな、と僕は思った。植嶋が立ち上がった。


「地雷を取り除くことは出来なくても、位置を知ることは出来るだろ」


 植嶋の言葉には一理あると思ったが、僕は口に出して賛成することも憚られた。
 人は誰しも触れられたくないものを抱えている。僕等は未だ一か月も経っていない浅い付き合いで、蟠りがあるのも当然だった。
 けれど、植嶋はまるで大きな惑星の強い引力のように、僕を引っ張って歩き出した。




20.




 神木は妙に年季の入った釣竿を持ち、アマチュアとは思えないこなれた手付きで釣り糸を垂らしている。緩やかな河川に面した岩場は、僕が思い描く渓流釣りそのものだった。
 何故かインドアのイメージがあった神木だが、こうして見ると如何にもアウトドアで活力的な人間に見える。勿論、インドアな人が活力的じゃないのかというとそういうことではないから、僕の偏見だ。
 植嶋に引き摺られるようにして部屋を飛び出した僕等は、楓達に事情説明をする間も無くこの場所へ立った。宿の裏手で、徒歩にして五分も掛からないにも関わらず絶好の釣りスポットらしい。
 僕はスマホを片手に、楓へメールを一通送って置く。心配させたくもないが、この場所へ来て欲しくない。僕等は、アルコールの力に頼らず、腹を割って神木と話がしたかったのだ。
 けれど、神木は釣りをする手を緩めず、視線すら向けない。植嶋は植嶋で、先程までの勢いは何処へ行ったのかぼんやりと水面を眺めている。釣り糸に反応は無い。時刻は間も無く夕方に差し掛かる。実に穏やかで静かな空間だ。
 ぴくりと浮きが沈む。同時に神木が、緩慢な動作で釣竿を操作し始めた。
 釣りのつの字も知らないようなド素人の僕から見たら、神木が現在どのような状況なのかはまるで解らない。手に汗握るべきなのか、固唾を呑むべきなのか、息を殺して見守るべきなのかまるで解らないが、兎に角僕は黙って経過を見守る。
 ぽちゃん、と可愛らしい音を立てて小魚が姿を現した。
 ヤマメだ。神木が抑揚の無い声で言った。ヤマメと呼ばれるその小魚は、斑な模様を浮かばせたほっそりとしたシルエットをしている。円らな瞳が輝いていた。
 神木は慣れた手付きで釣り針を外すと、ヤマメをすぐに川へと投げた。小魚は再び川の中へ消えて行った。


「食べないの?」


 僕が問うと、漸く神木は表情を崩して笑った。


「調理が面倒だから」


 神木が言うには、調理と食事は対価が見合わないのだそうだ。
 そんなことを言っても生きる為には食事が必要で、調理も外せないのだ。僕にはよく解らなかった。
 再び、神木が釣り糸を垂らす。ルアーが沈み、水が跳ねた。


「何が訊きたいんだ?」


 如何でも良いが、釣り糸を垂らす神木はムーミンに出て来るスナフキンのように飄々として見えた。
 神木の唐突な問いに、植嶋は怯むことなく返す。


「お前って、現代の切れ易い若者だよな」
「わはは」


 神木が朗らかに笑った。
 植嶋の端的な揶揄で僕等の趣旨を悟ったらしく、神木が言った。


「悪かったよ。反省してる。もう二度としない」


 嘘臭いな、と植嶋が笑うけれど、僕は神木の言葉に嘘は無いだろうと確信無く思った。


「兄貴が殺された事件は事実だよ。シズクちゃんの情報も、直接聞いた訳じゃないけど、恐らく本当のことだ。だからといって、俺が事件のせいで精神的外傷を抱えていて、その為にちょっとしたことが逆鱗に触れて誰構わず手を上げてしまうキチガイと思われるのは心外だな。シズクちゃんはきっと主観を交えず、世間に流れる噂や情報を有りのままに伝えたんだろう。だから、それでお前等が何か感想を述べたところでそれは主観で偏見だ。でも、そういう主観や偏見が世間を支配しているんだよな」


 海は水だが、水は海ではない。人も同じことだ。
 淀みなく、台本を読み上げるかのように神木が言う。


「貴方が例え氷のように潔癖で雪のように潔白であろうとも、世の悪口は免れまい」
「誰の言葉の引用だ?」
「シェイク・スピア」


 振り返らない神木の横顔を、僕はぼんやり眺めている。
 長い睫が、白い頬へ影を落とす。神木の睫は、女の子の着け睫のように長い。爪楊枝でも載りそうだ。


「兄貴は死んで、犯人は逮捕された。それだけじゃないか。それだけのことなのに、如何してか皆が俺を悲劇のヒーローへ仕立て上げようとするんだ。俺は一言だって、辛いとも、悲しいとも、犯人が憎いとも言ってないんだぜ。俺は毎日変わらず登校したし、生活してたのにな」


 それは、どちらの言い分もきっと正しかった。狡い言い方だけど、僕はそう思う。
 口さがない世論ならば、神木を悲劇のヒーローに仕立て上げただろう。退屈な毎日に降って沸いた他人の悲劇は、無関係の人間にとっては格好の暇潰しだ。それに同情することで自尊心まで得られるんだ。それを仲間と共有することで一体感を味わい、まるで自分が強くなったかのような気になる。
 神木にとって、事件は事件だが、もう終わったことなのだ。悲劇であっても、それを乗り越えられるだけの強さを持っている。だから、民衆の反応が理解出来ないのだ。そうした強さが、聡明さが、神木を何処か浮世離れさせて見せる。
 気の利いた返答も出来ず僕が黙ると、業を煮やしたかのように植嶋が苦々しげに口を開いた。


「それで、お前はどう思っているんだ?」
「はあ」


 神木の口から、間の抜けた声が漏れた。


「世間が如何とか、他人が如何とか、そんなの解らないけど、お前は如何思っているんだよ」


 植嶋の言葉に、納得する。確かに、神木は本心を言葉にしていない。
 僕等が知りたかった彼の本音を、未だ一つも聞いていない。
 神木は釣竿を引き上げ、慣れた手付きで片付け始める。僕だけだったら煙に巻かれていたことだろう。けれど、其処で神木は心底不思議そうな顔をして、僕等をじっと見詰めた。


「如何でも良いんだよ、そんなこと」


 釣竿を仕舞った神木が、鞄を背負う。僕等は連れられるようにして立ち上がった。


「終わったことだろ、如何でも良いんだよ」
「お前は終わったことでも、俺はそうじゃねーんだよ。自分が殴られた理由くらい把握したいと思うだろうが」


 其処で僕は、自分と植嶋の見識の違いに気付いた。
 現在の神木の思い――。僕は過去の事件について、植嶋は喧嘩――一方的な暴力と言うべきか――について追及しているのだ。
 だが、神木の次の言葉で、ずれていたのは僕だけだったと思い知った。


「間違っていると思ったから殴った。それだけだろ」


 もう終わったことなのだ。神木にとって、過去とは過ぎ去ったもので、思い出すことはあるが後悔することではないのだ。
 帰ろう、と神木が言った。夕暮れを背景に、まるで子どものようだと思った。




2014.6.8