21.




 物騒な話を聞いた。
 僕等の旅行先であるこの温泉地で、観光客を狙った通り魔が横行しているらしい。
 宿に戻った僕等を出迎えた楓とシズクちゃんが、幼児を脅し付けるように言った。シズクちゃんに聞けば詳細を話してくれたのだろうけれど、楽しい旅行が血腥くなることを恐れ、僕等は黙っていた。
 夜は僕等の部屋に彼女等が来て、簡単な酒宴を催すことになった。
 発泡酒や安い酎ハイと、粗末なを並べる。植嶋の音頭で僕等は乾杯をした。
 議論好きの楓が、ここぞとばかりに神木へ質問を投げ掛ける。僕にしてみれば取るに足らない暇潰しのような議題なのだが、神木の豊富な知識によってそれは世界平和と並ぶような崇高な題目のように感じた。
 話題に付いていけない植嶋は早々に脱落し、飲み干すことが役目であるかのように酒を煽っている。シズクちゃんは相変わらず麗しく微笑んでいて、僕は只管云々と頷くばかりだ。


「個性だ何だと言われている昨今だけど――」


 まるで教育者のようだ。
 楓の議論に答えは無い。彼女は話し合いをしたいのだ。それも、延々と。
 僕は議論とは何か一つの議論を導き出すもので、異なった思想を統一するものだと思っていた。けれど、楓にとって議論は結果ではなく過程にこそ意味があるものなのだ。そして、神木はその価値観を汲み取って応えてくれる。これ程、楓にとって話し甲斐のある相手はいないだろう。
 密かに、僕は嫉妬した。だから、話題を少しずらしたかった。


「シズクちゃん、夕方の通り魔のことなんだけど」


 通り魔、と聞いて平成のジャック・ザ・リッパーを連想するのは当たり前だった。
 楓が察したように表情を強張らせたが、今更発言を取り消すことは出来なかった。
 神木は、動揺なんて全く見せず、微笑みすら浮かべ、まるで子どものように彼女の話の続きを待っている。その心理状態が、僕にはまるで理解出来ない。
 シズクちゃんは、微笑みを崩さぬまま言った。


「被害者は二名で、どちらも旅行者。始めは物取りの犯行だったけど、二件目は傷害事件になっている。どちらも金銭目当ての犯行と思われているけれど、被害者の容姿に類似点があることから、警察ではそれ以外の目的があったのではないかと推測されているよ」


 そんな情報を、何処で仕入れるのだろう。
 僕が見ていると気付いたのか、シズクちゃんは美しく微笑んだ。


「代金は請求しないよ」


 そういうことじゃない。僕は思ったが、植嶋がほろ酔いの火照った顔で言った。


「類似点って、何だよ」


 シズクちゃんが、答えた。


「色白で、細見で、二枚目の青年」


 それが誰を指しているのか、僕は悟った。楓も、彼へ視線を向けた。
 彼――神木は何も変わらない。
 植嶋は興味無さそうに言った。


「そういう情報って、何処で仕入れるんだよ。警察関係者に知り合いでもいるのか?」
「私の情報量なんて、大したものじゃないよ。神木君の方が、凄いんじゃない?」


 件の神木君は、微笑んでいる。


「俺の情報なんて、書籍から抜粋しただけだよ」


 書籍も、抜粋も、昨今の若者の口語には挙がらないだろう。
 神木が言う。


「それにしても、狙いは二枚目の青年かぁ。何でだろうな。劣等感を抱えた不細工による犯行なのか、歪な少年愛か、それとも、只の偶然か」


 その分析に何の意味があるのだろう。僕等には関係が無いことだろう。
 植嶋が言った。


「じゃあ、俺も危ないな」


 余りに陳腐な言葉だろう。それまでの神木の崇高な議論とは次元が違う。
 けれど、神木は微笑んでいる。


「そうだね」


 本気か建て前か、僕等には判断付かない。
 けれど、神木がシズクちゃんを凌ぐ情報通とは思えず、頭の隅に留めて置こうと思った。




22.




 翌日、件の通り魔犯人が逮捕された。
 神木は早朝から渓流釣りに出掛けていた。その間に犯人は地元の交番前に倒れていて、事情聴取の末に犯行が明らかになったということだった。
 植嶋は一言、安心したよ、なんて見当違いのことを言ったけれど、僕は安心出来なかった。
 もしかすると、神木が関わっているのはないかと思ったのだ。神木は何時ものように仙人然として微笑んでいたけれど。


「犯人が捕まって良かったな」


 神木が言った。捕まえたのは、お前じゃないのか、と僕は問い詰めたかった。
 なあ、と僕が声を掛けると、神木は人形のように整った顔を上げた。


「犯人はどんな顔だったんだ?」
「さあ、如何だろうね」
「何て、声を掛けられたんだ?」


 僕の問い掛けに、神木が嬉しそうに嗤った。僕が真相を悟っていると、解っている顔だ。


「可愛いね」


 神木が嗤う。嗤う。嗤う。
 その言葉は、まるで僕自身が犯人に言われたようで、ぞっとした。


「……如何やって、捕まえたんだ?」
「ふふ」


 神木が言った。
 何もかも御見通しという笑みだった。


「俺は知らない。過去のことは忘れたよ」
「シズクちゃんが、お前の情報量は凄いと言っていたけれど」
「その場で答えただろう。俺の情報は書籍からの引用だよ」


 そんな言葉が、日常生活の、それも口先から上がるものだろうか。
 神木の言葉は真実なのだろうが、何処か白々しく感じた。
 僕は、シズクちゃんから聞いた事件の顛末――逮捕劇を思い出していた。


「逮捕されたのは190cm近い大男で、ロシア人だったそうだ。交番前に転がされた犯人は頬骨を骨折して、意識が無かったそうだ」
「それで?」
「事情聴取の結果、犯人は好んで色白で細身の美少年を狙っていたらしい。一件目では掏り、二件目は暴行、三件目では乱暴を目的に拉致監禁をしようとしていた」
「ふうん」
「三件目の犯行、ターゲットになったのは、お前だろ」
「なんで?」


 此処まで来て、神木は認めない。
 美少年を狙った犯人はロシア人。口から出るのは、ロシア語だ。
 旅行者で、早朝出歩いていて、ロシア語が理解出来て、大柄の男を軽く斃せるような武闘派の美少年が、この温泉地に何人いると言うのだろう。
 僕はもう確信している。渓流釣りに出掛けた神木の容姿に釣られた犯人が、その強烈な回し蹴りで地に伏す情景が、瞼に浮かび上がるようだった。
 神木は息を漏らすように笑った。
 議論する必要すら神木は感じていないらしく、往なすように軽く笑うと、そのまま離れて行った。

 この旅行は、親睦を深めるという大仰な目的を掲げていたけれど、僕等の間の壁や溝は本当に取り払うことが出来たのか。――否、出来るものなのか、それすらも僕には疑問だった。




23.




 これから戦場へ向かうのか、念入りにメイクを直す女子生徒を、僕は後ろからぼんやりと見ていた。
 鏡の角度を変え、至近距離で覗き、着け睫の具合を確かめる姿は何処か異様だ。けれど、そうして武装した彼女達が美しいことを僕等男子は知っている。作業工程が如何に恐ろしくとも、僕等は結果さえあれば満足なのだ。
 連休明けの大学は何処か現実離れしている。間延びしている。僕は講師の目を気にしつつ、欠伸を噛み殺した。

 非常ベルが鳴り響いたのは、その時だった。

 耳を劈くようなサイレンだ。不吉な鐘の音に、少女の手から鏡が滑り落ちる。硝子の割れる音が、講義室の空気をより不穏にさせた。
 それが避難警報と解っていても、僕等は互いに意識し合い、誰かが動き出すのを待っている。日和見主義の蔓延した講義室で、誰よりも早く動いたのは透明人間だった。その皆無と言って過言でない存在感で、神木は風のように講義室を飛び出して行く。開け放たれた扉の破裂音にも似た響きを合図として、生徒及び講師が役目を放棄して我先にと出口を目指した。
 廊下は浮足立ちながらも行動に起こせない学生や、悪戯に逃げ惑う教授で溢れている。洪水が押し寄せたかのように、彼等はやがて一つの流れに身を任せ、棟外へと走り出した。
 強大な流れの中で、僕だけがまるで一本の細木のように立ち尽くしている。
 視線を巡らせ、透明人間を探すけれど、既に姿は無い。初めから存在しない夢や幻だったかのような錯覚を起こす。
 何をすればいい。如何すればいい。逃げるべきか、神木を探すべきか。思考ばかりで行動に起こせない僕を、楓が遠くから呼んだ。


「藤原君!」


 反射的に振り返った先で、楓が息を上げて駆けて来る。それだけで、情けないけれど、何故だか僕は無性に安心した。


「楓! 何なんだよ、これ」
「いいから逃げるよ」


 有無を言わせず、楓が僕の手を引く。手を繋ぐのは久々だと呑気に思うけれど、楓の掌は異様に冷たく、僅かに汗ばんでいた。
 非日常的な状況で、また、破裂音がした。けれど、それは扉を開け放つ音では無く、映画やテレビで幾度と無く聞いて来た凶器の放つ音だった。

 非常口に、誰かが立っている。
 悲鳴が上がった。
 退路を立ち塞ぐのは、まるで外国の特殊部隊のような武装した人間だった。

 何だ、映画の撮影か?
 漫画やアニメでよく聞く通行人の言葉を、僕は吐き出していた。実際の状況でそんなのんきなことを言える筈が無いと、何時か楓が笑っていた。それには僕も同意した覚えがある。だけど、それが間違っているとこんな時になって僕は理解した。

 撮影だと思ったんじゃない。思いたかったんだ。
 




24.




 破裂音が、また一つ。
 楓が小動物のように肩を跳ねさせるので、僕はそうすることが当たり前のように肩を抱き寄せた。
 退路を立ち塞ぐ武装者の顔はガスマスクで見えない。何かの撮影か、壮大なドッキリか。縋る思いで見詰める先、武装者は背後からの光を浴び、まるで天の使いのように見えた。
 そんな良い者じゃない。僕は思考を振り切る。迷彩の衣服が、黒ずんだ液体でてらてらと光っている。――血だ。僕は直感した。


「ほんま、勘忍なあ」


 ガスマスクを上げながら、武装者が言った。
 関西弁だった。硬質なヘルメットの下から、黒い髪が流れ落ちる。光に照らされた白い肌が輝いていた。


「これ、撮影とちゃうねん」


 マスクとヘルメットを取っ払った先にいたのは、屈強な男ではなく、触れれば折れてしまいそうに華奢な女性だった。何処かで彼女を見たことがあると思ったけれど、思い出せない。
 切れ長な二重瞼の下で、黒く大きな瞳が僕等を品定めするように動いでいる。
 撮影では無いことくらい、誰だって解っている筈だ。だって、カメラも無いし、スタッフの一人もいない。学校関係者である講師が一番動揺している。


「何なんだ、一体!」


 白衣を纏った神経質そうな講師が、学生の群れを掻き分けて抗議する。死亡フラグだ、と僕が考えるよりも早く、武装女は銃口を講師へ向け、引き金を引いていた。
 破裂音。講師がゆっくりと倒れる。
 僕等はきっと、それをスローモーションで見ていた。彼が倒れたリノリウムの床に、絵の具とは明らかに異なる赤黒い液体が広がった。
 恐怖は悲鳴となり、悲鳴は恐慌を齎した。パニックだ。逃げ惑う学生を、武装女がゲームのように撃ち殺して行く。
 楓は僕を壁際へと押し遣り、手を引いてそのまま駆け出した。
 悲鳴に混ざって、女の笑い声が背中に刺さる。楓が文字通り必死に走る。行先なんてないだろう。通路の突き当りを曲がろうとしたところで、どっと人の群れが押し寄せた。逃げる先からあの破裂音がして、楓が急な方向転換をする。
 悲鳴。怒号。笑い声。窓の割れる音。破裂音。全てが耳の中で混ざって、不協和音として頭に響く。
 人々の群れから離れ、楓は女子トイレの個室に僕を引っ張り込んだ。通り過ぎて行く大勢の足音の中で、僕等は息を整えることに専念する。個室の中で荒い呼吸音だけが響き、誰かに見付かってしまうのではないかと恐怖に駆られる。
 繋いだ手は離さないまま、僕等は顔を見合わせた。
 楓が言った。


「平成のジャック・ザ・リッパーだ」





2014.6.22