2. 西からの挑戦状




 ガタンゴトン。

 電車が揺れる。網棚に積まれた荷物がカタンカタンと音を立てる。緑色をした木々は後ろに飛んで行く。

 時間が経つに連れて、その木の本数も少なくなって行く。
 真っ暗なトンネルを過ぎると、ほとんど無くなっていた。
 少年は、ぼんやりとその窓の外を見ていた。あるいは、何も見えていなかったのかもしれないが。隣には、正反対に忙しなく箸を動かし、駅弁を口に運ぶ少年。

 電車のアナウンスが告げる。次の駅。

 『次は川崎』





 空は快晴。雲ひとつ無い空が、遮るものなく広がっている。熱を持った紺色の屋根に寝転がり、頭の後ろで手を組む。そして、ゆっくりと目を閉じた。春だと言うのに暑いくらいだ。

 「ゴロゴロしてないで、何かすることは無いの!!」

 美咲の甲高い声が耳を突き抜ける。ポカポカと暖まった体を怠そうに少年は起こした。

 「母さん、俊だって今までずっと休みなんて無かったんだから。今くらい寝かせてあげなよ」

 笑い混じりの声がフォローする。
脩だ。
 あいつは、同い年とは思えないくらい大人びている。お陰でいつも比較される。だが、今はそれに感謝した。

 「今日は何の日か解ってるの?」

解らない。覚えていない。大抵の日は自分に関係が無かった。

 「従兄弟が来るのよ」

トントンと軽快な音を立てて、俊は屋根から下りてベランダに立った。

 「俺に従兄弟なんていたかな」

ジロリと美咲は俊を見た。本気で解らないと言う様に、俊は大きく背伸びをした。同時に欠伸が出た。脩はクスクスと声を押し殺して笑っている。

 「男?女?何人?」

ガサガサと美咲は音を立てて黒いバットケースを端に寄せた。それに対して、俊はあからさまに嫌そうな顔をした。

 「男!二人!!」

俊はへぇ、といかにも興味無さそうに相槌を打って、傍に落ちていた雑誌を拾い上げ、窓枠に腰掛けた。

 「何しに来んの?」

呆れたように美咲はため息を吐いた。

 「あんたって、本当に人の話聞かないのね」

余計なお世話だと言わんばかりに、俊は美咲に背を向けた。

 「うちで今日から一緒に暮らすんでしょ!!」
 「はぁ?」

ついに、脩は声を出して笑い出した。知らなかったのは俊だけらしい。

 「ちょっと待てよ!何でだよ!!」
 「人の話も聞かない子に、何度も言う気はありません」

美咲はゴミを一通りまとめると、それを持って一階に下りて行った。

 「おい、脩!!」

脩は、フゥと息を吐いた。

 「ご両親が事故で亡くなったんだよ。だから、その話はタブーだからね」

 先程まで爆笑していたのと同一人物とは思えないような真剣な表情で、下の美咲に聞こえないように囁いた。思わず俊は黙ってしまった。

 「覚えてない?裕と瑠」
 「名前じゃわかんねぇよ。特徴とかは」
 「裕は僕らと同い年だったじゃん。しかも、俊と同じように野球してたしさ」

 俊は顎に指を当てて考え込むような動作をした。脩は再び息を吐いた。俊はいつもこうなのだ。興味がないと一切関わらない。

 「ああ…。あの締りの無い…」

 ぽんと手をつく。ガクリと脩は肩を落とした。
 だが、脩の記憶でもそれが一番印象に残っていた。いつも笑顔で、けっして怒らない。また、歳が離れた兄弟で仲が良く、絵に描いたようないい兄弟だった。
 兄の裕は、いつもニコニコしていて、幼い弟の我侭にも『しょうがない』と言って答えてくれる。
その時に初めて兄がほしいと思った。

 「で、何時ごろ来んの?」
 「え?ああ…。多分四時くらいじゃないかなぁ」
 「ふーん」

俊は、端に寄せられた荷物の中から黒いカバンにグローブと球を入れた。

 「ちょっと!俊!どこに行くんだよ!!」

白いウインドブレーカーを着込んで、俊は部屋の扉の前に立った。

 「暇だから練習してくる」

そのまま部屋を出て行ってしまった。トントンと階段を下りていく音だけが響いていた。






 紺色の屋根の俊の家から数十分程走ると、山が見える。
 この辺りでは珍しく大きな森だ。雑木林などでは無く。
 その斜面をしばらく走ると、小さな赤い鳥居がある。その奥には、本当に小さな祠があった。誰にも知られない様に、ポツンと建っている。木で作られたその古い祠は、奥に小さな像が置かれているだけだった。
 そして、ここは俊が見つけた穴場でもある。人目につくことが嫌いな俊にとって、これ程良い場所はないだろう。
 小さな祠を守るように、少し寂れたブロック塀がある。つまりは、ここを知っている者が居ると言うことなのだろうが、俊はその姿を見たことが無い。
 数十分のマラソンと山登りで身体は温まった。軽く準備体操をして、茶色のグローブを手に着けた。その中で、何度か指先を曲げてみる。丁度良く手に馴染む。そして、傍の白球を拾い上げた。
 トントンと足元を馴染ませる。マウンドを意識して、俊の足元には土が盛られている。森の湿気で、土は柔らかかった。
 白球の縫い目を確かめ、人差し指と中指を指一本分程開けて掛ける。そして、親指の爪の右側が当たるようにして軽く握る。自分の握り方を確かめ、ゆっくりと構えた。
 目標は寂れたブロック塀。そこを目掛けて投げる。B号の白球は、小さな音を立ててブロック塀に当たり跳ね返った。
 転がってくる白球は、土の色が付いていた。
 それから、何度もブロック塀に投げつけた。どの球も狙ったところに飛んでいく。真っ直ぐだったり、カーブだったり。

 「俊」

 肩で息をしながら、苔の生えた大きな樹に手を突いて脩が立っていた。俊と色違いの黒いウインドブレーカー。手にはオレンジ色のグローブ。いや、ミット。

 「僕も、暇だったから」

息を弾ませながら脩はミットを手に着けた。恐らく、ここまで走ってきたのだろう。

 「待てよ。キャッチボールしようぜ」

 素っ気無い俊の言葉にも、脩は笑顔を返した。脩は、小さな黒いバッグの中からグローブを取り出した。そして、ミットをしまい込んだ。

 「キャッチャー、見つかるといいね」

 俊は思い切り脩に投げつけた。脩は驚いたような表情をしたが捕球した。そして、すぐに笑顔に戻った。

 「俊も、野球したいだろ」

脩からの力一杯の返球。俊は無言でそれをまた戻した。

 「野球って、難しいんだね」

 脩は野球選手ではない。部活は、三年間テニスを続けてきた。全国大会にも出場し、それなりの結果を残してきた。
 俊も同じように全国大会に出場した。三年の時に。それまでは、試合にもあまり出られなかった。才能が無かった訳ではなかった。
むしろ、俊の才能は誰もが羨むものだった。

理由は二つ。
 一つは、その分人が居なかった。俊の球を捕球できるキャッチャーが。コントロールも悪くなかった。なのに、キャッチャーの中に俊の球を捕球して勝てる者が無かっただけだ。お陰で、俊は力を持ちながらも試合に出ることが少なかった。

 その時、チームプレイの難しさを身を持って実感した。

 もう一つは、俊の性格だった。俊は、相手が誰であろうと態度を変えない。それが、例え大人であっても、監督であっても。
 幼い頃からずっと暮らしてきた脩だからこそ笑っていられるものであって、その性格には母である美咲さえも手を焼いた。
何を言おうと、俊の性格が変わるものではなかったが。

 「座るよ」

 50回ほどキャッチボールをし、二人は汗だくになっていた。身体に張り付く黒いウインドブレーカーを祠の傍に置き、半袖シャツ姿になった脩はブロック塀を背に座った。手にはミット。俊は頷き、構えた。自分の投球姿勢を確かめる様にゆっくりと、そして。
 ズバンと音を立てて球は脩のミットに収まった。多少よろついたが、脩は球を捕った。ただ、今のは脩が捕ろうとして捕ったものではなく、球が自分から入って来たもの。脩はただ堪えただけだ。
 何度かそれを繰り返した。こぼれた球もあるし、しっかりと捕球したものもあった。

 「うわぁ。良い球投げるなぁ」

 突然の声に、俊と脩は声の方を向いた。そこには、二人と同じ位の歳の少年が立っていた。隣には中学生くらいの少年。身長は二人とも同じくらい。

 「なんだよ、お前」
 「うわっ。酷」

 言葉の割りに、少年はまったくショックを受けていない。その状況を楽しんでいるかのようだった。

 「……裕?」

ポツリと脩は呟いた。俊はぎょっとした。

 「そうだよ。覚えてない?」

あはは、と笑いながら裕は自分を指差した。

確かに、その笑顔はいつか見た笑顔だった。

 「うわー。裕、もう着いたの?」

 慌てて脩が裕に駆け寄った。
 裕は相変わらず笑っている。時計は十五時を指している。予定よりも一時間も早い。

 「着いたのは一時なんだよ。美咲さんに聞いたら、ここに行ったって言うから」
 「一時?」
 「ちょっと迷っちゃって」

 ここまでの道のりは単純なものである。真っ直ぐではないが、遠くからでもこの山は見える。

 「兄ちゃん、方向音痴だからさ」

 呆れたように、弟の瑠はため息を吐いた。弟とはいえ、身長は裕と同じくらい。別に特別身長が高いわけでは無いのだろう。裕が小さいのだ。

 「ちょっと見ない間に大きくなったねぇ」
 「こんにちは、ええと、脩兄ちゃん」

瑠は昔のようにいきなり飛びついたりしない。正直言って、裕の方が幼く見えた。

 「何歳になったんだっけ」
 「中一だよ」
 「脩、子供扱いすると殴られるぞ」

 兄とは思えないような言葉を平然と裕は言う。殴られたことがあるの、と聞きそうになってしまった。

 「俊、久しぶり」

裕は何気なく俊に近づいた。俊は頷いただけだった。

 「相変わらず無愛想だなぁ」

裕の凄いところは、相手によって態度を変えないところだ。それは俊も同じだが。

 「俺に投げてくれよ。その球」

挑戦する様に裕は俊を見た。

 「無駄だろ。お前には打てない」
 「あはは、大した自信だな。ピッチャーはこうでなくっちゃ」

まったく態度を変えない裕に呆れたように、俊は肩を落とした。そして、指差した。

 「お前が、俺の球を捕れたら」
 「一球だけ?そりゃ無理だ」

 裕は平然とそんなことを言う。自分を過小評価しているのか、自信が無いのか。さっぱり読めない。

 「六球。その間に完璧に捕ってやるよ」
 「…なんで六球なんだ」
 「その後は三球勝負だから。脩、ミット貸して」

脩はポンとミットを投げた。裕はサンキューと言って、それを左手にはめた。

 (こんなチビに、打てる筈ねぇ)

 俊は苛立っていた。初めて見たやつに自分の力を決めつけられたくなかった。だが、同時に裕の捕球を見たいと思っていたのも事実だった。

 「…来い」

 ブロック塀の前に座って構える裕の姿は、嫌に小さく、頼りがいの無いものに見えた。俊の球を捕ったら飛ばされていってしまいそうな程。
 俊はゆっくりと構えた。そして、投げた。
 球は裕のミット目掛けて飛んでくる。バンと音がした。球はミットの中だ。だが、裕は体制を崩した。ブロック塀との距離が短すぎて、頭を壁に衝突させた。

 「痛たたた…」

 ゴン、あまりにも盛大な音を立てた頭を擦りながら裕は身体を起こした。脩は心配そうにおろおろとしている。逆に瑠はケラケラと笑っていた。俊も流石に心配になったが黙って見ていた。

 「でも、捕ったぞ!」
 「完璧じゃねぇじゃん」
 「よっしゃ、次来い!」

 裕は再び構えた。今度は後ろとの距離を開けて。俊も先程と同じように投げる。が、ズバンと音をさせて球は驚くほど綺麗にミットに収まった。

 「…捕ったぞ」

 チラリと裕は、俊を見た。だが、俊もさほど驚かない。俊にとって、今のは捕れて当たり前なのだ。なにより、裕の構えるミット目掛けて俊が投げたのだから。

 「来い!」

 俊は、今度は外角高めに投げた。裕を試すつもりだった。そして、パンッと簡単に捕って見せた。

 「…な〜んか、がっかりしちゃったなぁ、俺。お前の球はこんなもんか」

あ〜あ、と呆れた様に、納まっている球をミットの中で転がし、俊に返球した。

 「本気で来いよ。本当の、お前の野球を見せてみろよ」

 俊は始めから本気で投げていなかった。裕を試す目的もあったし、裕が信じられなかった。だが、裕は手加減しているとは言え、たった三球で捕らえて見せた。サイン無しの球さえも。

 「上等だ」

 裕は、一瞬にやっと笑った。

 (やっと、本気か。コイツの球、すげぇな)

態度とは裏腹に、裕の指先は微かに震えていた。それは、恐怖ゆえか。武者震いか。
手加減で、このレベル。
 本気ではない俊の球を三球もかけて捕球した。予想外の実力。
 その頃は、俊も裕もお互いに甘く見ていた。

 「来い」

 大きく息を吸い込んで、裕は構えた。音が消えたように感じた。空気が変わった。張り詰めた糸がギリギリまで張った瞬間。俊は球を投げた。
 サイン無しの速球は、裕の顔面を目掛けて飛んでくる。
 ズバンと先程よりも大きな音を立てて、球はミットに吸い込まれた。
 裕は右目を瞑って倒れそうになる身体を堪えた。
 だが、ポロッとミットから球は零れた。

 「…これがお前の球かぁ…」

嬉しさを隠し切れないように裕は笑った。零した球を拾って、すぐに俊に返球した。

 「次は捕るぞ!」

再び裕は構えた。その顔に、笑顔は無かった。真剣な、バッターボックスに立ったバッターの様な、挑戦する様な顔。

 「来い」

 俊は頷いて再び構えた。自分の握りを確かめ、フォームを確かめ。意識をその一球に集中させる。それは裕も同じ。
 そして投げる。今度は内角高め。同じところに何度も投げる程俊は甘くない。それに、俊も同じところの球を裕が捕れないとは思っていない。裕の言ったとおり、俊は自分の野球を思い切り裕にぶつけた。
 そして、ズバンッと言う音が森に響いた。多少よろついたが、球は裕のミットに納まっている。

 「捕ったぞ」

 ニヤッと裕は笑って見せた。そこに裕の先程までの真剣な表情は無かった。ただ、無邪気に喜ぶ子供の様な表情があるだけだった。

 「瑠の兄貴はすごいなぁ」
 「化け物でしょ」

 動くことを忘れた様に二人の対戦を見入っていた脩と瑠は囁いた。それが大声であったとしても、今の裕には聞こえなかっただろうが。

 「…俊の球は生きてるみたいだな」

 別に意味があって言った訳ではない。思ったことをそのまま口にしただけだった。

 「ミットに納まってるのに、中でまだ回転していて。小さい何か生物を捕ったみたいな気分だよ」

裕は再び構えた。

 「俊。お前の球はすごいよ。捕ってて、面白い」
 「お前もな」

 脩は耳を疑った。俊が人を褒めるところなど見たことが無かった。それだけ、俊にとって裕はすごい選手なのだろう、と思った。

 「次の一球。捕れたら俺の勝ちだ」
 「捕れなかったら、お前の負けだ」

 つられて俊は僅かに笑った。子供みたいだ、と。
 何処かぎこちない捕球技術。それでも、確かに捕球した。目の前の速球にも目を逸らさない肝っ玉がボールを捉えたのだ。
 いつの間にか、俊も挑戦者のような気分になっていた。

 「ラスト、来い!!」

 構えれば、裕の顔から笑顔は消えている。ピッチャーを前にしたバッター。それも、ツーストライクで追い詰められている様な。それでも、その状況を楽しんでい様な。
 そして、俊は自分のにとって最高の球を投げた。直球。ズドンと今までで最も大きな音を立てて球はミットに納まった。

 「俺の勝ち」

へへへ、と裕は笑って見せた。誇らしげにその球を脩や瑠にも見せた。二人は唖然としていた。
 俊は、呆然と見ていた。捕られた事はショックだった。だが、それ以上に喜びがこみ上げてきた。

 「これで、俺はバッターとして立てるって訳だ」

ミットを裕に返して、俊に言った。

 「お前のポジションは…」
 「あ!バット!!」

俊の言葉を遮って裕は叫んだ。

 「ってか、兄ちゃん。こんな森の中で出来ると思ってるの?」
 「…ああ。だな」

悔しそうに裕は腕を組んで舌打ちした。

  丁度、近くの小学校のチャイムが五時を伝えた。