2. 憧れのヒーロー





 「蜂谷先輩。」

 放課後の部活、ダウンを終えた裕は新と共に部室へ戻る途中だった。
 去年、夏の甲子園は三回戦敗退と言う悔しい結果。よって今年はそれを突破すべく昨年など比では無いハードな練習が行われていた。
 桜は散って葉桜になろうとしている。暖かな風に花弁が運ばれる。もうすぐ、春甲だ。心臓が高鳴る。
 そんな最中で裕は振り返った。そこには、何処かよそよそしい那波が立っていた。
 常に人に囲まれている那波光輝。その正体は、県内でも一、二を争う天才プレイヤーだ。
 そんな人材がなぜ、こんな普通の公立高校にいるのか。

 「どうした?」

 軽快な足取りで裕は那波の傍に行った。那波は新を見て口篭もった。それを見て新は苦笑して「 先に戻ってる。 」と告げて去って行った。
 新の後姿が見えなくなると、那波は言った。

 「敬太の事なんですけど……。」
 「敬太?」

 何処かで、つい最近聞いたような。強烈な第一印象だったような。
 曖昧な記憶の断片が脳の中でクルクルと廻る。すると、裕が自ら答えを出すよりも早く那波が言った。

 「斎です。」
 「! ああ…。」

 よくよく考えれば、忘れる筈も無かった、と裕は納得した。何しろ、その名前を見つけたのは他ならぬ裕自身だ。

 「…で、あいつがどうかしたのか?そういや、まだ一回も部活来てねぇなぁ…。」
 「…あいつを、助けてやってほしいんです。」
 「…どういう事だ?」

 那波の真剣な表情に嘘は無い。
 短い沈黙が流れた。

 「あいつ、ヤバイ連中とつるんでるんです。」
 「確かにそんな感じだよなぁ…。あいつ自身やばそうだけど?」

 裕が軽く笑うと那波は眉を顰めた。

 「69(シックスティナイン)って、知ってます?」
 「この辺りを仕切るヤンキーの群れだろ?そういや、最近よく聞くなぁ。…斎は、そこの一員なのか?」

 那波は頷いて肯定を示した。

 「あいつ、結構ヤバイところまで行ってるんです。俺、あいつに抜けろって説得したんですけど…、抜けられないくらいに深いところまで入ってるみたいで…。もう、どうしたらいいのか…。」
 「…あいつとは、友達なのか?」
 「はい。中学も、小学校も同じです。幼馴染みたいなもんで…。ずっと、一緒に野球してたんです。」

 斎の容姿からは、とても野球少年と言うイメージは沸かない。
 薬でもやっていそうな、そんな危険な臭いのする男だ。

 「…中学の時、ちょっと色々あってあいつ69に入っちゃったんです。でも、一緒に野球しようって約束で阪野二高に入学したんです。なのに…。」
 「…なんでそれを、俺に?」
 「…俺達は、野球をする為にここに来ました。…蜂谷先輩のいる、ここへ。」

 裕は目をまん丸にした。那波の目は真剣で冗談など言う様子ではない。
 元々、那波はお堅い優等生タイプなので冗談など言う人間ではなかったが。

 「あいつを、助けて下さい…ッ。」

 那波は勢い良く頭を下げた。あたふたとする裕の様子は側から見ればそれは憐れだが、那波の話しからすると事態は尋常じゃない。状況の掴めない裕はおろおろとしていた。

 「なぁ、俺は超能力が使える訳でもないし、武勇伝がある訳でもない。そんな俺が、あいつを救えると思うのか?」
 「…これは、賭けでした。蜂谷先輩が、噂通りの人ならあるいはって…。」

 どんな噂が流れているのか気になったが、そこは敢えて訊かずに裕は首を傾げた。
 すると、那波は続けた。

 「俺達は、甲子園に行かなければならないんです。だから、ここに来た。」
 「…どういう意味だ?」
 「あなたは、中学校の全国大会優勝校の四番だ。そして、浅賀恭輔さんと笹森エイジさんと道を別った。」
 「そんな事はもう皆知ってるよ。だけどな、中学と高校は別物だ。過去の栄華にしがみ付くほど、馬鹿じゃねぇ。」
 「はい、もちろんそう思います。あなたは必ず甲子園に行く。…何もしない訳が無い。」

 裕は小さく舌打ちした。
 そして、いけ好かないヤツだと思った。これは策士。曲った事は許さない、と言う表面とは対を成している。

 「調べたのか?」
 「少し。俺、蜂谷先輩のプレー好きだったんですよ。」

 那波は苦笑した。裕はポカンとして首を傾げた。

 「俺、中学の頃は背が低くて、監督も外見で判断するから試合もあんまり出られなかったんです。学校も結構有名な強豪校でしたし。でも、蜂谷先輩がテレビに映ってるのを見て、驚きました。」

 ―― こんな小さな選手が、チームの要としてグラウンドを走り回っている。 ――

 「……覚えてますか?蜂谷先輩、優勝した後、インタビュー受けてましたよね。その時、何て言ったか。」

 那波は懐かしむように語り出した。
 まるで親しい友達の自慢をするかのようだった。そこには、裕の見た「策士」の顔も、「お堅い優等生」の顔も無い。

 「…覚えてない、な。あの時は、優勝したっていう事が大き過ぎたからな。」

 「はは。ですよね。でも、俺は覚えてます。そして、一生忘れません。」

 ―― 俺は小さい。だけど、だからこそ出来る事がある。 ――

 「…俺、そんなに恥ずかしい事言ったかな。」
 「言いましたよ。俺、嬉しかったんです。自分の可能性が見えた気がしました。」

 裕は、ふと口元を綻ばせた。
 那波は、裕が思っている以上に純粋で優しい人間だ。天才と呼ぶに相応しくない努力家で。その天性の体格故に苦しんだ。それは裕と同じ。

 「…野球で、斎を取り戻そうってのか。」

 那波は俯いた。
 那波も解っている。その可能性の少なさを。そんな安っぽいドラマみたいな事が現実に起こる訳が無い。

 「…那波、結論を言うよ。…俺には無理だ。なぜなら、俺は斎の事を知らない。その69がそいつの居場所ならばそれを奪う権利は俺に無いしな。だけど、困った事が起こったらすぐに連絡しろ。それから、その斎ってヤツに伝えろ。『自分が動かなければ駄目』だ、って。」
 「…はい…。」

 丁度、部室から赤星の二人を呼ぶ声が聞こえた。
 何時の間にか外灯が点いて火取虫が集っている。グラウンドには裕と那波の二人だけの影が落ちていた。