25、キャプテン


 『七回表。バッター一番、蜂谷君。背番号六番。』

 大きな歓声と共に裕はバッターボックスに立った。
 一番から始まるこのチャンス、何としてもモノにする。下手をすればこれは裕の最後の打席になってしまう。

 4−4に追い付かれた阪野二高。互いに超高校級スラッガーを抱えているところを考えればまだまだ荒れるこの試合展開。今や重要なのは四番ではなく、ランナーだった。
 四番は出たランナー分だけ点を取って来る。沢山ランナーが出た方が勝ちに近い。

 阪野二高は全国一の俊足一番打者を持つ。だが、対する明石商業は俊足の選手を三人抱えていた。
 全国二位を相手に一歩も引かない阪野二高。その試合展開を観客は手に汗を握りながら見守っている。

 (こいつは出塁させたらあかんねん。)

 笹森はサインを出す。この一番打者を出塁させると言う事はほぼ失点に繋がる。
 ここで三振を取れたら最高だけども。だけど、それはもう三回の表に失敗しているのだ。タイミングをずらし一歩を遅らせ、完全に殺したはずの俊足は死ななかった。

 どうしたら殺せるのか。



 (俺の足は殺させねぇ。)

 たった一つの取り柄なのだから。これだけが武器で、たった一つの生きる道なのだから。
 こんなところで終わらない。

 (あと少しだけ…もってくれ…。)

 裕は構えた。体調の悪さが時間を追って悪化している。
 膝を刺すような痛みが襲う。いつガタが来るとも解らない身体なのだ。



 そんな試合を武藤は阪野二高側のアルプスに座り見ていた。
 昨日の試合で負け、武藤の夏は終わった。その仇とも言える相手、阪野二高。悔しいけれど、自分達に勝ったのだからこんなところで負けて欲しくない。

 (キャプテンならどんな時もふてぶてしく笑え。お前は柱なんだぞ。)

 何やら神妙な顔つきをした裕を見る。三回表の一塁滑り込みがまだ記憶に新しい為か嫌な予感がする。
 あの時、何処か痛めたのか。
 それでも、裕はグラウンドに立たなければならない。勝利の鍵を握っているのは紛れも無く彼なのだから。

 グラウンドから鋭い音が響いた。



 裕の打球は三遊間を綺麗に抜けた理想のヒットだった。余裕のスタンディングダブルで何事も無かったかのように裕は手袋を外しポケットに突っ込んだ。
 予定通りの展開に裕は一先ず安心する。



 一方、明石商業のエースは、疲れていた。
 明石商業と言えばシンカーの菖蒲と言われるくらいで、投手がいない。いる事はいるのだが、菖蒲ほどのコントロールと決め球を持っている投手は存在しないのだ。
 地区大会ならまだしも、甲子園のそれも準決勝で控えの投手を使う訳にはいかない。

 (ここで、負けたらあかんねん。)

 菖蒲はマウンドを踏み締める。
 ポタリと汗が落ちた。今日は暑く無いが湿気が多い。加えてコントロールが巧く定まらない。
 試合はもう後半。体力も消費されていく。

 それでも、菖蒲はサイン通りの場所に正確に投げた。審判はストライクを告げた。



 その後、二番の新と三番の禄高が三振で打ち取られツーアウト。ランナー二塁で回って来たのは阪野二高の主砲、四番・御杖拓海。
 三年のブランクをものともしない並外れた野球センスの持ち主。

 御杖がバッターボックスに立った時、アルプスが自然と揺れた。それは笹森がバッターボックスに立った時に等しい。つまり、御杖はこの試合の中で笹森に値する評価を得ているのだ。

 (また、雨が強くなった。)

 御杖はバットを掲げてホームラン宣言。しかし、気持ちは上の空だった。
 霧雨のようだった雨は本格的に降り出し、メットにぶつかっては弾けた。ピッチャーのコントロールも定まらなくなって来ている。これからはデッドボールにも気をつけなければならない。

 点数はあっという間に並んだ。この試合で重要なのは俊足のランナー、バッテリー。そして、四番。
 御杖の理想はさっき裕の打った綺麗なヒット。だが、同じところを抜けるのは無理だろう。

 (外野を抜くか。)

 御杖は構えた。
 一球目のボールを見送り、二球目のストレートを御杖は強く打った。打球はセカンドのグローブを避けて内野を越えた。地面スレスレの低いライナーはようやく地面に接触するとセンターとライトの間を鋭く跳ねる。
 ついに、その低いライナーはバックネットに衝突して動きを止めた。

 裕は三塁を蹴った。送球はまだ無い。
 “本塁滑り込み”は裕にとっては珍しくない話だが、この明石商業戦においては特別な意味を持っていた。
 春の大会、裕は二度も本塁滑り込みを笹森によって阻まれたのだ。たった一点の違いで負けてしまったのだから、その二回が成功していれば勝った試合だった。

 センターからの送球がセカンドを中継する。裕は速度を上げた。本塁は射程距離だ。
 だけど、滑り込まない。

 (失敗は三回しない。もう十分だ。)

 裕は地面を蹴った。
 セカンドから本塁への送球。裕は残り一メートルを切っても滑り込まなかった。

 裕は、走り抜けた。

 「…セーフッ!」

 審判の声を聞き、裕は片手を突き上げた。一回表の御杖のように。

 (滑り込むより、走り抜ける方が速かったりするんだよな。)

 裕は小さく笑い、ベンチへ戻る。
 春の大会から数ヶ月、ようやく裕は本塁へ到達した。



 (アイツ、また速なったな。)

 笹森は間に合わなかったボールを見つめる。点数は5−4と、また一点差に開いた。
 一番打者が出塁する、四番が一番を帰す。その悪循環が失点に繋がっている。それを止める為にまず、一番の足を殺そうとした。しかし、それは失敗に終わった。

 (俺ともあろう者が、準備不足や。)

 今、明石商業に一番打者の足を殺せる送球の出来る者はバッテリーを除いていない。殺せないのだ。なら、もっと楽な方法がある。
 四番を殺す。

 (四番殺すんは俺の仕事や。もう点はやらん。)

 笹森は前を見据えた。

 その後、明石商業は五番を綺麗に打ち取り、審判はチェンジを告げた。
 そんな中で一つのアナウンスが流れる。


 『ピッチャー市河君に代わりまして、背番号10番、久栄君。』


 阪野二高は、ピッチャーが交代。
 俊は荒い呼吸をしながらベンチの隅にいた。グラウンドに散っている仲間、マウンドに上った久栄を応援する事もなくただ俯いて。

 遡る事数分前。



 「…ピッチャー交代だ。」
 「は?!」

 突拍子もない裕の宣告に俊は勢い良く立ち上がった。
 作戦会議をしていて、皆が勝つ事を信じ団結している時だった。

 「何言ってんだ。俺はまだ投げる。」
 「馬鹿言うな。…俺はもう失敗しない。」

 地区予選決勝、甲子園の三回戦。二度も俊が崩れるまで気付けなかった事を裕は忘れない。
 この試合、キャッチャーの爾志は笹森との勝負に集中してもらう。だから、代わりにピッチャーの調子を見るのはキャプテンの仕事。
 出来る事なら五回で交代してもよかったくらいだった。

 「お前は崩れる。」
 「ふざけんな。崩れるもんか。」
 「いや、崩れるよ。」

 裕の言葉は変わらない。
 その無表情を殴ってやろうかと俊は一瞬だけ考えた。それをすぐに否定したのは、裕がその姿に似つかわしくない威圧感を放っていたから。

 「崩れる。」
 「…ッ!」

 俊は思わず裕の胸倉を掴む。
 辺りからの視線が集まった。

 「崩れねぇっつってんだろ?!」
 「強がったって無駄だ。俺が解らないと思ってんのか?」

 俊は思わず黙った。
 裕の言葉は真実で、俊は雨のせいか疲労が激しかった。菖蒲も疲れている筈だが、まだ投げられるのは準優勝として舗装された道を歩いて来れたからだろう。

 「…崩れたって投げてやるよ!例えぶっ壊れたって、この試合は投手として投げ切ってやるッ!」

 俊は怒鳴った。だが、その瞬間に右頬に衝撃を感じた。
 視界が歪んで、左側から思い切り倒れた。痛み、と言うよりは熱さを頬に感じた。

 「ふざけんな!壊れてどうすんだよ!!」

 今度は裕が怒鳴る。周りの皆は目を丸くした。

 「明日も投げんだろ!?」

 この試合に勝てば行われる、決勝戦。
 最も、この雨がこれ以上酷くなれば延期かも知れないが。

 「つまんねぇ意地張ってる場合じゃねぇだろ!お前はエースなんだからよ!!」

 ベンチは静かだった。
 丁度審判がグラウンドへと促したので、裕はそのままグローブを持ってベンチを出た。その後を、久栄と滝が追った。



 ベンチから出た裕はいつもより遅い駆け足でショートへ向かう。さっき俊を殴り飛ばした左手が痛い。
 その手を見つめた。確かに痛みはあるけれど、それ以上に胸が痛かった。

 「裕、お前は間違ってないから。やむを得なかった。誰かがやらなきゃ駄目だったんだ。」

 御杖は力無く笑い、裕の肩を叩いた。

 「なぁ、拓海。」

 裕は呟くように言った。

 「エースって、崩れちゃならないもんかな?」
 「そりゃあね。…でも、崩れるなってのは無理だよ。エースだって人間だもんな。」
 「そっか。」
 「だからさ、崩れたっていいんだ。でも、弱さは見せちゃいけない。」
 「どういう事?」
 「エースはチームの要なんだ。キャプテンがチームの柱であるように。」

 御杖は言う。

 「どんな時だって真っ直ぐ立っていなきゃ。でなかったら、チームが崩れてしまう。」
 「真っ直ぐ…。」
 「エースはまだいいよ。抑えの投手がいる。交代したって投手は投手だ。だけど、キャプテンはそうもいかない。交代なんてないんだから。だから、お前はいつだって真っ直ぐでいるんだ。」

 ふいに、前キャプテンの赤星が言った言葉が過った。

――…先輩として、もう、弱いトコなんて見せんなよ。

 最後の夏を、甲子園でコールド負けした後に言った言葉だった。

 「弱さを見せるな。お前はキャプテンなんだ。」

 裕は顔を上げた。相変わらずの曇り空。
 改めて、自分の肩に乗るものが何か解った気がした。仲間の思い、今まで戦った相手の思い、全てが乗った阪野二高野球部というチームが乗っている。
 その重さに今は足が竦む。今まではキャプテンと言うものの本当の姿が解っていなかった気がする。

 「…重いだろ?それがキャプテンだ。」

 裕の心を読んだように御杖は言う。

 (…もっともっと重くなるぞ。この試合の間にも。)

 だけど、裕は笑った。

 「大丈夫。倒れないから。」

 背負っていく事なら、もう誓ったから。
 二年前の夏に、両親の墓に誓った。諦めない事、止まらない事を。

 裕は、大きく息を吸い込んだ。雨で湿った空気が胸の中を侵す。



 「しまってこーッ!!」

 彼方此方から、それに負けないくらいの声が返って来た。それを聞いて裕は嬉しそうに笑った。
 その後、七回・八回は互いに一歩も譲らず得点は無し。そして、終に試合は最終回を迎えた。

 九回の表は阪野二高の攻撃。バッターは九番からだった。