3.市河家の食卓





 
四人が帰宅すると、美咲は慌てて飛んできた。俊は、美咲に目もくれずに二階に上がって行ってしまった。裕は驚いた様に脩に目を遣ったが、脩は苦笑していた。

 「反抗期だな」

からかっている訳ではなく、本気で言っている辺りが裕の凄いところだと思う。誰がどんな態度を取っても、全てを受け入れてしまう。

 「あ、美咲さん。これからよろしくお願いします」

深々と裕と瑠は頭を下げた。美咲は笑っていた。

 「いらっしゃい。荷物届いてるわよ。二階に置いてあるから」
 「ありがとうございます」

裕は笑顔だ。部屋が一気に明るくなった様に感じた。
 三人は二階に上がって行った。俊と脩の部屋の向かい側。今まで物置に使われていた部屋だ。そこを片付けで裕と瑠の部屋にされた。
 殺風景だが、押入れには二組の干したての布団が入れられている。二人で使うのに丁度いい大きさだった。(俊と脩の部屋と広さは同じ)大きな窓からは、少し先の高校が見えている。三人がこれから通う高校だ。
 『阪野第二高校』どこにでもある様な普通高校である。だが、テニス部は毎年全国大会に出場するなど、中々の好成績を収めている。一方、野球部はほぼ無名高校であり、弱小でも無いが、強い訳でもない。そんな高校である。
 もちろん、俊もそれを承知でここに入学を希望した。その考えは良く解らないが、一つは家から徒歩二十分と言う事だろう。また、裕も同じようなものである。

 「兄ちゃんの荷物どっち」

 不意に瑠が声を掛けた。はっとした様に裕は振り返った。そこには三つの段ボール箱。絵柄も何も無いただの箱である。

 「開けてみろよ。ってか、俺のはそっち」

裕が指差したのは、瑠の右手側の箱。バリバリとガムテープをはがすと、そこからバットやグローブが出てきた。

 「本当だ」
 「真ん中のは服だろ。そんで、そっちは瑠」

指を指す。開けてみれば、どれもその通りだった。

 「裕!瑠!風呂だって!」

扉の向こうから脩が叫んだ。裕が譲ると、瑠がダンボールの中から自分の服を取り出した。そして、扉をゆっくりと開いて出て行った。部屋の中は裕だけになった。
 軽く柔軟体操をして、ダンボールの中からバットとグローブを取り出した。そして、瑠と同じ様にゆっくりと扉を開いて出て行った。





 向かい側の部屋。俊と脩の部屋である。脩は美咲の手伝いのため部屋には居なかった。
 俊は胡坐を描いてグローブの手入れをしていた。古いグローブだった。元は赤茶に近かったが、今では汚れ焦茶色になっていた。
 今日の事は、夢のような感覚だった。今でも信じられなかった。たった六球。正しく言えば三球。それだけで自分の球が捕られた。全力で投げた球が。悔しかった。
 同時に、『裕』と言う人物が何者なのか、知りたかった。まさか自分の従兄弟に捕られるとは。だが、今回捕れたからと言って次も捕れるとは限らない。
 その時、ヒュゥンと言う風を切る音を聞いた。何度も、何度も。気になって窓から覗くと、そこには裕がいた。自分の左側にバットを構え、左手を上にしてバット持ち、タンッと地面を蹴る。そして、振る。スローモーションで自分の振り方を確かめる様に。時折素早く振るが、力が入っているとは思えないような自然体で振る。
 力のあるバッター、スラッガーなら、もっと大きな風を切る音がするだろうが、裕の風を切る音は、そよ風の様な本当に小さなものだった。俊が覗く前からやっていた様だが、お陰でまったく気が付かなかった。

 「…裕」

一瞬、ビクと肩を跳ねさせて、裕は上の俊の方を見た。そして、笑った。

 「…お前、練習してんの?」
 「そうだよ。一日でも練習しないと後が大変だから」
 「ふーん」

裕は再び素振りを始めた。真面目なヤツだと思った。

 「お前のポジションどこ?」
 「…俺?どこだと思う?」

 目の前に球がある事を意識しているのか、視線はまったく動かさない。驚くほど綺麗な整ったフォームだと思った。細身でありながらも安定した振り方である。

 「どこだよ」
 「…後で教えるよ」

子供の様に笑って、裕はバットを置いた。

 「兄ちゃん!風呂だって!!」
 「俺は最後でいいよ!」

飛んでくる瑠の声に返事をして、裕はタオルを拾い上げた。赤いスポーツタオル。
そして、軽く屈伸した。

 「俊!お前も走らねぇ」

 タオルを振り回しながら裕は叫んだ。だが、俊は断った。人と走るのは好きじゃなかった。それ以前に、必要以上に人と会話をすることも好きではなかった。

 「解った」

裕は走り始めた。だんだん小さくなるその後姿を少し見た後、風呂に向かった。





 テーブルの上にはいつもよりも豪華な食事が用意されていた。二人の歓迎の意味もあるだろう。
 いただきます、と声が響き、食事を始めた。

 「裕君と瑠君は、いままでどこに住んでいたの?」
 「兵庫です。その前は鳥取に住んでました」

忙しなく箸を動かしながら裕は言った。へぇー、と美咲は相槌を打った。

 「今まで引越しも多かったそうね」
 「はい。早いときは一ヶ月しかいないこともありました」
 「すごいなぁ」

普段は美咲と脩しか話さないので、静かな食卓だったが、今は賑やかだった。

 「裕と瑠の苗字って何だったっけ?」
 「ええと、ハチヤ。虫の蜂に、谷。それで蜂谷」
 「かっこいいな」

照れ臭そうに裕は笑った。短い黒髪が揺れた。

 「…兵庫って言うと、去年の中学生の全国大会の優勝校の」
 「そうだなぁ。すごかったよ」

しみじみと思い出す様に裕は腕を組んだ。
 もちろん、俊もその決勝戦を見に行った。力の差は大差なかった。だが、二回表のソロホームランでピッチャーが崩れた。そして、最後の攻撃でヒットが続き、二死満塁。四番バッターのホームラン。逆転だった。

 「そう言えば、裕のポジションってどこ?」

何気なく脩が言った。裕は豆腐とネギの味噌汁をすすっていた。

 「どこだと思う?」

はぐらかす様に答えた。俊は少し苛立ちを覚えた。

 「サード…だよ」
 「三塁かぁ。キャッチャーならよかったのに」

残念そうに脩は呟いた。俊はただ淡々と聞いていた。

 「無理無理。キャッチャーできるほど肩強くないし、滑り込みとか止めらんないよ」

 確かにそうだった。身長は低く、細身。あの力の入らないバッティングフォーム。どれもキャッチャーには向かない。だが、だからと言って、裕がサードに向いているとは思えない。
 裕はサードとして不利なのだ。左利きと言う事は、送球する場合に余計なステップを踏むことになるからだ。

 「裕、サードはコンバートした方がいいんじゃないのか」
 「あはは。中学でも最初そう言われたよ」

あくまで、裕は笑顔で返した。

 「だけど、ずっとサードを続けてきたんだ。任せとけよ」

子供の様に白い歯を見せて裕は笑った。

 「俊、明日あの球投げてくれよ。あ、高校では硬式だろ?硬式の持ってない?」
 「お前には打たせない。知ってるよ。持ってるけど、自分の納得できる球が投げられるまで」
 「へー」

美咲と脩は驚いていた。俊がこんなに話しているのを見た事が無かった。いつも無言で食べて、終わるとすぐに居なくなる。楽しそうかは解らないが、いつもより口数は多い。

 「「ゴチソウ様でした」」

気が付くと、裕と瑠は食べ終えていた。茶碗には米一粒残っていない。

 「兄ちゃん、携帯鳴ってたよ」
 「解った。サンキュ」

 裕は携帯電話を持っている。共同ではなく、裕一人のものだ。個人的な電話などで、美咲たちに迷惑を掛けない様にするためだった。その電話代は自費である。両親の残した貯金や、祖父からの仕送り、裕のバイト代。

 「すいません。失礼します」

裕と瑠は頭を下げて上に上がって行った。