15.甲子園への切符 ぼんやりと、窓の外を眺めていた。薄明るい外からはまだ声は無い。枕もとの目覚し時計を見ると、まだ四時だった事に驚く。 甲子園予選、決勝。春と同じ場所に再び立ち上がった。対戦校は、東光学園。春の大会を思い出すようだった。観客も恐らく多いだろう。今日勝てば、約束の舞台、甲子園へ行ける。 負けたら、赤星達三年は引退。 恐い。恐くて仕方が無い。でも、もう振り返らない。振り返っても何も戻って来ないから。 「兄ちゃん。」 「…?」 「勝って来いよ。」 「当たり前だ。」 「途中で勝負捨てるようなヤツは、男じゃねぇ。」 裕は笑った。そして、返事をして起き上がった。 戦う前から負ける訳にはいかないから。 ガタン ゴトン。 電車で待ち合わせの場所まで向かう。近付く度に心臓に穴が空くような気がした。 「如月…か。」 「ああ。今日は多分、バッテリー同士の戦いになる。」 噂の、如月昇治・朝倉陽治との。 俊は小さく、ククッと笑った。楽しそうに。 「…裕。」 「何?」 「今日、どっちが勝つと思う。」 「俺たち。」 「その通りだ。」 電車が止まる。俊は開いた扉の前で少しだけ振り返り、笑った。そして、駅へと降りた。 駅には禄高や新、爾志がいた。乗り換えて球場に行き赤星達と合流する。 電車の中は酷く静かだった。通勤ラッシュとは運良く時間がずれたらしい。まだガラガラの車内で、五人の男子高校生が立っていた。 皆、緊張している事が手に取るように解った。今日緊張しないようなら、きっとそれはただの馬鹿だ。後ろに飛んで行く景色を見つめて、誰も話さない。それでも、不思議と居心地がよかった。 電車を下りて駅を出て、球場へと向かうまでの道も静かだった。それぞれ、何を考えているかは解らない。だが、一心だった。勝利へ。 「おーいッ!!」 赤星が球場前で大きく手を振る。待ち合わせ時間まではまだ十五分もある。でも、ほとんど皆揃っていた。裕達は遅いほうのようだった。 皆と合流し、ベンチ入りメンバーはその場所へと向かった。 「なぁ、蜂谷。」 「何すか?」 「今日、尾崎先輩も来てるってさ。」 尾崎、前主将。甲子園を目指して、自由に練習も出来ない屈辱を味わいながら臨んだ最後の年、結局三回戦で負けてしまった。とうとう甲子園を見ないまま。 「絶対、甲子園行こうな。」 「はい。」 負けられない。負けたくない。 心臓が、大きく動悸を打ち始めた。ベンチへ入った時には、観客が溢れていた。血が冷えて行く。 「蜂谷裕。」 「……如月?」 振り返ると、そこには如月が立っていた。対戦相手、要するに敵だ。不適な笑みで如月は口を開いた。 「…何でもねぇ。」 そのまま、行ってしまった。自軍のベンチへと。何も言わないままに。 それから両高校の練習を経て、ついに試合は開始する。 「両校互いに礼ッ」 「お願いしますッ!」 決勝戦ともなれば観客も他とは比べられないくらいに多く、会場はごった返している。阪野二高にとって、因縁である東光学園。それは春の大会、ギリギリの勝負に負け敗退した。代わりに東光学園が甲子園へとコマを進めた。また、それだけではない。去年の夏から目の前に立ち塞がる壁である。 三年生にとっては最後の大会。あの事件の為に大会自体出場出来そうになかった彼等にとっては、何としても負けられない、負けたくない大会。 先攻は阪野二高。トップバッターは。 『一番、ショート。蜂谷君。』 ワァと球場が揺れる。対するピッチャーは二年如月。去年から突如この地区に現れた怪物。一年の頃からレギュラーで、無名高校であった東光学園を一気に甲子園に導いた男。 「よぉ、蜂谷。」 逆光で見難くはあったが、如月は確かに笑っていた。裕も笑顔を浮かべる。 「…如月、今日は本気だ。」 「当たり前だろ。甲子園に行くのは、東光だ。」 「ぬかせ。行くのは俺達さ。…だが、互いにこれだけは誓おう。」 裕がバットを掲げホームラン宣言。如月は一層楽しそうに笑う。そして、声が揃う。 「ベストを尽くそう。」 これが、二人のプレイボール。 裕は構え、待つ。如月がゆっくりと投球動作に入ったので、キュッと口元を結んだ。 小さなバッター。改めて如月は思った。今まで見て来たバッターの中で、最も小さい。けれど、最も油断できない曲者。 “打率 六割”と。ほとんど誰も知らないであろうこのバッターの力。いつか斎が言ったように、獅子は兎を狩るにも全力を出すと言う。だが、如月はそんな馬鹿な獣ではない。 一球目、ど真ん中ストレート。予想外の球種とコース。裕のスイングは空を切り鋭い音を出した。 「ストライクッ!」 さっきまでの言葉を返すような嘗め切った投球。コースも速度も、何もかも甘過ぎる。如月は返球を受け取って笑って見せた。 裕はそんな中で、一つ目の仕事を見つけた。それは、如月の本気を出させる事。この程度で倒せる阪野二高じゃないと言う事を教え、証明しなければならない。 一方、如月にも考えがあった。それはまず、敵の力量を見極める事。このバッターは兎なのか、獅子なのか。 二球目。また、ど真ん中ストレート。阪野二高のベンチからは一際大きな声援が上がる。球をバットが追う。ヒットするかと言う刹那、如月は笑った。“掛かった。”と、言うように。 球はストンと落ちた。裕の直前で沈む、シンカー。ツーストライク、と裕を見て如月が笑う。だが、笑ったのは裕も同じ。 球はキャッチャーミットに納まらない。金属音が高く響いて、打球は一塁と二塁の間を抜けた。ヒット。歓声が上がる。 ライトがカバーに入り振り被る。だが、一塁にも二塁にもその姿は無く、今にも三塁に到達しようとしていた。仕方なく9・4・2と先取点を阻止するしか無かった。裕は三塁で足を止めた。ランナー三塁。 返球を受け取った如月は、今にも飛び出しそうなランナーの様子を伺う。裕はニヤリと笑い一定幅のリードを崩さない。 (来るか、盗塁?だけど…。) 様々な考えを巡らせながら、如月は意味深に笑う。苦笑に近い。 (打てばヒット…。いや、安打はほぼ確実。下手すりゃホームラン。同じ手は二度と通用しないだろ…。かと言って歩かせてどうする。来るのは当然盗塁。あの足に対抗できる肩は俺かキャッチャーの朝倉…。) キッと如月は正面に向き直る。覚悟を決めた顔。 二番打者は背番号三番禄高。那波との競り合いの末ファーストレギュラーを勝ち取りここに立つ。東光にとっては先取点のピンチ。最高のトップバッター蜂谷裕が三塁にいると言う事は、例え禄高がボテボテのゴロを出しても裕には本塁到達には十分過ぎる。 その時、朝倉からサインが送られた。それを見て如月は笑う。 (…そうだな。ちょっと予定よりは早いが。) 如月は振り被る。ランナーも気にしないように。そして、投げた。 その瞬間に裕は三塁を飛び出した。禄高はバントに切り替える。だが、球は鈍い音と共にキャッチャーの目の前に転がった。 禄高は飛び出す。しまった、と言う表情が浮かんでいた。朝倉はミットに球を収め、小さく笑う。顔を上げる直前に如月の声が聞こえるまでは。 「止めろォ!!」 ふっ、と影が通り過ぎた。何が何だか解らないまま、審判のコールが響いた。 「セーフッ!」 砂埃の中、ユラリと小さな影が浮かび上がる。 「残念。」 泥だらけになったユニホームを叩いて裕は笑った。 敵はもちろん、味方でさえも目をまん丸にして驚いた。今だ嘗て、いただろうか。こんな選手が。 「化物め…!」 朝倉は悔しそうに見上げがちに裕を睨むと如月に返球した。球場は速攻の先取点に盛り上がる。沢山の応援やら褒め言葉やらを背中に浴びながら裕はベンチへと戻って来た。 「如月の調子はどうだった?」 赤星が問う。 「最高っすね。」 「それは、残念だ。」 「ははっ。…どうやら、春までのあいつ等じゃないっすよ。必殺球でもあるんじゃないすかね。」 「必殺球?」 その時、濁った金属音が不気味に響いた。 バッターの俊はカランとバットを地面に落として両手を見つめている。そして、審判がアウトのコールをした。同時に禄高も一瞬の隙をつかれアウト。併殺。ツーアウトランナー無し。 ネクストバッターズサークルで試合展開を見ていた松本は唖然としつつバッターボックスに向かう。 「…俊、禄高。」 トボトボと戻って来る俊と禄高。二人は何か勘付いているようだった。 「どんな球だった?あいつ等の、必殺球は。」 「必殺球?」 赤星の問いに俊は首を傾げた。 「…必殺球、なんて大それたもんじゃないっすよ。あれはただの…。」 また、さっきのような音が響いた。フラフラと三塁側のファールグラウンドに上がる打球を皆が見つめる。そして、三塁手が捕球し松本がアウト。スリーアウト、チェンジである。 「あれはただの、直球っすよ。」 マウンドで、如月が笑った気がした。 裕は小さく笑う。 「ただの、直球だと…?」 「敢えて言うなら剛球。それも超が付くくらいの、な。」 ヘルメットを脱いで松本が戻って来た。 「ああ、そうだな。まだ、手が痺れてやがる…。」 俊は自分の掌を見つめる。それを聞きながら裕も自分の掌を見つめた。 超剛球。それは、小柄な裕にとっては最悪の天敵だからだ。だが、誰にも言わない。気付かせない。 「さて、守備っすよ。バッテリーはもちろん、赤星主将と松本副主将っすね。頼みますよ。」 「…ああ。任せとけ。」 今回、赤星松本バッテリーと市河爾志バッテリーは同じくしてレギュラー。互いにバッティングを評価されての事。もちろん、いつ交代になるとも解らないのでレフトに俊、ライトに爾志が構える。 一塁には禄高、二塁に新、三塁に那波、遊撃手に裕、中堅手に斎が立つ。 誰もが静かに構える。だが、皆の予想を裏切るように東光学園の一番二番三番は簡単に、呆気なく凡退に終わった。 だが、次に待つのは四番の如月。そして、五番の朝倉。 再び阪野二高が攻撃を迎えるも、如月の超剛球に赤星がフライでアウト。続く爾志はヒットを出しランナー一塁。七番の那波も続くが、八番の新のゴロで併殺となりチェンジ。 次第に試合は投手戦となって行く。赤星、如月共に直球を武器とする豪腕ピッチャー。打者は面白いようにクルクルと回り、ヒットを打つも呆気なくアウトに終わる。 気がつけば、試合は1−0と阪野二高の一点リードのまま後半の八回表を迎えていた。 「試合は今俺達が一点リードだ。でも、相手は東光学園。いつひっくり返るか解らない。」 緊張感が増す。リードと言っても、たったの一点。この一点が相手にはどれほどの重さなのだろうか。もしかすれば、それは塵ほどの重さかも知れない。 「採れるだけ、採れ。以上だ。」 バッターは一番に戻り背番号六番蜂谷裕。裕は軽く屈伸する。 「その通りっすね。絶対、勝ちましょう。」 何故だか、自信が次々に沸き上がる。絶対に、勝てる。何故か、そう確信した。 裕はゆっくりと、アナウンスと同時にベンチを出る。眩し過ぎる夏の日差しに目を細めた。 「…蜂谷、か。」 如月は構える。そして、薄く笑った。 東光学園のバッテリーはすでに裕の弱点を見抜いていた。それは、その体格ゆえの非力さ。今までの打席で裕はヒットを打ったがどれも長打には至らなかった。 理由は如月の渾身の力を込めた超剛球。精神面の問題ではない。物理的に不可能なのだ。 「来いよ。ホームラン、打ってやるよ。」 それが、ただの威勢である事も如月は知っている。 だからこそ、叩きのめす。 白球を掲げ、投球動作に入る。 俊や赤星と同じく、最速の投法オーバースロー。 天から与えられた長身と長い腕。 (見えねぇ…。) タイミングが、見えない。如月の投球が。太陽の光が如月に重なっている。今は、まるで天が東光学園に手を差し伸べているようにさえ思った。 目を細めて如月の重心が沈んだ瞬間に踵を踏む。が、合わない。球は一直線にキャッチャーミットに納まった。歓声が上がる。 あっという間に、三振。 続く禄高は低い金属音を響かせ、内野ゴロを捕球されアウト。俊もまた。 スリーアウトチェンジ。東光学園の攻撃。 その回、阪野二高は最大のミスを犯す。 キィインッ 『満塁ホームランッ!!八回裏にして、東光学園、目覚めたかのような猛攻!!』 急に、赤星が打たれ始めた。球威もコースも何もかもががた落ちになる。点差は1−6と、開く一方で一気に逆転。 赤星に散っていたナインが集まる。 「赤星主将!大丈夫ですか!?」 「…ああ。悪い…。」 息が荒い。ヒュゥヒュゥと喉が音を立てている。松本は、ゆっくりと口を開いた。 「……チェンジだ。」 「な、何を言ってやがる…。」 「限界なんだろ?」 ぐい、と赤星の右手を引く。そこには、僅かに痙攣をする赤く腫れた掌があった。 「なっ、どうしたんですか!」 禄高が驚き声を上げた。赤星は覚めた顔で何でも無いと言う。 「あの、球っすね。」 「!」 俊は、気付いたように続けた。 「何か、赤星主将の時だけ相手の球、重かった気がしました。…今まで、ここにばっかり打球来てましたしね。」 裕は、顔を上げた。 今まで攻撃が甘かったのは、赤星を潰す為。ピッチャーの命である手を。 ――ベストを尽くそう。 (……これが、お前等のベストなのか?) こんな、卑怯な遣り方。 この試合の如月は、裕の知る如月では無かった。 「…市河、爾志。」 「はい。」 「チェンジだ。」 赤星は、ゆっくりと下がって行った。 「…なぁ、俊。」 「何だ。」 「去年の夏の大会の如月は、こんな感じだったのか?」 「―――ああ。」 ――あんなの、野球じゃねぇよ。 去年の、俊の言葉を思い出していた。 裕は如月の本気を知らない。本当の顔を知らない。夏にだけ現れる魔物。如月昇治。 「…許さない。」 これが本気ならば。絶対に許さない。叩きのめしてやる。 負ける訳にはいかない。赤星の為にも、御杖の為にも、自分の為にも。この試合で負けたら、大切なものを全て無くしてしまう気がする。 『…赤星君負傷につき、ピッチャー交代。市河君。キャッチャーは爾志君。』 球場が、沸いた。 だが、俊は一点を見つめる。それはネクストバッターズサークルに待つ如月の姿。 こんな遣り方で、赤星の夏を奪おうとした彼等を、許せるものか。 「…野球は、潰すか潰されるかの世界じゃねぇんだよ。打つか、打ち取るかの世界なんだよ。」 俊は構える。目指すはキャッチャーミットただ一点。バットなど掠らせない。 第一球目を、放る。それは球場の歓声を掻き消すようにミットに吸い込まれて行った。 「ストライクッ!!」 審判のコールと共にバッターが薄く笑う。俊は返球を受け取って再び構える。そして、バッターの長年かけて培われていた自信を崩すようにミットに納まった。三振。 「上がって来い、如月昇治。」 昨年、俊はベンチで如月を見ていた。相手の力がどうのと言う問題ではない。ただ、悔しかった。こんな奴等に先輩達の夏が奪われたと言う現実が。 春の甲子園予選を経て、俊と如月は初めて対す。 「…市河俊、か。」 朝倉の話によると、豪腕投手と言う事。中学は無名。高校に来て突然開花す、と言われているが実際はその才能ゆえの人材不足の為。変化球は少ないものの、相手の裏をかく配球。 如月は笑う。俊は何の反応も示さない。如月の目に映っているのは目の前の俊じゃない。甲子園と言う舞台に立つ化物たち。 俊は構える。ランナーはいない。ゆっくりと、タイミングを計られないように。先ほどまで東光学園に味方していた日の光は下がって妨害にならない。 如月は、踵を踏む。 「ストライクッ!!」 「――え?」 球はミットに納まっている。 「見えなかった、か?」 「……。」 見えない球なんて有り得ない。如月は構える。だが、ミットに球は納まって行く。あっという間に、アウト。続く朝倉も同じように。 「スリーアウト、チェンジ!!」 1−6のまま、阪野二高は最後の攻撃を迎える。 『バッター四番、松本君。』 松本はバッターボックスへ向かう。その表情は暗かった。絶望ではない。 たった一人の相方の敵討ち。そんな心情だった。 (俺を卑怯だと、言うんだろう?) 如月は心の中で自嘲気味に笑う。だが、そこに後悔など一握りも無い。 そして、松本を見る。投球。松本はバットを振らず、ストライク。続く二球目はシュート。追い込まれた三球目、松本は静かに前を見据える。 (なぁ、如月…。) 聞こえる筈の無い言葉を裕は心の中で呟いた。 (俺は、お前が許せない。けど、卑怯だなんて言わない。ただ。) バットが、球を捕らえた。打球はサード方面のライナー。松本は走る。返球は追い付かず、セーフ。ノーアウトランナー一塁。 (こんな遣り方で掴んだ勝利なんて、薄っぺらなんだよ。) 五番は赤星。右手を庇いながらの打撃。無理を言って出たのだろう。掌に包帯を巻いている。 構えは、バント。内野陣が前に出る。如月は一つ頷いて投球。外角のシュート。赤星はバントから切り替える。当たりはよくなかった。フラフラとした頼りないフライだったが、ショートを越える。 松本は三塁に立ち、赤星は一塁。ノーアウトである。 (こんな野球、誰が楽しいんだ?) 六番、爾志。 如月の剛球に対抗できるならば爾志ほどの体格が望ましい。爾志はゆっくりとバッターボックスに立つ。今まで目立った活躍は無いものの、皆が信頼を寄せる。 ノーアウトランナー一塁三塁のピンチを迎えた東光学園。如月の制球力は、確実に落ちていた。そんな中での投球。今までよりも遥かに甘い。それを、爾志は見逃さなかった。 確かな手応えを感じ、爾志はバットを振り切った。打球は…。 打球は放物線を描きながら観客席へと落ちて行った。 『ホームラン!4−6です!!』 爾志のホームランに如月は唖然としていた。ナインが集まっていく。 まだ、二点差。この回であと二点は取らなければ、敗北。 (…楽しくない野球やって、どうするんだよ。) 裕は、悲しそうに如月を見つめた。彼と昔した会話を思い出す。彼もまた、誰かとの約束を胸に秘めているのだから、負けられる訳が無い。 七番の那波が続くようにヒット。ランナーは一塁。しかし、八番の新がフライで打ち取られワンアウトランナー一塁。そして、九番の斎がぼてぼてのゴロでアウト。その間、那波は盗塁に成功し二塁。 「…運命ってもんがあるなら、きっとこういう事を言うんだろうな。」 赤星は掌を握り締めながら言った。 『バッター一番、ショート蜂谷君。』 後が無い。しかし、これはチャンスでもある。この試合を決めるであろう打席に裕は立っていた。 如月はランナーに注意しながら裕を見た。 (俺には、夢がある。約束でもある。それを叶える為なら、何を犠牲にしたって構わない。) 如月は、構えた。同時に裕は踵を踏む。来る球はもう、解っていたから。 来たのは予想通りの剛速球。あくまでも力でねじ伏せる。それがもっとも確実だったからだ。裕の頭に、爾志との会話が過った。 「力負け?」 「ああ。俺じゃ、あの球は飛ばせない。バントが一番確実だけど、それじゃあランナーを返せない。」 裕がバントを打つ事はもう読まれているから。そして、遠くへ飛ばす事が出来ない事も。 「…お前一人の力じゃ負けるかも知れない。だったら、他の力を借りろ。」 「は?どういう意味だよ。」 「俺達は常に、受けている力があるだろ?」 裕はバットを握る。 そして、バットを右肩と左肩を結ぶ線よりも上から、振り下ろす。 (…こんな打ち方を知ってるか?) ダウンスイングと言う打ち方を。 エンドランなどの時に、絶対にゴロを打たなければならない時に最適と言われるスイングを。 “重力”が、味方する。 バットに当たった打球は三塁線へと転がって行く。前に出ていた三塁手が捕球。その時、イレギュラーが起こった。打球は三塁手を超える。運良く、通常では打ち難い三塁手とレフトの丁度真ん中に落ちた。 那波はその間に生還する。5−6。 捕球したレフトはランナーを刺す為に構える。だが、砂埃が舞うばかり。ランナーの姿が見えない。 裕は、三塁を蹴った。 「ホームだ!!」 朝倉の声が飛んだ。同時に本塁への矢のような送球。周りの「戻れ」と言う声が、やけに遠い。 (せっかく、やっと神様が味方してくれたんだ。進むしか、ねぇよ。) 裕は、頭から突っ込んだ。 砂埃が、舞う。ザワザワと空気が、揺れる。視界が、澄んでいく。 『…セーフッ!!』 歓声が凄かった。ここに来て、阪野二高は一気に離された点を取り返した。6−6。勝負は、次の打席である禄高たち。だが、まだ終わっていない。東光学園の攻撃が。 「…禄高、頼んだ。」 息を荒くしながら生還した裕はすれ違い様に言った。禄高は、小さく返事をしてバッターボックスへ向かう。阪野二高はまだ勝ってなんかいない。追いついたに過ぎないのだから。 如月がどんな覚悟でここに立ち、どんな思いで野球をしているのか知る術は無い。知ったとしても、どうする事も出来ない。だからこそ、立ち止まらない。 『二番バッター、サード禄高君。』 この打席の重さを禄高は知っている。たった一枚しかない甲子園への切符を賭けて何十校もの野球部が戦って来たその頂点。まっすぐに保たれた秤の丁度真ん中に禄高は立っているのだ。出切る事ならば、ここで禄高が点を取って九回裏を0に押さえ赤星を早く病院へ連れて行きたい。 如月は汗を拭った。冷や汗かどうか、それも解らないほどに暑さは頭を混乱させていた。陽炎に歪むバッターボックス。 そんな中で、投球。それでも、球威も制球力も衰えない。禄高は空振りした。 (………必ず、約束は護るからな。………祐。) 如月は小さく誓って構える。ランナーはいない。如月のその凄まじい気迫に吸い込まれそうになりながら、禄高はバットを握り締めた。…負けられないのは、どちらも同じなのだから。 三年生の、今までの野球生活全てが禄高の背中に圧し掛かっている。その重さに、倒れそうになりながら禄高は前を見つめる。 プレッシャーは、どれくらい重かったんだ、裕。あの、ツーアウトの後が無い状況は。 それに比べれば、軽い。 内角に落ちるシュートを、引っ張った。広角打法と呼ばれるが、禄高がそれを意識した訳ではない。思いがけない方向へ打球は伸びて行く。レフトは打球を追う。 あと2m…。レフトが構えた時。 ポーン、と。軽い音を立てて打球は柵を超えた。レフトは振り返って確認する。ファールゾーンよりも、僅かに内側。 始めは、誰も動けなかった。だが。 「禄高ァ!!!」 赤星の、声が聞こえた。そこで、禄高はようやく理解する。自分がホームランを打った事を。 阪野二高のベンチ、応援席が一気に沸き上がった。7−6。逆転。 「あと、裏だけだ。護って終わらせよう。」 「はいっ!」 声が重なる。禄高のまさかのホームラン。続く松本はヒットで二塁へ。しかし、赤星は掌の怪我が禍して三振し、チェンジ。 東光学園最後の攻撃を迎える。 「絶対に、繋げろ。絶対に打ってやるから。」 如月は呼びかけた。はい、と元気な声が帰ってくる。その様子を、朝倉が静かに見つめていた。 (…昇治、焦ってどうする。周りの観客は見えているか?風が吹くのが感じられるか?そんな余裕の無い中でやっても、食われちまうだけだ。) 如月は掌を握り締めて試合を見つめる。如月は打ったばかりだ。順が回るには時間が掛かる。次に打者はキャッチャーの朝倉。 そんな余裕の無くなった如月を見て、裕は呟く。心の中で聞こえる筈の無い声で。 (…如月。どうして、自分がそんなに焦っているのか自分で解るか?) 朝倉は俊の三球目の球をヒットし二塁へ滑り込む。またも逆転かと盛り上がるが、それまでだった。次の六番打者が三振したのを始めに、七番が続いて三振する。 次の八番は、お世辞にも打撃が上手いとは言えない選手である。 (…お前は、誰一人信用してねぇんだよ。) 如月の野球を見て、ずっと思っていた。裕は悲しそうにベンチの如月を見つめる。 人を信用しないヤツが、人から信頼される訳がない。野球は、一人ぼっちじゃ出来ないのに。 八番が、バットにギリギリで当てる。朝倉はそれに賭けて二塁を飛び出す。だが。 打球はしっかりと、すい込まれるようにショートである裕の高く掲げられたグローブに納まっていた。 「アウトッ!ゲームセットッ!!!」 スコアには、7−6。荒れた試合だった。逆転され、逆転し。勝利を掴んだのは、県立阪野第二高校だった。 「…勝った…。」 赤星が、呟く。それを確認するように、松本を見る。松本も呆然としている。 「赤星主将!松本副主将!」 皆が駆けて来る。 「勝ったんですよ!俺たち!!甲子園、行けたんですよ!!!」 禄高が、叫んだ。涙が一筋の跡を作っている。それにつられるように、涙が零れた。 「甲子園だァ!!」 挨拶もまだなのに、泣き叫んで喜ぶ阪野二高。同時に、涙を飲んだ東光学園。 その様子を観客席から尾崎前主将と古川前副主将が拍手をしながら見つめていた。零れそうな涙を堪えて。 「…如月。」 屍のように、ガクリとベンチに座る如月に裕は声を掛けた。数秒間の沈黙が流れ、如月は顔を上げた。 「……甲子園、おめでとう。」 「ああ。…お前、最後何も見えていなかっただろう。」 如月は否定も肯定もしない。 「…俺たちは甲子園へ行く。俺は俺自身の為に。」 「約束の為、じゃなくてか?」 「いや。…約束も、結局は俺自身の為でしかなかったんだよ。本当は。」 如月は、小さく笑う。 「…俺の屍を越えて行け、じゃねぇけどよ。…頑張れよ。」 その頃、御杖の病室。 喧しくテレビが騒ぎ立てていた。御杖の病室には裕に懐いていた小さな子供達が圧し掛け野球の生中継に見入っていた。そして、裕のチームが勝利した事を知ると騒ぎ始めた。 そこにすかさず看護婦が注意に来る。 「…まったく、あの子達は蜂谷君そっくりね。」 怒った口調の婦長も、何処か誇らしげに見えた。 御杖は、笑う。 「…あの、院長先生を呼んで来てもらえませんか?」 「どうしたの?」 「俺、手術受けます。」 その日、阪野二高には“甲子園出場おめでとう”と言う垂れ幕が掛かっていた。甲子園出場決定。それは、最も過酷な夏の始まりでもあった。 そして、ベンチ奥のスポーツバッグの中で携帯電話がランプを点灯させている。着信。相手は――。 『浅賀恭輔』 『笹森エイジ』 そして、 『御杖拓海』 まだ、彼等はスタート地点に立ったに過ぎないのだから。 |