5.Vacuum Player.




 阪野第二高校の東棟の三階に位置する二年二組。クラス人数四十人近い。皆仲が良く、学年でも明るくいいクラスだと定評だ。裕と新もこのクラス。
 この教室には、未だ空白の席がある。名前は“御杖拓海”と言う。
 誰一人顔を見たことの無い、空白のクラスメイトだ。





 昼下がりの病院は、さっきまでの騒がしさも消えて静かに優しげな音楽が流れていた。廊下には入院患者用の青い服を着たお年寄りや、子供の見舞いらしく数冊の漫画を抱えた女性、楽しそうに走り回って看護婦に注意される子供達がちらほらといた。
 裕は先日の怪我でこの病院を訪れていた。本人が予想以上に元気だったおかげで入院を免れ週数回の通院で済んだ。とはいえ、部活自体は禁止されて今は見学の身である。

 「いっくぞ〜!!」

 広場の向こうで子供達が「おー!」と掛け声を発する。
 決して広くは無いが、子供たちにとっては丁度良い広場。車椅子に乗った女性が頬を緩ませながらその様子を見ていた。

 「こら〜ッ!!」
 「やべっ!婦長だ!!逃げるぞ!!」

 一目散に散っていく子供たち。わらわらと茂みの裏や人の後ろなどに隠れる姿は微笑ましいが、裕は一直線に入院患者用の病棟に走って行った。




 「待ちなさーい!!」
 「うわぁ〜来んな〜!!」

 病院と言う事を忘れてドタバタと走る二人に頑張れ、と掛け声が飛び交う。楽しそうな裕に比べて婦長は鬼の形相で追って来る。
 そろそろ婦長も限界らしい。裕もそろそろ疲れてきたので何処かに隠れてやり過ごそうと思うのだが、隠れられそうな場所は無い。
 目の前の角を勢いよく曲がり、追って来た婦長の視界から裕は忽然と消え失せた。
 角から二つ目の病室に飛び込んだ裕は扉を閉めて隠れられそうな場所を探した。

 「ごめんなさい、ちょっと隠れさせて!」

 部屋の主の了解はもちろん、顔さえ見ないまま裕はベッドの下に潜り込んだ。同時に婦長が扉を開ける。

 「御杖君、ここに、君くらいの年の男の子来なかった?」
 「…来ていませんよ。」
 「そう。…まったく、何処に行ったのかしら…。」

 バタンッ。
 扉が閉まった事を確認すると裕はベッドの下から出た。

 「ありがとうございます!本当に助かりましたー!!」

 ヘラヘラと笑う裕に、相手の少年は笑いかけた。

 「君、蜂谷君でしょ。」
 「え?知ってんの?」
 「結構、有名だからね。婦長とカーチェイスする少年って。」

 裕は苦笑する。

 「へへっ。あの婦長すっげー恐いのな。俺ちびるかと思ったぜ。」
 「はは。俺もあんな婦長始めて見た。いつも冷静で優しい人なんだよ。」

 へぇー、と。裕は驚いたように相槌を打った。普段追いかけられているだけにそんな優しげな表情は見た事がない。

 「あ、俺は蜂谷…って知ってるんだよね。まぁ、蜂谷裕です。この度はホント助かりました!」
 「俺は、御杖拓海。」
 「…御杖?」

 何処かで、聞いた事のあるような。聞き覚えのある名前だ。

 「一応、阪野二高で、二年生なんだ。」
 「あ、嘘。俺と一緒じゃん。二年二組…あ!」

 ふと、脳裏を過ぎる名前。後ろの席で、まだ、一度も見た事の無いクラスメイト。名前は確か。

 「御杖拓海…。同じクラスじゃーん!!」
 「はは。」

 何処か控えめな話し方に笑い方。上品と言い換えてもいいだろう。御杖は苦笑する。
 部屋の窓近くに置かれた色とりどりの花は新鮮で今朝取り替えられたようだ。また、見舞いの品も多い。

 「御杖君って、結構お金持ち?」
 「…そうかもね。…父が、貿易商の会長なんだ。」
 「すっげー!」
 「…蜂谷君、部活はやっているの?」
 「もちろん!野球部!!あ、裕でいいよ。皆そう呼んでるし。」

 いつのまにか、先ほどのチビっこまで。

 「蜂…裕はポジション何?」
 「ショート…かな?それかサード!御杖君、もしかして野球やる?」
 「俺も拓海でいいよ。野球は…昔、ね。」
 「昔?」
 「うん。…もう、辞めたんだ。」

 窓から一陣の風が吹きカーテンが揺れた。

 「どうして…?」
 「俺、足やっちゃってさ。もう…ね。」
 「あ……。」

 訊いてはいけない事だっただろうか、と咄嗟に裕は謝ったが御杖は苦笑していた。

 「そうだ、裕、今ヒマ?」
 「え、うん。もちろん!って言うか、婦長が廊下うろついてるから出られないんだよね。」

 御杖は笑う。

 「よかったら、学校の事とか部活の話し聞かせてくれない?」






 「…で、まぁ、ちょっと刺されちゃったけどハッピーエンドさ。」
 「それホント?嘘くせ〜。」

 時刻は午後四時を回って日が朱色を帯び始めた。
 クラスの事、部活の事、つい最近あった事件の事。簡単に話したつもりだったが、随分と時間が経っていた。

 「いいなぁ。俺も、学校行きたいよ。」
 「来ればいいじゃん!歓迎するぜ!」
 「…無理だよ。この足は。」

 御杖は毛布の下に投げ出された両足をさする。

 「歩けない訳じゃないんだ。こっから一階まで降りるくらいは出来るんだよ。でも、それだけでこの足は悲鳴を上げる。だから、野球がもう出来ないんだ…。」
 「…そっか。」
 「あ、でも、今はいいんだ!そんなに未練は無いから…。」

 その目に浮かぶ色はそうは言っていない。まだ、炎が燻っている。

 「蜂谷君!!」
 「ぅおっ!!」

 突然、扉が開いたかと思えばそこには婦長。

 「まったく、まだいたの!?他の患者の方に迷惑でしょう!!」
 「うわ〜ごめんなさい!殴らないで!!」
 「ははははッ!!」

 腹を抱えて笑う御杖を目の端で捕らえながら裕は婦長に引き摺られていった。

 「…また来るからな〜!!」

 子供のように大きく手を振りながら裕は廊下に消えて行った。
 一人残った御杖、ふぅと息を吐いてぼんやりと空を見つめた。

 (いいなぁ…。)

 そう思いながら、さっきまで裕が座っていた場所を見ると軟球が落ちていた。子供たちとキャッチボールでもしていたのだろう。少し土が付いている。
 手の上で転がしてみる。懐かしい感覚に、涙が零れそうになる。

 (…いいなぁ…。)





 その後も裕は御杖の病室を訪れた。病室から出る事の無い御杖にとって裕の話は貴重な情報源でもあったし、見飽きた漫画やテレビに代わる楽しみでもあった。
 嘘みたいな話も多く呆れを越えて笑ってしまう。それに、野球の話。

 「…でさ、市河俊ってのがAチームのピッチャーですっごいんだよな、これが。」
 「へぇ〜!俺も見たかったなぁ!」
 「あのさ、今度の大会の試合見に来ないか?」

 春の大会。もう、目前に迫っている。去年の秋の大会とは違い、甲子園へと続く道だ。

 「俺も出るかもしれないし。つまんねー試合なんかしないしさ。」

 御杖の表情が急に固くなったような気がした。
 野球に未練が無い。あれはきっと、いや、絶対に嘘だ。野球したいはず。

 「…いや、遠慮しとくよ。悪いけど。」
 「…そっか。」
 「ごめん。見たくない訳じゃないんだ。でもさ、見ると、きっとまた野球したくなる。」
 「足か?」
 「うん。この足で野球なんて、出来ない。だから、もう、捨てたんだ。」

 御杖は両足を毛布越しに摩った。ベッドに投げ出された足はまるで自分の足ではないようだった。たった一歩。それでもう熱くなる。そして、動かなくなる。

 「もう、治らないのか…?」
 「先生の話だと、手術すれば治るかもしれない。でも、成功確率は十パーセント以下。失敗すれば二度と歩けない。今のままリハビリをすればいずれは普通生活が出来るくらいにはなるだろうって。」

 手術を受けろ、だとか。頑張れ、だとか。辛かっただろう、とか。
 そんな勧めや応援、同情が掛けられない。掛ける権利も、勇気も裕は持っていない。たったの一言なのに。俯く御杖に伸ばしかけた手を引っ込める。

 「…そっか。」

 何と言えばいいのか。掛ける言葉が見つからない。この場に相応しい、上手い言葉を裕は知らない。御杖の決めた事だ。口を出しちゃいけない。それに、安っぽい同情なんて掛けられない。

 「あ、ごめんごめん!湿っぽい話、しちまって!」
 「いいよ、気にすんな。なんて言うか、俺がごめんだ。本当に…。」

 沈黙が流れた。音がなかった訳じゃないのに、いやに静かで。
 丁度、その時。近くの小学校が五時を告げた。面会終了の時間だ。

 「…じゃ、俺帰るな。」
 「うん。ごめんな。」

 裕は笑った。

 「気にすんな!訊いたのは俺だ。本当に俺がごめん!」
 「いや…。」

 (悪いのは、俺だ。)

 御杖は俯いた。どうにもならない事を話して、愚痴って。
 きっとそれは、独りで背負うには重過ぎたから、裕に分けた。重荷を負わせた。

 裕は扉に手を掛け、ゆっくりと出ようとした。その姿が廊下に消えるその時。

 「裕!」

 ピタリ、と急に扉が止まる。その隙間からヒョイと顔を出して裕が首を傾げる。

 「あのさ、また、来てくれよ。」
 「…当たり前だよ!」

 そのまま、裕は消えていった。
 ポツン、と病室に独り残った御杖は俯き、あの白い軟球を握り締める。裕に返し忘れたものだ。

 (俺に、勇気があれば。)





 (俺に勇気があれば。)

 夕陽の照らす帰り道、裕は思い歩いていた。
 何を言えばよかったんだろう。もう少しだけ、勇気があれば。何かしてやれたのに。アイツの抱える闇から、出してやれたかも知れないのに。
 もっと、強くなりたいよ。誰かを救えるくらい。誰かを、守れるくらい。

 「裕!」

 キキィ、と後ろで自転車が止まる。振り返ると俊だった。
 買い物帰りらしい。ハンドルにはコンビニのビニール袋がぶら下がっている。

 「何処行ってたんだよ。今帰るんだろ。乗る?」
 「あ、うん。乗せて乗せて。」



 上り坂でもない、下り坂でもない。平坦な道を自転車が走る。日も落ちて暗くなりつつある道には光が点り始めた。そこに、待ってましたとばかりに火取り虫が群がる。

 「友達のとこ行ってたんだ。」
 「へー。野球部?」
 「ううん。クラスメイト…かな。一応。」
 「何だよ、一応って。まぁいいけど。」

 どうでも良さそうに俊は相槌を打ちながら自転車を漕いで行く。裕などまるで空気みたいにスイスイと。

 「そいつ、野球やってたんだって。」
 「ふーん。なんで野球部じゃねぇの?」
 「…足、怪我してんだってさ。」
 「はは。負け犬の言葉だな。」

 カッと頭に血が上る。だが、俊に悪気は無い。何より、俊は御杖の事を何一つ知らない。

 「今はもう、歩く事さえ困難で、入院してんだ。」
 「…マジで?」

 裕が頷いたのが見えたのかどうかは解らないが、俊は適当に納得したようだった。

 「…俺に誰かを救えると思う事は横暴かな…。」
 「は?何言ってんの?」
 「俺は、あいつに何て言ってやればよかった?あいつの抱える悲痛をどうすれば和らげてやれた?」

 すっかり意気消沈している裕。彼らしくも無い。内容もほとんど解らない俊だったが、暫く考えて大体理解した。
 また、どうしようもない事で苦しんでるんだな、と。

 「お前に何か出来るなんて思うんじゃねぇよ。お前は弱い。はっきり言って無力だ。特に、お前が直接関係しない事に置いてはな。」

 裕は何も言わない。俊は続ける。

 「誰だってそうなんだよ。自分にまったく関係無い事まで救える訳がねぇんだ。出来るとしたら、それは神くらいのもんだ。ま、俺は神なんて信じてねぇけど。」

 自転車は進む。見慣れた町並み。家が近い。

 「お前に何か出来るとしたら、それは何かを与えてやる事くらいだ。」
 「与える…?」
 「そうだよ。元気とか、笑いとか。」
 「…でも、向こうはそれを望んでないかも知れない!余計な事かも知れない!」
 「じゃあ、何でお前はそんなに後悔してんだ?」

 俊の言葉はその通りで。
 普段、無口な俊の言葉が重く圧し掛かる。そして、あの時と言葉がクルクルと頭の中で回る。

 「あんまり考え込むなよ。普段、助言するばっかりのお前がそんなだと、どうしていいかわかんねぇだろ。」

 キッ、とブレーキ。目的地に到着したのだ。裕はひょいと降りた。俊は手際よく自転車を止める。

 「…ありがとな、俊。」

 俊はポリポリと頭を掻いて無言で家のチャイムを鳴らした。