6.ヒーローは死なない




 春の甲子園予選が始まった。夏を目前にしたやや暑い風が吹く。一回戦、二回戦と快調にコマを進める阪野二高は、ついにその長年の壁にぶち当たる。
 そう、魔の三回戦だ。それも運命か、相手は昨年夏の準優勝高校。あと一歩の場所で甲子園行きのキップを逃した強豪チーム。優勝高校の東光学園にリベンジを果たすべく戦う。負けられないのはどちらも同じ。

 「お願いしますッ!」

 球場に整列し、互いに向き合う。試合開始の合図。
 相手はそう、長谷商業だ。優勝候補と呼ばれながら、突然の如月昇治と言うプレイヤーに負けた雪辱は伊達じゃない。





 「…さて、行って来るかな。」

 裕は立ち上がった。背番号六番、打順一、ショート蜂谷裕。その体格故に見くびられた昨年とはもう違う。少なくとも、この阪野二高は。
 バッターボックスに立つ裕に対するは二年、江川。俊とは過去同じチームでプレイしていたが、昔以上に成長したようだ。
 駆け付けた応援団、チア部。裕がバッターボックスに立つ事で声が上がる。

 江川は笑った。嫌味な笑いではない。ただ、見た事ある顔だな、と。
 裕は何の反応も示さないので小さく舌打ちして構えた。


 一球目。直球。コースは内角低め。最も打ちにくいとされるコースをピンポイントで狙う。が、まだまだ発展途上だ。もしくは、相手を見る意味もあったろう、ボールだ。

 「ボールッ!」

 審判がコールし、スコアのランプが一つ点灯する。





 「裕、大丈夫すかね…。」

 禄高は心配そうにタオルを握り締めていた。
 ベンチから見る裕は小さい。相手のバッテリーが大柄なのもあるだろうが。風が吹けば飛ばされそうで。裕のプレイを間近で見た事の無い禄高には仕方の無い事だろう。
 禄高にとって、今日は初めての公式戦だからだ。昨年、春夏はともかく秋の大会も一回戦、二回戦も出場出来なかった彼にとっての初舞台。

 「大丈夫、だろ。」

 裕は、打つだろうか。だが、三振して帰って来るようなヤツじゃない。駄目だと思ったらバントでもして意地でも出塁して繋げるタイプだ。
 未だ、僅かな人間しか知らない裕の秘密兵器。目にも留まらぬ俊足。

 キィンッ

 その時、裕が飛び出した。打球はライト前。右翼手のグローブを目の前で地面に落下。いい当たりだ、裕なら余裕の長打コース。

 「セーフッ!」

 一気に三塁に滑り込んだ。球はその間に合わなかった。発ヒットを飾る。

 「…な?」

 赤星が笑った。
 トップバッターを務めるそれは伊達じゃない。裕は膝の土を軽く払いながら立ち上がった。

 (滑り込むまでもなかったな。)

 小さな後悔。別に相手を見くびっている訳じゃない。試合全部を全力でやる必要はない。出来る場面では力をセーブしないと持たない。

 まず、相手は裕に驚く。無名の、ノーマークの選手。いきなり、出鼻をくじかれる。

 (相手は準優勝、狙うならそこだな。)

 その地位が。相手は無名高校。選手は平凡。自分は準優勝を果たした強豪高校。負ける訳がない。その自信が安心に、安心が油断に繋がる。
 そこを狙えばいいのだ。簡単な事だ。

 赤星の話しを思い出す。
 
『相手は俺達を見くびってる筈だ。だから、最初に一気に攻め込む。前半、点を取れるだけ取ってしまおう。後半は守るだけでいい。相手は準優勝高校だからな。』

 例え全力でなくても、油断はしない。窮鼠猫を噛む。どちらが鼠かは解らないが。
 アナウンスが次のバッターをコールする。

 『二番、市河君。』

 今日のピッチャーは俊と爾志。赤星が出ないからこそ、あんな話を最初にしたのだろう。
 三塁からリードする裕を江川は注意深く見ている。今にも盗塁しそうなのだ。当然だろう。

 だが、江川は構える。俊は構えるその刹那、足元を二度蹴って地面を均した。
 投球。俊の中学のチームメイトである江川は無名の俊を見くびっている。球威もコースも甘過ぎる。それを俊が逃す訳も無く。

 その頃、裕は江川が投球動作を起こすと同時に飛び出していた。

 キンッ、といい音。打球はセンターを越えた。長打コース。センターからの投球も虚しく裕はホームインした。
 地面を二回均す動作。それは合図だ。必ず、打つと言う意味を込めた。
 ヒットエンドランだ。



 「…誰が、お前よりも下手だって?誰が、練習試合にさえ出してもらえなかったって?」

 江川は思わず噤んだ。去年の、言葉だ。江川が二人を罵って言った言葉。
 それを言い返される日が来るなんて、あの頃の江川には予想も出来なかっただろう。

 「見てくれで判断する弱さ、変わってないな。」

 裕は笑った。何処か勝ち誇ったような。江川が赤面する。試合中なだけあって、裕もそれ以上言わずベンチへ戻って行った。





 回は進み、あの長谷商業が防戦一方を強いられる。だが、阪野二高の猛攻は止まず。
 六回表。点は6−0と離されていた。七回までに点差が七以上開けばコールドゲームになる訳だが。それにはまだ一点足りない。
 またも三塁に立つ裕に二塁を踏む俊。また、一塁には禄高と満塁である。ツーアウトだがチャンスだ。あと一点取り、裏を零点に抑えれば試合終了だ。
 期待のかかった四番は爾志だ。俊の相方、キャッチャー。

 球威も落ちてコースも甘くなった江川の球を爾志は力強くヒットする。だが、予想外に送球が早い。レフトはまだ余り打球が来ていない為だろうか。力が残っているのだ。
 三塁を蹴った裕に本塁への送球が迫る。

 「駄目だ!戻れ!!」
 「戻れー!」

 ベンチ、観客席からの声。

 (戻れ?馬鹿言うなよ。戻れる訳ねぇだろうが。後ろには俊がいるんだぜ。常識で考えろよ。)

 かと言って、セーフになるには遠過ぎる。戻れない。ならば、進むしかない。
 絶対に、間に合わせる。




                             ―――俺に勇気があれば。―――




 間に合う。絶対に。ここで諦める訳にはいかない。もう、後悔はしたくない。
 この試合で、全力を出す場面があるならばきっとここだ。滑り込めば、間に合うから。

 諦めない。

 沢山の砂埃と共に、裕は滑り込んだ。キャッチャーが審判の判定を伺うように見る。審判はゆっくりと。

 「セーフッ!!」

 一気会場が沸く。
 観客席やベンチはどうやら戻れなかった事実にようやく気付いたようだ。

 点差は七。裏を守れば、コールドゲームだ。

 (俺に勇気があれば…。もう、そんな後悔はご免だからな。)

 裕は土を払いながらベンチへと歩き出した。





 その後、六番打者の打球はセンターフライとなりアウト。チェンジとなった。



 何としても点を取らねばならない場面で、立ち塞ぐのは阪野二高の怪物エース。市河俊。ここに来ても尚球威もコースも変わらない。
 有り余った力を込めた球に触れないまま、二者凡退。最後のバッターはこれも運命か、江川。

 ギリ、と歯を食いしばってバットを構える。誰一人、真芯で捕らえる事の出来なかった球だ。当ててやっと。良くて一塁。完全試合にも近い。

 その剛球に、手も足も出ないまま二球が過ぎる。ツーアウトの声が、審判の声が、響く。最後の最後の球、江川は覚悟したように待つ。
 今度こそ、あの剛球を打つ。その決意。小さな確信。二度も連続で投げられれば、当てる事くらいは出来るはず。

 だが。

 パシンッといとも簡単に球は爾志の元へ。剛球じゃない。それどころか直球ですらない。カーブだ。何の変哲も無い。普通の。角度もそんなにない。コースもだ。
 中学生でも投げられるような、カーブ。

 剛球を打つ、と決めていなければ打てた。



 「アウトッ!ゲームセット!」

 余りの呆気なさに、長谷商業の観客席はポカンとしている。それを裕は小さく笑う。ブーイングされても可笑しくない終わり方だったのに。

 「只今の試合は7−0、七回コールドで阪野二高の勝ちです。互いに礼!」
 「ありがとうございました!」

 終わりさえ、盛り上がらない。
 ただただ、長谷商業はポカンとするばかりで。終わってしまった。





 「俊うけるな。あの最後。あそこでカーブかよ!相手もびっくりしてたじゃんかー!」

 禄高が楽しそうに言う。初の公式試合でコールド勝ち、そしてそれなりの活躍もした。ご機嫌なのは当然だろうが。

 「裕もすごかったよな。流石だよ!」
 「ありがとう。」
 「お前、結構足速いのな。知らなかったぜ。」

 禄高は嬉しそうに語るが、まだ、知らない。禄高はまだ、裕の本気の走りを知らない。いや、誰も知らない。正式に計った事も無いのだから、裕も知らない。
 それは秘密兵器。裕にとって最後の。だから、誰にも知らせない。


 「市河のすごかったけど、やっぱり今日のヒーローは裕だよな!」
 「…ヒーロー…。」

 わいわいと盛り上がる二年を赤星達は微笑ましい目で見ている。一年は初めての公式戦に感想を口々に言い合っている。斎だけはどうでもよさそうに空を眺めているが。

 ヒーロー、そんなものはいない。
 小さな頃憧れた、絶対無敵の正義の味方。そんなものは存在しない。けれど、いるならばそれはきっと自分自身だ。誰もが、自分自身が主人公の物語を書いていて、そこに登場するヒーローはやはり自分自身だ。
 野球で言うなら、きっとグラウンドでは誰だって主人公になれる。誰もがたった一人のヒーロー。
 そして、これだけは言える。ヒーローは決して死なないって。物語が終わらなければ、きっと何度だって生き帰る。
 御杖に、言ってやりたい言葉が見つかった。





 御杖はテレビのリモコンを片手に画面に釘付けだった。映っているのは甲子園の地区予選だ。まったくの無名高校が、準優勝高校を七回コールドで破る。
 そのニュースを報道するアナウンサー。勝った側はこれを楽しそうに見るだろう。だが、負けた側はどうだろうか。そんな事を考えて苦笑する。
 友達の高校が勝ったのだ。喜ぶべきだ。今度来た時には、おめでとうと言おう。

 「拓海ーッ!!」

 バアーンッと、先ほどまでの静寂を破って病室に飛び込んで来たのは、裕だ。テレビで、今まで試合をしていたはずの蜂谷裕。その後ろでは見なれない人が呆れている。

 「勝ったぜ!コールド勝ち!!あの、長谷商業を相手にだぜ!?」

 嬉しくて、嬉しくてしょうがないようだ。

 「うん、見てたよ。おめでとう。」

 テレビがワァワァと勝手に騒いでいる。裕は嬉しそうに笑った。

 「ありがとう!あ、紹介するよ。こいつは市河俊。前話した俺の従兄弟だよ。」

 俊は小さく頭を下げた。御杖の予想通りで大柄でピッチャーに向いた体格。何処と無く裕に似ていなくも無い。仏頂面だが、何か優しげな空気を感じた。

 「で、こっちは御杖拓海。」

 今度は御杖が頭を下げた。

 「…この前、お前に言えなかった言葉があるんだ。」
 「言えなかった言葉…?」
 「うん。手術、受けろよ。」