10.暗黙の対立




 キンと澄んだ音が、グラウンドに響き渡った。バッティングの練習を行っていたバックネット付近では、ざわざわと空気が揺れて歓声が溢れている。

 「那波、すっげ…。」

 マウンドでは、ポカンと口を半開きのまま、白球の消えて行ったライト方面を見つめる俊の姿があった。那波は照れ臭そうにバットを置いて戻って行った。

 「やるなぁ。」

 嬉しそうな反面、悔しそうに裕は言った。
 バッティング練習で、裕は俊の球に触れる事が出来ずに三振しな直後だった。那波は苦笑する。

 「偶然ですよ。運がよかっただけです。」
 「ばーか。偶然なんかで俊の球をホームラン出来るか!すげぇ。」

 那波が照れ臭そうに笑う。俊は少しの間、帽子を深く被り黙っていたが、すぐに立ち直りいつもの、いや、それ以上の投球を見せた。

 「長打力じゃあ、俺は那波には勝てないなぁ。」
 「そんな事、」

 謙虚な姿勢の那波。その背を裕は軽く叩いてバッターボックスに立った。新入生も新しい生活に馴染み、近付く夏の大会へ皆が一致団結している。平和、と言うのか。当たり前、と言うのか。
 そんな風景を眼の端に捉え、裕は頬を緩ませた。
 バッターボックスに立つ裕を遠くから見つつ、那波は持っていた金属バットを置いた。腰に手を当てて大きく反ると真っ青な空が見えた。雲は居心地が悪そうに疎らに散っている。

 「ナイバッチ。」

 体制を直すと、斎がいた。もうじきバッターボックスに入るのだろう、バットを肩に乗せて黒光りするヘルメットを被って。
 苦笑すると、つられて斎も笑った。同時に名前を呼ばれバッターボックスへと入って行った。

 あの事件以来、斎は離れて行った。野球から、人から、全てから。何もかも拒絶して、自ら壁を作り上げて。話しをするどころか、会う事も目に見えて減って行き、あの約束さえ薄れて見えた。
 斎の作り上げた厚過ぎる壁は、自分には壊せなかった。
 でも、あの人は壊して見せた。いとも簡単に。そして、斎を連れ戻してくれた。そこにはまるで始めから壁なんて無かったかのように。

 (ここに来て、よかった。)

 甲子園に行ける、なんて絶対的な保証は無いけれど、ここなら絶対に行けると思う。

 ショートに飛ぶ鋭い打球を軽く跳んで捕球する裕を見て那波は笑った。彼方此方からの歓声に笑う小さな選手。
 その時。視線を感じて振り返った。
 そこにいたのは、岡沢達だった。那波にとっては一つ上の先輩で、裕と同学年。那波達一年にとっては三年生よりも恐い存在だった。
 その理由の一つに、裕と言う先輩の存在。誰にでも好かれているのに、岡沢達は毛嫌いし遠巻きにし。彼と仲良くする者を遠くから睨んでいるような気がしたからだ。
 もちろん、那波も例外ではない。



 数日は平穏に過ぎた。何事も無く。何も起こらず安心し緩み切った頃、事件は起こった。



 「…那波は?」

 着替えも中途半端に、裕は言った。部活も終わりそれぞれが仲のいい同士話している和やかな時間だった。夏も近いと言うのに外はもう暗い。他の部活も終了して帰宅しただろう。

 「え?小便じゃないっすか?」
 「ああ、そうか…。」

 斎が何も知らないように返答した。裕は適当に納得して手を動かし始めた。時間も遅いので先に帰る部員も多く、その背中を見送った。


 「…遅ぇな。」

 主将である赤星は建前として最後まで残る。那波やらがまだ戻らないので、苛立っていた。松本は笑いながら軽く諌める。

 「あ、赤星主将先帰って下さい。鍵は俺がやっときますから。」

 珍しく禄高が進み出た。横から新や爾志が茶々を入れる。

 「そうか?悪いな。じゃあ、頼むわ。」

 赤星と松本はそのまま部室を出て行った。時間もかなり遅くなったので、帰る者は帰らせ、残ったのは二年のいつものメンバーと斎と数人の一年。

 「…ったく、本当に遅ぇ。大かよ…。」

 新はそう言って怒りながらも待っている。

 「本当だなぁ。まだ帰って来ないのは那波達一年と、岡沢達と…。」
 「……俺も…。」

 禄高がはっと立ち上がる。

 「俺も、トイレ行って来る。ついでに見てくるわ。…な、市河も行こうぜ。」
 「いいけど。」
 「うん、よろしく…。」

 何処か勘付いたような様子の裕だったが、咎めずに二人が部室を出て行くのを見送った。






 「何だよ、禄高。」

 暗いトイレまでの道をやや小走りに俊と禄高は辿っていた。灯りもポツポツとしか無く、足元に何か落ちていても目を凝らさなければ見えない。

 「俺の学校、あんまりいい学校じゃなかったんだよな。なんて言うか、荒れてたからさ。」
 「?」
 「だから、ちょっと調子に乗った後輩とかがいると先輩は数人で呼び出してボコってた。俺はやられた事無かったけど、友達がやられた事あったんだよな。」
 「岡沢が呼び出したってのか?那波は調子に乗ってたか?」
 「いや…。でも、十分に有り得る。裕と仲良かったもんな。」

 俊が怪訝に眉を顰める。

 「そんくらいで?」
 「そんなもんなんだよ。多分さ、岡沢は那波達が調子に乗ってようがどうでもいいんだよ。裕にダメージ与えたいだけなんだから。」
 「何だよ、それ。」

 禄高は答えず顔を上げた。目の前にはトイレがあったが、灯りは付いていないし、誰かがいる気配もない。水の音も聞こえない。つまり、暫く誰も使っていないと言う事。

 「すれ違ったのか…?」
 「体育館裏でも行ってみるか。」

 始めは信じていなかった俊だが、心臓が高鳴り状況を把握しつつあった。岡沢なら遣りかねない、と。

 「急ごうぜ。…裕の様子じゃ、何となく勘付いてる。」
 「裕が来たらやばいのか?」
 「当たり前だろ!そんな状況に、裕が来たらどうなると思ってる。」

 少し、寒気がした。
 裕はきっと来る。今頃は心配になって部室を出ようとしているくらいだろう。多分、新なんかはもうとっくに気付いてる。







 体育館裏に到達したが、そこには誰もいなかった。流石にベタだったな禄高は走り出したので俊も後を追った。遠くで足音が聞こえた。
 そして、体育用具倉庫前に来た時。話し声が聞こえた。

 「調子に乗ってんじゃねーよ。」
 「蜂谷なんかに尻尾振ってうぜーんだよ。」

 その声の主が岡沢達だと気付いて、禄高が躊躇無く踏み込んだ。

 「岡沢ッ!!」

 驚いたのか、一瞬空気が揺れた。

 「禄高、何でここに…。」
 「お前こそ、何してんだ!!」

 禄高は足元に蹲る一年を起こした。殴られたのか、口から出血していた。岡沢達の正面で、蹲る訳でも無く、泣く訳でも無く。立ち尽くすように那波が立っていた。

 「那波!」

 すぐに俊が那波に駆け寄った。那波は力無く笑った。殴られても、蹴られても、何を言われても、自己主張するように、意志を貫くように立っていた。

 「大丈夫か!」
 「市河先輩…。すんません…迷惑掛けて…。」

 那波は咳き込んだ。

 「岡沢…。お前等、何やってんだよ!!」
 「何って、調子に乗った奴等をシメてんだよ。見りゃ解るだろ。」
 「いい加減にしろよ!!こんな事して、何があるんだよ!!下手すりゃ、大会は出場禁止だ!」
 「ああ、それもいいかもな。」

 クスクスと笑う岡沢に禄高は寒気を覚えた。ここ数日の平和など、砂上の楼閣だった事を思い知らされる。深い深い敵意が見える。

 「何でも出来るって思ってる、あの偽善者にダメージが与えられるんならな。あーあ。あのでしゃばりなら、ここに来ると思ったんだけどなぁ。そうしたら、無力感と罪悪感を与えられると思ったのに。」

 その深い敵意に恐怖さえ覚えた。どうして、ここまで人を憎めるものだろうか。たった一人の為に、何人も関係の無い人を傷付けられるだろうか。
 禄高は言葉を失って黙り込んだ。俊もまた、同じように。だが。

 「その必要はねぇ。」

 俊が振り返ると、裕が立っていた。すでに、全ての状況を把握し切ったように真剣な表情で。隣には息を切らした新が。

 「裕、何でここに…。」
 「ごめんな。気付くのが遅すぎた。…岡沢、遣り過ぎだ。俺も、怒るぞ。」

岡沢達が笑った。

 「怒ったらどうなんだよ。殴るか?その瞬間、俺は学校に訴えてやる。そうしたら大会は出場禁止だ。」
 「高いとこから見下ろしてんじゃねーよ!何で俺に直接来ないんだ。恐いのか。」

 岡沢が一歩進み出た。そして、腕を引いたので新が間に入る。

 「止めとけよ、岡沢。手ぇ出したら負けだぞ。」
 「うるせーよ!裏切り者のくせに!」
 「俺は誰も裏切ってねぇ!」

 今度は岡沢と新が言い争いを始めた。確かに、岡沢にしてみれば新は裏切り者に見えるのだろう。だが、その本心を知っていれば違うだろうに。
 今度は裕が新の腕を引いて下がらせた。

 「お前とは分かり合えないと思う。いずれにせよ、どんな形であれ決着をつけよう。偽善者だと笑ってもいい。でも、俺は俺のせいで誰かが傷付くのを我慢出来ない。…俺は、お前が嫌いだ。」

 決意したような真剣な表情を浮かべる裕の横顔を新は見ていた。その瞳の奥には憎悪も憤怒も無いのに。むしろ、悲しそうに見えた。そして、寂しそうで。

 「…そうだな。俺とお前は正反対の人間だ。」

 岡沢は意味深に笑いながら、その場を後にした。その後ろ姿を小さくなるまで見送ると、裕は傍に横たわる一年の介抱を始める。そして、誰もが無言で同じように動き始めた。
 平和な日常が、終わりを告げた。