7.無名の天才





 良く晴れた空。桜は未だ咲き誇る。

 一年四組の教室は、昨日よりも少し賑やかになっていた。それぞれの気の合う友達を作ってお喋りをしたりしている。

 「…今日って授業あったっけ?」

俊の横に立って裕は言った。

 「無い。今日はオリエンテーションとかの特別授業」
 「じゃあ、早くに帰れるな。野球!野球しようぜ!!」

今日はホームランしてやる、と裕は付け加えた。

 「…蜂谷君と市河君って、野球やってんの?」

 俊の傍を歩いていた背の高い男子生徒が言った。見るからに野球部らしい浅黒い肌に丸刈り。大きな眼をして早々と制服のブレザーを着くずしている。

 「蜂谷か裕でいいよ。そうだよ。お前も?」
 「そう。…俺は西高根中学から来た禄高尚樹。高校でも部活やるから、よろしく」

尚樹は浅黒い筋肉質の腕で頭を掻きながら言った。

 「俺は蜂谷裕。引っ越してきたから、中学の名前言われてもよく解んねぇ」

裕は苦笑した。そっか、とつられる様に尚樹も苦笑した。

 「こっちは市河俊。知ってる?」
 「いや…」

俊は、かなりの実力を持ちながら無名だった。“無名の天才”と呼ぶのが相応しいかも知れない。

 「西高根…」

意味深に俊は呟いた。

 「知ってんの?」
 「この地区の優勝校だ」

裕はギョッとして尚樹を改めて見た。

 「すげぇ!優勝か!!」

本当にそう思っているのか?俊は意地悪っぽく思った。自分は全国優勝したくせに。

 「仮入行くんだろ?一緒に行こうぜ」
 「いいよ。な、俊」

はっと俊は顔を上げた。裕の色素の薄い大きな瞳に自分の姿が写っている。

 「…いいよ」

と言いつつ、面倒臭い事になったと思った。
 それから、他愛の無い会話をして笑ったり、少し怒ったり。そんな時間を過ごした。

 「今日はオリエンテーションがあるから」

教壇に立つ、茶色の品のあるベストが良く似合う若い男。
それとは裏腹に、寝起きらしいボサボサの髪とだるそうな口調。
彼こそがこの一年四組の担任、栂喬である。

オリエンテーション。
様は学校案内である。この阪野第二校は校舎が入り組んでいて、上級生も迷う事があるらしい。


 (裕は、きっと迷うな)

裕の来た日を思い出す。解り易いこの辺りを三時間も彷徨っていた。
不安が募る。


 「名前順に並べー」

栂は早々と廊下に出て言った。ゆっくりとクラスメイトは廊下に出て行く。

 「だりィ」

裕は呟いた。特別授業も早々と終わり、帰路に着いた頃だった。
 脩と浩人は用事がある、と言って今日も先に帰ってしまった。しっかり者の二人がいない分、裕と俊は昨日と同じ様にマイペースにゆっくりと家に向かった。

 「校舎の中広かったなー」
 「…だな」
 「これから迷いそうだなー」
 「…だな」

俊の素っ気無い返事はいつもの事だが、今はまるで心ここに在らず。と言った調子だ。

 「どした?」
 「『禄高尚樹』って、こっちじゃ結構有名なんだよ」
 「へー」

俊の言う『結構』の度合いはよく解らなかった。

 「どうすごいんだよ」
 「……さぁ」

俊も人伝に聞いた話だと、その時やっと理解した。
 あまり人に進んで関わろうとしない俊が聞いた話は余り当てになるものではなかったし、実際に見てもいないものを信じようとも思わなかった。

 「…まぁ、強いヤツがいた方がいいじゃん?面白そうだし。それに」

裕は足元にあった石ころを思い切り前方に蹴った。

 「それに、俊なら、簡単に三振させられるだろ?」

当たり前だろ、と言わんばかりに俊も石ころを蹴り飛ばした。





 それから、一時間。この辺りにしては野球の出来る大きな公園。桜が公園を囲み、強い風が吹いては桃色を散らす。乾いた砂は僅かに持ち上がった。空は相変わらず晴れていて、絶好の野球日和。

 「禄高!」

裕は大きく手を振った。その先は、ついさっき知り合ったばかりのクラスメイト。禄高尚樹。黒いバットケースとミットを抱えていた。手を振り替えしてからは、より一層歩を早めてそこに向かった。
 大きな公園。マウンドに集まり、円陣を組んだ。メンバーは、裕、俊、浩人、尚樹の四人。すでにアップを終えた裕と俊は半袖のシャツを肩まで巻くって少し汗をかいていた。

 「改めて、俺は禄高尚樹。西高根中出身」

尚樹は言った。ケラケラと笑いながら浩人は続けた。

 「俺は爾志浩人。赤里中出身のキャッチャー。今は一年三組。俺はお前知ってる」

尚樹は何とも言えない顔で笑った。

 「お前のファースト守備とバッティング、すごかったな」

裕はそれを聞いて胸が躍った。

 「俊の球は、打てないだろうけどな」

まるで、挑戦する様に(挑発する様に)裕は言った。尚樹はチラッと黒目だけを動かして裕を見た。

 「…じゃ、勝負しようぜ」

尚樹は言った。俊は無言で頷いた。

 マウンドに俊が立つ。そこから十八・八八メートル。そこに浩人が構える。その距離を、俊の最高の球が駆け抜ける。尚樹は笑っていた。

 (コイツ、なめてやがる)

俊はグローブの中の硬球を握り締めた。浩人は無言で構えている。

 少し離れた場所から裕は見ていた。余裕有り、と言う顔をして尚樹はバットを構えた。流石に優勝校だっただけある。安定したフォーム。だが、俊の球は嘗めたまま打てる代物じゃあない。
 第一球。直球だ。コースは外角低め。速い。尚樹はバットを振ったが、追い付かない。球は何者にも邪魔される事無く浩人のミットに飛び込んだ。ストライク。コールと共に裕は密かにほくそ笑んだ。

 「速いだろ?」

浩人は茶化す様に言った。尚樹は奥歯を噛み締め、再び構えた。
 二球目。直球。コースは外角高めギリギリ。さっきとまったく逆のコースは打ち難いだろう。ナイスコース、と浩人は少し早く笑った。思った通り、バットは空を切ってミットに納まった。ツーストライク。裕の声が響いた。

 「すげ…」

思わず尚樹は呟いた。こんな速い球を持つヤツが、どうして無名なんだ。不思議で仕様が無かった。
 さっきまでなめてかかっていた尚樹は一変して真剣になっている。相手が無名のピッチャーだとは言え、少し遅すぎじゃないか?浩人は思った。
 三投目。二度続けて内角高め。球は僅かにバットに掠ったがミットに納まった。スリーストライク、バッターアウト!裕の声。

 「すごいヤツだろ?」
 「……ああ」

悔しいけれど。

 「おっしゃ、俊!勝負だ!!」

子供の様にはしゃぎながら裕はバッターボックスに立った。

 「キャッチャーは付かなくていいよ?ミットには納まらないから」

相変わらずの自信で裕は言った。
 第一球。浩人と尚樹は少し離れ見ていた。キャッチャーの役割は捕球だけではないが、浩人はあえてその場を離れた。裕のバッティングを一度、第三者として見てみたかった。
 俊との身長差二十センチ以上持ちながら、そのバッティングには安定感がある。金属特有の高い音が響いて打球は後ろ。ファールだ。鋭いスイングと、刹那の判断。

 「…市河もスゴイけどよ、蜂谷は何者だよ」

 手も足も出なかった俊の球を楽々ファール。引っ越してきたとは言え、そんなバッターを覚えていないものだろうか。あの眼光を、自分は一度どこかで見ている。

 「裕は、去年の夏の全国大会優勝チームの四番だ」

尚樹はギョッとして裕を見た。
 全国大会では二回戦敗退と言う悔しい結果を残した尚樹のチームだったが、全国の決勝は見に行った。
 中学のトッププレイヤーの終結するその中で見てくれだけじゃなく浮いていた選手がいた。技術・判断・統率力。
 あんなに大きく見えた選手はこんなに小さいのか、と愕然とした。
 しかし、彼は巧い。身長差を感じさせない対等の勝負。流石は最強バッター。だが、それ以前に。



 そんなバッターから

 金属音と共に打球はピッチャーである俊の真上に上がった。ピッチャーフライ。それを楽々捕球し、バッターアウト。裕は苦笑した。

 そんなバッターから、アウトを取った俊は。

 顎から汗が滴った。