16.其処に立つと言う事




 「…もしも…。」
 『裕かッ!?』

声を荒げて、こちらが言い終わるよりも早く声が届いた。
その声の主、笹森エイジは嬉しそうに阪野二高の甲子園出場を繰り返し確かめた。

 「――ああ。甲子園、着いたよ。」
 『やっと、来よったなぁ。もう一年半待たされてんねんで!』
 「悪い悪い。……。」
 『…どないした?何か、妙に緊張しとるやん。甲子園が恐いか?』
 「いや…。それはむしろ嬉しい。…今、さ。俺の仲間が手術してんだよ。一生を懸けた手術を。」
 『どう言う事や。』

遡る事数時間前。
御杖からの電話が入った。その内容は至って単純明快。裕との約束通り、手術を受けると言うものだった。
甲子園出場、地区予選優勝の祝勝祝いで皆で打ち上げをする予定だったが、裕は一人御杖の病院へ向かった。
そして、今。彼は手術の真最中である。

 『…そりゃ、すまんかった。また掛け直す。』
 「あ、いや、いい。…って言うか、一人でただ待ってたら気が狂いそうだ。」

裕の声は微かに震えていた。
当たり前の事とは言え、裕に出来る事は何も無い。在るとすれば祈るだけ。

 『…手術、か。難しい手術なんか?』
 「ああ。成功率、十パーセント以下だそうだよ。」
 『そうか。…でも、零じゃない。』

思わず、口元が綻んだ。
裕は、笹森のこの前向きな姿勢が好きだった。強くて優しい。

 「…俺達、阪野二高が甲子園に行ったなら、手術を受けるって約束だったんだ。」
 『なるほどなァ。予選、見て……。』

笹森は暫し黙りこくった。そして、電話の向こうで笑っているような気がした。

 『なら、平気や。』
 「え?」
 『お前は、信じて待っていてやればええ。絶対に、大丈夫やから。』


―――お前は黙って待っとったらええ。絶対、大丈夫やから。


一瞬、中学時代の思い出が脳裏を掠めた。
試合中、マウンドに集まったナイン。絶望の色が浮かぶ中で笹森が笑っていた。

 「…なぁ、エイジ。」
 『何や。』
 「ありがとう…。」
 『?』

其処に居てくれて。
どうしてか、涙が零れそうになった。電話の奥で笹森が苦笑する。

 『…ま、お前も頑張れや。甲子園、出場がゴールちゃうで。初出場やから、今年は一回戦突破出来れば大したもんや。』
 「行くさ。お前等のところまで。」



電話は切れ、笹森はツーツーと鳴る携帯電話を見つめて一人呟いた。

 「残念やけど、お前等にはまだココまでは来れん。」

甲子園は、初出場に優しくなんて無い。皆が優勝目指して死に物狂いで戦っている。地区予選とは別世界なのだから。



チッチッチッチッ。
時計だけが忙しなく時を刻んでいる。裕は手術室の前を右往左往したり、椅子に座って手を組んで指をクルクル回したりしていた。

 (拓海…。)

頑張れ。それしか浮かばなかった。
どうか、神様。拓海のお母さん。拓海を、護って下さい。
情けないが、神頼みしか出来ない。居もしない神様に縋るくらい、必死だった。








暗い…。
真っ暗な闇。自分の姿さえ見えない。手探りで何かを探すが、何も無い。

 「おーい。」

声が木霊する。返事は無い。何度か呼び掛けてみるが暗闇は変わらない。
恐怖だけが膨張して、嫌な汗が流れる。

 「誰かいませんかー?」

…ここは、何処なんだよ。
歩いても歩いても変わらない世界に疲れ立ち止まる。声が、聞こえた。

――いいよなー。先輩に気に入られてるやつは。
――そうだよなー。チビでもいいんだからなー。
――そうそう。実力なんて無くてもいいんだからな。

聞き覚えの在る声に顔を上げる。何処からか聞こえる声。

 「岡沢…?」

確かに、岡沢の声だった。

――何でも出来るって思ってる、あの偽善者にダメージが与えられるんならな。

――無力感と罪悪感を与えられると思ったのに。

――お前は無力なんだよ。お前に護れるもんなんて何もねぇよ。

――お前なんかに救えるものがあるもんか。家族さえ護れないようなヤツに。

――お前なんて、いなけりゃよかったのに。


 「やめろ!やめろよ…。」

思わず、耳を塞ぎ蹲る。声は聞こえなくなった。ゆっくりと目を開けると、足があった。顔を上げると、御杖がいた。車椅子で。

 「…拓海!」

その表情は暗い。

 「…拓」
 「どうしてくれるんだよ。」
 「え?」
 「お前のせいで、お前のせいで俺はもう二度と歩けない!!立つ事も!!お前のせいだ!お前さえいなければ!」
 「拓海…。」








 「…君!…谷君!」


 「蜂谷君!」
 「え?」

朝陽が、差し込んでいた。
白いブラインドの隙間から緑の木々の葉が見える。眠っていたらしい。

 「…拓海は!?手術は…!」

思わず看護婦に必死に問い掛ける。彼女が答えるよりも早く、近くで車椅子の音が聞こえた。
嫌な予感がして、振り返る。其処には、御杖がいた。

 「…まさか…!」
 「裕。」

御杖は、顔を上げた。

 「…ありがとう。」

其処には、今まで見た事も無いほどに明るい笑顔を浮かべた御杖がいた。

 「手術は、成功した。…奇跡としか思えないって。」
 「成、功……。」

足の力が抜け、ガクンと床に座り込む。途端に疲労感が全身を襲った。
それ以上に、嬉しくて、嬉しくて。家族を奪った神様にさえ感謝したくなった。居ない事など、承知の上で。

 「ただ、さ。リハビリが必要なんだって。一年ぐらいリハビリすれば、もう十分だろうってさ。」
 「でも、それじゃあ…。」
 「解ってる。それは俺の努力次第だ。絶対に、間に合わせる。…野球は、今しか出来ないもんな。」
 「ああ。…席を空けて、待ってるからな。」


子供達の明るい笑い声を遠くに聞きながら、裕は立ち上がり歩き出した。そして、振り返らずに。
拓海から、その姿が見えないように廊下の角を曲がったところで裕はガッツポーズをした。そして、大急ぎで番号を押す。呼び出しが数秒続いて、繋がった。

 『はい…。』
 「俊ッ!」

裕は叫んだ。きっと、電話の向こうで俊は携帯を耳から一瞬遠ざけただろう。

 「拓海…、手術成功したよ…!」
 『本当か!?』

御杖の手術の事、これからのリハビリ生活、残された時間。その説明を一頻り聞いた後、俊は口調を変えて話し始めた。

 『…裕、お前はすごいよ。お前は俺が思ってる以上にすげぇヤツだった。たった一つの試合で、沢山の人間の運命を変えちまいやがった。』

甲子園へと進む裕達阪野第二高校。決勝敗退し新たなスタートを切った如月率いる東光学園。甲子園のトップで待ち続ける浅賀恭輔に笹森エイジ。そして、御杖拓海。

 『こんなの言うのは俺のガラじゃねぇけどよ。お前がいたから、ここまで来れた。感謝してるよ。』
 「…いや。俺は、お前等がいたから、夢を諦めずにいられた。」

沢山のものを背負いながら。時には潰され、時には押され、時には支えられてここまで走り続けてきた。

 『…これからは、お前はお前の為だけに野球をやれ。誰かの為でも無く、自由にさ。』
 「俺の為だけに…?」
 『これから行く甲子園も、誰かの為に勝とうとするな。お前自身の為に戦え。』

“戦え”
その表現が余りにも俊らしくて笑ってしまう。
俊の言葉は、簡単に聞こえて実は重い。これからは何も背負わずに、たった一人で駆け抜けなければならないのだから。

 「ああ、そうだな…。」

空を見上げると、真っ青な空に雲が千切れたように浮かんでいた。空を横切って行く白い鳥に届くはずの無い手を伸ばして、握る。
そうして、俊との電話が切れた。
まるでタイミングを見計らったように、切った途端に電話が鳴る。画面には浅賀恭輔、と。

 『俺や。』
 「ああ。」
 『甲子園、来たんやってなぁ。遅いで。』
 「でも、来たよ。」
 『…何や。ここがゴールか?』
 「違うよ。…俺のゴールは、まだまだ先だよ。」

ゴールが何処かなんて知らない。もしかしたら、甲子園優勝かも知れない。もしかしたら、死ぬ時かも知れない。でも、ここではない事は解る。

 『そうやな。待ってるで。…甲子園は、地区予選なんかとは大違いやで。皆、ホンマ命懸けて野球してんねん。適当なヤツなんておらん。』
 「だろうね。」
 『いきなしビビって、怖気づくとか止めてな。』
 「当たり前だよ。」
 『ほな、決勝で会おう。』

電話を切った後、浅賀はもう繋がっていない電話を片手に呟いた。

 「……来年、な。」


笹森と浅賀の言葉の意味を阪野二高が実感する事になるのはもう少し後の事。それよりも前に、夏恒例の合宿が迫って来ていた。