5.たった一人の
日は大分高く上がり、昼に近づいた。辺りでは少年野球チームの子供たちがふざけ合って、走りまわっている。
裕はグラウンドに寝転がって、丸く黄色い太陽を眩しそうに目を細めつつ見ていた。
子供たちの声に混じってズバンッと気持ちのいい音が聴こえる。 その音の正体はもちろん知っていた。言うまでもない。
「……負けた――――!!」
腹の底から叫び、笑った。子供たちは不思議そうに見ていた。
見送り三振。完敗。目の前を駆け抜ける直球に手も足も出なかった。
これほど見事な負けをしたのは久しぶりだった。悔しさよりも数倍上の嬉しさが込み上げて来る。
「ああ、お前の負けだ」
休憩なのか、俊は裕の傍に座った。息が弾んでいた。
「…負けて嬉しいのか」
「嬉しい訳ないだろ!」
少し怒った様に声を荒げて裕は言った。そして、いかにも興味無さそうに俊がへぇ、と返事をした。
「お前に会えて良かった」
「…気持ち悪ぃ」
プッと裕は噴出した。つられて浩人が笑った。
「必ず甲子園に行く。俊と浩人がいれば安心だ」
「…何言ってんだ。点取らなきゃ勝てねぇだろ」
俊は意地悪っぽく言った。
「そうだな。だけど、俺が取る」
そこで裕は立ち上がり、俊を指差した。
「次は必ずホームランしてやる。試合では、俺が点を取ってやるよ」
「…やってみろ」
自信家と言うよりは、子供の様だった。浩人が中学生の弟に間違えたのは無理も無い。
バッターボックスで構えていた時は、完全な別人にさえ思えたのに。それこそ外人選手の様な大きな威圧感のある不思議な打者。
「俺、前に裕と会ったっけ?」
「いや?多分無いと思う。俺昨日ココに来たもん」
そうだっけ?と浩人は考え込んだ。
「甲子園か」
陽炎の立ち昇るマウンドでピッチャーが投げる。打たれたり、打ち取ったり。
その光景が頭に焼き付いている。それが俊の見た初めての甲子園だった。
「甲子園はお前の夢か」
「?」
妙にその“甲子園”と言う言葉に執着する裕に違和感を覚えた。だが、質問をしてすぐに後悔した。球児の夢など決まっているのに。
しかし、裕は首を傾げた。
「夢…、とは少し違う。約束したんだ」
「約束」
「そう」
裕は空を見上げた。雲ひとつ無い空が広がっている。
その目は遠くを見ていた。空さえ突き抜ける遠くを。肉眼はおろか、望遠鏡でさえ見えない様な遠い彼方。
「『必ず、甲子園で会おう』って」
「…誰と」
「俺の知る限り、最高のバッテリーと」
裕はこの上なく嬉しそうだった。いや、誇らしげだった。
最高の?俊は訊きそうになった。三振を取られた投手を前にして裕は言った。誇らしげに。
「兵庫のか」
「そう…?いや、兵庫と大阪」
「ふうん」
「兵庫?全国大会の優勝校のある?」
裕は少し首を傾げて頷いた。
「お前、苗字は何て言うんだ」
「蜂谷だよ」
「蜂谷か…」
浩人は腕を組んで考え込んでしまった。
困ったように裕は眉を下げて俊に笑いかけた。
「『櫻庭』って知ってるか?」
「なんで?」
「最終回に逆転ホームラン打ったヤツ。確かそんで優勝したヤツ。金髪のチビ」
「知らない訳無い」
目を瞑れば蘇る。
浮かぶ入道雲も、観客や応援団の声援も、グラウンドに染み込んで行く涙も。全部が。
「俺だよ」
はっ、と俊は聞き返した。
「俺の昔の名前は櫻庭裕って言うんだ」
「なんでだよ」
「…両親と他界して苗字が変わったんだ。よく解らないけどな」
少し鉛のある言葉で裕は言った。二人は驚き眼を大きく見開いていた。
両親の事は口にするな、と脩に止められていて知る機会など無かった。昔の事は訊かない方が良いかと思っていた。
「なんで言わなかったんだよ!」
バッシーンと思い切り裕の背中を浩人が叩いた。裕は前に倒れそうになる身体を必死で支えた。
「痛ッ!いいだろ!!誰も訊かなかったんだし、それに…」
言い辛かった、のだろう。確かに、親との死別が理由で変わった苗字の話などし辛い。裕も俊も浩人も黙ってしまった。
「あ、俺は全然平気なんだけどな。だけど、その、まぁ、瑠がさ…」
再びごにょごにょと口ごもり、俊は苛立ちを覚えた。
イライラする。言うなら言え、言わないなら言うな!そう言ってやりたかったが、見透かしたのか浩人がチラッと睨んだ。
「死因は」
馬鹿ッと浩人が俊の頭を思い切り叩いた。裕は苦笑した。
「…事故…」
嘘だろ、と言ってやりたかった。目線をだんだん逸らして行く裕を見れば一目瞭然だ。
言わない理由も解っていた。瑠の為だろうな、と。
二人に言ってそれが漏れるのが恐かった。自分は耐えられるけれど、瑠がそういう目で見られて欲しくなかった。そして、二人を疑っている自分にも吐き気がする。
両親が…な子供等と。不憫だと。不幸だと。影でそう囁かれるのが何よりも辛かった。
「ま、だろ!」
開き直った様に、誤魔化す様に、裕は言った。笑っていた。
「俺にとって、瑠はたった一人の肉親だ。両親の死を聞かされた時は小学六年生だった。なのに、泣きもせずに黙って頷いた」
裕の拳に力が篭った。
「俺は、もうあんな悲しい顔は見たくない。それが瑠なら尚更だ」
裕は鋭い眼で笑った。
そうだな、と一言俊は呟いた。
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