13.井の中の蛙




 夏と言えど、合宿の地千葉は僅かに肌寒かった。阪野二高野球部はバスから降りて宿泊場所である老舗旅館の前に整列していた。
 吉森はその前に立ち、荷物を自分の部屋に置き準備をして三十分後に集合する事を告げると一足先に旅館へと入って行った。

 「あー、疲れた」

 裕は長時間バスに押し込められ鈍った身体を解す様に大きく背伸びをした。関節がポキポキと音を立てる。その隣で尚樹も同じ様に柔軟している。一方、俊と浩人は先輩達に続く様に旅館へと足を進めた。

 「とうとう着いたなー、千葉」
 「だなー。ちょっと寒いな。流石山奥」

 辺りに茂る山々の自然に目を奪われる。色とりどりの花々や珍しい鳥。合宿はもちろん、観光としても素晴らしい場所だ。少し遅れて二人は旅館へと足を踏み入れた。
 自室へと向かう廊下はすでに野球部員で溢れていて、早めに外へ向かう者、少し休んでから向かう者と様々だったが、裕達は明らかに後者だ。
 部屋の割り振りを確認した。裕は一番遠い置くの部屋だ。もちろん、俊や尚樹、浩人もいる。他数名の一年生だけで出来た部屋。
 部屋に入ると、涼しげな風とお香の静かに甘い匂いが漂って来た。

 「…わあ…」

 感動を静かに尚樹は言った。裕は苦笑する。早々と準備を済ませた浩人が二人を急かす様に呼んだ。

 「合宿って、感じだな…」
 「いや、合宿なんだよ…」

荷物を置いて二人も準備を始めた。

 「…そういやさぁ、初日はスポーツテストみたいな事するらしいぜ」

 松本の言葉を思い出して裕は言った。部屋の中からへぇーと声が上がる。

 「思うんだけどさ、初日って今日の事を言うのか?明日の事を言うのか??」
 「え」

改めて尚樹は腕を組んで考えた。どっちだっけ、と声を漏らす。
 そんな二人のやり取りを放っておいて俊と浩人は廊下へと出た。

 「…あいつ等は馬鹿だな…」

呆れた俊は言う。浩人は可笑しそうに腹を抱えている。

 「本当だよな。初日って言ったら今日に決まってんのに…。て言うか、どうでもいいだろが…」

 遅れて準備し終えた二人と合流し、四人は外へと向かった。





 数分後、合宿初日の練習が始まる。だが、その開始を告げる前の整列した部員の前に吉森が出て言った。

 「あー、尾崎と古川には言ったが本当は今日個人の身体能力を測ろうと思っていたんだが、中止にする」

裕と俊は見合わせた。そこに尾崎が問い掛けた。

 「実は今日、使えるはずだったグラウンドが使えなくなってなぁ」
 「何故です?」
 「他の学校が使う事になったんだ」
 「こっちが先に使うって言ったんじゃないすか」
 「まあ、仕方が無い。なんせ、相手は長谷商業だからな」

ざわめいた。
 長谷商業、阪野二高と同じ地区のナンバーワン甲子園候補だ。常に三回戦敗退を喫している阪野二高では文句を言えまい。理不尽だが、仕方が無いのだ。

 「尾崎、練習を始めてくれ」

吉森は早々に文句の出る前に退散した。
 当然、文句は上がったが仕方なく阪野二高野球部はランニング、筋トレなどの外でも出来るメニューとなった。だが、慣れない山などの場所だった為にいつも以上にハードな練習となった。





 日が傾いて、辺りが暗くなった。外灯や人家の少ない山奥は日が落ちれば真っ暗になる。それでは危険な上練習も出来ないので、尾崎は終了を告げた。
 今日の練習の感想をまるで愚痴の様に言いながらぶらぶらと旅館に戻って行く部員。その最後尾で裕達四人は歩いていた。
 遠くで明る過ぎる光が見えた。恐らくそれが阪野二高が使う予定だったグラウンドだ。金属音が高く響いている。まだ練習が続いているんだろう。
 彼方此方で長谷商に対する文句が飛び交っていた。

 その傍まで歩き、裕と俊はこっそりと覗いた。丁度休憩に入ったらしく、散っていた。
 その内の一人が偶然二人のいるフェンス傍まで近付いて、二人は発見されてしまった。しまった、と思う間もなく俊ははっとした。

 「江川?」
 「あっ、市河!」

 知り合いらしい二人は驚いていた。相手が笑顔を浮かべたのに大して、、俊が一瞬嫌そうな顔を浮かべたのを裕は見逃さなかった。

 「お前、阪野二高だっけ?」
 「そうだよ」

江川と呼ばれる少年は適当な返事を返し、裕に目をやった。

 「何?中学生?」

 ニヤニヤと笑う江川をムっとして裕は睨んだ。空かさず俊は同い年だ、と言った。

 「へー。随分、チビだねぇ。ポジション何処?」
 「サード」

江川は噴出した。

 「何が可笑しい」
 「お前がサードかよ。随分、中学は弱かったんだな」
 「弱くない。相手を見てくれだけで判断すると後悔するぞ」

わざとらしく江川は驚いたふりをする。
 間にフェンスが無ければ、今頃裕は殴り掛かっていただろう。

 「…お前、随分と思い上がってるみたいだけどお前だってそんなに巧くないだろうが」
 「お前ほどじゃねぇよ」

江川は俊を笑った。俊は強くフェンスを握り締めた。

 「いい加減にしろよ。お前はどうなんだよ。学校が強いから、お前が強い訳じゃねぇ。お前みたいな奴がいつもチームのお荷物になるんだ」

江川はフェンスに掴み掛った。僅かに赤くなった顔に怒りの色が浮かぶ。

 「俺は中学の時から注目されていたんだぜ。市河なんか練習試合にすら出してもらえなかったんだ」
 「自称だろ」

俊は言った。

 「俊は下手じゃない。周りが、俊の実力に追いつかなかっただけだ」
 「俺達が下手だったって言う訳?少なくともお前みたいなチビよりは巧いぜ」
 「そうやって、見掛けで判断するところがお前の弱さだろ」
 「行こうぜ、俊」

裕は俊の手を引っ張った。
 小さくなって行く二人の姿を見て江川は笑っていた。





 「何だよ!裕!!」
 「放って置けよ、あんな奴。言い返す価値もねぇ」
 「言ってやればいいだろ!全国優勝した学校の四番だって!!」
 「そんなの、誰が信じるんだよ。言い返すだけ無駄なんだよ」
 「…お前みたいな楽観的主義者と一緒にすんな!俺は、見下されれば悔しいし、馬鹿にされれば腹が立つんだ!」
 「俺だってそうだ!!」

裕は怒りをぶつける様に地面を踏み付けた。

 「天才ってのは、何時の時代も凡人には理解されないもんだ」
 「何言って…」

俊の脳裏に二人の天才の名が通り過ぎた。
 笹森エイジ、浅賀恭輔。天才と呼ばれる彼らも、やはり周りに理解されないで苦労したのか?人材の不足、周りからの妬み、嫉み。

 「俺は天才じゃないから、お前らの苦しみなんて解らないけど。俺だって、それなりの苦しみ背負って生きてんだ」

 ずっと、天才に憧れていたよ。ずっと。羨ましかったよ。どんなに頑張っても、泥だらけになっても、巧くなっても監督達は見てくれない。天才に埋もれて、全て消えた。

 「だけど、俺は、ずっと天才になりたかったよ。羨ましかった」

 皆、平然と俺の事を“チビ”なんて言うけれど、それは俺にとってかなりのコンプレックスだ。
 小さいから、だから非力。だから、試合で使えない。そんな見てくれで決めて、試合なんて出られなかった。誰も個人の実力なんて見てくれなかった。

 「…悪かった」
 「なんで俊が謝るんだよ」

裕は早足に帰路を辿る。その後ろをさっきと変わらぬペースで俊が追う。
 小さな、背中。後姿は中学生だ。だけど、その背中には沢山の重荷がある。夢も、約束も、全てが重さになって圧し掛かる。

 「ところで、」

裕は振り返った。

 「あいつのポジションは?ついでに、打順も」
 「ピッチャーだよ。五番で」

鼻が高くなるのも、無理は無いか。と心の中で裕は思った。
 だが、所詮井の中の蛙。あいつはただのお山の大将だ。だが、裕や俊が甲子園に行く為には、絶対に倒さねばならない相手だ。

 「…明日、喧嘩売って来ようかな」
 「止めろ」

裕は笑った。

 「あー、明日はスポーツテストか」
 「中学以来だな」
 「あ、お前中学でランクなんだった?」
 「A」
 「うわー」

わざとらしく、大げさなリアクションを取る。
 俊は聞き返した。

 「裕は」
 「俺はBだよ」

裕は苦笑した。

 「握力無くてさー。あ、でもその代わり…あ、長座体前屈とかすごいぜ」
 「ふーん」

 丁度目の前にあの旅館が現れ、裕は競争!と言って走り出した。その後を溜息を吐きつつ俊は追った。