4.ずっと欲しかったもの <中編> 「69を、辞める…ってか?」 銀髪の男は笑顔で斎の言葉を繰り返した。取り囲むメンバーはそれぞれに武器を持っていてニヤニヤと笑っている。 ライオンの檻にでも放り込まれたようだ、と笑えない事を考える。恐怖が無い訳じゃない。むしろ、恐くて立っているだけで精一杯だ。もう声が震えている。心臓が太鼓のように大袈裟な音を立てる。 「理由を教えてくれよ?」 銀髪の男は笑顔を崩さない。優しそうな青年。短い付き合いだが解る。仮面だと、言う事に。 相手が泣こうが喚こうが、女だろうが子供だろうが容赦しない。悪魔だ。彼がするのは喧嘩じゃない。一方的な暴力。それを何度も目の当たりにして来た。 斎が69を辞められなかった理由はそれだった。 「…やりたい事が、あるんで、す。」 「やりたい事?それは?」 「……野球です。」 途切れ途切れの言葉。足が震えて来た。眩暈がする。 男が失笑する。合わせるように周りの空気が揺れる。 「野球、ね。いいねぇ、青春っぽくて。でもな、その野球でもあるように仲間は大切だよな。ここもそうだ。ちゃんと落とし前は着けてもらわないと困るんだよね。」 銀髪の男、苧環龍一は言った。 落とし前。それは脱退の儀式のようなものだ。引退ならばそれは引継ぎ、神聖なものとしてしっかりと穏便に行われるが、今回はまるで違う。 過去、斎と同じ事を言った男がいた。同じように、それを受けた。 そいつは今、病院にいる。二度と、歩けないそうだ。 つまり、簡単に言うとリンチだ。下手をすれば死ぬかもしれない。 「お前…斎とか言ったっけ。確か来週には新しいシゴトに着いてもらう予定だったんだけどな。」 それを聞いたのは数日前。先輩からだった。内容を告げると仲間は羨ましそうに拍手した。 だけど、出来ない。麻薬の運び屋なんて。 それをしてしまったら、二度と戻れない。光輝とあいつを裏切ってしまう。それだけは。 「俺には、出来ません。」 「…ふぅん。まぁ、いいか。代わりなんて幾らでもいるからな。じゃ、やろうか。」 ピリリリッ ピリリリリッ 今時、着メロやら着うたやらが出ているのに、ただの電子音。裕は簡単な野球のストラップの付いた自分の携帯電話を取って通話ボタンを押した。電話だ。 市河家では夕食前。裕は脩とテレビの前で並んで座っていた。すっかり馴染んだ二人の兄弟。俊は自分の部屋で高校の宿題をしていた。瑠は部活からまだ帰って来ていない。 「――はい。蜂谷です。」 『蜂谷先輩ッ!』 電話の向こうは那波だ。何やら尋常でない様子。 「おお、どうしたんだよ。」 『敬太が、敬太が――ッ!!』 「お、落ち着け那波。ゆっくり話せよ。」 『あいつ、話しを着けに行くって言って…。さっきから電話も繋がらなくて…メールも…!』 冷や汗が流れた。 まさか、まさか。 「…那波。お前は今何処にいる?」 『敬太の家の前です…。』 「今すぐ自分の家に戻ってろ。なんとかするから、大丈夫だから――」 裕は電話を切った。 「どうしたの?何か向こうすっげー切羽詰ってなかった?」 脩は心配そうに訊いた。だが、裕の真剣な顔に息を呑む。真っ青だ。 「裕――?」 「あ、ごめん。平気。ちょっと出掛けてくる。すぐに戻るから―――」 ドタバタと裕は出て行ってしまった。 美咲が脩に訊くが、脩も訳が解らず首を傾げた。 空がもう暗い。外灯の明かりが眩しいくらいだ。金色の三日月が空に浮かんでいて星が僅かに瞬いている。辺りに人はもう少ない。裕はポケットからまた携帯を取り出して電話を掛け始めた。 「あ、赤星主将!」 『どうした〜?』 「突然なんですけど、喧嘩、得意ですか?」 『はぁ?』 面倒だ、と思いつつも裕は話し始める。 こんな時、エイジや恭輔がいたなら。 だが、それは最早叶わぬ夢だ。 『…なるほどね。解った。俺も行くよ。放って置けないしな。任せとけ。』 「すんません…!春大会も近いのに…。」 こんな時期に問題を起こして下手をすれば夏の甲子園予選は出場禁止。 それでも、放って置けない。飽きれるほどお人好しで、笑ってしまうほど偽善者で。 「赤星主将!」 「よ。」 赤星と近くの公園に待ち合わせて落ち合う。那波の電話からもう十分強経つ。まずいな、と思いつつ足を動かす。 「お前、場所は解ってんのか!?」 「大体、予想っすけど。」 ヤンキーの群れが集まる場所なんて簡単に予想が着く。誰も来なくて、大きな場所。69のような危険な奴らならばきっと場所は海に近い。船が大量にアレを運び込めるからだ。 そう、麻薬を。 「…ずっと思ってた。蜂谷、お前、何もんだ?」 「何者でもないっすよ。」 「いや、そうかな?」 普通じゃない。少なくとも、普通ではない。違和感が多過ぎる。学校生活にしても、野球にしても。こうした事件に対しての対処の早さも。 「…俺は、只者っすよ。」 俺は。 赤星は意味深に笑い首を傾げた。 懐かしい感覚が蘇る。あの頃に戻ったような。 「…ごほっ…。」 白く霞む視界に映るのは壁。煤けた、壁。それ以外の情報は入って来ない。周りの騒音も、人も、痛みさえも入って来ない世界はこの世かさえも解らない。 血が流れていく感覚はとうに消えて、寒さもなく今は暖かさを感じる。 (死ぬのかな…?) 声が、聞こえた。自分を呼ぶ、光輝の声。 光の中で手を振る光輝は笑顔で、あの場所はグラウンド。 「…あれ?もうギブアップ?」 「苧環さん、そろそろやばめっすね。反応無くなって来ましたし。内臓イっちゃいましたよ、何個か。いいんすか?」 「いいんだよ。」 苧環は笑った。 「…これから死ぬ人間に、必要なモンか?」 苧環の表情を見てぞっとする。悪魔、と呼ぶに相応しいだろう。この男は。 「斎。」 声が聞こえる。また、自分を呼ぶ声が。 「斎!」 何だよ、うるせぇな。眠いんだよ。寝かせてくれよ。 「斎!!」 はっきりとした声。聞き覚えのある声。 入り口に立ち、長い影を落としてあの男は。 「…は、ちや、せん、ぱ…い…?」 血を吐きながら呼ぶと、あの影の男は確かに笑った。 その笑顔が肯定を示すものだと、すぐに解ったんだ。 「斎、助けに来たよ。」 腫れて重く圧し掛かる瞼に邪魔されて視界ははっきりしないけれど、そこにいるのは確かに蜂谷裕だった。もう一人の男は誰かは知らない。けれど、見覚えはある。 あの時の、柔らかい笑顔で。 「…何だ、先輩って。お前誰?」 「…通りすがりの野球児です。仲間を助けに来た。・・・その薄汚い手を今すぐ離せ。」 苧環はヒュゥ、と何処か楽しそうに口笛を鳴らした。 そうして、斎の首を掴んでいた手を見る。 「野球児…か。ははははっ!!」 空気が揺れる。腹を抱える苧環に裕は眉を顰めた。 「こいつは俺の後輩でもある。後輩が間違った事をしようとしているのを止めるのは、先輩の役目だろ?」 「間違った事…?」 「そうさ。」 苧環は手を離して斎を地面に落とした。 ドサッ、と簡単に突っ伏す斎の反応は限りなく薄い。 「野球!?青春ってか?情熱?努力?そんなもんクソ食らえだ。人間は平等じゃねぇ。選ばれた人間だけがその権利を持つ。…そう、勝者という権利をな。 やれば出来る!?一生懸命やりゃあ報われる!?夢は叶う!?そんなもんは負け犬の遠吠えだ。出来ねぇんだよ。選ばれなかった、お前等みたいな凡人は。」 まるで汚いものを見るように、斎を見た後に裕達に目を遣る。 「…負け犬にならねぇ為にはどうするか。簡単だ。勝者の下に付くんだよ。」 苧環の笑顔が余りに冷たくて寒気がする。未だ嘗て、こんな男に出会った事が無い。 何もかも信用していない。全てを拒絶した目。 「こいつも、69に入る事は正しかった。だけどな、下らねぇ戯言に乗せられて辞めるなんて言うからこうなるんだ。こいつも立派な、敗北者だよ。」 「…違うな。」 裕は笑った。 「そいつは勝者だ。友との約束の為に、恐怖に打ち勝った。」 ぐったりと、血塗れの斎の目は堅く閉じられているけれど。 その奥に那波がいたんだろう?だから、死ぬかもしれない恐怖と戦おうとした。そして、打ち勝った。 「敗者はお前だ。」 真っ直ぐに苧環を指差し裕は笑う。 「…くくっ、はははははッ!!」 苧環は笑い出した。心底楽しくて仕方が無い様子だ。 「言ってくれるじゃねぇか。でもよ、その勝者はこの通りだけどな。とどめをさしていいのか?」 「そんな事はさせないさ。」 「やってみろ。」 一斉に、何十人もの人間が塊になって押し寄せる。波のように。およそ六十人強。奥に位置するのはリーダーの苧環。 「赤星先輩。」 「何だ。」 流石の赤星も冷や汗が滲む。 喧嘩。一対多数なんて喧嘩はしょっちゅうだ。けれど、ここまで圧倒的では。むしろ、平然としている裕が異常だ。 「赤星先輩は退路を確保して雑魚をお願いします。」 「…お前は?」 裕は笑った。 「突っ込みます。あいつをぶっ飛ばして、斎を連れて来ます。」 「なっ!?馬鹿言うな!一人で、出来る訳ねぇだろ!」 「…俺の武器を忘れてませんか?」 “俺の武器” 一年の夏の合宿で行われた紅白戦で、監督を外したたったの十八人にしか知られる事の無かった武器。 疾風の如く駆け抜ける俊足は、誰にも捕らえられない。 「だからって…!」 「来ますよ。」 赤星は小さく舌打ちをして構えた。 「もしも、俺が駄目だったらすぐに警察呼んで下さいね。」 そう言い残して、裕は突っ込んで行った。 |