17.新生




 「…っは。」

膝に手を付いたままで、裕は顔を上げた。審判のゲームセットの声が響いた直後だった。
阪野ニ校の誰もが呼吸を乱している。

 「…ここまでか。」

散っていた選手が集まり、互いに礼をする。
0−7のコールドゲーム。敗者は、阪野ニ校。甲子園初出場のルーキーは、二回戦にしてその渦に呑まれた。

 「…コールド、ゲーム…。」

ポツリと、新が呟いた。
裕は観客席に目をやった。帰って行く人と来る人が入れ違う。その中に、さっきまで観戦していた男達がまだ座っていた。
笹森エイジと明石商業の要。調査に来たのだろう。笹森は開いていた大学ノートを閉じゆっくりと立ち上がった。

 「…負けた…のか…。」

理解が追い付かない。試合の経過が早くて。理解した時には、頬を涙が伝っていた。

 「負けた…。」

ポロポロと涙が零れた。
悔しい。コールド負け。

両手を握り締めて泣く裕の傍で、俊は呆然と立ち尽くしていた。

 (これが、甲子園。)

野球をする為に頑張ってきた男達の舞台。全国から勝ち残ったチーム。
まるで、歯が立たなかった。相手は甲子園では中堅高校。弱くも無いが、強くも無い。そんな学校だったのに。

 「終わったんだな。」

驚くほどスッキリした顔で赤星は言った。吹っ切れたような爽やかな笑顔で。

 「赤星主将…!」
 「馬鹿野郎、泣くんじゃねぇよ。」
 「だって…悔しいじゃないすか…!」
 「…悔しい。そう思うなら、お前はまだ強くなれる。」

赤星は優しく笑う。今まで張り詰めていた糸が切れてしまったように。
今まで何千と白球を投げて来た大きな手を裕の頭に乗せる。

 「これからは、お前等の時代だ。…先輩として、もう、弱いトコなんて見せんなよ。俺みたいに。」

悪戯っぽく笑う赤星。裕はユニホームの袖で涙を拭った。
やっとの思いで辿り付いた甲子園。あっという間だった。

 「後でミーティングだな。集合しろよ?」

赤星は、最後の最後まで涙を見せなかった。
悔しくなかった訳が無いのに。涙を、見せなかった。

裕は、ゆっくりと歩き出した。


――お前はまだ強くなれる。


赤星が、そう言うから。
強くなりたい。誰よりも。天才になんてなれないけど、強く、強く。

 「…俊。」

帰る仕度をしていた俊は裕を見る。
そして、ギョッとした。

 「……来年の夏、優勝する。」

大きな丸い目。鋭い眼光と澄んだ瞳。落ち着いた物腰と声。夜の海のように静かな心。
冷や汗が流れた。

 (…この野郎、化けやがったな…!)

本性を現した、と言うべきか。
迷いの無い真っ直ぐな目。きっと、コイツはもう、手加減なんてしない。油断も。

その火の着いた目。
恐ろしい。それ以前に、頼もしいと感じてしまった。この小さな選手に。

 「当たり前だ。」

俊はスポーツバッグを持って立つ。そして、歩き出した裕の後を静かに追った。





その日。赤星達三年は最後の試合を終えた。もう二度と、グラウンドに立つ事は無いかもしれない。
簡単なミーティングを終えて、明日の引き継ぎ式の為早々と各自帰宅になった。





トボトボと帰路を辿る阪野二高ニ年、お馴染みのメンバー。
この兵庫県甲子園球場ともお別れ。

 「…終わった、か。」

自分に確認するように禄高は呟く。

 「俺達も、もう最後の年なんだなぁ….。」

この甲子園に来る機会はもう、後二回しかない。
時の経過が異様なほど早く感じた。

 「なぁ、裕。明石商業見に来てたよな。」
 「ああ、来てたね。」
 「でも朝間高校は来てねぇのな。」
 「…浅賀恭輔は、相手の研究なんてしねぇのさ。戦う相手を直前に知るくらいだからな。」
 「マジかよ!さすが全国一位だな!」
 「…でも、まったく相手知らない上に相手は浅賀の球研究してんだろ?何で…。」

新が首を傾げる。

 「あいつの球は、特殊だからな。」
 「特殊?」

爾志が尋ねる。

 「あいつの球は、解っていても打てない球だ。」
 「…何だよ、それ。」

意味深に裕は笑う。それを見て俊は眉を顰め、すぐに小さく笑った。

 「でも、お前は打てるんだろ?」
 「…当然!」

ニヤリと笑う。
そして、駅に到着し方向別に別れた。









次の日。

 「今日で、赤星達三年は引退する。そこで今日早速引き継ぎ式をして、紅白戦でもやろうと思うんだが。まず赤星の言葉から…。」

監督の吉森の言葉を受けて赤星が前に進み出た。
心臓が、痛い。そんな気がして思わず裕は自分のシャツを握り締めた。

 「…なんか、言う事…。」

その場で考えている赤星を見て松本が茶化す。

 「…えー…と。今日で俺らは引退だ。これからは二年中心で頑張って…。」

ピタリと赤星は動きを止めた。思わず他の部員も止まる。

 「…やっぱ、俺の思った事言うわ。昨日の試合やって、最後の試合なのにコールドゲームで、俺普段ならすっげー悔しくて泣いたかも。でも、昨日は泣かなかった。あ、終わったんだ。ってすげぇすっきりしてた。その時点で、俺の野球は終わったんだ。いや、もしかしたら俺の野球は甲子園出場で終わったのかも。そんくらい俺はいい加減でどうしようもねぇヤツだったんだ。だから、お前等はそうなるな。負けたら悔しい、勝ったら嬉しい。その当たり前の気持ちを大事にしろ。」

赤星は、涙を見せなかった。誇らしげに笑って。
去年の涙ながらの引継ぎ式とはまるで違う。ケロッと笑って何でもない事みたいにしている。

 (嘘だ。)

その笑顔を見て、裕は思った。
悔しくなかった訳が無い。今までどれだけ費やしたか解らない野球が終わったんだ。こんなに呆気なく。それでいて、悔しくない訳がないじゃないか。

 (泣かない理由は、俺達の為なんですね。)

ああ、この人は。悔しかったら泣くと言う簡単な事さえ躊躇してしまうほど優しい人なんだ。誰にも心配かけないように最後の最後まで。

裕は、零れそうになる涙を少し上を向いて溜めていた。その時。

 「俺からもいいか?」

副主将の松本が一歩出る。そして、皆に顔が見えるように振り返った。

 「…今までありがとう。迷惑懸けてごめんな。お前等は最高だ。もちろん、お前等は長所ばかりじゃなくて短所だってあるけど、それを含めた上で最高のメンバーだったよ。こんな話は今するもんじゃねぇかも知れないけど、俺らが一年の頃は年功序列の酷い有様だった。でも、俺らが引退する事でもう過去の遺物になろうとしてる。それはもちろんいい事なんだ。俺らが望んだ事だからな。ただ、忘れないで欲しいんだ。今の幸せを。野球が出来る事、仲間がいる事。それを当たり前に思うな。でなきゃ、いずれしっぺ返しを食らうぜ。…来年も甲子園に行けよ。応援してっから。」

誰も、言葉を発しなかった。涙も流れない。
その空気を作っているのは、紛れも無く赤星達三年。

 (最後くらい、笑って終わりたいんだ。)

そう思って、赤星は笑った。




 「…で、新しい主将なんだけど。皆で相談した結果、ほとんど纏まってたよ。新しい主将は…。」

発表する赤星は何処か誇らしげだった。
空気が揺れた。皆はそれぞれ自分の予想、あるいは理想である者に目を向ける。それは俊であったり、爾志であったり様々だが、那波と斎は同じ人物に目を向けた。

斎は、那波と同じ方向を見ていた事に気付き昨日の会話を思い出していた。

 『…次の主将、誰がなるかな。』

ふ、と呟く斎。

 『市河先輩かな。今みたいにバッテリーだったら爾志先輩もかも。あ、でも禄高先輩もあるよなぁ。』
 『…なぁ、お前も本当は解ってるんだろ?』

相応しい人は誰か。
那波は悪戯っぽく笑った。

 『あの二人の後を継ぐ人だ。強くて、優しくて、頭が良くて、頼りになる。だけど、それ以上に野球が大好きな人だ。』

那波は空を見上げた。

 『…俺は、蜂谷先輩がいいと思う。ギャンブラーとまで呼ばれた赤星先輩が無難な選択をするかよ。』




皆が、その発表を待つ妙な緊張感の流れる中で赤星は口を開いた。

 「蜂谷。」

一斉に、視線が集まる。
思わず訊き返す裕を見て松本が小さく笑う。

 「副主将は、禄高。」

これでもか、と言うほど目を開いて禄高は驚いていた。
誰もが、主将は爾志で副主将は市河だと思っていた分意外だった。

 「俺達は、これ以外の選択は無いと思う。な?」

裕と禄高は顔を見合わせて、頷いた。それ以外の反応は出来なかった。まだ驚いたままの二人の強張った表情を見つつ、赤星は叫んだ。

 「紅白戦始めるぞー!」







青い空、白い雲。
いつもと同じ空の下で、誰かが涙を流す。別れがある。

時代は変わる。
新しい時代が来る。誰もが予測した未来を裏切りながら。