14.リトルヒーロー




 真っ青に広がる空。阪野二高野球部はその下の自然に囲まれたグラウンドに集合していた。本日は個人の実力を測るスポーツテストだ。今日の結果次第で最終日の紅白戦のメンバーが変わる。選手の表情も引き締まっている。
 一方、合宿初日と言う事で夜遅くまで起きていた選手達は寝不足で眼の下に隈を作っていた。尚樹はその一人だ。

 「寝不足かよ、尚樹」
 「当たり前だろー。こんな時に寝てられるかー…」

 弱っている尚樹をよそにぐっすりと今日に備えて眠った裕、俊、浩人は準備体操を始めていた。赤星や松本が裕の出場を待っている。出ない訳にはいかない。また、俊も同じだ。俊が出る以上、浩人は何としても出なくてはならない。バッテリーなのだから。

 「一年、蜂谷君、新君、浅尾君…」

 裕は名前を呼ばれ歩き出した。俊達は自分達が呼ばれるのを待ってそこに腰を下ろしていた。





 「えーっと、しん君?」
 「違う。し、む、ら」

新は大げさに言った。裕達数人の呼ばれた先はグラウンドの隅の長机の前。
 パイプ椅子に座るマネージャーの前には、赤い握力測定機が置かれている。そう、握力測定だ。
 先に並んだ一年の後ろに裕と新は並んだ。

 「…お前、やっぱり小さいな」
 「うっせ!」

 裕が小さいのは言うまでも無い事実だ。一方、新は俊や浩人ほど大きくない。それでも裕よりは大きいのだが。新は笑っていた。

 「よろしく。俺は蜂谷裕」
 「こちらこそ。俺は新陽輔」

二人が互いに挨拶をし終えると同時に順番が回って来た。
 顔を見合わせて意味深に笑うと二人は測定を始めた。





 「…どうだった?」

記録した用紙を裕の前で見せびらかす様にヒラヒラをさせた。黙って裕はその用紙を見ていた。
 自分の記録用紙を脇にしまい込み、次に行こうと話を転換する裕の用紙を巧く奪って陽輔は見た。返せ、と裕は飛び上がる。

 「28…ね」

クスクスと陽輔は笑っている。
 悔しそうに裕は用紙を奪い返した。

 「いいんだ。他ので挽回するから」

似た目通りだな、と陽輔は笑った。
 どうせ、非力ですよ。と裕は言って歩き出した。その後を駆け足気味に陽輔は追った。遠くでドレミファソラシドの音が聞こえる。二年がシャトルランをしているのだ。

 「次、何処?」
 「上体起こしじゃね?」

 陽輔は前方を指差した。そこには俊がいた。カウントダウンされる中で、他の一年の中で圧倒的に速い。タイムを計っているマネージャーさえも目を丸くしている。

 「…47回…」

浩人は言った。
 歓声が上がる。俊は何処か満足げに笑った。それを見て、裕は「負けられないな」と覚悟した。





 日が高く上がり、お昼時。裕達の最後のメニューであるシャトルランが行われる。テンポ良く回った為か握力・上体起こし・反復横とび・50m走・立ち幅跳び・ハンド投げを午前に終わらせる事が出来た。
 マネージャーがシャトルランの測定の準備をしている。最後のグループだ。全員一年のはずだがそこには赤星、松本、古川、尾崎の姿があった。

 「あれ?」

理由を問おうとしたが、マネージャーが「始めます」と言ったので裕はそれを飲み込み構えた。
 シャトルラン。20mの距離を往復し続ける競技だ。ドレミファソラシドの音の鳴っている間に反対側の白線を越える。至ってシンプルだ。二人一組で行う為、先に陽輔が入り裕はその記録をする為に白線の外側に座った。
 カチャリ、と古臭い放送用のメガホンから音が出て続いてドの音が聞こえた。スタートだ。
 体力を温存しつつ、テンポ良く、選手は走る。規定の回数、連続して白線を越えなければそこで終わりだ。流石に鍛えられた野球部員はそう簡単に終わらない。
 この競技の恐ろしいところは、後半に行くほど音の間隔が短くなる。と言う事だ。
 その変化に選手達は築き上げてきた自分のペースをどんどん崩さなければならなくなった。70を越えた辺りから脱落者が現れ始め、90へ行くと殆どが脱落した。陽輔はまだ、走っている。
 110を越えると走っているのは古川、松本だけになった。流石に疲労の色が伺える。それでも、止まらない。107を記録した陽輔は裕の後ろで大の字になって苦しそうに喘いでいる。
 そして、119で白線を踏まなかった為に松本が落ちた。残るのは古川だけだ。記録するのは尾崎のみ。そして、120を越えた。歓声が上がる。
 驚くほど短い音の間隔。それでも、必死に走る。もう、普通のダッシュの速さに近い。だが、124で古川はふらふらと白線の外へ出た。終了だ。記録、124。誰からとも無く拍手が起こる。

 「赤星先輩、俺、どうして先輩達がこのグループと一緒にやるのか解りましたよ…」

赤星は顔を上げ、笑った。
 時間が掛かるから。最も、長い時間を必要とする、化物達だ。だからこそ、監督は最後の組にこの四人をいれたんだ。

 「…さて、今度は俺の番だな」





 ポーンと言うドの音。さっきと同じスタート。裕の隣で走るのは俊、そして、赤星。大柄な二人に挟まれた裕は一層小さく、頼り甲斐のないものに見えた。
 見た目通り、非力で。陽輔は、裕の事を始めから信用もしていなかったし、好きでもなかった。それと言うのも、陽輔はどちらかと言うと岡沢派の人間だったからだ。クラスが一緒だったのもあって、岡沢とは仲も良かった。その岡沢がすごく嫌う人間だ、と言うくらいにしか思っていなかった。
 黙々と記録している間に、回数はすでに80を越えていた。脱落者はまだ、少ない。流石は野球部と言うところだ。もちろん、裕はまだ走っている。
 90。さっきよりは少ない脱落者。ほとんどが一年だ。だが、100を越えれば二、三年も脱落し始めた。110の頃には走っているのは俊、裕、赤星、尾崎だけになった。一年が二人も残っていると言う事に声があがる。その内、一人があの小さな蜂谷と言う事が余計、皆を驚かせた。
 120。浩人が俊に終わりを告げた。俊は一瞬目を瞑ってゆっくりと白線の外に出た。そして、ぐったりと倒れ込んだ。これで残りは三人となる。それだけで、陽輔には驚きの事実だった。

 (まだ、走ってる…)

 自分よりも10cm近く小さいやつが、まだ、走ってる。現在回数は125だ。これで、三人は古川の記録を塗り替えた。誰も落ちない。
 苦しそうな三人。辺りは静かだったが、次第に応援の声が上がる。

 「…すげ…」

陽輔は呟いた。回数は127。陽輔の記録を20も上回った。化物だ。尾崎も、赤星も、蜂谷も。
 苦しそうに、それでも足を止めない三人。どう見ても、一番苦しそうなのは裕だ。あの身体の何処にそんな力があるんだ。
 不思議で仕方が無かった。

 「赤星!終わりだ!」

えっ、と声を漏らして渋々と赤星は白線の外へ出た。そして、倒れ込んだ。
 慌てて数名のマネージャーが駆け寄って団扇で仰ぐ。赤星は悔しそうに「畜生」と言った。身体全体で息をしながら目を瞑った。残り、二人。
 もう、回数は130を越えた。それでも、まだ余裕のある尾崎はちらりと裕を見た。もう、フラフラとしている。重病患者の様だ。尾崎は音の間隔が短くなったのを感じて足を速めた。

 「…わっ」

小さな声を漏らして、裕が転んだ。顔から転んだ。
 その傍を往復して来た尾崎が通り過ぎる。普段の尾崎ならすぐに駆け寄るだろうが、その余裕は無かった。裕は素早く立ち上がってその後を追った。
 顔を擦ったのか、血が滲んでいる。膝からも出血している。もう、諦めればいいのに。もう、充分なのに。応援の声が大きくなる。
 指先が震えた。陽輔は記録用紙を落としそうになりながらも裕を見つめた。回数は140に届く。もう、止めろよ。

 「無理するな!」

陽輔は言った。
 裕は一瞬笑った様に見えた。錯覚かも知れない。だが、足は止まらない。

 「…ッ…頑張れ!蜂谷…!!」





 そよそよと風が吹き抜ける。監督も予想外のシャトルランの記録に驚き、午後の練習は軽めのものになった。そこにはちゃんと全員が参加していた。
 午前のシャトルランが余程疲れたのか、いつも率先して大きな声を出している尾崎達は余り元気が無かった。午後の練習が終わると、部員の話は午前のスポーツテストで持ちきりだった。

 「すごいよなぁ、主将!169だぜ!?化物だぜ」
 「流石は主将だよなぁ」

 陽輔は言った。

 「蜂谷、お前凄いよ」

裕は流石に疲れたのか低めの声で唸る様に「ああ?」と言った。
 遠くで尚樹がトンボで遊んでいる。今に浩人に怒られるだろう。夜風が気持ち良かった。

 「何で、あそこまで食らいつけるんだよ」

 裕の記録、163。部内二位だ。膝と頬に張られたガーゼは茶色く汚れている。あのゴールした瞬間が何度も脳裏に蘇る。終わりを告げたのは陽輔だ。
 動き続けていたせいか血が固まらずに流れて足首にまで到達していた。赤星は倒れる裕の頭を小突いて何度も褒めた。

 体力は、人それぞれ違うが、結局は努力した者に多くつく。その体格から考えても体力は元々少なかった筈だ。それを、努力で伸ばして来た。部活だけじゃない。きっと、自主練で伸ばしたんだ。
 先輩に気に入られているからとか、調子に乗っているとか、チビのくせにとか。そんな言葉がそれだけ愚かだったか思い返す。こいつは、誰よりも努力してる。

 あんなに、自分を押せるものだろうか。悲鳴を上げる身体を、支えて走れるものなのだろうか。辛くは無いのか。苦しくないのか。そうならば、どうして、諦めないんだ。たかが、一年のスポーツテストじゃねぇか。
 陽輔は不思議で仕方無い様に思った。自分はそうであったし、皆もそうだと思っていたから。もう無理かな、と思ったところで諦める。

 裕はゆっくりと、あの瞬間を思い返す。そして、僅かに笑って。

 「だって、負けたくねぇじゃねぇか」

そう、言った。
 そして、負けず嫌いなんだ。と付け加えた。

 「蜂谷、俺はお前の事、正直あんまり好きじゃなかった」
 「…知ってる」
 「だけど、今は、嫌いじゃねぇ」

陽輔はすぐに下を向いてトンボを掛け始めた。
 裕は一瞬笑顔を浮かべて同じ様にトンボを掛け始めた。


 合宿、二日目の夜は更けていく。