19.俊足の打者




 日は高く上がり、お昼時。スコアボードも残すところ一つとなった。つまり、Bチーム最後の攻撃である九回裏だ。バッターは一番。
 裕は無言でいた。一番は、自分だ。心臓がドクドクと音を立てて、指先が震える。背中に圧し掛かる重い、プレッシャー。

 「一番、ショート蜂谷君」

 遠退いた意識が、はっと戻る。とうとうやって来た、最終打席。暫く目を瞑り、意識を集中させる。その時、肩を叩かれる。

 「肩の力抜けよ、蜂谷」

 そこには優しく笑う、松本がいた。

 「お前にプレッシャーを掛ける様な事は言わねぇ。だけど、ここで終わりたくねぇだろ?お前も俺も」

 負けたくない。
 その通りだ。裕は笑顔を返して、勢いよくベンチから立ち上った。審判が急かす。裕は特に急ぐ事も無くヘルメットを深く被り、バッターボックスへ向かった。一言、松本に言って。





 正面に構える従兄弟の市河俊。これで、何度目の対決か。大体で行くならば引き分けくらいだ。細かく行けば、恐らくは俊が勝っている。
 負けられない、負けたくない。あの桜の日に、俊も誰もかもを越えて行くと誓った。負けられない。

 俊は裕を見た。相変わらず小さい。高校生かどうかも解らないほどだ。ヘルメットを被ったバッターは、従兄弟の蜂谷裕。一回裏の打席以外は三振に抑えて来た。特に裕の打席は念を入れて来た。この男は底が見えないからだ。
 それは、浩人も解っている。目の前に立つ男の底の深さ。中学校とは言え、全国優勝の名前は伊達じゃない。

 一球目。俊は赤星ほど変化球を持たないが、その代わりに持っているのは赤星を凌ぐストレート。裕がスイングした頃には球は浩人のミットに納まっていた。

 「ストライクッ」

 裕はバットを握り直した。
 まだ、力が足りない。裕は尾崎の様に、赤星や俊の剛速球をホームランする力を持たない。その体格故に長打力が足りないのだ。
 バットに当てるだけなら、簡単だ。球種さえ解れば球の来る場所にバットを構えておけばいいのだ。だが、今はそれは出来ない。
 今まで何度も対決して来た俊だ。持ち球くらいは解る。だけど、それでは駄目だ。

 二球目。裕は瞬き一つしない様に身構えた。だが、それでも。
 一瞬で俊の球はキャッチャーミットに納まった。ツーストライクの声がやけに大きく聞こえた。





 その頃。もう紅白戦も終わっている頃なのに、誰も呼びに来ない事に疑問を感じた吉森がグラウンドに現れた。そして、まだ試合が終わっていなかった事に驚き、スコアボードを見て納得した様に頷きベンチへ向かった。
 吉森が現れた事に驚いた赤星は軽く頭を下げた。

 「まだ終わってなかったのか」
 「はい」
 「Aの投手は市河か。どうだ?」
 「とんでもないですよ。あれはもう一年の球なんかじゃないです」

 正直に赤星は言った。自分がバッターボックスに立って感じた事、遠くから見て思った事を。
 それが、天才と呼ばれる逸材だと言う事を。

 「…そうか。ところで、あいつはどうだ?」

 吉森は今、バッターボックスに立つ裕を指差した。

 「蜂谷ですか?あいつはいいですよ。俺はお勧めします」
 「そうか?どう言うところが?」
 「そうですね。あいつがいると、負ける気がしないんですよ」

 吉森は適当な相槌を打った





 俊は、最後の球を放った。その一瞬前に、裕が小さく溜息を吐いたのを見逃さなかった。こんな瞬間によく溜息が吐けるな、と。
 が。

 コツンと言う小さな音。バンドだ。打球は三塁線へ。俊は追った。
 それを捕球し、投げようと一塁を見れば、そこには砂煙が上がっている。そして、尾崎が「セカンドだッ」と叫んだ。俊がセカンドに投げた時にはもう裕が滑り込んだ後で。悠々セーフ。

 裕は、尾崎がホームランを打った時に言った事を思い出していた。すれ違う瞬間に。


―――いつになったら、本気になるんだ。


 (そろそろかな)

 裕は小さく笑って、立ち上った。





 「今のは…」

吉森は呟いた。
 赤星も驚きを隠せず、その様子に釘付けになっていた。一瞬では、何が起きたか解らなかった。

 「あいつは…」

 吉森は眼を手もとのスポーツテストの結果に移す。そして、裕の記録を見つけ見る。シャトルラン以外は、特に目立った結果は無い。柔軟性やらは優れていて、握力が少ないくらいのものだ。
 セカンドが俊へと返球する。その刹那。


 裕が飛び出した。盗塁だ。


 俊は返球を取ってすぐに投げようとするが、審判はすでにセーフを告げていた。





 「あの野郎…。今まで、隠してやがったな…」

 この、最終打席の為に。スポーツテストも手を抜いて。このたった一回のたった一点の為に。
 小さな己の最強の武器。目にも留まらぬ俊足。

 「すいません。でも、騙し討ちも有効な手段っすよね?」

 敵を騙すには味方から。その事実は、赤星や松本も知らなかった。それどころか、俊さえ知らなかったのだ。
 俊は思い出す。裕がこっちに引っ越してきた初日の事を。毎日、走り込みを欠かさないと言った。あれは、走力を落とさない様にする為。





 「とんでもない一年が来たな」

 吉森は呟いた。今年の一年は粒が大きい。市河・爾志のバッテリーはもちろんの事だが、ここにはいないとは言え禄高も。そして、蜂谷。

 「監督、知ってました?あいつ、左利きじゃないんですよ」

 赤星は何処か誇らしげに、微笑んで。

 「両利きなんですよ。知らなかったでしょう。それだけ、監督は蜂谷を見ていなかったんですよ」

 確かに、市河や爾志、禄高の様な天才に比べればあっという間に埋もれてしまう凡才だけど。その中で少しでも眼を向けてやれば光るものが見える。
 見ようとしなければ、人の姿なんてものは見えない。決して。
 あいつは大きくなる。これは、直感だ。むしろ、予言と言い換えてもいい。





 それから、続いた二番、三番は呆気なく三振し、この勝負を決める打席に立つのは四番。松本だ。
 松本は笑っている。諦めた訳じゃない。むしろ、燃え上がった様に。たった一人のランナーが出ただけだけれど。ランナーは三塁。自分を信じて、自分の切り札を出した。

 ここで、それに応えない訳にはいかない。先輩として、男として。





 俊は構える。背負うのは、俊足の走者。その存在が解った以上、それも三塁にいる以上、緊張感が無い訳が無い。だが、ここで松本を抑えれば何の問題も無い。
 松本は、静かに構えた。そして、直前に言った裕の言葉を思い返す。その間にも俊は球を投げた。
 常に赤星の球を受け止めて来た松本だからこそ解る、俊の球。この球は、速い。赤星と肩を並べる球だ。もしくはそれ以上か。そして、決定的に違うのは、これが、まだまだ速くなる球だと言う事。
 赤星も来年には今以上に速くなっている。だが、その成長速度は俊に追い付かない。化物だ。俊も、裕も。

 だが、ここで負けられないのは俊も松本も同じ。そして、裕が松本に言ったのは。


―――俺は、必ず出塁して三塁まで辿り付きます。だから、松本先輩…。


 必ず繋ぐと、約束した。


 ギィン、と鈍い音と地を這う様な鋭い打球。場所は、サード手前。
 裕は松本のスイングと同時に走り出した。後ろで打球を捕球する音が聞こえた。どんなに鋭い打球も、尾崎の守備範囲は絶対に抜けない。
 挟まれた。だが、裕はその足を止めない。止めたら、負ける事が解るからだ。
 負けたくない。松本は、打った。なら、応えるのは義務だ。ここで、諦めるくらいなら…。

 (俺が、野球をする権利は無い)

 裕は滑り込んだ。尾崎からの鋭い送球と、裕のヘッドスライディング。審判は、静かに。


 「 セーフ 」


と告げた。Bチームが一気に湧き上がる。
 2−1のツーアウトランナー一塁。九回裏に来て、ようやく一点返した。だが、Bチームが危機なのは代わり無い。次の打者は、五番ピッチャー赤星啓輔。





 赤星は、構えた。深く被ったヘルメットの影に隠された眼は暗い。その背に圧し掛かるプレッシャーはどれほど重いのだろうか。
 蜂谷も、松本も、皆も、俺を信じて、信じてやって来た。最後の一瞬まで諦めないで。


 俊は手の中で白球を転がしていた。目の前に立つバッターは、レギュラーの二年ピッチャー。そして、二度のホームランと言う屈辱から這い上がって来た。
 足りないもの。


 俊は投げた。赤星は、無言でバットを握りスイングする。浩人の耳元でヒュゥンと風を切る音がした。だが、白球はミットの中だ。審判が「ストライク」と告げる。
 二球目。赤星は反応一つ見せずにバットを握る。だが、球は赤星のバットを避ける様にミットに納まる。松本は祈る様に。いや、Bチーム誰もが祈る様に赤星を見つめる。「ツーストライク」審判の声。

 誰もが、と言う表現は正しくない。なぜなら、祈らない者がいるからだ。

 裕は、肩で息をしつつ赤星を見ていた。あの時、自分の言った言葉を思い返して。


            「 俺は、どんな瞬間でも信じています 」


 あの言葉に嘘は無い。ならば、祈っちゃいけない。信じる。





 三球目が投げられた時、赤星はバットを振った。そして、手応えを感じた。鈍い音を立てて、打球はバックネットにぶつかった。「ファウル」と言う審判の声。盛り上がる、両チーム。





 それから、俊の球を赤星は次々にカットした。ファウルの声が何度も響く。その分、赤星も、俊も、体力を奪われていく。その体力の違いが、勝敗を分けた。














                                キ…ンッ















 静かに、静かに響いた金属音。打球は、ゆっくりと、フェンスの向こうへと消えて行った。
 誰も動けない。誰も、話せない。だが、赤星が、ゆっくりとバットを置いた瞬間にグラウンドは歓喜の声に溢れた。






    「 ホームランッ 」






 審判の声。2−3。九回裏に来て、最後の大逆転。その結果を出したのは、Bチーム主将赤星啓輔。赤星がダイヤモンドを回る間も、歓声は途切れる事無く。
 同点のランナー、松本がホームインし、逆転のランナー赤星がホームインした。集まるBチームと、マウンドに集まるAチーム。
 吉森は静かにその結果を受け止めた。残り物の寄せ集め。それが、正規のレギュラーを破る。赤星の言葉が脳裏を過る。


―――それだけ、監督は蜂谷を見ていなかったんですよ。


 あの小さなバッターが、この逆転の糸口を見出した。立役者は間違い無く奴だ。誰もが赤星の偉業に驚くが、その影に隠れているバッターこそが、この試合の主人公で。





 この試合結果は、紅白戦に出られなかった選手にも伝えられた。市河・爾志と言う一年のスーパーバッテリーがいる事、尾崎が一球目でホームランを打った事。古川がそれに続いた事。赤星・松本がチームを支えた事。赤星が逆転ホームランを打った事。そして、蜂谷がヘッドスライディングで反撃の狼煙を上げた事。

 どうしてか、蜂谷裕と言う俊足バッターの情報は回らなかった。それも、誰かが口止めした訳でもなく。

 明日に長谷商業との練習試合を控え、紅白戦はゲームセットを告げた。