9.主将の器




 「お疲れ様でーす」

 グラウンドの整備を終え、一年は部室に戻った。その頃は二、三年の部員は早々と着替え談笑していた。夏といえども、日が落ちれば風も冷ややかだ。
 部員八十人超の野球部は、各部活の中でも最も人数が多い。よって、広い部室を貰ってはいるのだが、中は狭い上に暑い。
 その生き地獄から逃げ出したくて、一年は急いで着替えた。

 「蜂谷と市河は従兄弟だって?」

尾崎は言った。帰り道が一緒のグループに分かれ、家路を辿っていた。

 「そうです」

 オレンジ色の街頭がジジジと音を立てて道路を照らしていた。その灯りには多数の火取虫が群がっている。そして、それを待ち構えていた様に張られた蜘蛛の巣で、蜘蛛が活動を忙しなく始めている。

 「…蜂谷って、訛ってるよな。何処出身だ?」
 「あ、解ります?俺、生まれは北海道なんですよ」
 「北海道?そうか?俺は関西かと思ったんだけど」
 「あー、関西にもいました。一番長く滞在していたし、最近でしたから」

尾崎は納得した様に首を上下させた。

 「…お前、部活楽しいか?」

急に真剣に尾崎は訊いて来た。それに対し、裕は一瞬疑問符を浮かべ頷いた。

 「楽しいか…。それは良かったな。こんな話もなんだけどよ、俺らが一年の時は部活なんて楽しくなかった。先輩は威張りくさってるし、一年は全部の雑用やらされるし、それに堪えられずに辞めていくヤツが毎週出るし、仲の良いヤツも辞めちまった。皆、愚痴ばっかり零してた」

 後ろで馬鹿騒ぎする尚樹や浩人の声がただの雑音に聞こえるほど、尾崎は真剣だった。
 その遠い眼は何を見ているのだろう。先の先輩の顔だろうか、報われぬ己の練習だろうか、去り行く友の後姿だろうか。それとも、恐らくは届かない甲子園か。


 「何度も辞めたいって、辞めようって思った。でも、俺も野球好きだし。こんなところで辞めたくねーって思って、気が付いたらここまで来てた。時間が経つのはあっという間だな」
 「……」
 「…俺、今でも時々思うんだよ。たった一人でも、どんな時でも、心底楽しそうに野球やってるヤツが同学年にいたら、辞めなかった仲間もいるんじゃないかって。特に、蜂谷を見てるとそう思うんだ」


あの頃に、本当の野球の楽しさを教えてくれるヤツがいれば。俺達は救われただろうか?


 この人がキャプテンに選ばれた理由が解った気がした。優先して、人の事ばかり気に掛けている。監督でさえ出来ない、しようとしない、こんなちっぽけな一部員でさえ気に掛けてくれる。

 「尾崎先輩は苦労性っすね」
 「は?」

裕は笑った。

 「ごちゃごちゃ考え過ぎです。そんなんじゃ、将来禿げますよ。」

尾崎は一瞬きょとんとして、裕の頭を脇に抱えた。

 「余計なお世話だ馬鹿野郎!こっちは真剣な話してんのによ」

痛い、と悲鳴を上げる裕を軽く小突いて放した。
 首が絞まっていたのか、裕は大きく深呼吸をした。そして、顔を上げてそこが駅だった事に気付いた。

 「そうだ、蜂谷。いい事教えてやるよ」

尾崎は裕に耳打ちした。

 「…大会直前に、髪長いヤツは気合とか言って丸坊主にされる。今の内に短くしとけ」

俺みたいになりたくなかったらな、と付け加え尾崎は自分の頭を指差し笑った。

 「そうっすね。でも、そうしたらきっと甲子園に行けますよ」

尾崎は再び軽く小突き、後ろ手に手を振りながら駅の人ごみの中に消えて行った。

 「…お前、誰でも仲良くなるの早いな」

皮肉たっぷりに俊は言った。

 「そうかな?…尾崎キャプテン、本当にいい人だよ」

過去に辛い思いをして来ても、笑って人に優しく出来る人がいる。
 俊は相槌を打ちながら家のチャイムを鳴らした。