21.闇




 夏だと言うのに寒気がする。布団を頭から被り、裕は眠っていた。合宿が終了し、市河家へと帰って来たが連日の疲れか微熱が続いていた。
 「 鬱病 」なんて柄じゃないが、やる気が起きない、だるい、動きたくない。普段では大よそ考え付かない様な感情が次々と溢れ出て体を重くする。このままでは、部活にも支障を来してしまう。
 合宿が終了してその次の日は休み。この間に何としても治さなければ、と思うのだが、体は動いてくれない。
 まず、原因が解らない。何が嫌でこんなにやる気が起きないのか。確かに長谷商業との練習試合で自分だけが発熱が原因で行けなかった事や俊、浩人達が試合で出ていると言うのに自分は遠くからフェンスを握り締める事しか出来なかったもどかしさ。それは充分ショックだった。
 でも、その位の事は何も今回が初めてではない。

 「大丈夫?裕。」

 部屋のドアを開いて入って来たのは脩。手には皮を剥いて小さく切った林檎の乗った皿を持っている。この五日間の間に脩は一層日焼けしていた。頑張っていたんだと思う。

 「大丈夫だよ。」
 「はい、林檎。熱計ったの?」
 「まだだけど、多分そんなに無いよ。」

 テニス部は午前練習だったらしい。帰宅した脩は心配して何かと面倒を見てくれていた。

 「…ごめん。」
 「何だよ、急に。」
 「迷惑かけてるなーって。」
 「馬鹿。そこは落ち込むところじゃねぇよ。喜ぶところ。」
 「何でだよ。」
 「心配してくれる奴がいるんだからな。『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だろ。」
 「…そーだね。」

 裕は笑った。同時に咳き込んだ。本当に体調が良くない。夏風邪だろうか。夏風邪は馬鹿しかひかないと言うが、この際どうでも良かった。
 三日後、甲子園予選の三回戦だ。どうしても越えられなかった壁が、目の前に在るんだ。長谷商業との練習試合は1−2で惜しくも負けてしまったが、相手が強豪であると言う事実を踏まえればそれは大きな進歩だ。それに、市河爾志と言う一年バッテリーの実力も大よそ測る事が出来たのだから、練習試合は大成功だった。

 「…なんだか、やる気出なくてさ…。」
 「鬱病か。厄介だね。治り難いらしいじゃん。」

 外でキャッチボールをする音が聞こえる。大きな何処か優しい声は浩人。喧しいくらい話し続ける声は尚樹。素っ気無い冷たく鋭い声は俊だ。

 (…野球、したいな。)

 そう思うのに、体は動かない。本当は何もしたくないのだろうか。自分の心さえ解らなくなる。ここで、立ち止まりたくない。終わりたくない。

 「裕、少し疲れてるんじゃないか?」

 心配そうに脩が顔を覗き込む。裕は苦笑した。
 『 疲れている 』確かにそうかも知れない。両親の死、引越し、新しい生活、高校入学、合宿。その要素は沢山在る。本当に、疲れているだけだといいのに。

 「…あ、」

 突然、思い出した様に裕は声を上げた。脩が「 何々? 」と訊く。

 「一昨日が、両親の命日なんだ…。」

 脩が辛そうな表情を浮かべたので、裕は慌てて弁解した。
 こっちに引っ越して、四ヶ月近く経つが、一度として両親の墓参りに行っていない。それは墓が遠いと言うのも理由の一つだ。何せ、墓は兵庫に在る。それに、ここのところ忙しかった。

 「行って来なよ。お父さんとお母さんも寂しがってるよ。」

 裕は苦笑して頷いた。
 だが、今、兵庫には戻りたくない。このまま兵庫に帰って、あいつらに会ったら。その時、どんな顔をすればいいのか解らない。待たせている事を謝るのか。
 だが、会いたいと思う。本当に話もしていない。エイジはきっと笑う。恭輔は、遅いと言って怒る。

 「…そうだね。今度、行って来る。」

 僅かに口元が綻ぶ。
 懐かしくて。

 「いや、明日にでも行って来なよ。」
 「そんな急に行けるか。金も無いし。」
 「大丈夫だよ。お金なら俺と俊でなんとかしてあげるから。俺、思うんだよ。裕はさ、何かに縛られてるって。」
 「縛られてる?」
 「そう。野球にも、友達にも、家族にも。人は皆そう言う繋がりの中で生きているんだって思うよ。けど、裕みたいに一人で背負い込んでいると、その繋がりはこんがらがってただの枷になっちゃうんだ。そう言う時、どんな人も弱くなって、何も出来なくなるんだって。だから、それを解かなきゃいけないんだよ。」

 脩は笑った。裕がきょとんとしていると、「受け売りだけど。」と付け加えてまた、笑った。

 (本当だな…。)

 ここに来て、今まで作り上げてきたものが全部無くなった。辛い時や悲しい時、頼る何かを知らない。幸せの定義とか、全部無くしてしまったから。

 「…ありがとう。」

 脩は照れ臭そうに笑った。
 裕は壁を作っている気がしていた。よく笑うし、人懐っこい割には人と自分との間に壁を作って、それ以上自分の領域に入れない様にしていると思う。
 進んで、孤独の闇の中に堕ちて行こうとしている様にさえ見える。

 「ま、辛い時は頼ってよ。」

 心を見透かされたのか、と裕は少し焦った。だが、頷いた。

 「じゃあ、俺は明日にでも兵庫帰って墓参りして来るよ。瑠も連れて。確か、あいつ連休入ったし。」

 少し元気が出た様な気がして脩は満足げに笑った。
 人は誰も心の内に『 闇 』を抱えている。だけど、人との繋がりや自分の強さでその『 闇 』との距離を保っている。もしも、人との繋がりを切ってしまったら、自分だけで『 闇 』を抑える事が出来なくなったら。
 その時は、辛くて、苦しくて、それでも誰にも助けを求められなくて、たった一人で錯綜して涙を流すんだろう。そして、立ち上がれなくなったら、死んでしまうのかも知れない。

 辛い事や悲しい事や嫌な事。それは脩も沢山経験して来た。だけど、それ以上に嬉しい事もあった。そして、無条件で支えてくれる人もいた。
 つまり、脩は幸せなのだ。

 幸せな人間に、不幸の苦しみは解らない。

 脩は裕の心の闇の表面にも満たない影を僅かに見ただけだ。その中に踏み入れる事が出来ない。





 誰にも知られない場所で、闇は広がっていく。