38.




 男は香坂と名乗った。
 猛禽類を思わせる鋭い眼差しが印象的で、僕は出会い頭に刺されるのではないかと懸念する程だった。香坂さんは、僕の名前を確認すると懐から警察手帳を取り出して見せた。ドラマみたいだなと呑気に考えつつも、緊張の解けない僕を気にする様子も無く、砕けた口調で言った。


「神木葵と親しい?」
「まあ、それなりに」


 僕の煮え切らない返答にも関わらず、香坂さんは嬉しそうに口元を緩めた。
 何となく、悪い人ではないような気がした。


「葵の兄貴の同僚だったんだ。思い出したくないかも知れないが、先月の大学占領事件について訊かせてくれないか」
「僕に話せることなんて、何も無いですよ」
「そうかも知れない。だが、あの講堂で唯一状況を見ているのは、君だけなんだ。どんな些細なことでもいいから、教えてくれ」


 真剣な表情に、縋るような懇願が滲んでいる。
 それでも僕が答えずにいると、香坂さんは僅かに表情を強張らせて言った。


「朝比奈の狙いは、やはり、葵だったのか?」


 確信めいた質問に、否定は求められていなかった。予定調和の確認作業だ。けれど、香坂さんの声は否定を望んでいるように感じられた。
 僕は黙っていた。そんなこと、僕には解らない。


「朝比奈の部屋から、葵の盗撮写真が発見された。それも、尋常でない程の、中学生から今に至る成長の記録だ。今のところ、二人に接点は見つかっていない。だが、六年前の無差別通り魔事件でも、同じことがあったんだ。だから、きっかけは葵だったのではないかと此方は考えている」
「それは」


 声が震えた。けれど、言わなければならないと思った。


「それは、暴論です。神木に落ち度なんて無かった」
「勿論、そうだ。二人はただ、同じ地区に所在していただけだ」


 そんな理由で疑われては、一体どれ程の人が被疑者になるのだ。ましてや、神木は透明人間と呼ばれる程に存在感の無い男だ。
 僕が反論する前に、先手を打つように香坂さんは言った。


「疑わしきは罰せず、だ。今更、葵に何か罪があったとしても裁こうとは思わない。未成年だしな。ただ、俺が個人的に知りたいだけだ」
「……本人に直接訊いたらいいじゃないですか」


 其処で香坂さんは困ったように眉を寄せた。


「俺が訊いたところで、適当にはぐらかされるだけだよ」
「どうして、そんなに」


 苦笑いを浮かべて、香坂さんが言った。


「俺があいつの兄貴の友達で、保護者だからだよ」


 神木の保護者。
 普段、あれだけ仙人然としている神記も未成年者だったことを思い出して愕然とした。忘れていたけれど、僕と同い年だ。


「殆ど名ばかりだけどな、知りたいんだよ」


 保護者とはいえ、現役の警察官を適当にはぐらかせる神木は何者なんだろう。
 香坂さんは苦々しく言った。


「真実は解らない。もう、葵も今更口を割らないだろう。あいつの本心は誰にも解らない。全ては闇の中でも、良いのかも知れないが」


 香坂さんは、無表情になった。


「朝比奈の死刑が確定した。異論は無いだろうが、ケジメは着けておきたい」


 それが警察官である香坂さんの為でないことは、明らかだった。
 香坂さんは惰性や興味本位で調査しているのではない。真摯に、神木を守る為だけに調査している。少なくとも、僕にはそう感じられた。


「このままじゃ、また六年前みたいに、葵は蚊帳の外で無理矢理結末を迎えさせられる羽目になるからな」


 ふっと息を吐き出すように、香坂さんは言った。


「葵はボーダーなんだよ」
「ボーダー?」
「所謂、サイコパスだ。罪の意識が無い。もしも、今回の件でそれが立証されたら、警察の管理下に置かれることになる」


 そんなものは不本意だと、香坂さんが呟いた。




39.




 サイコパスは社会に於ける捕食者だ。僕等が知らないだけで、この人種は社会の其処此処で、草食動物のような顔をして生存しているのだ。
 犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは、彼等を以下のように定義している。
 良心の異常な欠如。他者に冷淡で共感しない。慢性的に平然と嘘を吐く。行動に対する責任が全く取れない。罪悪感が皆無。自尊心が過大で自己中心的。口が達者で表面は魅力的。
 オクスフォード大学の心理学専門家のケヴィン・ダットンは、極端な冷酷さ、無慈悲、エゴイズム、感情の欠如、結果至上主義と定義する。
 インターネットで検索した結果を眺め、僕はぼんやりと友人を思い浮かべている。
 神木葵は、サイコパスかも知れない。
 犯罪を取り締まる刑事が言うのだから、それなりの説得力はある。けれど、僕が見て来た神木葵はサイコパスと呼ばれる人種ではなかったと思う。
 だけど、それも僕の主観で偏見なのかも知れない。希望的観測に過ぎないのかも知れない。
 兄の敵である殺人鬼を前に、ナイフを振り上げた神木を思い出す。秀麗に整った面に、憎悪や殺意の類は無かった。
 手元のスマートフォンから顔を上げる。定食屋の安っぽいテレビには、世間を震撼させた殺人鬼の死刑が大々的に報道されている。異例の早さでの執行の裏には、彼女の存在が社会に悪影響を齎すとした国家の陰謀がある。インターネットでは、早くも彼女を神聖視する輩も生まれている。
 彼女はサイコパスだった。己の欲望を満たす為に、無関係の他人を狡猾な手段で幾人も殺害した。彼女の狙いは、存在感が希薄なだけの青年だった。少なくとも、僕はそう思う。
 世間は、そう思わないのだろう。


「なあ」


 注文した天麩羅饂飩を半分も食べ終わらないまま、植嶋は子どもみたいに箸を弄んでいる。
 この男には見合わない胡乱な眼差しで、ぼんやりとテレビを眺めていた。


「何が正しいと思うって、神木が訊いただろ。俺、その時は勢いで、如何でも良いだろって言ったけど、もしかしたら、食い違っていたのかな」


 何が正しいと思う?
 一流マジシャンが手品を披露し、拍手喝采を受けたように、神木は堂々と言った。僕等は彼の考えなんて解らない。けれど、もしかしたら、あれは神木にとっての助けを求める声だったのかも知れない。
 僕は、考える。
 朝比奈香理は、サイコパスだった。けれど、その根底にあるのは、一人の青年に対する純粋なまでの慕情だったのかも知れない。
 神木葵は、苦渋の選択を下しただけなのかも知れない。
 この世はフィクションみたいなご都合主義ではない。如何程悩んで下した決断であっても、最良の結果が得られるとは限らないのだ。彼等が悩み抜いた結果は、世界にとって最悪の結末にしかならなかった。
 神様はサイコロを振らないというけれど、全てが予定調和だったのなら、この世界は地獄だ。少なくとも、神木の救いは何処にも存在しなかった。


「あの透明人間の考えなんて、俺は解んねーよ。でも、もしも、神木は全部の結末を予想していて、最悪の結末を回避しようと足掻いて、悩み抜いて選んだ結果が、最悪の結末にしかならなかったのなら」


 こんなに虚しいことは無いよな。
 すっかり伸びてしまった饂飩を啜り、植嶋が言った。
 僕は手元のスマートフォンを操作し、メール画面を開く。何の遊び心も無い文字だけのメールを眺め、返信を出し倦ねていた。


 渡欧するよ。今までありがとう。


 本文だけの簡素なメールだった。
 この国から去るという神木葵は、サイコパス認定を受けた。
 




40.




 見送りに行くよ。
 そう返したメールは、宛先不明で戻って来た。透明人間は、誰にも気付かれる事無く、この国から消失するのだ。それはまるで手品のように、見事な手際で。
 神木葵に関する情報は全て国に押収されたという。僅かながら接点のあった僕等は、警察から取り調べと、訳の解らないカウンセリングを受けた。まるで、神木葵という人間を消そうと躍起になっているようだった。
 催眠術がもっと発達していたなら、記憶操作されたのかも知れない。
 楓がそんな事を冗談ぽく言ったけれど、有り得る話だと思った。
 神木葵は何処へ消えたのだろう。あの存在感の希薄な青年を探すのは、警察だって至難の業なんじゃないだろうか。渡欧するというメールを、彼が送った保証はない。けれど、この動転する世界から彼が逃げ果せることを願うだけが精一杯だった。
 たった数ヶ月が慌ただしく、記憶が真空パックの布団みたいにぎゅっと詰まっている。
 それまでの校舎が使えなくなった為、別校舎へと移動させられた僕等は、ぼんやりと日常を過ごしている。あの植嶋だって、合コンや彼女の話を口にしなくなった。国からのカウンセリングを勧められている。モラトリアムだと言い張る僕等は、国という組織を相手に何処迄抵抗出来るのだろう。


「藤原君」


 ふと顔を上げると、あの猛禽類みたいな目があった。
 香坂さんは、心此処に在らずといった調子の僕を見下ろして、溜息を零した。


「カウンセリングを勧められているんだろう。受けたら如何だ」
「結構です」


 別に、反抗するつもりじゃなかった。別に、僕自身に何か変化があった訳ではない。事件は勝手に起きて、勝手に収まったのだ。僕はただの通行人に等しい。あの事件で見た惨状も正直、曖昧だった。
 香坂さんは、僕の前の席に座った。
 昼休みの校内は平和だ。本来ならこの場所にいた筈の透明人間のことなんて、誰も気にしない。
 僕は、尋ねた。


「香坂さんが、認定をしたんですか?」


 香坂さんは、苦い顔をした。


「俺にそんな権限は無い。専門家が、あいつのことを書面上で判断しただけだ」
「神木は、何処に行ったんですか」
「メールを送ると言っていたが」


 不思議そうに、香坂さんが言う。
 そうか。渡欧すると書かれたあのメールは、神木自身のものだったのか。そのことに、僕はまず安心する。


「少なくとも、この国であいつは生き難い。幾ら透明人間みたいに影が薄くてもな」
「香坂さんが、渡欧を勧めたんですか?」
「いや、あいつの意思だよ。認定されるまでの期間中は外出禁止だったんだが、その間に飛行機乗って行っちまった」


 すごい行動力だ。僕には真似出来ない。


「香坂さんは、神木がサイコパスだと思いますか」


 言ってみて、僕は質問ばかりだったことに気付く。けれど、香坂さんは気にする様子も無く答えてくれた。


「そんな訳無いだろ」


 口調はさらりとしているのに、其処には揺るぎない自信があるようだった。



「両親が死んだ時も、兄貴が死んだ時も、あいつは何食わぬ顔で生活していた。正当防衛とは言え、人間を一人殺すことに躊躇もしない。慢性的に嘘を吐くし、口も達者だ。ーーそれでも、俺はあいつが一人のガキとしか思えなかった」


 もう、解んねーよ。
 前髪をくしゃりと握り締めて、香坂さんが絞り出すように言った。
 もしかしたら、この人は神木の為に見えないところで奔走していたのかも知れない。彼を守る為に、たった一人で。それでも、神木には何も伝わらなかったのだろうか。
 この世界にヒーローはいない。救いの手は差し伸べられない。そんなことは、神木自身が一番知っている。だから、僕は祈ることしか出来ない。何も出来なかった通行人のモブでしかない僕は、彼の元へ救いの手が差し伸べられることを願うだけだった。
 




41.




「卒業旅行は欧州だな」


 昼休み、植嶋が唐突に言った。こいつが意味不明なのは何時ものことなので、僕は気にせずトンカツを頬張る。学生食堂のトンカツは揚げたてで、衣がサクサクして美味い。
 楓が白い眼を向け、すぐ何事も無かったかのように話題転換しようとするので、植嶋が声を荒らげた。


「いいだろ、欧州!」


 欧州は良いけれど、卒業旅行というのがおかしい。
 僕等は未だピカピカの大学一年生で、就活という山場を見てもいないひよっこだ。卒業を夢見る前に、課題の完遂が先決ではないだろうか。
 心優しいシズクちゃんが、相手にしなくても良いのに、わざわざ返答してくれる。


「何で、欧州?」
「決まってんだろ。あいつを、ぶん殴る為だ」


 以前殴られて、やり返そうとして失敗したことを未だに根に持っているらしい。
 息巻く植嶋を、楓が珍しく嬉しそうに見ていた。


「欧州の何処にいるのか、解るの?」
「香坂さんのところに、生存連絡でエアメールが届く。消印がころころ変わるらしいから、居場所を転々としているのかも知れないけどな」


 まるで犯罪者だ。僕は呆れた。けれど、居場所を転々としながらも彼が生きていることに安心する。


「あの馬鹿を、俺達で迎えに行くんだよ。そんなぶん殴って、言ってやるんだ。お前は何も間違っていないってな!」


 僕は、俯いた。両目に熱が集まって、そのまま溢れてしまいそうだった。
 きっとあの日、僕はその言葉を掛けてやれば良かった。それでいいよ、って、言ってやれたら良かったんだ。そうしたら、今も神木は此処にいられたのかも知れない。


「何を泣いてんだよ、藤原」
「泣いてない」
「俺は英語苦手だからな。お前が翻訳係をするんだぞ」


 勝手な奴だ。だけど、それでもいい。
 溢れそうな熱を如何にか呑み込んで。僕は顔を上げた。
 あいつにまた逢った時、僕は言ってやるんだ。現地の人も吃驚するような流暢な英語で、お前はそれでいいよ、って。



END...?


2015.10.3