4.ずっと欲しかったもの <後編>




 裕の姿が一瞬、視界から消えた。赤星は驚きつつも襲い掛かって来る男を殴り飛ばす。眼の端で捕らえた裕はあっという間も無くヤンキーの群れの中に消えた。
 そして、見当違いのところから上がる呻き声。

 「頼もしいなァ。」

 味方の内は、と付け加える。


 自分よりも遥かに大きい男を蹴り飛ばす。ただ蹴ったのでは効果は無い。顎を狙って蹴り上げ、腹に思い切り踵をねじ込む。ズゥンと倒れる大男の下敷きに二人ほど。後ろからのパンチを避けて顔面にパンチを入れる。
 それでも、目は真っ直ぐに苧環と斎。笑っているあの男の顔を思い切り殴り飛ばさなくては気が済まない。

 「…すっげ…。あんなヤツがこの町にいたなんてな。」

 苧環は思った。
 見覚えのある顔、と言えば赤星くらいだ。後輩が話しているのを見たような記憶がある。そして、数人を相手に喧嘩をしているところも。
 解らないのは裕。

 「何処見てんの?」

 はっと声の聞こえた方に振り返ろうとした瞬間、頬に拳が当たる。
 ザッ、と倒れた苧環を見下ろすのは裕。

 「立てよ。俺の後輩に手を出した落とし前、つけてもらおうか。」

 後ろでナイフを片手に走り来る男を蹴り飛ばして裕は言った。

 「…おい、お前等。」

 苧環はごちゃごちゃと動き回る男達に言った。

 「こいつには手ぇ出すなよ。俺がやるから。」






 「お前、名前は?」
 「…言う訳ねぇだろ。」
 「はは。俺は苧環龍一。」

 苧環は丁寧に言った。この場面には相応しくない爽やかな笑顔で。

 「こいつはさ、ルールを破ったんだぜ?罰を受けるのは当然だと思うけど?」

 斎はぐったりとして反応が無い。

 「何が罰だ。集団で殴る事が罰なのか?」
 「昔からの決まりでね。」

 ヒュッと裕の頬を苧環の右手が掠める。

 「辞める為には皆に殴られろってのか?間違ってる。」
 「違う違う!これは、ゲームなのさ。代々受け継がれてきた。」
 「ゲーム?」

 苧環は笑顔で頷く。

 「ここにいる男達を潜り抜け、この灰工場から脱出する。それが出来れば終わりだ。」
 「へぇ。そのゲームはちゃんと公平に行われているのか?始めから結果が決まっていたんだろう?斎が動けないようにされているとかでさ。」

 乾いた笑いが響いた。
 同時に裕の左足が苧環の横っ腹を掠る。

 「何たって、裏切り者だからな。当然だ。」

 苧環の回し蹴りをしゃがんで避け立ち上がりつつ顎を狙って拳を振る。
 それも避けられ、同時に地面を滑るような蹴りに躓いて体制を崩す。すぐに待っていたかのような鋭いパンチ。間一髪で避けてすぐに体制を整える。

 「…お前、なんで野球なんてやってんの?」
 「好きだからに決まってんだろ!」

 二連続の蹴りを苧環はかわして笑う。

 「いいねぇ、青春。馬鹿には丁度いいかもな。」
 「なんだと?」
 「さっきも言ったけどよ、努力した・一生懸命やった。だから、何なんだよ。勝者がいれば敗者がいる。どんなにやっても、適わないもんなんだよ。生まれた時から決まってるのさ。」

 苧環は笑いつつ続ける。

 「才能のあるヤツ、無いヤツ。生まれた時から既に決まってんだ。それはどんなに頑張っても変わらねぇ。勝ち組と負け組ってな。解るか?お前等がどんなに頑張ったところで、勝者にはなれねぇんだよ。」
 「違う。」

 裕は冷静に、静かに、そしてはっきりと否定した。

 「まだ、勝者なんて決まっていないんだよ。勝者の権利は、始めから誰かが持っているもんじゃねぇ。常にそこにあるもんだ。」

 始めから決まっているようなものなら、この世界が成り立つ訳が無い。誰もが負けたくないと願うから、頑張れば、諦めなければいつか必ず夢は叶うと信じているから、皆が必死に生きている。

 「苧環、お前の理論。根本から崩してやるよ。」

 譲れない。絶対に譲れない。負けたくない。絶対に負けたくない。
 裕は勢い良く地面を蹴った。

 裕の右ストレートよりも早く苧環の蹴りが飛ぶ。左の横っ腹を掠りつつも眉間を狙って拳を突き出す。後ろに引いて交わしたと同時にバク転で苧環が体制を整える。
 次に苧環の地面を滑る蹴りを裕は飛んで避ける。そして、すぐに相手の腹部に蹴りを入れる。
 確かな手応えを感じて少し距離を置く。小さく呻いた苧環に反応は無い。しゃがみ込んだまま、無言。

 「……やるじゃん。」

 ふ、と立ち上がって唾を吐き捨て、ポケットの中から鋭く輝くナイフを取り出した。
 右手に構えたナイフは鈍く輝く。慣れた手つきに少しぞっとするが、裕は構えた。

 ヒュゥ、と空気を切ったナイフが何度も目の前を通過する。頬を掠めスパッと血が流れる。
 次々にナイフが衝かれる。目前のそれを軽いフットワークで後退して交わしつつも右手に蹴りを入れる。が、当たらない。

 下がろうとした瞬間、ドンッと壁に背がぶつかる。逃げ道がない。苧環は笑って真っ直ぐにナイフを突き出した。それに頭ごと左に避けてかわした反動で左頬にパンチを入れる。

 苧環は3mほど吹っ飛ぶ。

 「はは…はははははっ!!!」

 笑い声が木霊する。口から血を流した苧環がゆらりと立ち上がった。

 「…あんまり調子に乗るなよ。」
 「!」

 苧環はごり、と斎を踏み付ける。小さな呻き声。

 「やめろ!卑怯だぞ!!」
 「…卑怯…?」

 ふ、と笑いを漏らす。

 「卑怯も何も…。ここにゃルールなんてねぇんだぜ。野球児さんよ、ここはグラウンドじゃねぇ。」

 苧環はナイフを高く上げて振り下ろそうとした。

 「くそ…ッ!!」
 (間に合え!)



 ドスッ



 「蜂谷!!」

 赤星の声が、遠くから聞こえた。
 ぐにゃりと視界が揺れる。足がふら付く。苧環の笑い声。

 急所は外したものの、ナイフは横っ腹に刺さった。

 「いっ…!」

 痛い。痛い。
 血が、ドクドクと流れる。

 「はははっ!!」

 (…斎は…?)

 白い霧の掛かったような視界に確かに斎はいた。ナイフで刺されたのは、裕だけ。
 少しだけ、笑顔が零れた。

 「…呆れちまうね、偽善者。」

 苧環が、笑う。

 (寒い。)

 夏も近いと言うのに、寒い。冬みたいだ。
 死ぬのかな。死にたくない。……違う。



 死ぬ訳には、いかない!



 がっ、と足跡が残るくらい地面を踏み付けて裕は立ち上がった。
 苧環の驚いた表情が確かに見える。

 「お前、なんで…!?」

 ここで負ける訳にはいかない。こんなところで立ち止まれない。
 ここは俺の死に場所じゃない。まだ、やる事が沢山あるから。

 苧環が咄嗟にナイフをまた構える。
 だが、その視界には何も無い。

 「何処に…!」
 「ここだよ。」

 がっ、と後ろからの強い衝撃を受けて前のめりに倒れる。
 後ろにゆらりと立つ裕の目は、ナイフで腹を刺された重傷者の目じゃない。

 「くそっ!」

 立ち上がり構えるがまた、視界から消える。はっと振り返るが、誰もいない。入り口近くで赤星が何十人もを相手に戦っている。
 裕は。

 「俺はお前に証明する事がある。」

 がつん、と。鈍器で殴られたような鈍い痛みが走る。
 裕の蹴りが後頭部を直撃した。

 キックはパンチの三倍の威力があると言う。
 だが、裕のキックは。そのパンチに比べたら何倍だろう。四倍…いや、五倍以上。

 「それはさ…。」

 振り上げられたパンチ。キィン、と鋭い音と共にナイフが飛んで行く。
 痺れたままの右手を構えて苧環は地面を蹴った。


 「努力は才能を凌駕する!!」


 眉間に入った鋭いキック。苧環はゆっくりと倒れて、動かなかった。
 苧環の敗北。それを知るやいなや69の面々は我先にと逃げ出して行った。









 「…蜂谷!」

 駆け寄る赤星を遠くに見つつ、裕は膝をついた。

 「大丈夫かよ!お前…。」
 「大丈夫です…。斎は…。」
 「寝てるだけだ。今、救急車を呼んだよ。」

 救急車のサイレンを遠くに聞きながら、裕は意識を手放した。










 「裕!」
 「…え?」

 目を覚ますと、そこはベッドの上だった。心配そうな、今にも泣き出しそうな脩がいる。その後ろには何処か安心したような、呆れたような顔をした俊がいた。

 「ここは…。」
 「病院だよ。まったく、心配かけさせやがって…。ヤンキーの喧嘩に巻き込まれたんだって?気をつけろよなぁ…。」
 「え?」

 ふと、赤星のイタズラっぽい笑顔が脳裏を過った。

 「しかも刺されるって、どんだけだよ。心配させんな。」
 「はは…。悪い悪い。」

 そうだ、俺は斎を助けに行って・・・。
 ?

 「斎は!?」
 「屋上だよ。」

 入り口のドアに寄り掛かる赤星。傷だらけだが大した事はなさそうだ。鼻にはばんそうこうが貼られている。薄っすらと腫れた目が痛々しい。

 「ちょっと行ってきます…ッ!」
 「無理すんなよ!お前は立派な重傷なんだからな!」
 「大丈夫、すぐに戻るから。」

 裕は病室を飛び出した。









 バサバサと白いシーツが風に揺れる。雲の流れが早い。空は驚くほど真っ青で鳥が飛んで行く。
 斎は屋上の手すりに少しだけ身を乗り出して遠くを見ていた。

 「斎。」
 「!」

 入り口には肩で息をする裕がいた。

 「蜂谷先輩…。」

 ふう、と息を吐きながら斎の隣に立つ。

 「今回は、本当にすみませんでした。あの時も失礼な事言っちまいましたし、俺のせいで…。」
 「馬鹿。何、言ってんだよ。」

 コッ、と軽く斎の金髪の頭を小突く。

 「当たり前だろ。後輩、なんだからな。」

 斎は笑った。

 「そうだ。お前、那波にも礼言っとけよ?あいつがいなけりゃ、お前はここにいなかったんだからな。」

 良い友達を持ったな、と裕は嬉しそうに笑う。

 「蜂谷先輩…、なんで、助けに来たんですか?もしかしたら、死ぬかもしれない、大会出場禁止処分になるかもしれない。それでも、助ける価値が俺にあったんですか?」
 「…そうだなぁ…。やっぱり、お前は俺の後輩だしさ。お前がいなくなったら、嫌だもんな。哀しむ人間も沢山いるし。何より、後悔したくなかったんだ。」
 「後悔…?」
 「うん。お前を助けに行かなかったら俺は絶対に後悔する。もう、後悔なんてしたくない。だからだよ。」

 裕は笑ってはいたが、それは何処か悲しげな表情だった。斎は言葉を失って意味も無く納得したように頷いた。

 「…敬太!!!」

 バァン、と扉を勢い良く開けて現れたのは那波。息を切らして。

 「お前、急に病室からいなくなるから 「光輝。」

 斎は那波の言葉を遮って頭を下げた。

 「…ありがとう。」

 那波は何とも言えない表情で、無言で頷くと後ろを向いた。
 照れ隠しだろうな、と思い裕は笑う。

 「あ、蜂谷先輩。本当に、本当にありがとうございました!!」
 「ん?いやいや、いいよ。俺は大した事してねぇから。それよりも赤星主将だよな。何も知らないのに後輩の為だってやってくれたんだからなぁ。」
 「また後でお礼しに行きます。沢山の人に迷惑を掛けちまいましたからね。」




 裕と那波の会話を遠くに聞きながら、斎は思い出していた。







                                      「…お前、知って欲しかったのか。」





「少しでも手を伸ばせって言ったんだ。すぐに手を掴んでやるから。」





                      「そいつは勝者だ。友との約束の為に、恐怖に打ち勝った。」







 本当は、ずっと望んでいたのかも知れない。
 自分が当たり前にいられる、居場所を。たった一人しかいない斎敬太として認めてくれる人を。それに気付かせてくれる人を。

 本当に、欲しかったのは。






 笑い合う裕と那波を見ながら、斎は思った。

 「…何してんだ?あ、怪我治ったら部活来いよ。今からだって歓迎するからさ。」
 「蜂谷先輩もですよ。」
 「馬鹿野郎。俺は平気なんだよ。」
 「何言ってんすか。」



 広がる世界、暖かな風。太陽はまだ高い。