4.キャッチャー




 部屋の中からは二つの気配、二つの寝息。二段ベッドにはそれぞれ一人が眠っている。

 その部屋の大きな窓のベージュのカーテンが揺れた。窓は閉まっている。なるべく物音を立てないように息を殺して歩く人影。まるで、泥棒である。
 気配を感じて起き上がったのは俊。二段ベッドの上から下を静かに覗き、その姿を確認すると溜息を吐いた。

 「裕、何してんだよ」

その人影は、一瞬ビクリと肩を跳ねさせ、すぐに見下ろす俊に笑いかけた。

 「丁度良かった。野球、昨日の続きしよう?」





 乾いた風がグラウンドの土を運んだ。辺りに気配は無い。あるのは自分と、準備運動をする裕の姿だけだった。
 二人は小学校のグラウンドに来ている。中学校は休日も部活動があり使用出来ないので、午後からはリトルのチームが使用するが午前は遊んでいるここに来たのだ。
 軽くランニングして体を温め、準備運動。そして、キャッチボールなどのいつものメニューを一通りこなすと裕は銀色のバットを構えバッターボックスに立った。
 それに対して、俊はマウンドへ。バッターと向かう合う。左打者。部活を引退して以来、バッターを挟んで投球はした事が無かった。

 「じゃ、三球勝負な。俺はホームラン打つよ」

 何処からか湧き出る自信。裕は俊にバットを向けてホームラン宣言。

 「俺はノーヒットノーランにしてやるよ」

嬉しそうに裕は笑う。つられて思わず俊は笑い、グローブの中の白球を握り締めた。
 大きく振りかぶり、投球。球は内角高め。打ち難いコースをピンポイントだ。通常の打者なら、詰まってキャッチャーフライだ。
 コォン。球は後ろのフェンスに直撃した。幸か不幸か、空振りした裕は大きな瞳をより一層開いている。

 「…ストライク」
 「だな」

裕はギュっとバットを握り直し、自分の左に構えた。
 一球目は完全な振り遅れ。いや、球が見えていなかった。ワンストライク。俊は球を受け取って構えた。

 (すごい)

一人、心の中で呟いた。ギリギリのコースを、球威をまったく落とさずにストライク。恐ろしい、と思った。
 頭上近くからの投球。オーバースロー。最速の投法。その二球目が真っ直ぐに襲って来る。
 タンッ。乾いた地面を軽く蹴り、球を追った。無駄に力は込めない。込めてはいけない。視線は逸らさずその一球だけに。
 ギィンと金属音が響いた。打球は後ろ。ファウル。腕のいい捕手ならストライクを取れたかも知れない。

 「…ストライク?」
 「いや、ファールでいいよ」
 「手加減するなよ」

キッと裕は僅かに睨んだ。もちろん、俊も手加減したつもりは毛頭無い。

 「来い」

 静かに次の球を待つ。身長差十センチ以上。そこからさらにオーバースロー。直球は重くて速い。コースも決して甘くない。
 本来、直球は変化球だ。物体は力が加われば放物線を描く。つまり、真っ直ぐに進むからこそ変化球なのだ。
 三球目。カーブ。ストレートの軌道から外れた球は、それでもキャッチャーミットへ向かう。遅い。チェンジアップだ。今までの直球に目を慣らされた裕にとっては厳しい。だが、
 キィンッ。打球は打ち上げられてピッチャーフライ。タイミングを崩されながらも、その打球は前に飛んだ。悔しそうに裕は口元をつらせ、あちゃあと呟いたが、打球は真っ直ぐにグラウンドに突き刺さった。

 「あれ!?」
 「フライでアウトなんて、そんな終わり方は認めない。俺的にも、お前的にも」

思わず裕は笑い、流石ピッチャー。と言った。同時に、いつかのピッチャーを重ね見た。

 「…今のは、ファールでいいか?」
 「いい」

その影を消し去り、裕は真っ直ぐに俊を見た。
 俊は足元に転がる球を拾い上げ、再度構えた。そして、慌てて裕も構える。

 (いいバッターだな)

静かに俊は思った。
 裕のフォームは恐ろしいほど整っている。俊が今まで見て来た誰よりも。そのフォームは、小さくて線の細い、頼りない身体に安定感を生む。決して崩れない、堅固な砦のように。
 球を投げると同時に裕は右足で蹴った。打球を追うその時も砦は崩れない。必要以上の力の入らない自然体。
 ギィィン。打ち上げた打球はサード方面のファウルゾーンへ上がる。そして、長く伸びた桜の木の枝に擦れながら落下した。

 「またファールかよ!!」

 舌打ちしながら裕が球を追った。その時、第三者がそれを拾い上げた。

 「…野球してんの?」

 「えっ?あ、おう。そう、野球」
 「ふーん」

ポイッと球を返したその男は、面白そうに笑った。
 大きい。裕は小さいが、そいつと並ぶと裕が小学生のようだ。

 「二人で?」
 「そう。三球勝負してんの」

えっ、と男は声を漏らした。

 「三球以上やってんじゃん」
 「へへ。お互いのルールに則ってさ」

良く解らないまま男は曖昧な返事をした。
 そのまま裕は球をもってバッターボックスに戻った。だが、のそのそと男は歩いてきてフェンスに寄りかかった。

 「お前、市河だろ」

俊を指差して言った。不快そうに俊は眉を顰めた。

 「知り合い?」
 「いや、一回試合見たことあるだけ」
 「いいなぁ。俺も俊の試合見たかった」

不思議そうに男は首を傾げた。

 「弟じゃないのか」

すると、裕はあはは、と声を出して笑った。

 「従兄弟だよ。今年から高校生なんだ」
 「…同い年か!俺はてっきり中学生かと」
 「よく言われるよ」

裕はバットを握った。そして、俊の方を向いて構えた。

 今までの和やかな空気は消え、氷の様な冷たい空気が流れた。この変わり様に、裕は二重人格ではないだろうか、とさえ思う。
 感情全てを消し去った様な眼差しはただ一点を見つめる。未だグローブの中にある白球だ。
 おお、と感嘆の声を発したのはフェンスに寄りかかる男。俊は投球した。
 直球。外角低め。ここを狙われて容易に打てるバッターはそういない。それをバットが追う。が、空振り。球はそのままフェンスへ…。が、ズバンッとミットに納まった。

 「え?」

男はミットを構えて球を捕球した。ポカンと俊はその姿をみていた。

 「速くて重い球だな…」
 「…お前キャッチャー?」
 「そうだよ」

ニッと男は笑った。同時に裕も嬉しそうに笑った。

 「そのミット、」
 「ああ。借りたぜ」

チラリと俊を見ると、笑っていた。僅かに口元を歪めて。

 「俺の名は爾志浩人!!今年から阪野第二高校に入学する!!」

始めは驚いていたが、みるみる内に裕の顔は笑顔に変わった。

 「俺たちもだよ!!」
 「本当か!!」

 その和やかな空気をよそに、俊は浩人が捕球した球を見つめていた。
 こんなヤツに捕られるとは思わなかった。
 確かに今のは俊の最高の球ではなかった。裕のタイミングを崩すために調節しただけ。それでも…。

 「おお、甲子園行けるかもな」
 「行くさ。必ず」

ピタリと浩人は動きを止めた。裕の顔は異常なまでに真剣だった。何かを誓った様な、そんな顔だった。

 「俊。コイツにキャッチャー頼もうぜ」

コクリと俊は頷いた。

 「したら、俺はむこうで素振りしてる」

裕はバットを片手に走って行った。

 俊たちから少し離れてグラウンドの端に立つ。素振りをしようとした時、グゥと腹が鳴った。

 (そうだ。何も食べてないんだ)

 今更な事を思い出し、俊の方を見た。自分が腹を空かせているのなら、俊はもっとだろう。同時に申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。

 (俊は大丈夫かな)

 二人の方を見ると、何事も無いように投球練習をしていた。浩人は中々上手いと思う。いや、かなり上手いだろう。
 正直言って、裕が昨日捕球できたのは偶然と言ってもおかしくない。キャッチャー経験が無いからこそ捕れただけである。
 キャッチャー経験があれば、ある程度の予測をつけて捕球するが、それが出来ない裕は反射的に捕球しただけだ。試合では役に立たないキャッチャー。
 不意に二人を見て、あるバッテリーを重ね見る。遠い遠い日のバッテリー。声が聞こえてきそうだった。

 「裕」

はっとして顔を上げる。そこには俊が立っていた。奥では浩人が笑っている。

 「やろうぜ」
 「うん」

 先程の場所に戻って行った。
 ミットを装着した浩人と構える俊の間のバッターボックスで構える。未だ変わらずホームラン宣言。簡単なサインを決めたのか俊は頷き、頭上に白球を高く掲げた。

 どこかで鳥が羽ばたいた。