13.Flame Memory




 「…何だか、今日は妙に機嫌いいなぁ、裕。どうしたんだよ。」

 振り返り、裕は笑った。
 夏休みに入り、赤星達三年生最後の夏がやって来た。このくらいの日に昨年は合宿が行われた。今年はもう少し先の予定だ。
 いつも通りの練習。裕の機嫌がいいのはいつもの事だが、今日は妙にいい。ニコニコして気持ち悪いくらいだ。

 「…へへ。俺は、いつでも機嫌いいよ。」
 「おいおい、それじゃただの馬鹿じゃねぇか。」

 爾志が裕の首を腕で絞めて「白状しろ!」とからかう。裕は相変わらずニコニコして「痛い、離せ。」と叫んだ。その様子を見ながら、俊は脳の片隅に残る記憶を探していた。

 (何だっけ。このくらいの日。何かあったな。)

 思い出せないまま部活が始まってしまったので、俊は「ま、いいか。」と走り出した。





 「…あれ?どうしたの、裕。」

 禄高が驚いたように裕に駆け寄った。休憩の時間だ。意味が解らないように裕が首を傾げると、禄高は見当違いの方向に頭を下げた。

 「え、何?何やってんの?」
 「何って、挨拶してんの。」
 「誰に?」
 「お前の親父さん。」

 ピタリと裕の動きが止まる。いや、時間が止まった。

 「…え?」
 「だから、そこにお前の親父さんが笑って…。」
 「…いないよ。」

 少し、ほんの少しだけ寂しそうな表情で裕は呟いた。

 「もう、いない。俺の親父は、もう死んでるから。」
 「あ…。…でも、いるんだよ。俺、霊感あるんだ。」

 飄々としたいつもの禄高だが、その目に嘘はないようだ。裕はゆっくりと禄高の指し示す方向を見た。だが、そこにはバックネットがあるだけだ。誰もいない。

 「笑ってるよ。楽しそうに。お前を、見に来たんじゃないか?」
 「………。」

 幸せそうに禄高が笑うので、裕は言葉を無くし何とも言えない表情で笑った。当然、その姿は裕に見えなかった。
 はっと俊が顔を上げる。

 (そうだ。今日だ。)

 頭に引っ掛かっていたものが取れた。そうだ、今日は、裕の両親の命日だ。そう言って、去年の合宿の日に裕は高熱を出した。

 「……何て、言ってる?」
 「いや、何も言ってない。笑ってるだけ。…あ!」
 「どした?」
 「いなくなっちゃった。」
 「…そっか。」

 あーあ、と残念そうにする禄高に、裕は柔らかい笑顔で頷いた。何処か、寂しげな笑顔だった。





 「そう言えばさ、裕のお母さんって何してんの?」

 紅い夕日の光の差す帰り道を辿っていた。何気無く禄高は言う。爾志が慌てて口を塞ごうとするが、裕は相変わらず笑っている。

 「死んだよ。二年前に。」
 「……そっか。」

 禄高に悪気は無い。だが、今日の事といい禄高の意外な事が解った。
 霊能力者。霊感があるんだと自慢する人は少なくないが、どうやら禄高は本当のようだ。いつもの冗談っぽい笑いも話し方も無い。何より禄高は嘘が下手だし、こんな冗談は言わない。

 「じゃあなー!」
 「おう、また明日。」

 道が別れ、爾志と新が離れて行く。
 裕と俊、それから禄高はまた歩き出した。帰り道は家の近くの公園に差し掛かり、子供達が楽しそうに笑う声が聞こえる。

 「…あのさ、何で死んだの?」

 何気無く禄高は訊いた。去年、俊が訊いた時は爾志に怒られて裕にははぐらかされた。

 「…事故だよ。」
 「事故なんかじゃない。」

 はっと振り向くと、そこには瑠がいた。部活の帰りだろう。夕陽に照らされて、真っ直ぐな目は半ば睨むように裕を見る。

 「事故なんかじゃない。」
 「瑠、今帰りか。」

 怒ったように瑠は近付き、裕の胸元を掴んだ。

 「…お前ももうすぐ大会だもんな。」
 「話しをずらすなよ!」

 裕は苦笑して器用に瑠の手を外した。禄高が誰?と訊くので、俊は裕の弟の瑠である事を教えた。

 「何処が事故だ。あれは、」
 「瑠!…もう、いい。もういいんだ。」
 「いいもんか!!」

 裕の寂しげな笑顔と、瑠の物凄い剣幕。その時、俊の頭の中で一つの結論が出た。そして、線が一つに繋がる。

 「まさか、お前等の両親、殺されたのか…?」

 誰も答えはしなかったが、裕と瑠が黙って俯く。それが、真実だと物語っていた。

 「嘘だろう…。」
 「嘘じゃない。父さんと母さんは、殺されたんだ。」

 瑠の真剣な口調。何処か泣いているようにも見えた。裕は俯いている。

 「瑠、いい加減にしろ。俺も怒るぞ。」
 「いい加減にするのは兄ちゃんの方だ!なんで、なんで、あれが事故なんて言えるんだ!!」
 「…あれ?何してんの?」

 自転車に乗った脩がキィとブレーキを掛けて止まる。裕に食って掛かる瑠と呆然としている俊と禄高。脩は状況が掴めないまま、首を傾げた。

 「…今日な、親父が来てたらしい。笑ってたって。だから、お前がどうこう言う必要はねぇんだ。」
 「来てたの…?本当に?」
 「だよな、禄高。いたんだろ?」

 禄高は突然振られ、慌てて何度も頷いた。裕はそれを確認すると、瑠に「ほらな。」と言った。すると、瑠の目に一杯涙の粒が溜まった。

 「笑って、た…。」
 「そうだよ。だから、もう、誰も苦しまなくていいんだ。お前も。」

 溜まった涙が、流れた。
 瑠が泣くところを、初めて見るな。と、俊はぼんやりと思っていた。

 「…なぁ、状況を説明してくれねーか?もしかしたら、俺にも何か出来るかも知れないし。」

 苦笑しながら禄高は言う。裕は、力の抜けた表情で一度だけ、ゆっくりと頷いた。そして、そのまま公園の傍の電柱に寄り掛かった。

 「…もう、楽になってもいい頃なのかもな。瑠も…、俺も。」

 裕の肩で泣く瑠の頭を軽く抱きながら裕は話し始めた。





 
…何処から話せばいいかな。俺も、あの日の事は無意識に頭の奥へ奥へと圧し込んでいたから、もう記憶は断片的かも知れない。でも、鮮明に残ってる。そうだな、まずは、あの朝かな。


† † †


 「…行って来まーす。」
 「行ってらっしゃい。…誰のお家だったっかしら。」
 「エイジだよ。極道の人達と一晩過ごして来る。」
 「ああ、そうね。気をつけなさいよ。それから、迷惑掛けないようにね。」
 「はいはい。じゃ。」

 俺は、最後の夏の大会を間近にして笹森エイジの家に一泊する事になっていた。エイジの家は割りと近所で泊るのも初めてではなかったし、特に大会の前はこうして泊って一緒に自主トレなんかしたりしていた。

 「俺も行ってくるね。」
 「あら、瑠何処行くの?」
 「遊びに行くんだよ。」
 「お前ももうすぐ中学生だろ。人に迷惑掛けるのはやめろよ?悪ガキの兄なんて迷惑だからな。」
 「うるさいな!迷惑なんて掛けないよ!」

 そう言って、俺は瑠の姿を見送った。
 いつも通りの日だった。何も変わらない、夏休みの朝だった。そして、いつもと同じように終わるんだって思ってた。変わった事と言えば、ポストに入った回覧板に「放火に注意」って書かれていたくらいだった。


† † †


 いつもみたいに、俺はエイジと、同じく泊りに来てた恭輔と眠る準備にさしかかっていた。時刻はもう十一時を回っていて、明日は部活も休みだったけど、早く寝て早く起きて、練習して遊びに行こうと思っていたからだ。だから、布団に入った。

 「…なぁ、エイジ大阪行っちゃうんだろ。」

 エイジは大阪に引っ越す。それを聞かされたのは数日前の話で、俺と恭輔は酷く驚いた。理由は大阪の笹森一家の大頭である祖父が危篤だからだと言う事だ。もしもの時はエイジの父親が継がなくてはならないので、早い内に大阪に帰るとの事だ。

 「せやな。寂しなるわ。」
 「すまんなー。俺かて、引越したない。やけど、なぁ…。」

 もう決まってしまった事だ。まだまだ子供だった俺達は大人の理由で離れ離れになってしまう事が凄く嫌で納得する事が出来なかった。

 「…仕方無いわ。やから、俺と裕で勝手に甲子園行くわ。ほんま悪いなぁ…。」
 「何言うてんねん。俺かて甲子園行くわ。絶対向こうで明石商業合格したる。」

 その事実を事実と、嫌だと言いながらもう認めてしまっていた俺達は、それでも進む先に希望を見出していた。これからも続いていく道。そこに光を見ていた。

 「そろそろ寝ようぜ。明日は俺が一番早起きしてやるから。」
 「何言うてんねん!お前なんかこの前寝ぼけて四時ごろ起きとったやんか!」
 「うるせー!あれは俺のベストタイムなんだよ。」
 「ははは。早過ぎや。」

 笑いながら、欠伸を一つして、電気を消した。暗闇の中で笑い声が聞こえたり、エイジが妙な声を上げて笑わせたりしながらも、何時の間にか静かになっていて本格的に寝ようと瞼を閉じた。
 その時だった。

 「裕!起きろ!!お前の家が燃えてるぞ!!」
 「―――え?」


† † †


 ジャージのまま、裸足で慌てて家まで走った。途中小石を踏んだりして足の裏から血が出ていたけれど、その時は全然気にならなかった。
 始めは嘘だと思ったけど、外が時間に見合わず少しばかり明るくてざわついていて。何より心臓が高鳴るから、本当の事だって直感した。

 家は、炎に包まれていた。

 野次馬が沢山いて、掛けつけた消防隊によって消火が行われていたけど一行に火の勢いは衰えない。俺は、野次馬の中を走りまわって家族の姿を探したよ。親父と、お袋と、瑠。
 いなかった。何処にも。嫌な汗が流れて、近くの消防士に掴み掛って訊いた。そうしたら。

 「まだ、見つかっていない。」
 「――そんな!」

 俺は、消防士の制止も振り切って燃え盛る家の中に踏み込んだ。後から追って来たエイジと恭輔が必死に叫んで俺を止めようとしたけど、無視して。


† † †


 「親父ィ!母さん!!瑠!!」

 家の中は真っ赤で、何が何だか解らなかった。辺りはメキメキ言ってて、ここが本当に俺の家なのかって思うくらいだった。とにかく、火の勢いが強くて、途中何度も爆風に倒れたし、ガラスの破片みたいのも踏んだ。でも、それでも。

 「親父!母さん!瑠!何処にいるんだよ!!」

 何しろ、そこが自分の家なんて思えなかったから。もう、ここは何処だって感じだった。でも、それぞれが寝ているはずの二階の部屋に向かった。
 一番初めに、燃え盛る扉を蹴破って飛び込んだのは瑠の部屋だった。火の勢いは増すばかりで、部屋は炎に包まれてた。燃えていない場所の方が少なかった。
 布団にいるはずの瑠は、もう、無理かも知れない。そんな諦めさえ過った。でも、いたんだ。

 「瑠!!」

 何でかは知らないけど、瑠は部屋の真ん中でうつ伏せに倒れてた。そこは燃えてなくて、カーペットなのにだよ。燃えていくはずの炎も周りで燻っていたと思う。
 でも、生きてるって、その姿が確認出来た時に俺は瑠を抱き起こした。反応が無くて、煙のせいだと思った。すぐに着ていたTシャツを脱いで瑠の口に当てた。そんで、部屋を出た。その瞬間に部屋はガラガラと音を立てて崩れた。

 そのまま、隣の部屋に向かった。でも、部屋を蹴破った途端に炎が吹き出て襲い掛かって来た。部屋自体が炎みたいになっててさ。中の様子なんて見えやしない。部屋の中で燃えてない場所なんてないように見えた。でも、親父とお袋が寝ていたはずだから。飛び込もうとした。でも、もしも、部屋の中は炎しかなくて、歩く場所も燃えていて、どうしようもなかったら。
 俺は何とかなると思った。でも、瑠は。

 俺は多分、泣いてた。恐くて、恐くて。どうすればいいのか解らなくて。誰も助けてくれない。火は燃えるばかりで。親父の声も、お袋の声も、何度呼んでも聞こえなくて。

 「親父ィ!!母さん!!何処にいるんだよ…!!」

 その時、周りが崩れ始めて上がって来た階段に燃えた天井が落ちて来て、退路を無くしたんだよ。もう、逃げられる場所って言ったら背後にある窓ぐらいで。嵌め殺しの窓だったから割って飛び降りるしかなかった。部屋からは声も聞こえないし、炎が家を飲み込んでいく轟々とした音しか聞こえなかった。

 「お願いだよ!お願いだから、返事してくれよ!!」

 もう、煙に巻かれて意識も朦朧としてた。視界はぐにゃぐにゃするし、燃える音がまるで俺をあざ笑うようにも聞こえてた。早く脱出しなくちゃって思いと、親父とお袋を助けたいって思いがグルグル回っててどうすればいいか解らなかった。立ち尽くすって言うのかな。とにかくもう、泣いて、泣いて。一生分泣いたんじゃないかって思う。その時だった。


 「裕!行け!!」


 確かに、聞こえたんだ。間違いなく、親父の声だった。もしかしたら、幻聴だったかも知れない。でも、聞こえて。

 「親父!何処にいるんだよ…!!母さん…!!」
 「早くしろ!!」

 もう、訳わかんないまま無我夢中で飛び降りた。外に出た途端の冷たい空気を感じて、そのまま真っ直ぐに落ちた。瑠を抱きしめて、運よく茂みに落ちたんだ。夏だったから、青々と茂っていて燃えてなかったんだと思う。
 その後すぐ消防隊の人が駆け寄って来て瑠を連れて行った。俺も抱き上げられた。

 「待ってくれ!待ってくれよ!!親父と母さんが、まだいるんだ!行けって…!!」
 「もう、駄目だ!とにかくここは危ない!!」

 消防士は、そう言って俺を連れて行った。

 「親父…母さん…!!!」


† † †


 俺が目を覚ますと、そこは病院だった。途端に恭輔とエイジの嬉しそうな声が聞こえた。すぐに医者も駆け付けて来た。

 「大丈夫か!?裕!」
 「……瑠、は…?」
 「大丈夫だよ。一命は取りとめた。隣の病室で眠ってるよ。」

 思わず、笑顔が零れた。心の底からよかったって思った。生きててくれて、もう全てに感謝したいとさえ思った。つられて医者も微笑んでた。でも、すぐに俺は気になってた事を訊いた。

 「…親父と母さんは…?」

 途端に、医者は黙って痛ましそうな顔をした。解ってたんだ。本当は。でも、自然と涙が流れた。

 「死んだの…?」

 医者は何も言わなかった。でも、少しして静かに頷いた。
 涙が止まらなかった。嗚咽も噛み殺したけど、駄目だった。

 「うぁああぁああぁッ……!」

 助けられなかった。助けられなかった。親父とお袋を助けられなかったって、そう思うだけで何度も死にたくなった。何度も後悔した。
 あの時、何も考えずに飛び込めばよかった。そうすれば、助けられた。俺が殺した。そう、思った。
 何より、瑠に会わせる顔がなかったよ。その衝撃が、涙か、視界がぐしゃぐしゃで何も見えなかった。何て言えばいいか解らなかった。
 しばらく、何も考えられなかった。何も見えなかった。突然、真っ暗な場所に放り込まれた気持ちになった。でも、ゆっくりと起き上がった。瑠に会わなくちゃいけないと思ったんだ。そして、謝らなきゃいけないと思ったんだ。


† † †


 瑠の病室に行くと、もう、訳が解らなかったよ。足の裏何針も縫ってその痛みで歩くのも大変だったけど、瑠に会う為に行ったのに、ベッドに腰掛けてるのが誰か解らなかった。
 顔が変わってたとか火傷とかじゃなくて、表情がなかった。普段見るような無表情なんかよりもずっと無表情だった。魂が抜けたみたいになってた。あの場所に魂を置いてきちまったかと思ったよ。

 「…瑠?」
 「………。」

 瑠は、何も言わなかった。俺が見えてないみたいだった。でも、何度も揺さぶって名前を呼んだら虚ろな二つの目がゆっくりと俺を見た。
 途端に、瑠はヒッて怯えた。俺が死人に見えたのかなと思ったけど、違った。いきなり、泣き出したんだ。

 「兄ちゃん!兄ちゃん!!」

 泣きながらひたすら「兄ちゃん」って呼ぶから、どうしたのか解らなかった。でも、瑠の声が聞けて何だか安心した。

 「お父さんと、お母さんが死んじゃった…!お父さんとお母さんが…!!」
 「知ってる。」

 わんわんと瑠は泣いてた。

 「…俺が、悪いんだ…。助けられなかった、あんなにすぐ傍にいたのに、守ってあげられなかった…!!」

 何度も、何度も謝った。瑠はわんわん泣くし、俺は涙なんてもう枯れてたから嗚咽だけが溢れて、訳わかんないまま時間が過ぎた。
 結局、瑠はまたさっきみたいな無表情…って言うか魂抜けたみたいになっちゃうし、俺はどうすればいいかわかんなかった。



 その後、警察の人から火災の原因を聞いたんだけど、放火だって。言葉もなかったよ。犯人なんかあっという間も無く捕まったよ。隣町の高校生だって。メガネのガリ勉だった。受験のストレスって言うの?それで放火したらしい。辺りで起こってた放火も全部そいつだって。
 炎が全てを呑み込んでいくのを見るとすかっとしたんだって。何て言うか、病んでるよね。怒りも沸かなかったよ。何て言うか、悔しかった。そんな事で親父もお袋も死んだのかって思うと。呆れたのかな。そんな感じだった。
 犯人は未成年って事で刑も軽くて、名前も放送されないで、時間が流れた。


† † †


 俺は、今でも思い出すよ。とくに、夏になるとね。まぁ、まだ二年しか経ってないからね。それに、何度もあの火の中に立つ夢を見るんだ。あの時の親父が「行け!」って言ったのは、本当だったのかなって。消防士に話したら、有り得ないって言われた。何故って?その頃には死んでいたんだって。どっちも。天井が落ちて来て下敷きだったらしい。
 でも、よかったよ。炎に巻かれて苦しまないで済んだって思うと。少しだけ、楽になる。
 それから、決めたんだ。この日は、他のどんな日よりも楽しそうにしようって。親父にもお袋にも心配かけないように。笑うって決めたんだ。






 「…あれから、何度も思うんだ。親父とお袋の代わりに、俺が死ねば…」
 「裕!!」

 思わず、脩が遮って叫んだ。話し終えた裕は驚いたように目をまん丸に見開いている。

 「それ以上言ったら、殴るぞ。」

 真剣だった。余りに真剣で、裕は笑ってしまった。だが、瑠は相変わらず泣いていて、何時の間にか脩も禄高も泣いていた。コンクリートで舗装された地面に涙の跡があった。

 「…裕が生きてて、よかったって思うよ…。だから、そんな事死んでも言うんじゃねぇよ・・・。」

 泣きながら禄高は言った。裕の目は乾いていて、泣いてはいなかったけれど、話す前に比べると何処かすっきりしたようだった。
 肩の荷が下りたのだろうか。もしかすると、これこそが裕の抱える闇だったのかも知れない。

 「兄ちゃん、ありがとう…。」

 裕は小さく笑う。その優しい目は、いつもよりも遥かに穏やかな目に見えた。

 「お礼を言うのは、こっちの方だよ。…生きていてくれて、ありがとうな。…もしかしたら、瑠を助けてくれたのは親父とお袋かも知れねぇなぁ。」
 「…そうだね…。」

 禄高はふと顔を上げた。そして、笑う。

 「あのさ、信じるか信じないかは任せるけど、そこにお前等の両親がいるんだよ。裕の隣にお父さんと、瑠の隣にお母さん。笑ってるよ。幸せそうに。そんで、言いたい事があるみたいだよ。」

 裕と瑠は顔を見合わせて振り返るが、もちろん、そこには誰もいない。と言うより、二人には見えなかった。

 「裕に、ありがとうって。助けてくれてありがとうって。無理するなって。お前を、誇りに思うってさ。」

 裕は静かに両目を閉じて微笑んだ。裕には聞こえないし見えない。けれど、禄高にだけは見えるし聞こえる。裕の父親は、裕の肩に手を置いて満足そうに笑っていた。

 「それから、弟の瑠に、生きてくれって。一生懸命、生きてくれって。辛い事も、苦しい事も、乗り越えてくれって。お前が生きていてくれて、よかったって…。」

 瑠の大きな瞳から涙が零れた。禄高にだけ見える母は、瑠をそっと抱きしめて優しげに微笑んでいた。その微笑みは裕にそっくりだった。

 「それから、二人に、大好きだよって。もう、これ以上背負わなくていいから、楽になれってさ。もう、行っちゃったけど。」
 「…うん。…ありがとう。」

 俊は時折見せる裕のあの寂しげな表情を、もう二度と見る事はない気がした。


 初夏の出来事だ。