33.




 何も無かったかのようだった。
 小脇に参考書の類を抱えた神木は、一般生徒の群れに紛れ込んでいる。周囲の生徒は其処に神木がいることは勿論、殺人未遂者がいるとは夢にも思わないだろう。神木の存在を知覚しているのは、恐らく僕だけだった。
 あの事件から一月近くが経過し、季節は夏になった。大学は一時休校措置が採られ、生徒の元にはマスコミが押し寄せた。世間が漸く落ち着いた頃、大学は講義数が増やされ開校された。
 神木は颯爽と講義室から去って行く。透明人間の如く誰にも気付かれない。僕は神木を呼び止めていた。


「神木!」


 神木が、胡乱な眼差しのままに振り返る。声に反応した数人が視線を巡らせるが、終には神木まで行き着かないままに消えた。
 僕が駆け寄っても、まるで興味が無いように神木は半身を背けている。掛ける言葉を見出せず、形にならない声を発する僕を力無く笑い、神木が言った。


「これから授業?」
「あ、ああ……」


 当たり障りのない世間話で、神木がこの遭遇を切り上げようとしているのが解る。けれど、僕には神木を引き留めるだけの手段が無かった。このまま何もせず離れてしまえば、もう二度と会えないような危機感を覚えた。
 沈黙する僕を、再度神木が笑った。


「如何したら良かったのかな」
「え?」
「何が正しかったと思う? ずっと考えていたんだけど、ずっと解らないままなんだ」


 自嘲するように言った神木が、何故だか僕には泣き出す寸前の子どものように見えた。


「いつもそうなんだ。考えて考えて考えて、最良の選択、判断をしようとするんだけど、気付いた時にはもう間に合わない。全部終わってる」


 神木の指す事柄が、僕には解るような気がした。
 兄を失った日、朝比奈にナイフを振り上げた瞬間。それに至るあらゆる切欠に、神木はきっと気付いていた。そして、対応しようとした。けれど結局、どれも間に合わなかった。


「巻き込んで、ごめんな」


 僕は首を振った。当然だ。神木に落ち度は無い。


「藤原は、優しいね」


 慰めるような神木を、僕は労わるべきだった。
 掛けるべき言葉を吐き出せず、神木を引き留めることも出来ないまま、去って行く背中をただ見守っていた。

 僕には解っていたんだ。
 神木が本当に欲しかったのは、労りでも慰めでも無かったってこと。
 間に合わなかったのは神木の思考でも行動でもなく、周囲の大人達だったってこと。
 朝比奈にナイフを振り上げたあの日、容赦無く拳を振り上げた植嶋のような存在を、神木はずっと求めていたんだろう。

 あの時、それは僕の役目だった。
 神木がナイフを握った瞬間に、手が届いたのは僕だけだった。

 止めて欲しかったんだ。それが甘えだなんて、誰が言える?

 あの時、神木がナイフを握らなければ僕等の命が脅かされていた。朝比奈が再び逮捕されなければ、制裁を受けなければ、被害者遺族や警察は、今も憎しみに囚われていただろう。全てを治める結末を知っていた。だから、感情に蓋をして実行へ移したんだ。

 けれど。

 あの無表情に隠された悲鳴に、僕は気付いていた。気付いていた筈なのに、僕は素通りしてしまった。

 神木がナイフを振り上げたあの瞬間。

 誰か助けてくれ。

 声にならない声がする。雑踏に消えて行く背中へ伸ばした手は、届かなかった。




34.




 植嶋が大人しくなった。
 何時しか親しくなっていた僕の元に、そんな話が流れて来た。
 神木と植嶋がいなければ、僕の大学生活は至って平凡そのものだ。けれど、何かが明らかに物足りない。一昔前の熱血漫画みたいな青春を求めてはいないけれど、このまま平々凡々と毎日を消費するのも虚しかった。だから、僕は植嶋の元へ向かった。
 何時だって精力的で、合コンと言う名の飲み会を渡り歩いている筈の植嶋は、平和そのものの中庭でぼんやりと口を半開きにして座り込んでいた。彼の周囲に人はいない。抜け殻のようだと、僕は思った。
 植嶋。
 僕が呼び掛けて数秒、漸く気付いたみたいに植嶋は虚ろな目を向けた。


「おお、久しぶりだな」


 嵐のような植嶋が普通の受け答えをするだけで驚愕する。
 それきり黙った植嶋は、やはりぼんやりと虚空を眺めているだけだ。僕は隣に腰を下ろした。


「植嶋が大人しくなったって、噂が流れてるぞ」
「はは、俺って人気者だなー」


 力無い笑いも、植嶋らしくない。
 僕は何か話題を切り出すべきか逡巡し、結局黙った。中庭は、あんな惨劇があったとは思えない程、長閑に、平和に、穏やかに時間が流れている。


「あの日、俺、神木に会ったんだよ」
「あの日?」
「事件の日。あいつ、何してたと思う?」


 あの事件の日、僕は神木を見失った。それから植嶋と遭遇し、兄の仇である殺人鬼の元へ自ら赴くまでの空白を僕は知らない。


「一人で、あの軍隊みてーな殺人鬼集団を制圧しようとしてたんだぜ」


 殺人鬼という言葉に、何人かが視線を寄越した。あの日は皆が性質の悪い夢を見ていた。けれど、あれは夢ではなくて現実で、今も其処此処に見えない傷が残っているのだ。
 植嶋は虚ろだった目に僅かな光を映し、僕を見た。


「武器持ってる殺人鬼相手に、背後から首筋に踵落とし。銃を向ける奴を回し蹴り。アクション映画みてーに、鮮やかに敵を蹴散らしてたんだぜ」


 なあ、信じられるか。俺と同い年の奴が、殺人鬼相手に立ち向かってたんだぜ。
 愚痴るように言う植嶋は、全てが不満だと訴え掛けているようだった。


「こいつなら、本当に制圧出来るかも。いいや、こいつ以外に助けは無い。そう思うくらい、すげー強かったんだよ」


 でも。植嶋が言う。


「止めなきゃって、思ったんだ。危ねーことすんな。隠れてろ。警察が必ず助けてくれるから、こんな無謀なことすんなって引き留めたんだ」
「当然だな」


 言いながら、僕は迷った。
 同じ立場にいて、僕は本当に植嶋のように止めることが出来ただろうか。神木ならきっと、と期待して丸投げしなかったと如何して言える。


「引き留めたらさ、神木が言ったんだよ。俺の問題だから、引っ込んでろって」


 神木がそんなことを言うだろうか。実際はもう少しオブラートに包んだだろう。
 植嶋は続ける。


「引っ込んでられねーだろ、普通。だって、友達が危ないことしてたら、普通止めるだろ」
「うん」
「なのに、止めたら、あいつ変な顔したんだよ。こう、泣き出す寸前みたいな、苦笑いみたいな、何とも言えない顔。それで、意味解んねーこと訊いて来たんだ」
「何て?」


 植嶋は難しそうな顔をして言った。


「何が正しかったと思う、って」


 嗚呼、と思った。それがあの時の、否、それまでの神木の抱えて来た全てであるかのように、妙に納得した。


「俺のこと振り払って行こうとするから、胸倉掴んで止めたんだ。そっから殴り合い。何してんだって思ったけど、兎に角、こいつ止めなきゃって思って」
「うん……」


 僕は抱えた膝に顔を埋めた。
 普通のことなんだ。植嶋にとっては、当たり前のことなんだ。それが僕には出来なかった。


「ぶん殴られて、動けなくなって。あいつマジつえーのな。全く歯が立たなかった。そしたら、あの訳の解らない校内放送だろ。神木、俺のことなんて無かったみたいに走って行っちまったんだ」


 その先を、僕は知っている。


「俺も急いで追い掛けたつもりだったんだけど、間に合わなかったんかなぁ」


 殺人鬼からの狂気に満ちた暴力を受けた血塗れの神木は、一瞬でその形勢を逆転させた。そして、殺人鬼を殺そうとナイフを振り上げたのだ。
 振り上げたナイフは、間一髪、植嶋に止められた。植嶋が来なかったら、神木は人を殺していただろう。
 あれは、間に合わなかったのかな。間に合わなかったのは植嶋ではなくて、僕だったんだ。あいつがナイフを握る前に、僕は何としても止めるべきだった。彼の兄を殺した凶器を、神木が握る前に止めなければならなかった。


「あのナイフを握る前に、止めてやりたかったな」


 嘆くように、悔いるように植嶋が言った。全く彼らしくないけれど、同感だった。




35.




 鬼塚シズクちゃんは、可愛らしい少女だ。ふわふわした服装で思わず守ってあげたくなるような女の子なのに、物事に異様に詳しい情報屋だった。
 僕と植嶋は連れ立って、シズクちゃんの元へ向かった。シズクちゃんは似たような服装をした女子の集団の中で、控えめに可愛らしく微笑んでいる。


「おーい、鬼塚ぁ」


 何の躊躇も無く植嶋が呼ぶので、僕は面食らった。
 シズクちゃんは振り向き、手を振った。胸がきゅっと詰まるような可憐な動作だと思った。
 友達に何か声を掛け、シズクちゃんが小走りにやって来る。


「ちょっといいか?」
「神木君のこと?」


 植嶋の問い掛けに被せるように、シズクちゃんが言った。黙って頷く植嶋に、シズクちゃんはちょっと困ったように笑った。


「神木君のことって、あんまりよく解らないんだよね」
「お前、情報屋じゃねーのかよ」
「しーっ! そのことは秘密なんだから!」


 口の前に指を立てて、シズクちゃんが言う。


「情報屋だなんて知られたら、白い眼で見られちゃうよ」
「そうか? すげーなって思うけど」


 そういう植嶋は、本当にデリカシーが無いなと思った。
 確かに、情報屋の友達なんて信用出来ないだろう。


「何で神木のこと解んないんだよ。お前、何だって知ってんじゃん」
「何でもじゃないよ。神木君はちょっと違うんだよね」


 シズクちゃんの言いたいことが解らないまま、僕は首を傾げた。
 如何いう意味だよ。何が違うの。植嶋が容赦無く詰め寄る。馬鹿なのか、大物なのかよく解らない。
 シズクちゃんは周囲に目配せして、短く息を吐いた。


「藤原君、手、出して」


 言われて僕は素直に右手を出した。それを躊躇なくシズクちゃんが取る。
 動揺した僕に、シズクちゃんが言った。


「朝ご飯、コンビニでおにぎりを二つ買ったんだね。鮭と和風シーチキン。店員さんが可愛くて見詰めてたでしょ。楓ちゃんに言っちゃうよ?」


 悪戯っぽく笑って、シズクちゃんが言った。
 僕は驚いた。そんなこと今の今まで忘れていたし、誰かに話した覚えも無い。見られていたのだろうか。


「講義もぼんやり聞いてたから、憲法の授業の出席カード提出し損ねて慌てて教授を追い掛けたんだね。あらら、教授も酷いねぇ。ちゃんと出席してたことくらい見てた癖に、受け取ってくれなかったんだ」


 如何して、それを知ってる。
 僕は言葉を失くした。
 シズクちゃんは微笑んだ。


「これが、私の情報通の種明かし。別に情報を収集してる訳じゃなくて、勝手に集まって来ちゃうの」
「いやいや! 意味解んねーって!」


 凄いな! 超能力?
 興奮気味に植嶋が言う。シズクちゃんが答える。


「触れた物や人に残ってる記憶が、勝手に頭の中に入って来るの。昔からそうだった。こういう体質だから、情報屋なんて言われるようになったんだよ。酷い奴でしょ」


 おどけるようにシズクちゃんが言うけれど、僕等は頷かなかった。
 勝手に頭へ入って来る情報が如何いうものかは解らないけれど、彼女がそれを自ら望んでいるとは思えなかった。


「その人に触れたら印象に残ってる出来事なんかが浮かぶし、場所に触れたら出来事が解る。だから、あの事件で公にされなかったことも大体は把握してるよ」


 超能力の存在に、僕は肯定的だ。サイコメトリーという能力があるならば、これまでのシズクちゃんの言動も納得出来た。
 シズクちゃんは苦く笑った。


「あの事件の後、お兄さんの葬儀が終わったら、神木君は普通に登校して来たんだよ。私達は接し方が解らなくて腫れ物に触るみたいにしてたけど、神木君が余りにも普段通りだったから、少しずつ日常に戻って行ったの」


 神木らしいな、と思う。けれど、中学生の行動としては異常だった。
 唯一の肉親だった兄を殺された数日後に、普段通り振る舞えるだろうか。


「私、何かおかしいと思って、何気なく神木君に触ってみたの」
「何が見えた?」


 何か不満そうに植嶋が言った。シズクちゃんは苦しげに眉を寄せて答えた。


「真っ黒だったの。何も見えないし、何も聞こえないし、何も感じなかった。そんなこと初めてだったから、すっごく吃驚したんだよ」


 何も見えないし、何も聞こえないし、何も感じない。
 それが全ての答えであるように、僕には思えた。
 殺人犯、朝比奈香理を見る神木の目はがらんどうだった。堪え難い程の無関心だった。きっと、同じ感情を、神木は周囲へ向けていたのだ。
 




36.




「神木のところに行くぞ」


 植嶋が声を上げた。驚いたらしいシズクちゃんが小動物のように肩を跳ねさせる。
 途端に駆け出した植嶋の無鉄砲ぶりにはもう慣れっこだった。僕は息を一つ零した。


「僕も行って来る」


 シズクちゃんに言い残して、僕は背を向けた。
 後ろで、シズクちゃんが言った。


「神木君のこと、宜しくね」


 呟くように渡された言葉は、恐らくきっと懇願だった。
 僕はそれを無言で頷いて受け取った。
 植嶋は弾丸のように廊下を駆けて行く。本当に足が速い。この植嶋ですら追い付けなかったという神木はどれだけ俊足なのだろう。


「お前、神木の居場所、解ってんのかよ!」
「あの馬鹿は大体図書室にいるよ!」


 植嶋が叫んだ。初耳だったが、なるほどと納得出来た。だから、あの日も植嶋だけが神木を見付けられたのだ。大学が占拠されたあの日も、神木は図書室にいたのだろうか。あの混乱を極める校内で、悠々と図書室で本を読んでいたのか?
 図書室は東棟の二階だ。渡り廊下を越えて植嶋が両開きの扉を押し開けた。けたたましい音と共に開いた扉に、利用者が一斉に振り返る。植嶋は注目されることも気にせず堂々と歩いて行く。僕は周囲へ謝罪を込めて頭を下げながら後を追った。
 植嶋の足に迷いはない。図書室奥の個人机コーナーだ。勉強に勤しむ学生の背中が並んでいる。イヤホンをしている生徒が多く、突然の乱入者にも振り返らない。
 その最奥、孤島のように机が一つ、ぽつりと離れて設置されている。
 初め、其処は無人に見えた。けれど、目を凝らすと陽炎のようにぼんやりと背中が浮かび上がる。目の覚めるようなライムグリーンのシャツを着た細く薄い背中だ。


「神木」


 何時になく真面目な声で、植嶋が呼び掛ける。
 ライムグリーンの背中が振り返る。
 神木葵が、穏やかな微笑みを浮かべていた。


「相変わらず、喧しいな」


 慈愛に満ちた教育者のような眼差しで、神木が言う。植嶋は傍まで歩み寄ると、乱暴にその肩を掴んだ。


「ちょっと、面貸せよ」


 何処のチンピラだ。僕は心の中でツッコミを入れる。
 神木は溜息と共に肩を落とし、やれやれと言った調子で立ち上がった。足元に置いていた光沢のある黒のショルダーバッグを肩に担ぐ。机の上に広げていた辞書のような分厚い本は日本語では無かった。僕等の選択しているドイツ語でもない。多分、ロシア語だ。
 丁寧に鞄へ本を仕舞い込み、神木は先導するように歩き出す。負けず嫌いなのか植嶋はその背中を追い越して図書室の扉を押し開けた。

 出遅れた僕だけが司書に叱られた。



37.




 裏庭に辿り付いたと同時に、先を歩いていた植嶋が勢いよく振り返った。同時に振り上げられた拳は神木の顔面に向けられている。
 あ、と思う間も無い。神木は何でも無いことのようにそれを避けた。
 植嶋がつんのめった。掠りもしなかった拳を悔しそうに見ている。


「何、怒ってんだよ」


 忙しい奴だな、と神木が言う。
 怒っていることは、解るのか。それを察しているとは思えない態度だけど。


「怒っていることは解るのに、何に怒っているのかは解らないのかよ」


 忌々しげに植嶋が吐き捨てた。
 飄々と神木は答える。


「俺は超能力者じゃないからな。大方、シズクちゃんに何か聞いたんだろ。前にも言ったけど、それはお前の主観で偏見だからな。俺の感情を無視して、自分の思いを押し付けて殴り掛かるって如何なんだよ」


 なあ。神木の問い掛けに被せるように、植嶋が返した。


「お前と同じだろうが」
「何?」
「前に、お前が俺を殴った時と同じだろ。間違ってると思ったから、殴ったんだ」


 不発だったけどな。舌打ち交じりに植嶋が言う。
 神木が笑った。不敵で、何処か弱々しい笑みだった。


「じゃあ」


 その先の言葉を、僕は知っている。


「じゃあ、何が正しかったと思う?」


 植嶋が奥歯を噛み締めるように表情を歪めた。
 次の瞬間、振り絞るように植嶋が叫んだ。


「正解が如何とか、知らねーよ!!」


 神木は感情の読めない胡乱な眼差しで茫然と立っている。


「何で相談しないんだ! 言えば良かっただろ!」


 事件の起こる前、起こった日、終わった後。神木は何時だって全部一人で片付けて来た。正解か不正解かを問うことはあっても、如何したらいいかなんて一言も相談しなかった。もしも、一言相談してくれていたら、あの日、神木はナイフなんて握らなかったかも知れない。
 けれど、僕は神木を庇いたかった。
 僕なら相談出来たか? 一体、誰に、如何やって言えばいい?
 それでも、植嶋は容赦無く叱責する。殴り掛かるように神木の胸倉を掴むと、恫喝の如き剣幕で捲し立てた。


「神木はごちゃごちゃうるせーんだよ!」


 不貞腐れた子どものような顔だった。けれど、神木に表情は相変わらず無い。


「お前は何がしたいんだよ。……偉人の言葉ばっかり引用して、人生悟りましたみたいな顔してさあ!」


 責め立て詰め寄る植嶋に、神木は眉一つ動かさない。綺麗な顔が一層魂の無い人形のような印象を強める。


「誰かの言葉じゃなくて、自分の言葉を話せよ! お前の意思は何処にあるんだよ!」
「無いよ」


 それは聞き違いかと思う程に、胡乱な眼差しの神木が発したとは思えないはっきりとした声だった。


「お前に打ち明けたいことなんて塵一つ無いんだよ。何の期待もしていない。当然、信頼もしていない。――それで、いいじゃないか。もう全部終わったんだ。終わってしまったんだ。今更何が変えられるっていうんだよ。何にもならないなら、もう放って置いてくれよ」


 半ば植嶋を放逐するように言い捨てて、神木は掴み掛かる植嶋の手を振り払った。そっぽを向き、そのまま歩き出してしまいそうな様子に僕は狼狽するが、植嶋は毅然とした態度を崩さない。
 じゃあ。
 植嶋が、言った。


「じゃあ、何でお前はそんなに後悔してるんだよ」


 油の切れた機械のように、神木の足が止まる。
 振り返らない細い背中へ、植嶋は尚も問い掛ける。


「終わったんだろ? もういいんだろ? じゃあ、笑ってろよ! お得意の哲学でも考えてろよ! 今更何が正しかったかなんて、思い悩んでいるなよ!」


 その通りだ。
 神木の言葉は正論だったから、僕は反論出来なかった。でも、正論だけが正解とは限らないのだ。
 神木が振り返る。秀麗な顔が、泣き出しそうに歪んでいた。


「なら、」


 何かを言おうとして、神木は口を噤んだ。その先にあるものがきっと、彼の抱え続けた本音なんだろう。
 僕が促そうとした手前、植嶋は飛び掛かるようにして再度その胸倉を掴んでいた。


「うるせー!」


 怒鳴ったのは植嶋だった。


「お前のごちゃごちゃした話はもう沢山だ。終わったんだから、女々しく引き摺ってんじゃねーよ」


 何かを言おうとして、結局、神木は口を固く閉ざしたままだった。

 僕等はそれまでの剣幕も無かったように、連れ立って帰路を辿った。
 植嶋も神木も普段と変わらなかった。




2014.8.3