16.足りないもの




 さながら本物の試合の様に互いのチームは向き合い、礼をした。味方でありながら、敵である。強い風が吹いた。そして。

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 と、帽子を取って深く頭を下げた。強い風が、厚い雲を動かして太陽を出させた。光は真っ直ぐに、裕達のいるグラウンドを照り付ける。
 この太陽は、あの夏の大会の決勝戦と同じだ。





 一回表。Aチームの先攻。先頭打者は、二年セカンドレギュラーの追川。対するバッテリーは、ピッチャー赤星、キャッチャー松本。
 「プレイ」と言う審判のコール。赤星は構えた。レギュラー同士の対決。松本はサインを出す。
 その二人を見定める様に、俊は試合経過を見守る。この、阪野二高の最強のバッテリーの力は、どんなものかと。そして、数分前に尾崎の言った言葉の意味を考える。

 「このバッテリーは、お前らに有るものが無い。だが、お前らに無いものが有る」

 無いもの?その意味が解らない。だが、それもこの試合で解るだろうと納得し俊は目を戻した。
 赤星が投げた。コースは…ど真ん中だ。最も打ち易い、直球ど真ん中。辺りがどよめく。追川は口元に笑みを浮かべて打ちに行った。真芯で捉えた筈の打球は、痛烈な打球となって三遊間で飛んだ。ショートは裕だ。左利きと言うハンディを背負っている。追川は走った。
 打球は地面にバウンドし、それでも、なお威力を衰えさせる事無く飛ぶ。だが、スパンッと綺麗な音を立てて打球はグローブに納まった。走者は一塁目前だ。Aチームから歓声が上がる。
 だが、球はすでにファーストのミットの前。追川はそこでようやく気付き、滑り込んだ。だが、「アウト」。

 尾崎は息を呑んだ。

 「なんだ、今の…」

 左利きのショート。そこを狙えと言ったのは尾崎だ。追川はその通りにショートを狙った。だが、その送球が早い。早過ぎる。

 「古川、今の…」
 「どうなってんだ」

 走者に目が行って打球に目が向かなかった。それにしても、今の大胆な配球は。いきなりど真ん中ストレート。打ってくれと言っている様なものだ。
 だが、赤星と松本は笑っている。まるで、全て、計算済みとでも言うかの様に。





 ワンアウト。次の打者は、俊だ。ここからは二連続で一年が続く。松本は静かに「油断するな」とサインを送った。赤星は頷き、構えた。
 一投目。様子見となる筈の一番打者にど真ん中ストレートと言う配球で、今回のコース・球種が全く絞れない。俊はバットを握り締めて見守る。
 ストレート。内角低め。膝近くを通過するストレート。ピンポイントで狙った様な制球力に驚く。バットは空を切って球はミットに納まった。ワンストライク。
 松本は無言で返球する。赤星もまた、無言でそれを受け取った。普段はうるさいほどに騒いでいる二人だが、一度試合ともなれば無言で一球一球に集中する。

 (これが、主将の言ってた事か?)

だが、その集中力が俊と浩人に無いとは思えない。俊は構え直した。
 二投目。スピードは驚くほどではない。追川のさっきの事も考えれば、さほど重い訳でもないだろう。この二人に有って、俊と浩人に無いもの。
 目前まで迫った球に向けてスイングする。金属音と手応え。だが、打球はボテボテのゴロだ。ピッチャーは飛び出した。俊は走った。あの球は、ストレートじゃない。あれは、シンカーだ。変化球もあったのか。
 赤星を嘗めていた事を軽く後悔する。はやり、先輩だ。

 赤星は素早く一塁に送球する。滑り込む間も無く俊はアウトになった。これで、ツーストライク。Bチームから歓声が上がった。

 「…赤星先輩、中々、いいピッチャーだな」

 戻って来た俊に浩人は言った。俊は無言だった。

 「ラストだ!締まって行こう!!」

松本はナインに呼び掛けた。
 ナインはその声に応えて大声で「オー!」と言った。浩人がバッターボックスに立つ。
 浩人は目の前の投手、赤星を見た。その奥に裕が低い姿勢で構えているのが解る。いつものあの柔らかい雰囲気は何処にも無い。プロは、そうなんだ。と。テレビで見た記憶が微かにあった。
 試合に対する意識が、中学とはまるで違う。空気が重い。突風にさえ目を背けない。Bチームは赤星、松本以外全員レギュラーではない。それどころか、守備の要のショートストップが左利きの一年。
 恐ろしく、大胆な配球。俺には出来ない。俊の球に信頼はしているし、打たれない自信もある。だが、今までのキャッチャーの経験が言うのだ。その過信が命取りになる、と。

 ショートで裕が、微かに笑った様に見えた。

 一球目。そんなに速くない。中の上、と言うところか。俊の球で慣れた眼だ。この程度なら、充分追える。
 バットが動く。目標はたった一点だ。バットが球に当たる、その刹那。赤星は笑った。引っ掛かった、と。また、シンカーだ。バットは空を切る。ストライク。審判の声。

 一つ、解った事がある。赤星は俊の様に球威で圧して行くピッチャーではない。注意すべきは、そのコントロールと松本の配球。その配球が、読めない。

 二球目。速い。さっきよりもずっと速い。恐らく、これはストレート。松本の耳の傍で、風を切る音が聞こえた。そして、バットに球が当たった。
 高い。打球はショート上空。また、赤星が笑った気がした。浩人は走り出そうとした。あの球は裕に取れない。その小さな間違い。
 遠くで、グローブに打球が納まった。「アウト」と言う審判の声。まさか、裕が捕ったのか?眼をそちらに向ける。捕球したのは、サードの入江。背の高いひょろっとした三年生だ。
 咄嗟の判断。裕がどいて入江が捕球する。小さなコンビプレー。スリーアウト。チェンジだ。

 入れ替わる攻守。グラウンドに散らばるAチーム。そこに、尾崎が大声で呼び掛けると、力強い返事が返る。俊はグローブを装着して、バッターボックスを見た。
 先頭打者は、裕だ。一番、ショート蜂谷。

 「悪ぃな。いきなり、打たせてもらうよ」

 ホームラン宣言だ。これまで、裕と俊は何度も対決して来た。総合的に見れば俊の勝ち越しだ。だが、二人はまだ出会ったばかりだ。たった一球が、全てに影響する。
 浩人はサインを出す。俊は頷いて構えた。
 第一球、投げられた。直球だ。外角高めのボールゾーン。それがミットに納まった瞬間、審判は「ボール」と言った。裕は無言で構える。

 (今の一球、様子見だけじゃない。次に控えるバッターを威圧しているんだ。)

 静かに、真っ直ぐに俊を見て裕は構えた。やはり、次に控えるバッターは感嘆の声を漏らした。俊は、僅かに目を伏せて尾崎の言葉を思い出す。

 (足りないもの?俺に、何が足りないって?)

 そして、返球を受け取って再び構える。足りないものは、無いと。尾崎の言葉を否定して浩人のサインに頷き球を投げる。足りないものは、無いと。
 裕はバットを僅かに動かした。金属バットが、男子高校生とは思えないほど細い身体に異常な違和感を与える。それだけ、小さく、儚い。だが、バットは何かに操られているかの様に動く。否、何かではない。操っているのは、裕だ。
 ギィン、と。金属音が耳を通り抜けた。打球はピッチャー前。ホームラン宣言なんてするものだから、と。予想外の事に大よそ俊らしくもなく慌てて打球を追う。
 それを一塁に投げる。だが、砂煙の中に、裕は立っていた。僅かに、笑って。

 「悪い。あれは、嘘だ」

 端から、ホームランなんて打つ気はさらさら無い。一対一の勝負ならともかく、こんなチーム戦なのにたった一人で戦う必要なんて、無い。

 俊は帽子を深く被り直し、地面を慣らした。構える、次のバッター。
 聞き慣れた金属音が、空に高く響く。打球はキャッチャー頭上。フライだ。バッターアウトの審判の声と共にバッターは入れ替わる。だが、次の三番はあえなく空振り三振で肩を落として戻って行った。

 次は、四番。

 一回裏、早くもBチーム最強の打者がバッターボックスに立つ。ツーアウトランナー一塁。松本はヘルメットを被り直し、俊を見据えた。
 微かに、その黒い瞳の奥に炎が燃えている気がした。

 裕をトップバッターにした理由は解る。この部活で誰よりも多く俊の球を見て来た。それは、打者としてだ。Bチームは、少なくとも松本と赤星は相手のバッテリーが一年だからと言って油断はしていない。だからこそ、裕を始めに行かせたのだ。

 浩人は俊に一つのサインを送った。“油断するな”と。相手は四番。いくら俊の肩が凄くとも、いくら相手が正規の四番でなくとも、一筋縄ではいかない。
 俊はゆっくりと頷いて構えた。心の何処かで、この人には打たれると思っていた。松本を包む空気は、他のナインに比べてまるで違う。重い。
 右打者である松本は、ゆっくりと何かを確かめるようにバットを構えた。視界の奥では後輩であり、唯一のランナーの裕が一塁で笑っていた。松本を、信じて。
 裕が僅かに一塁から離れる。俊がちらりと目を遣れば素早く戻る。磯にいる蟹の様だ。大きく息を吸い込み、俊は第一球を放った。
 外角低めをピンポイントで貫く。打ちにくいコースだ。松本はバットを振ったが、それに触れる事は適わなかった。ストライク、と審判の声。Aチームは騒ぎ立てる。

 松本はヘルメットを被り直し、再び構えた。俊も構える。ランナーを気にしつつ、第二球を投げた。カーブだ。内角低め。二球続けての低いコース。だが、松本はバットを躊躇いも無く振る。
 カツンッ。予想外に小さな音。打球は一塁線ギリギリ。松本は飛び出した。同時に俊が打球を追う。それよりもワンテンポ速く裕が一塁を蹴った。

 間一髪、松本は滑り込みセーフ判定が下された。裕はすでに三塁に滑り込んでいた。ツーアウトランナー一塁三塁。





 「俊、焦るなよ」

浩人はマウンドに駆寄り言った。
 俊は答えず球を手の中で転がす。浩人は溜息を吐いて俊の左肩を軽く叩き戻って行った。





 続く打者は、五番。ピッチャーの赤星だ。先の小柄な松本に比べれば身長は高い。浅黒い肌に太陽の光を小さく写し、バットを構える。
 俊は足元を均し、構えた。本気だ。赤星はその空気の変わり様に驚き、息を呑んだ。だが、ここでチェンジする訳にはいかない。
 ランナーは、赤星を信じて疑わない。必ず打つ、と。その期待に添えないなら、ここに立つ資格はない。

 俊の投球。お互いピッチャー。俊は、赤星に有るものを持たない。その代わりに、俊に有るものを赤星は持たない。それが一体何なのか。

 球は綺麗にキャッチャーミットに納まった。ストライクと審判がコールする。

 俊は返球を受け取り、再度構える。同じ様に赤星も。まだ一回裏とは言え、譲れない。互いに足りないものが相手に有る者同士だ。ここは、負けられない。





 高い、金属音が響いた。