7.Braves




 一瞬、時間が止まった気がした。音が止んだ気がした。
 だが、すぐに戻る。

 「…え…。」
 「あの時、俺には言えなかった。言う権利も、勇気もなかったからだ。でも今は言える。」

 あの日、御杖は何を求めていたのか。今なら解る気がする。
 上手い言い回しなんてしなくていい。ただ、背中を押して欲しかったんだろう?ほんの少しの勇気をあげられればよかったのに。

 「…あ、あのさ、俺は…。」
 「お前。本当に未練なんて無いのか?」

 ずっと、思っていた。未練が無い訳ない。それでも諦める。それは、100か0かの勝負をする勇気がなかったんだろうって。
 でも、いつか歩けるようになったとしても、治ったとしても、それは御杖にとって意味のある事になるだろうか。そうは思えない。なぜなら、野球は今しか出来ないからだ。

 (俺が御杖の立場だったら、どうするだろう。)

 答えは恐らく、同じだ。御杖と同じ事をする。
 そうすれば、傷つかなくて済むもんな。自分も、誰も。

 「…未練、なんて、ある…!」
 「だったら何で!」
 「お前に…、何が解るんだよ!!」

 初めて聞く御杖の大声に裕は一先ず驚く。だが。

 「何も、何もわかんねーよ!知って欲しいなら、言えよ!教えてくれよ!」

 知って欲しい。ただ、その一言なのに。どうして、言えないんだろう。御杖も、斎も。
 理由だって本当は解ってる。訊くまでもない。ただ、優し過ぎるだけなんだろう。助けて欲しいのに、苦しいのに。でも、それを言えばその人にも背負わせてしまうのかも知れない。自分のその苦しみや悲しみを。

 黙る御杖に、裕は言った。

 「…本当は、訊くまでも無いんだよな。知ってるんだよ。お前が、母親と両足を失った事。」

 あの日の帰り、裕は医師に呼び止められた。そして、教えてもらった。





 「御杖君はね、悲しい子なんだ。」
 「どういう事ですか…?」
 「中学を卒業する間近、彼は事故に遭った。君は多分遠くから引っ越して来たんじゃないか?」

 裕が頷くと、医師はやっぱりね、と納得した。

 「この周辺の人なら皆知っているよ。雪が降っていた。だからだろうね。トラックがスリップして、歩道に飛び込んだんだ。大惨事だった。二次災害三次災害って起こって、サイレンが鳴り止まなかった。この病院にも患者が沢山運ばれて来た。御杖君もその一人だ。」
 「それで…足を…?」

 医師は頷く。

 「だけど、失ったものはそれだけじゃなかったんだよ。」
 「…一体、他に何を失ったんですか?」
 「母親さ。」

 ふと、思い出した。御杖は、裕が母親の事を聞くと素っ気無く「死んだ。」と言った。

 「彼は中学の頃から注目されていた選手だった。だから、その野球を失ったと言うショックも、たった一人の家族だった母親を失った悲しみも大きかっただろうに。」
 「どうして、どうしてそれを俺に?」
 「彼の傍にいてあげて欲しいんだよ。」

 医師は続ける。

 「中学の頃の仲間も、もう、来なくなった。彼の見舞いには誰も来なくなった。失う事に慣れてしまった彼は、何も受け入れようとしなかった。もう、何も失いたくないんだろう。でも、君が現れて彼は変わった。何よりも、君を受け入れたと言う事実には驚いた。」

 確かに、御杖は最初、裕に他人行儀な話し方をしていた。

 「…先生。俺はその頼み、聞けません。」
 「!」
 「俺はあいつと友達でいるのは、頼まれるからじゃないですから。俺の意思ですからね。」






 「…知ってるんだよ。だから、言うんだ。」
 「…お前に!お前に解るもんか!!解んねーだろうが!!俺の絶望や無念さなんて!」

 脳裏を過るあの冬の日。真っ白な雪に染み込んで行く紅と、両足の鋭い痛み。動かないたった一人の家族。

 「目の前で、大切なものを奪われる哀しみなんて…!!」

 御杖は叫んだ。悲痛なほどに叫んだ。血が滲むほど、拳を握り締めて。

 「解んねーよ。」

 だけど、裕は静かに肯定した。御杖に安っぽい同情など掛けられない事を、何度も自分に言い聞かせて来たのだから。

 「俺にはお前の絶望や無念、確かに解らねぇよ。最後まで足掻けよ!惨めでも、辛くでも、苦しくても!出来る限りの事、お前はしたのかよ!?絶望も無念も、早過ぎる。…Fortune favors the brave...」

 俺の好きな言葉だ、と付け加えて。そして、ドアノブに手を掛けてゆっくりと回した。

 「…大切なものを奪われる哀しみは、俺だって知ってる。」

 バタン、と。扉の閉まる音が響いた。
 病室には御杖と、何も知らないまま、訳の解らないままの俊が残されていた。御杖は自分の血の滲んだ掌を見つめる。

 「Foutune favors the brave.意味、知ってる?」

 何気無く俊は言った。御杖は何の反応も示さなかったので、俊は小さく息を吐いて続けた。

 「運命の女神は、勇者に味方する、だって。」
 「…勇者?」

 そんなもの、いない。運命も、女神も、信じちゃいない。
 俺は勇者じゃない。勇者になんかなれない。強くなんてなれないんだよ。

 「俺、思い出したんだけどさ。あいつ昔こんな事言ってたぜ。『グラウンドの上では、誰もが主人公。誰もがヒーロー。』ってさ。ま、どう解釈するかは人それぞれだけどね。」

 俊はそのまま部屋を出ようとした。だが、扉の前でふと足を止めた。

 「あのさ、あいつ、親が両方死んでんだよね。多分お前が事故に遭ったのと同じ頃。理由は今も教えてくれないけど、あいつはお前の哀しみ人一倍解ってるはずだぜ?」

 御杖は思わず黙る。そのまま、裕に続くように、俊は出て行った。





 (ここは、グラウンドじゃない。)

 そのグラウンドに立ちたいけど、立てないから、悔しいんだ。主人公にも、ヒーローにもなる場所を持っていないんだ。

 (……違う。)

 そうか。そう、だったね。

 俺の戦場(グラウンド) 、はここだ。
 誰もが皆、それぞれのGroundを持っている。それは、俺の立ちたかった場所の事じゃない。今、俺の立つこの場所の事、か。

 よくもここまで言い回しが出来るものだと笑う。
 思えば、自分に甘かった。可哀相な自分に酔っていたのかも知れない。家族も、大好きな野球も、歩く足さえ奪われた自分に。でも、まだ、取り返せるものがある。
 もう戻らないと、諦めるしかないものはあるけれど、それでも立ち止まらないヤツがいる。そいつは、歩き続けている。諦めなかった。
 あの試合でも、間に合わないかも知れないと言う場面で、試合を終わらせられる絶好のチャンスで真っ直ぐ飛び込んだからこそ間に合った。
 その勇気が、無かった。

 その時、病室の電話が鳴った。

 「…はい。」
 『あ…俺、だけど…。』

 何か言い難そうな相手は裕だ。

 『ごめん。』
 「いや、いい。本当の事だ。」
 『…俺、考えたよ。お前に一方的に押し付けるのは趣味じゃない。だから、一つ、約束をしてくれよ。』
 「約束?」
 『うん。…今年、俺達は必ず甲子園に行くから。だから、』
 「…お前が甲子園に行ったなら、俺は、…手術を受ける、よ。」

 その言葉を言うのに、どれだけ時間が掛かっただろう。どれだけの勇気が必要だっただろう。



 ―――約束だ。―――