25.




 リノリウムを叩く軽い音が等間隔に響く。
 かつ、かつ、かつ。優雅で拡張高いクラシックのようで、ヒステリックな女の悲鳴のようでもあった。学生と職員を壁一列に並ばせた軍服の女は、ティアドロップのサングラスでその美しい顔を隠している。
 僕等は皆一様に、両手を頭の後ろに組んで膝立ちしている。軍服を纏った女の手下が、端から順に僕等へ目隠しを施している。
 楓の順番が来た。血の気の無い蒼い唇が戦いている。
 軍服の犯人は、当然ながら武装している。携帯している銃は引き金を引けば容易く人の命を奪えるのだろう。視界を奪われた楓は、普段の饒舌さも無く口元を結んで俯いている。
 怖い。僕だって、怖い。死にたくない。
 嫌な汗が頬を伝い、指先が震える。視界の端が白んでいる。
 僕の番だ。白い布を持った軍服の犯人――性別も不明だ――が、歩み寄る。
 かつ、かつ、かつ。
 あの足音が近付き、僕は反射的に顔を上げた。
 ティアドロップのサングラスに、情けない顔の僕が映っている。


「君が、藤原君やろ?」


 サングラスの向こうに、瞳は見えない。
 女が、嗤う。平成のジャック・ザ・リッパーと言わしめた連続殺人犯が、僕を見て、血のように真っ赤な唇を歪めて嗤っている。
 汗がどっと噴き出した。


「不思議そうやねえ。聞きたいか。どうして君のことを知っとるのか」


 僕は何の反応も出来なかった。
 否定も肯定も出来ない。そのどちらかが爆弾の起爆装置に直結しているような気がした。
 女は、ゆっくりとサングラスを外した。
 美しい女性だ。白い肌、通った鼻筋、大きな双眸、形の良い眉、血のように紅い唇。


「うちなあ、ある男のことを調べとったんや。そうしたら、君と仲良しさんみたいやないか」
「あ、ある男?」


 大量猟奇殺人犯、サイコパス。そんな恐ろしい女と関連する友人なんて僕にはいない。
 ――嘘だ。僕はもう、気付いている。
 女、朝比奈香理が、もったいぶるようにゆっくりと、口元に愉悦を滲ませて言った。


「神木葵や」


 ああ、やはり。
 けれど、僕は、聞きたくなかった。


「神木葵は、何処にいるん?」


 僕は首を振った。庇おうとしたのではなく、真実だった。
 透明人間と呼ばれる神木の行方なんて誰にも追えないだろう。
 黙った僕を飛ばして、隣の学生は滞りなく目隠しを施されて行く。順調に、僕以外の大学関係者は視界を奪われた。
 部屋は異様な緊張感に包まれている。
 軍服の手下が駆け寄って、トランシーバーのような機械を手渡した。覆面をしているが、声の調子からすると女らしい。


「これ、もう繋がっとんの?」


 女が頷くと、朝比奈は軽く咳払いをした。


「――学生及び職員の諸君に告ぐ。第一校舎は我々が占拠した。隠れていても無駄だ。すぐに私の仲間が見つけ、捕獲するだろう。下手な抵抗も止めた方がいい。邪魔する者は容赦なく、殺す」


 現実味を帯びない犯行声明だ。
 朝比奈は続けた。


「我々の目的は只一つ。ある男を探している」


 ある男、とは。


「この建物に潜んでいることは解っている。早く出て来ないと、」


 朝比奈の腕が静かに持ち上がる。右手の先に、黒い鉄の塊がある。
 銃だ。殺傷能力を持つ凶器だ。先程、教授を一撃で殺害した武器だ。それが僕の隣に、向けられる。
 目隠しされた状態では、何が起こっているのか解らないだろう。微かな鉄の音に肩がびくりと揺れた。


「……めろ」


 声が、出ない。


「止、めろ……。止めろ!」


 人差し指が引き金に掛けられている。
 破裂音が、響いた。




26.




 呻き声が聞こえた。小さな悲鳴も漏れた。僕は只、膝立ちしているだけだった。
 本当に怖い時には、悲鳴すら出ないのだ。失禁している者もいるのだろう、何処からかアンモニア臭が漂う。けれど、全てを拭い去る圧倒的な血液の臭いに僕は眩暈がした。
 僕の隣で視界を奪われた学生が、額から一筋の血液を零して倒れた。何が起こったのか解らない人質一同は、視界以外の感覚で状況を察したようだが、逃げ出すことも出来ない。朝比奈は相変わらず僕の前で薄ら笑いを浮かべている。人の死に、愉悦すら感じている。


「一人ずつ順番に、射殺するとしよう。藤原君は最後まで残して置いてあげよう!」


 それが最大の譲歩であるかのような尊大な態度だ。
 僕は何も言えなかった。何か言えば、正解なのだろうか。解らない。
 ただ、怖くて怖くて堪らない。膝ががくがくと震えて、如何していいのか解らず冷や汗ばかりが滲む。誰かに助けて欲しいと切に願うが、誰に叫んだら良いのか解らない。
 かちり。わざとらしい音を立て、通信が終わった。横目に見る楓が震えている。手を握ってやりたいけれど、僕等の手は自身の頭の後ろだった。
 朝比奈はトランシーバーを部下に託し、再び僕へ向き直った。


「じゃあ、藤原君。本題なんやけど」


 僕へ視線を合わせ、幼児に聞かせるようにゆっくりと朝比奈が言った。


「神木葵を知っとるな?」


 否定を許さない強い詰問だった。


「神木葵は何処にいる?」
「知らない」
「ほんまは?」
「知らないんだ! 本当だ!」


 朝比奈が微笑む。信じたのではないだろう。


「まあ、君が知らなくてもええ。その内、向こうから来るやろ」


 なあ。
 問い掛けた相手――人質の少女の眉間に、穴が空いた。
 鼻を突く硝煙、鉄の臭い。辺りに血が飛び散る。何だ。何なんだこれは。
 悲鳴が、嗚咽が、祈りの声が聞こえる。
 助けて、助けて、誰か助けて。神様、助けて。お母さん。


「何で神木を探しているですか」
「ほー、びびっとるだけやと思ったら、そうでもないんか」


 関西弁。大阪弁。独特のイントネーションで朝比奈が嗤う。


「神木葵とはな、因縁があんねや」


 連続殺人鬼と一介の大学生の間にある因縁。
 僕は思い出す。神木の兄、神木蓮は平成のジャック・ザ・リッパー逮捕前の最期の犠牲者だ。彼の執念によって逮捕された彼女が、その弟である神木葵を恨むことも想像出来る。僕でさえ予測できるのに、警察は如何して彼女が脱獄してすぐ神木を保護しなかったのだ。
 朝比奈は僕を見据えたまま、銃口を人質へ向ける。
 破裂音。事務員が死んだ。
 なんて呆気無い。既に室内には三人の死体が転がっている。


「……神木は来ないかも知れないぞ」
「そんなに友達甲斐が無いんか?」


 解らない。僕には答えられなかった。
 だって、僕は神木のことを知らない。あいつが何を思い、何を願い、何の為に何をして来たのか、何を背負って来たのか僕は知らない。
 知らないけれど、悪い奴じゃない。あいつは僕の友達だ。


「神木は来ない。こんな立て籠もりは無駄だ。すぐに警察が来て、お前は死刑台へ逆戻りだ!」


 朝比奈は呆けた顔をした。次の瞬間、顔を伏せた朝比奈が肩を小刻みに揺らし始めた。


「はは、はははははははは! あはははははっはははっ!」


 狂気だ。この人は頭がおかしい。
 狂っている。
 此処へ神木を連れて来てはならない。




27.




 血の海だ。
 皆、死んでいる。異臭の立ち込めた講堂で、返り血を浴びた楓が震えている。
 あと一人やねえ。謳うように朝比奈が言った。楓の額に銃口が向けられる。
 助けて、藤原君、助けて。
 隣にいるのに、手を伸ばすことも出来ない。身体が強張って言うことを利かない。
 真っ赤だ。部屋の中が真っ赤に染まっている。頬に返り血を貼り付けた朝比奈は薄ら笑いを崩さない。


「もう、止めてくれ!」


 僕の懇願は届かない。朝比奈は愉悦に口元を歪めて、銃口を楓に押し当てている。
 神木は来ない。来なくていい。来ないでくれ。来てはならない。――でも、僕等が助けを求める先が神様でないならば、それは一つしか有り得なかった。
 




28.




 扉が開いたと思った。次の瞬間には気のせいだと思った。
 けれど、陽炎のようなおぼろげな人影が扉の前に在った。一陣の風が吹き抜け、血腥い空気を一掃した。


「お待たせしたようで」

 恭しく頭を垂れた青年が、ゆっくりと顔を上げる。
 人形のような整った面だ。血の気の無い死んだ無表情で、神木葵が其処に立っている。


「待ち草臥れたわ」


 言いながら、朝比奈がこの上なく嬉しそうに笑っている。
 銃口を下ろした朝比奈は血の海となったリノリウムを叩き、神木へ距離を縮めて行く。神木は微動だにしない。その距離が一メートルにも満たないだろうところで、神木が言った。


「友達に」


 彼にしては歯切れ悪く、言葉が綴られる。


「友達に、引き留められまして」


 口角を釣り上げ、皮肉っぽく朝比奈が嗤う。


「そりゃ、いい友達を持ったなあ」


 銃口が上がる。照準は神木に定まっている。
 神木は苦笑した。


「俺には勿体無いくらいの良い友達なんだよ。だから、死なせたくないんだ」


 そうか、と言うと同時に鉄の塊は振り上げられた。
 雷のように落とされたそれが神木の頭部を打ち付けた。血飛沫と共に神木が後ずさる。それを許さぬように背後に回った部下が、再び神木を立ち上がらせる。
 はははははは。
 朗らかな笑い声が響き渡る。神木が顔を上げた。額を切ったのか、一筋の血が流れ落ちる。
 朝比奈を見遣る視線が、ぞっとする程に冷たい。憎悪でも、恐怖でも、憤怒でもない。それは堪え難い程の、無関心だ。
 其処で漸く、朝比奈が怪訝そうに眉を跳ねさせた。


「何や、気に食わん目ぇしとんなあ。うちがいない間に、何かあったんか」


 神木は、何も言わない。がらんどうの瞳だと、僕は思った。




2014.7.13