11.傷付かない




 7月某日。阪野第二高校は夏休みに入った。その終業式の日にも部活があるのは、甲子園予選真最中の野球部を含めた幾つか。最後の夏が来た。
 数日前行われた甲子園予選一回戦は、3−0と快勝した。メンバーは三年を中心としたレギュラー達。その中に一年はいなかった。
 続く二回戦。夏休みに入る直前の試合だ。一回戦以上の強敵だったが、2−1と言うギリギリの結果で三回戦へ進出する事となった。
 そして…。


 「集合ー」


 緑は青々と茂り、空にぽっかりと浮かぶ入道雲が夏を感じさせた。また、これからの雷雨を想定させる。集合を掛けられた野球部員は、グラウンドの彼方此方から返事と共に駆け足で向かう。
 集合を掛けたのは、主将:尾崎。その傍に立つ大男は、野球部監督吉森。部員が集まり整列を完了させると、ゆっくりと口を開いた。

 「あと数日で、甲子園予選三回戦だ。レギュラーは春甲を覚えているだろうが、阪野二高野球部は三回戦で敗退した。一・二年もは知らないかもしれないが、去年も春夏予選三回戦敗退している」

魔の三回戦だ、と言った。
 普通のレベルならば、その辺りだろう。だけど、普通で終わらせるには、余りに勿体無さ過ぎる。

 「今日から夏休みに入ったが、休みは殆ど無いものと思え。明後日から五日間、野球部は千葉で合宿を行う」





 その説明を簡単に行うと、吉森は元いたベンチへと戻って行った。ざわざわと盛り上がる部員達を尾崎は軽く諌め、練習を再開した。
 どこか気の抜けた練習が始まった。合宿と言う事で気が浮いている。吉森は最後に話すべきだった、と軽く後悔しつつふ抜けた練習をする部員に渇を入れた。

 「蜂谷ー、ノック手伝ってくれー」

 グラウンドの隅にある防球ネット傍に立つ赤星が呼んだ。裕は軽く返事をしてそこへと駆けて行った。二年生は全員合計で奇数だ。手上げノックなどの二人組みになると、どうしても一人余ってしまう。そんな時に赤星は自分から一人になる節があった。同時に、そんな時は大体裕が呼ばれる。その頃、一年は球磨きをしていた。

 「蜂谷って先輩と仲良いよな」

 一年の一人がぽつりと言った。確かに、裕は先輩と仲が良い。だが、それは決して一年と仲が悪いと言う訳ではない。誰にでも好かれる、仲良くなれる。憎めない人とはいるが、裕はまさにそれだった。
 だが、誰もが同じ意見と言う訳でもない。好きになる物がいれば、当然逆もいる訳で。

 「媚ってんじゃねーよ」

 岡沢は言った。それにつられる様に周りの数人が苦笑する。俊は何も言わずに黙っていた。こう言うのは、何処にでもある事だ。一人が目立てば、周りは批判する。出る杭は打たれるのだ。幾ら男で、高校球児と言ってもこうした陰湿で女々しい事はある。

 「ちょっと先輩に気に入られてるからってよ、調子乗りすぎじゃね?」

次々と溢れる不満。よくもまあ、こんな短い期間の付き合いで言えると俊は感心してしまった。その時。

 「おいおい、止めろよ岡沢」

止めに入ったのは尚樹。岡沢を含めた数人は僅かに尚樹を睨んだ。

 「何だよ、禄高」
 「何だよって…、止めろって言ってるんだよ」

重々しい空気が流れ、岡沢と尚樹が膠着しているところに裕は現れた。

 「あー、疲れた」

岡沢は目を伏せ、手元にある汚れた球に視線を戻した。尚樹だけが岡沢を見ていた。
 その空気を感じ取った様に裕はすぐさま俊の隣に座り、オレンジ色の籠から汚れた球を取って何事もなかったかの様に磨き始めた。





 「…なあ、裕」

 その帰り道。俊は言った。

 「お前さ、自分が岡沢達に嫌われてるって解ってる?」
 「解ってるよ」

あっさりと裕は答えた。

 「だってあいつ、廊下ですれ違っても無視すっから」
 「知ってんのかよ」
 「当たり前。だけど、まあ、ああ言う程度の理由で嫌いなら、放っておいた方がいいかなって思って」

裕はへらへらと笑って見せた。
 呆れて俊は溜息を吐いた。嫌われている理由も知ってるのか。

 「お前も、たまには人に合わせないと孤立すんぞ」
 「大丈夫。だって、俊はそんな事しないだろ?」

 勝手な奴、と思ったが俊は再び溜息を吐いた。ポジティブ過ぎて、たまについて行けない事がある。だけど、その姿勢はきっと、皆がピンチで俯いている瞬間にも希望をくれるんだろうな。と頭の隅で思い苦笑した。

 「俊、お前が俺を支えてくれるから、俺はここで平気でいられる。だから、お前が倒れそうな時は俺が支えてやるよ。絶対に」
 「…倒れないけどな」
 「そうだね」

何となく馬鹿にされた様な気がして俊は軽く裕の後頭部を小突いた。





 市河家に居候する従兄弟の蜂谷裕は、中学時代。全国から注目された優勝校の四番バッターで主将。それは、とても俊には信じられないものだったが、今となればそれはあながち間違いではないだろうと。疑いは消えた。
 誰からも好かれる性格で、先輩からも一目置かれる実力もある。世間はカリスマ性と言うのか、人を統率するのが巧かった。
 だが、所詮人間。出来る事があれば出来ない事もある。好む人間がいれば、嫌う人間もいる。
 同学年の岡沢は、何処か裕を敵視していた。常に輪の中心にいる事や先輩に気に入られている事が気に食わないのか。その岡沢を囲む数人も同じだった。
 始めは影で悪口を言う、と言うみみっちいものだったのだが、まったく堪えない裕に対し調子に乗ったのか大声で、聞こえる様に言い出した。

 「いいよなー。先輩に気に入られてるやつは」

 一年はどちらかと言うと雑用が多く、上級生に比べ基礎的な反復練習が多い。ボールやバットに触れる回数は、先輩の手伝いなどをする裕に比べ半数以下だ。

 「そうだよなー。チビでもいいんだからなー」
 「そうそう。実力なんてなくてもいいんだからな」

かっと頭に血が昇る。拳を強く握り締め、俊は岡沢の前に立った。

 「なんだよ、市河」

 俊、浩人、尚樹。三人は先輩はもちろん同学年にも認められていた。この辺りでも元々有名だったし、それを信じるだけの威圧感と言うものを持っている。
 岡沢達を止めるのは大抵尚樹や浩人で。俊は特に何もせずに傍観して来た。岡沢は俊が恐いのだ。

 「お前ら、いい加減にしろよ」

 苛立つ。どうして、野球にそんな無駄な感情を持ち込むのか。球を投げる、それを打つ、それを捕球して返球する。どうしてその中に嫉妬や憎悪なんて感情を持って来るのか。

 「俊」

裕は俊の左手を引いた。利き手を引かなかったのは裕故だ。

 「下がってろ」

 ゆっくりと、俊を後ろに岡沢達の前に立つ。空気が重くなり、静かになる。空気が夏とは思えないほど冷たくなった気がした。眼が、冷たい。鳥肌が立つ。
 裕はこれまで、まったく何もしなかった。放っておく、と言っていたが、人間である以上限界点はあるのだ。

 「岡沢、お前、俺をどうしたいんだ?」

 だが、怒る訳でもなく、諭す訳でもなく、裕はただ、訊いた。何よりも、岡沢達は自分に何を望むのか、何の理由でそこまで自分を敵視するのか。それが知りたかった。自分に非があるのなら、直したいと思うから。だけど、人に遠慮したり、合わせたり。そんな事はしたくない。

 「お前と話す必要はないだろ」

だが、岡沢は会話そのものを拒否した。

 「ある」

まっすぐに、視線を逸らさずに裕は言う。

 「お前らが、俺をそこまで嫌う理由が解らない。俺にどうしてほしいのか、言えよ。解らないんだよ。先輩と仲がいいから?でしゃばってるから?そんなの、小学生じゃねぇか」

 練習に積極的に参加して、何が悪い。親しくない人間と仲良くして、何がおかしい。
岡沢は立ち上がった。そんなに身長は高くは無いが、裕よりはずっと大きい。

 「実力だよ」

きっぱりと岡沢は言い切った。

 「じゃあ、訊くけど。お前は俺の何を知ってんだよ。お前は、俺以上に巧いつもりかよ」
 「何だと!?」

岡沢は裕の襟を掴んだ。その状況に一年だけでなく上級生も注目する。

 「お前こそ、俺の何を知ってんだよ!!」
 「知らないよ、知らない」

裕は一瞬でその手を巧みに振り解き、少し距離を置いた。

 「その程度なんだよ、俺達は。お互い、実力は未知数。知らない相手の事恨んで、そんなの勝手だろ。お前は通りすがりの人を見て文句言うのか」
 「それとは話が違うだろ…」
 「そうかな?まあ、確かに、俺達は通りすがりってだけじゃ無いよな。同じチームメイト。お前だって、そう思っているから俺の事なんだかんだ言ってる訳だろ?」
 「おい、話がずれてる」
 「ずれていないよ。お互いによく知らないチームメイト。それで十分だろ?だったら、悪口なんて言う暇合ったら少しは相手の実力見とけよ」

もう、完全に裕のペースだ。
 岡沢はすぐに折れて、盛大な溜息を吐いた。周りでは笑いを堪える声が聞こえる。

 「解った。なら、今度の合宿で見極めてやるよ。それで、俺以下なら何言おうと自由な訳だ」
 「そうはいかないからな!俺が勝ってやるからな」

 まるで、子供の様な二人に俊は驚いていた。ドロドロとした汚い感情が、グラウンドから消えた。その間、裕は一度として怒らなかった。感情的にもならずに。まるで、人事の様に。





 「仲直り、しちまいましたよ」

赤星は言った。
 一年の群れを見て、唖然と口を開いていた。隣には主将の尾崎と副主将の古川。赤星と違い、二人は何処か楽しげだった。

 「史上、最短だな」

 尾崎は笑った。
 こうしたトラブルは毎年の事だ。特に、先輩に気に入られてそこそこの実力を持つ者は狙われる。去年は赤星が、一昨年は尾崎がそうだった。出る杭は打たれると先人はよく言ったものだ。
 その中で、彼らがここに立つのは支えてくれる人間がいたから。尾崎には古川が、赤星には赤星の仲間がいた。人は独りでは生きられない。こんな事で、その言葉の真意を知った気になるのは過剰だろうか。

 「…兵庫県大崎中学四番主将ってのも、名前だけじゃないみたいっすね」

 岡沢達数名が蜂谷を嫌っているのは知っていた。放っておけば、事態はどんどん悪化していた。この時期に部内でのトラブルは避けたかったが、尾崎達が言ったところで効果は殆ど無いし、悪化したと言っても間違いではない。だからこそ、放っておいた。蜂谷や、市河を信じて。

 「人に慕われるのは、その人の才能だ」

周りにはいつも、人がいる。
 いつでも傍に人がいるのは、その人の力だ。信頼されたり、好まれたり。





 一年の中にはまた、元の平穏な時間が戻り各々の練習をしていた。俊は投球しながら言った。

 「裕、お前ってすごいな」

 どうして、あんなに平然としていられるんだ。誇りやプライドはないのか。馬鹿にされても、いいのかよ。

 「すごくないさ。…あ、俊。さっきはありがとう」

裕は笑った。

 「お前の為じゃない」
 「…そう思ったけどな」
 「お前さ、あんなに馬鹿にされてもなんで平気でいられる訳?悔しくないのか?お前の誇りは、傷付かないのか?」

 我ながら、妙な質問をしていると頭の隅で思いつつ言った。尚樹なら笑って馬鹿にするだろうが、裕は真剣に答えてくれるだろうと言う自信があった。

 「あんな言葉じゃ、俺の誇りは傷付かない」

 誇りが傷付く時は、自分が夢を諦める時だ。
 その夢が叶う為なら、どんな苦痛も耐えられる。泥だらけでも走り出せる。傷付いても、野球が出来る。

 「俊の誇りはそんな事で傷付くのか?それだったら、随分安っぽい誇りだな」

裕は笑った。俊はむっとしてボールを力一杯返球した。それを片目を瞑って頭上高くで裕は捕球した。