8.Sprint!!





 阪野二高は、過去何年も突破出来なかった壁である三回戦を打ち破りその後も次々に試合に勝利し、奇跡とも思われる決勝戦へとコマを進めた。そして、その決勝で待っていたのは昨年、突如現れた如月昇治率いる東光学園だった。

 ノーマークだった阪野二高が、昨年の準優勝の長谷商業にコールド勝ち。そして、決勝まで進む。その驚くべき事実の立役者として大々的に報道されたのは赤星啓輔、および、市河俊と言う天才達だった。ある雑誌には、東光学園、そして、阪野二高のナインが載っていた。その中に小さく、“蜂谷裕”と言う名前があったのは、極僅かの人間しか知らない事実である。

 決勝戦には今まで以上に多くの観客が訪れ、ダークホースの阪野二高がもしかすると勝つかも知れないと言う期待を背負った試合を凝視した。
 だが、それまでだった。





 「ゲームセットッ!!」

 ああ、と言う観客の感嘆の声が目立つ。ぞろぞろと球場からは人が帰っていく。スコアボードには、現在終了した試合の得点が残っていた。
 3−4と。

 「ありがとうございましたッ!!」

 互いに頭を下げるナイン。歓喜に巻かれる対戦校を苦笑しつつ退場するのは、阪野二高だった。赤星はしばしの間眼を閉じて空を見上げている。当然、空など見えていない。

 「…届かなかった、か。」

 たった一点。それが、こんなに遠い。たった一人のランナーが本塁に到着する。その人数がたった一人足りなかった。だが、負けは負け。

 「…裕、行こうぜ。」
 「…うん…。」

 俊は荷物を早々と纏めベンチ奥出口傍に立っていた。普段とさして変わらないように見えるのは、気のせいだろう。
 球場出口で集合になっていたので、裕と俊は一足遅れて静かな廊下を歩いていた。会話も、無い。普段、話しをするのは専ら裕の仕事だったので、その裕が無言では会話が無いのも当然かも知れない。
 でも、それでは何だかいたたまれないので俊は口を開いた。

 「あのさ、何て言うか、なぁ…。」

 何を言えばいいのか、解らない。
 裕はそんな俊の様子を見て苦笑した。

 「うん。ごめん。俺のせいだ。俺が、あそこで盗塁しておけば一点取れた。」
 「…はぁ?取れる訳ねぇだろ。お前のせいじゃない。もう、終わった試合だ。後ろを見るなよ。」
 「はは、そうだね。俊の言う通りだ。でも、さ…。ああ、俺もうやだよ。後悔してばっかりだ。」

 裕の言っている場面は六回表。ツーアウトランナー一塁、三塁の場面。如月はランナーを警戒していた。その時、一塁ランナーが飛び出しそうだったので、如月が一塁に送球した。だが、一塁ランナーはセーフ。その時に、三塁にいた裕も飛び出した。だが、ファーストからの矢のような送球が来て裕は慌てて三塁に戻った。もちろん、判定はセーフ。
 それを悔やんでいるのだろう。あの時、三塁に戻らずに本塁に滑り込めば一点取れていた。そう、思って。

 「後悔するくらいなら、強くなれ。」
 「……如月。」

 出口傍に立っていたのは、如月。いつもの白いエナメルのスポーツバッグを足元に置いて壁に寄り掛かっている。

 「今日はお疲れ。」
 「ああ、お前も。甲子園、勝てよ。」
 「もちろんだ。……こっちも、結構危なかった。」

 裕は自嘲気味に笑う。

 「俺を笑いに来たのか?そんな言葉を掛ける為にここに?」
 「…いや、率直な感想だ。敵を励まそうなんて野暮な真似はしねぇよ。」
 「そうか。」
 「まだ、立ち上がるんだろ?こんなところで終わる訳ないよな。」
 「当たり前だ。」

 沈んでいた目が、燃えたように見えた。一瞬、光ったような。

 「…俺達は勝った。そして、甲子園のキップを手にした。お前等も、手にしたものがあるはずだ。」
 「…同情はいらないと、言ってる。」

 裕は何処か怒っているように見えた。でもそれは、口調が強いと言う普段聞かない裕の声が見せる錯覚だろう。

 「勝たなきゃ意味なんて無い。敗北者が手にするのは絶望だけだ。」

 如月は笑う。失笑。確かにな、と言った。
 甘い事ばかり言っている裕が珍しく現実的な、厳しい一言を言う。どうしてか、自虐的だ。一体何が、彼にここまで言わせるのか如月には解らなかったが、俊には何となく解った。

 浅賀恭輔、笹森エイジとの再会の約束。そして、御杖拓海との約束。

 その二つの約束が、裕を動かしているのかも知れないと。

 「そうだな。お前の言う通りだ。俺も、負け犬にならないように頑張らせてもらうよ。お前も負け犬のままでいいのかな。」
 「なめんな。俺を誰だと思ってやがる。次会う時は、お前が負ける時だ。」
 「行こうぜ、裕。」

 ニッ、と笑い如月は行ってしまった。その後姿をしばらく見つめ、裕と俊は歩き出した。出口の向こうが明る過ぎて、天国の門にさえ見えた。





 「今日の試合は非常に惜しいものとなって……」

 監督の話しは、相変わらずいつもと同じに聞こえた。惜しかったと、あと少しだったと、そう励ませば次は勝てると思うのか。
 裕はぼんやりと吉森の話しを聞きながら思った。

 「…それでは、解散。」

 裕がふと顔を上げると、何時の間にか赤星の話しも終わっていた。しまったな、と思いつつ俊と禄高が帰ろうと急かしていたので歩き出した。





 「…如月、凄かったな。何て言うかコントロールだよ。」
 「そうだな。送球も速くてすっげぇど真ん中だったしな。」

 負けた後だと言うのに禄高と爾志は対戦相手の如月の話しをしている。相変わらず元気だ。その有り余る元気が、試合で真面目じゃなかった為だとかではない。それはまた別の話しだ。
 二人は前向きなだけ。

ピリリリッ ピリリリリッ

 「裕?お前そのだっせー着信音変えろよー。」
 「はは。いいじゃん。普段はマナーモードだからどうせ聞けないんだし。」

 画面を見ると、電話。相手は、忘れるはずの無い、懐かしい名前だった。
 そう、画面に表示されている名前は。

 「エイジ…!」
 「え?」
 「ごめん、先に行ってて。」

 裕は小走りに引き返して行った。





 「…もしもし…?」
 『裕か〜?』

 底抜けに明るい声は、間違い無くかつてのチームメイト、笹森エイジの声だった。

 『お前の試合見てたで。負けてるやんか。』
 「見てたの?うわー。」
 『何や、うわーて。お前が甲子園来なかった去年の春夏と今年の春。俺は全部出場してんで。』
 「え?嘘。」
 『嘘吐くか。ほんまや。恭輔も同じやで。お前だけや、来てへんの。』

 笹森は軽く笑った。明る過ぎるその声も懐かしい。もう、何年も会っていない気さえする。

 『何時になったら来んねん。』
 「うん、ごめん…。」
 『…?…負けたのが、そんなにショックか。』
 「当たり前だよ。甲子園、目の前だったのに。」
 『…俺は、ずっと言いたい事があってん。』
 「言いたい事?」

 笹森は急に真剣な声で言った。

 『いつまで、沈んでんねん。』
 「―――え?」
 『え?やない。すっとぼけた声上げて何してんねん。何時になったら本気になんねん。本気なくても甲子園来られるて思うてんちゃうやんなぁ。お前の本気は、こんなもんやないはずや。お前、足遅うなったな。中学のが速かったで。何やあの走りは。見てて反吐が出る。何時の間に、力セーブする事覚えてんねん。いつでも全力っちゅーのがお前やろ。』

 更に、続ける。

 『早く本気になって上がって来い、蜂谷裕。』
 「……。」

 そのまま、電話は切れてしまった。
 言いたい事を言って勝手に切ってしまった。掛け直そうと思えば出来るが、そんな事はしない。裕は小さく舌打ちして走り出した。



                       ――いつまで、沈んでんねん。――

                       ――いつでも全力っちゅーのがお前やろ。――


                       ――早く本気になって上がって来い、蜂谷裕。――





 (当たり前だ。)

 こんなところで、終わって堪るか。見てろ、俺は、必ず甲子園に行ってやる。もう、加減も何もしない。残り半分の高校生活、俺は全力で、全力で一気に、甲子園に駆け上ってやる。