29.
「お前の兄貴――蓮、言うたか。あいつを殺した時のこと、今でも思い出すと腸煮え繰り返るわ」 歌うような、懐かしむような軽やかな口調に滲む侮蔑は、額から一筋の血を流す神木へ向けられている。その冷ややかな視線は揺るがない。 朝比奈の腕が振り上げられ、神木の頭部を打ち付ける。呻き声と共によろめいた神木が腰を曲げた瞬間、その腹部に膝が叩き込まれた。 血反吐が見えた。 「神木!」 血溜まりの床に神木が蹲る。アイロンの掛かった綺麗な白いシャツが、一瞬にして赤く染まった。起き上らない神木を尚も朝比奈が蹴り上げる。 鈍い音がした。床を滑った神木は顔を上げない。 執拗な暴力の嵐だ。血塗れの神木に、朝比奈の息が上がっている。銃を仕舞った朝比奈は懐からナイフを取り出した。先の連続殺人で使用された凶器もナイフだった。 「お前の兄貴はアホや。そう思わんか?」 僕は、否定の言葉を呑み込んだ。首筋に、銃口が向けられている。 顔を上げた神木は、床の血を浴びているけれど、先程と何ら変わらなぬ無表情だった。その視線はナイフを前にしても凍り付くように冷たく、真っ直ぐに朝比奈へ向けられている。そして、その透き通るような視線を一度も逸らすことなく、神木が言った。 「思うよ」 普段、偉人の名言を引用する自信に満ちた声だった。 「俺の兄貴は馬鹿だった。自分の命を犠牲にして、大して親しくもない他人を助けて、一銭の得にもならない名誉ばかり貰って……」 僕は、初めて神木の本当の声を聞いた気がした。 自嘲する風でも無く、嘆く訳でも無く、神木はまるで当たり前のことみたいに淡々と言う。 肯定が嬉しくて堪らないと、朝比奈が口角を釣り上げる。その口が何かを言おうとするのを遮るように、凛と声がした。 「でも」 神木が笑った。時が止まったのかと思う程に、美しい笑みだった。 男を本当に美しいと思ったのは初めてだった。否、これが同じ人間だと思えなかった。 「でも、俺はそんな兄貴を、誇らしく思う」 朝比奈の眉が跳ねる。その手に握られたナイフの切っ先まで力が込められているようだった。 それでも、神木は状況すら忘れたような勝ち誇った顔で言う。 「俺の兄貴はヒーローだった!」 言い放った瞬間、ナイフが鋭く光った。 吸い寄せるように胸倉を掴み上げた朝比奈から表情が消えた。真ん丸に見開かれた双眸ばかりがぎらぎらと光る。神木は血塗れの両腕をぶら下げたまま言った。 「フランスの元陸軍軍人、シャルル・ド・ゴールは言った」 神木の口元が不敵に弧を描く。圧倒的に不利で、絶望的な状況なのに、何故だか僕は腹の底に力が蘇って来るような気がした。 「剣は折れた。だが、私は折れた剣の端を握ってあくまで戦うつもりだ」 |
30.
憤怒が迸ったのが解った。朝比奈のナイフが振り上げられ、一直線に下ろされる。 銀色の閃光が赤い世界に走る。血液が散った。刃が突き刺さる嫌な感触が、見ている僕にまで伝わって来るようだった。けれど、その刃は神木の掌に受け止められている――。 左の掌を刃が貫いている。受け止めたナイフはそのままに、神木の右足が上がる。自身の傷を顧みないその一連の動作が、見たことも無い彼の兄、神木蓮の死に様を想起させた。 頸動脈を切り裂かれた神木蓮が、連続殺人鬼を食い止める為に身を投げ出したように。 神木の右足が、ギロチンの如く朝比奈の肩へ振り下ろされた。 呻き声を漏らした朝比奈が倒れ込む。部下から動揺の声が上がる。けれど、間髪入れず神木はナイフを取り上げ、朝比奈へ向けた。 「朝比奈」 まるで生徒の出席を取るような堂々とした声で神木が言う。 「何か勘違いしているみたいだから、訂正するけど」 血塗れ手でナイフを握りながら、神木は何でも無いことのように言った。 「あんたは、俺がまるで脆弱で可哀想で臆病な子ウサギちゃんだと思っている。恵まれない環境に身を置く悲劇の人だと考えている。――でも、そうじゃない」 神木の透き通るような目に、静謐な光が宿る。 「勿論、過去が如何あれ今は恵まれているとか、結果ではなく過程に意味があるとか、そんな安っぽい意味じゃない」 神木の言わんとしていることの意味が解らず、朝比奈は眉根を寄せる。それは僕も同様で、無表情に淀みなくつらつらと語る神木だけが状況を全て理解する全知全能の神であるかのような錯覚に陥らせた。 「自分の行為が誰かの人生を破綻させたなんて勘違い、烏滸がましいよ。想像力が足りないね」 神木が慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。美しい面に得体の知れない何かが滲んでいるようで、僕は背筋が寒くなる。 「兄貴は死んだ。何故か」 「うちが殺した」 「如何して?」 「邪魔をしたから」 「違うね」 喘ぐように必死で言い返した朝比奈を、子どもの間違いを正すようにぴしゃりと神木が指摘する。 「其処にいたから、あんたは殺さざるを得なかったんだ」 「如何いう意味だ」 思わず口を挟んだ僕に、神木は美しい相貌を向ける。 人の介入出来ない大自然の奥地を覗き込んでいるような心地だった。 「例えば、兄貴はとんでもない乱暴者で、俺へ日常的に暴力を振るっていた。そこで俺は、憎い兄貴を始末する為に連続殺人犯の元へ送り込んだ」 「そんな馬鹿な」 「じゃあ、こうしよう。俺は肉親の死にも興味の無いサイコパスだ。ある日突然、人間の血みどろスプラッタが見たくなった。生贄として手頃な兄貴を選び、朝比奈の元へ誘導した」 「嘘だ」 からかっているのかも知れないが、僕は殆ど涙声で訴えた。 否定するが、確証はない。揺るぎない結果は残っているけど、其処に至る過程を誰も知らないし、調べようも無い。 偶然に巻き込まれたのではなく、必然に仕組まれたのか。 神木は手品のネタバラシをするように肩を竦めておどけてみせる。 「藤原は、優しいね」 幾度と無く聞いて来た言葉が、こんなに哀しく恐ろしいと僕は知らなかった。 神木は良い奴だ。僕はそう思っていた。だから、何の確証も無いのに、勝手に過去を想像して同情していただけなのかも知れない。 さて、と神木はナイフを持ち直す。対峙する凶悪犯、殺人鬼、朝比奈は蒼褪め目の前の神木を信じられないものを見るように凝視している。あの朝比奈が、こんな顔をすると誰が想像しただろう。 「終わったことは、もういいだろう。今更確かめる手立ても無いし、意味も無い。だけど、俺はあんたみたいな勘違いした馬鹿が嫌いなんだ」 謙虚さは日本人の美徳だよ、と神木が言う。 慣れた手付きでナイフを構え、神木は微笑む。普段の態を崩さない神木が不気味だ。 神木はさも当然のようにナイフを朝比奈の掌へ向けた。厳密には右手の人差し指――これまで銃の引き金を引いて来た指だ。 まさか、と朝比奈が戦くが、神木は意に介さない。 「あんたは今まで、何人こうして暴力を振るって来た? それが自分の身に返って来るとは思わなかったのか?」 冗談を言うような軽やかな口調ながらも、その目に浮かぶ冷たい光が本気だと伝えている。 「ムーミンに登場するスナフキンの名言に、こんな言葉がある。人の涙をもてあそんだり、人の悲しみをかえりみない者が、涙を流すなんておかしいじゃないか。……違うかい?」 朝比奈の答えを待たず、神木はナイフを下ろした。 |
31.
ぶつり。 鈍い音がして、朝比奈の人差し指は切り離された。耳を塞ぎたくなるような絶叫が木霊する。血塗れの世界に今更指一本分の血液が混ざったところで、変化なんて無い。 喚き暴れる朝比奈にも眉一つ動かさず、神木は振り下ろしたナイフを再び持ち上げる。 神木に表情は無い。 「何に祈る?」 誰も動けない。朝比奈も、その部下も、人質も、僕も動けない。 「神なんていない」 はっきりと、拒絶するように神木が言った。 皆が押し黙った。神木に表情は無い。綺麗な面は能面のようになり、僕等は呼吸すら儘ならない。 数秒の沈黙の後、神木がにこりと微笑んだ。あからさまは作り笑いだった。 怖いと、初めて神木に対して僕は思った。綺麗な神木の顔は作り物のようで、虚ろな瞳は底無し沼を覗くような心地だった。 そのまま神木はナイフの切っ先を朝比奈に向ける。今度は、確実にその命を奪おうと首筋へ狙いを定めていた。 あっと思う間もない。 世紀の大悪党、平成のジャック・ザ・リッパー、朝比奈香理は死んだ。殺されたのだ。 彼女の傷口から流れ出る血液が僕の膝を染めた瞬間、言い知れぬ衝動が腹の底から込み上げた。表面張力から液体が溢れるように、僕の口からは意識しない叱責が零れた。 「如何して……」 神木は依然として、血塗れのナイフを弄んでいる。掌を染める返り血が生々しいけれど、神木は気にする素振りも無い。 「何で!」 小首を傾げた神木は、平成と何ら変わらない。綺麗な面が一層不気味だった。 神木が何かを言おうと口を開く。その、瞬間だった。 弾かれるように扉が開け放たれた。室内に満ちていた血腥さが霧散する。 疾風の如く現れたその人影に、僕は覚えがある。ツンツン頭も、鋭い視線も、派手なシャツも知っている。 緊張感が破裂した。躍り出た影は一直線に部屋を駆け抜け、ナイフを翳す神木を弾き飛ばした。否、殴り飛ばしたのだ。 僕は、幻を見ていたことに気付いた。 |
32.
植嶋はボロボロだった。銃創でない怪我はまるで集団暴行でも受けたかのようだ。そして、その有様を僕はつい最近も見たのだ。 神木を引き留めた友人の存在を思い出す。此処へ訪れようとした神木を引き留めた植嶋を、力ずくで振り払って来たのだろう。 殴られた神木が勢いよく床を滑った。圧倒される部下や僕等人質を余所に、武装した特殊部隊が突入する。目まぐるしい状況の変化に僕は付いて行けず、何が嘘で本当なのかも解らない。 「神木……!」 振り絞るような声で、植嶋が呼び掛ける。ゆっくりと上体を起こした神木は泣き出しそうな顔をしていた。 殴られたのは神木なのに、植嶋こそが痛みを堪えるように眉を寄せている。 距離を詰めた植嶋が、神木に縋るように掴み掛かる。 「何で!」 特殊部隊に捕縛された朝比奈は茫然自失といった調子だ。首筋には確かに一筋の傷があるが、引き摺られていく朝比奈は死んでいない。振り下ろされたと思ったナイフは僕の幻だったのだろうか。それとも、有り得た未来だったのだろうか。 ナイフは確かに振り下ろされたのか。突き刺さらなかっただけで、神木は殺意を持って凶器を握っていたのか。 「植嶋は、俺が、兄貴の復讐で朝比奈を殺そうとしたと思うの?」 僅かに頬を腫らして、幼子のように神木が言った。 植嶋も僕も否定しなかった。そういう感情が、少なからず神木にあると思ったからだ。否、違う。そう思いたかった。 子どものように、人を殺そうとした直後にも関わらずきょとんと小首を傾げる神木にもそんな感情があると思いたかった。 神木が言った。 「これは正当防衛だ。朝比奈は脱獄した死刑囚で、殺人鬼だ。法律としても感情としても責められる謂れは無いよ」 「過剰防衛だ。彼女は抵抗していなかった」 「抵抗されたら、俺達は皆殺しだったよね」 神木が何でも無いことのように言う。 それでも怒りの収まりの付かない植嶋に、神木はやれやれといった調子で肩を竦めた。 「じゃあ、こうしよう。朝比奈は大学を占拠し、罪の無い学生や職員を無差別に殺戮した。けれど、朝比奈は大勢の遺体の前で罪の意識に苛まれて、自殺した」 「出鱈目だ!」 「なら、逃げ惑う俺達は運悪く朝比奈に遭遇した。俺は兄貴の仇である朝比奈を前に逆上して、殺してしまった」 「違う」 「それじゃ、朝比奈は優秀な部下である信奉者に、狂信の余りに殺されてしまった。それとも、くしゃみをした時についうっかり自分の頸動脈を切り裂いて死んでしまった」 「ふざけんな! そんな事実は無かった!」 「あるんだよ。事実は幾らでも作れる。それが真実で無くてもね」 ナイフを捨てた神木に、既に殺意は無い。 「事実なんて誰にも解らないんだ。通り過ぎて消える過程よりも、残される結果が重要だ」 はっきりと言い切った神木の話は解らない訳じゃない。 でも、それでは余りにも救われないじゃないか。立ち上がった神木は、サーカスのピエロが幕を下ろすように深々と頭を下げた。部屋に突入した特殊部隊だけでなく、壁の向こうからけたたましい足音と何かを探す人の声がする。間も無く警察が事態を収拾するのだろう。僕は言葉を失ったまま、惨劇に礼をする神木を見ていた。 これでいいのか。本当に、これで? 解らない。真実を闇に葬って、自分の感情すら隠し通し、神木はまたいつも通り笑っているのだろうか。本当に? 朝比奈は生きている。神木が殺意を抱き凶器を振り上げた結果は残っている。 神木の顔が静かに上げられた――、その瞬間、僕の視界は影に遮られた。 植嶋は神木の顔面を横殴りに弾き飛ばしていた。 呆気に取られた僕及び被害者一同が息を呑む。 「――何してんだよ、植嶋!」 勢いよく吹き飛んだ神木は壁に衝突し、起き上らないどころか身動き一つしない。 植嶋は僕の叱責に目を丸くして、言った。 「ごちゃごちゃ言ってて気に食わないから、殴った」 「おいおい・・・・・」 言いつつ、僕はそれが誇らしかった。自分の身を顧みず、身を挺して庇い、引き留め、有無を言わさず殴ってくれるような友達を、本当に欲しがっていたのは、神木自身だったように思った。 |
33.
後日、シズクちゃんに聞いた話。 神木葵の兄、蓮は品行方正で出来た人間だったそうだ。けれど、それは警察に就職してからのころで、以前は暴走族や暴力団との関わりのある危険な男だと言われていた。 兄弟喧嘩の延長で、神木が入院することも一度や二度では無かったらしい。 それが兄弟喧嘩なのか、一方的な暴力だったのか、神木が真実を語ることは無いのだろう。 そして、もう一つ。 朝比奈の家から神木葵の隠し撮り写真が大量に発見された。中にはナイフで切り刻まれている写真もあり、朝比奈の神木への異常な執着が窺えた。 その写真の中には、中学時代の神木を襲撃する為の通学経路をチェックした地図もあった。赤線で記された道は、神木蓮が殉職した場所と一致する。 神木蓮は意図的に巡回路を変更していた。それは弟が毎日通過する道だった。 事実は残った。だが、真実は解らない。 けれど、解らないままでいいのだろう。 神木葵は、兄を恨み、自身の手を汚すことなく葬ったかも知れない。 朝比奈は、無差別殺人鬼ではなく、一人の青年へ異常な執着を持ち、末に暴走した憐れな人形だったかも知れない。 神木蓮は、日常的に弟へ暴力を振るう乱暴者だったかも知れない。 兄は弟を守る為に殺人鬼と対峙したかも知れない。 弟は全てを悟り、二人を葬る為の計画を立てたかも知れない。 全ては悪い偶然が重なった結果かも知れない。意図的に仕組まれた恐ろしい結果だったかも知れない。 けれどもう、何も解らないのだ。 誰にも知られないことを望んだのは、神木自身なのだから。 |
2014.7.14