17.負けられない勝負




 「アウトッ」

審判が叫んだ。
 打球は、赤星のバットを掠りながらも浩人のミットに納まった。スリーアウトだ。チェンジ。赤星は心底悔しそうに目を伏せて暫くそこを動かなかった。だが

 「ドンマイっ、赤星先輩!」

 駆け足気味に裕は赤星に近付いた。せっかくのチャンスを潰してしまったのに、笑っている裕を見れば赤星も顔を上げない訳にはいかなかった。
 続く様に松本も駆寄って肩を叩いた。

 「まだ、一回裏だ。お前を責める理由なんてちっぽけなもんさ」

 赤星は僅かに苦笑した。守備へと向かうBチームのナインは笑って走り出した。赤星はその優しさに自分を責めつつグローブを取りに戻った。
 マウンドに向かう赤星に松本は耳打ちした。

 「次は四番だ。気ィしっかり持たないと、やばいぜ」

 赤星は気持ちを入れ換えるつもりで白球を握り直した。





 次は、四番。阪野二高野球部最強打者。正規の四番だ。

 (四番はやっぱり、…だろうな)

 バッターボックスに立つその姿を見て、裕はやっぱりな、と思った。
 充分過ぎるその存在感と、重過ぎる威圧感。野球部主将にして、最強打者。四番サード尾崎晃平。誰もが最も恐れる、怪物だ。

 赤星は、グローブの中に在る白球を握る。確かめる様に。だが、目の前で渦を巻く大き過ぎる空気の渦に呑み込まれそうになる。それは松本も同じだ。緊張感がビリビリと伝わる。例え素人でも解るだろう。普段が優しいだけに、その豹変ぶりは大きい。別人ではないかとさえ思える。

 二回表。すでに両者とも本気だ。先輩であり、正規の四番である以上赤星・松本も当たり前の事ながら、後輩とは言え、二年でレギュラーを勝ち取ったバッテリーを尾崎も決して嘗めて掛からない。

 赤星は、ゆっくりと構えた。

 二人の瞳の奥に有るもの。それは、決して恐怖ではない。その空気だけで怯えるほど、二人は弱くない。どんな時も、逃げ出さない。
 0か100か。赤星はギャンブラーだ。巧く行けば、一回表の様にスリーアウトを容易に取れる。だが。


 ギィンッ。


鋭いスイングの音と、金属音。
 打球は、青空に吸い込まれていったかと思えば、フェンスの奥へと消えて行った。





 「ホームラン…」

 ぽかんと口を開けて、赤星は打球の吸い込まれたフェンスの奥を見ていた。静まり返ったグラウンドが、一気に沸いた。
 尾崎はバットを置くとダイヤモンドを周り出した。

 尾崎が二塁と三塁との間を走る刹那。裕に、小さな声で呟いた。裕は口元を小さく歪ませただけで答える事は無かった。そして、ホームイン。
 戦局は1−0と、Aチーム側に傾いた。一打席で、一球目で、いきなりホームランを打たれた。その事実は、まだ二回表とは言え赤星にとっては大きな衝撃だった。





 「赤星先輩!!」

ナインが駆寄る。
 流石に赤星もすぐに笑えるほどの力は無かった。そして、大きく頭を下げた。

 「皆、ごめん!!」

 初球でいきなりのホームラン。全部俺の責任だ。俺の、力不足。まだ、あの人には適わない。

 「さっきから、俺…。何してんだろうな…」
 「赤星…」

 松本も掛ける言葉が見つからずに眉を下げていた。空気が重く圧し掛かる。まだ、二回表だと言うのに、これでは駄目だ。

 「…赤星先輩、大丈夫ですよ」

 出来る限り明るい声で、裕は言った。赤星は俯いたまま、何の反応もしなかった。

 「俺達はまだ負けていない。まだ、勝てるんですよ?」
 「蜂谷…。それは、解っているんだよ」

 ただ、赤星は責めているんだ。自分の無力さを。不甲斐なさを。チームの主将として、皆を引っ張るはずが、足を引っ張っている。これでは完全なお荷物だ。

 「俺は、どんな瞬間でも信じてます。まだ試合は終わっていない。後悔は早過ぎる」

 裕は誰よりも早くショートポジションに戻って行った。





 「…悔しいな」
 「ああ」

赤星と松本は顔を見合わせた。
 周りのナインは訳も訳も解らず首を傾げ、頭の上に?を浮かべるばかりだった。

 「一年に、言われるとは」
 「抑えるぞ」

二人は拳をぶつけ、ナインに大声で呼びかけた。
 散り行くナインからは大きな返事が返る。赤星は暫しの間瞼を閉じて、神経を集中させてマウンドに立った。





 一方、歓喜に満ちたAチームのベンチでは、尾崎の初球ホームランを称えていた。

 「流石主将ですよね!」
 「はは。…でも、もう。そうは行かないな」

 グラウンドの空気が変わった。ピリピリした緊張感の走る、公式試合顔負けの状態。尾崎のホームランは、赤星・松本バッテリーを落ち込ませるどころか、やる気を出させる結果になった。
 その時が、最も恐ろしい。

 「市河、解るか。あいつらは本気だ。お前の球ははっきり言って高校一年のレベルじゃねぇ。だけどな、赤星も言うなれば天才だ。一見、そう見えないところがあいつの恐ろしいところだ」

 「天才…」
 「見てろ、来るぞ」

 尾崎はグラウンドを指差した。俊はその方向に目を遣る。バッターボックスには次の打者である古川が構えていた。その表情にはまだ笑顔が残っている。余程、先程の尾崎のホームランに興奮したのだろう。

 赤星は構えた。身長は高い方だ。つまり、投手としては恵まれた体型。赤星の武器は、その度胸ももちろんの事だが他に在る。

 赤星は投げた。オーバースロー。俊と同じ最速の投法。長身であり、その頭上から放られる球は重く、速い。バッターが投げられた事に気付いた頃には。

 「ストライクッ」

 球はすでにキャッチャーミットに納まっていると言う寸法である。松本との連携も去る事ながら、その超が付く程の剛球こそが、赤星の最大の武器だ。


 「…見たか?」
 「はい…」

 お世辞なんて無く、早い。ベンチの俊にさえ、その球は異常に速く見えた。バッターボックスに立つ打者には、目にも留まらぬ剛速球となるだろう。

 あっという間に、スリーアウト。チェンジだ。





 ベンチに戻り、裕はグラウンドを見た。マウンドには俊が立ち、バッターの後ろには浩人が構えている。そして、サードには最強打者、尾崎晃平が。
 点差は一点。二回裏だ。試合は始まったばかり。逆転はまだまだ出来る。だが、ピッチャーが俊と言う状況を忘れてはならない。
 裕は先の回、容易に俊の球を打って見せたがそれも当てる程度のもの。真芯で捉えるのは並大抵の力では出来ない。

 「赤星先輩。すごかったですよ」
 「どうも。まぁ、後輩に褒められたところでな」

裕は苦笑した。

 「…正直に言え。浅賀恭輔と、俺と、市河。一番速いのは誰だ?」
 「…浅賀恭輔です」

 こんなに速い赤星の球も、甲子園のトップと比べれば大した物ではない。俊も同じだ。全国の壁は高く厚い。
 赤星は「やっぱりな」と頷いてグローブを取り出して投げる準備を始めた。まだワンアウトだが、この回で赤星は自分に回らない事を理解していた。
 尾崎のようなバッターならともかく、このチームの、それも下位打線が市河の球を打てるとは思わないのだ。そして、その予想通りスリーアウトでチェンジ。


 三回表。完全に本気になった赤星の球に打者は手も足も出ないままスリーアウトになる。戦局は変わらずAチームに傾いている。

 三回裏。グラウンドに散っていたBチームのナインがベンチ集まる。裕はヘルメットを被り、銀色のバットを持ってバッターボックスに立った。先の打者である九番はあっという間に打ち取られ、ワンアウトランナー無し。
 Bチームも打者は一巡し、二順目に突入する。

 裕は無言で構えた。その表情は真剣そのもので、普段のしまりの無い笑顔は何処にも無い。何か声を掛ける事も無く、宣言も無く。投球を待つ。
 俊も同様に、何も言わずに構えた。本気だ。浩人のサインを受け取ると、小さく頷いた。一呼吸すると、俊は球を放った。コースは内角低め。ストレートだ。
 裕はバットを振った。だが、パシンッと虚しくミットに球は納まった。ストライクだ。浩人は返球した。そして、すぐにサインを出す。
 外角高め。今のコースと対極を成すコースだ。
 俊の頭上から第二球目が投げられる。瞬きさえ遅すぎる一瞬に、球は確かに、バットに当たった。だが、打球はピッチャー正面へ。難なく俊は捕球し、裕は下がって行った。

 裕と入れ違いにバッターボックスに立つ松本。一球目はカットしたものの、その後三振でスリーアウトチェンジ。


 それより、両チームは膠着したまま動かず投手戦へと突入する。熱くなったその戦いに、先の回初球でホームランを打った尾崎でさえもあえなく三振に終わった。





 戦況は変わらぬまま、バッターが次々に打ち取られて行く。このまま両チーム点数が入らないのなら、1−0でAチームの勝ちだ。だが、何か引っ掛かる事がある尾崎は敵選手のスポーツテストの結果を見ていた。主将のみの特権である。

 「あ、何見てるんだよ、尾崎。それは流石にずるくねぇ?」
 「そんな事ないだろ。使えるものは使っとけ」

 尾崎が悪戯っぽく笑うと、古川は溜息を吐いた。そして、隣でその資料に目を通した。
 大量の紙の中から選び出したのは、一枚。名前のところには『蜂谷 裕』と大よそ男らしくも無い丁寧な字で書かれていた。
 目を見張るのは、シャトルランの記録。163と言う、尾崎に迫る脅威の記録だ。あの小さな体の何処にそんな体力があるのか不思議でならない。
 身長159cm、体重48kgの小柄な選手。他の記録は特に目立ったところは無い。そこが、妙に気になる。それは、経験が言う直感だ。

 「俺は、やっと解ったんだよ」
 「何が」

 「あいつがどうして、左利きのショートなのに送球が早いか」

 古川は一回表を思い出す。穴と思って狙ったのに、その送球は他のポジションの選手よりも早かった。それが何故か、解った。


 「あいつは左利きなんかじゃなかったんだな」


 低い金属音が響く。打球はショート前。裕はそれをあっという間に捕球する。その、速過ぎる巧みなフットワーク。そして、左手にはめられたグローブ。

 投げる手は、右だ。

 「両利き…。普段左手を使って何でも行う理由はここにあった訳だ」

 全てはこの布石。左投げと言うハンデを持ったと見せかけて、右投げ。穴を開けたまま残しておく程、蜂谷は間抜けじゃない。そして、それを赤星は知っていたからこそ、最も大変なポジションのショートに置いた。

 彼等はこの試合に、それだけの気持ちで臨んでいる。負けたくないのだ、誰にも。

 「まだ何か、引っ掛かるんだけどな…」

 尾崎は頭を掻きながら不満そうに呟いた。丁度その時、審判がチェンジと叫んだ。