18.束の間の休息 浅賀は目の前のトーナメント表を食い入るように見ていた。その表の端、誰も興味をそそられないような場所にあった試合。 「…阪野二高は二回戦負けか…。」 予想通り、甲子園の壁は厚かった。いや、初出場ならば一回戦を突破出来ただけでも立派だ。 そう思い浅賀は几帳面に紙をたたみ傍に置いた。 「…行くぞ、恭輔。」 「うーっす。今日の相手は何処すか?」 「いい加減、もう準決なんだから相手ぐらい確認しとけよ。」 そう呆れて笑う先輩は何処か誇らしげだ。 浅賀はゆっくりと立ち上がり、準決勝の行われるグラウンドへと向かった。 「…ま、こんなもんか。」 裕は今まで熟読していた新聞をほっぽりだして机に突っ伏した。 夏休み。運動部、特に野球部にとっては重要な意味を持つもっとも過酷な期間。だが、それが過ぎ去った彼等には束の間の休息が与えられていた。 しかし、夏休み恒例の大量の宿題が彼等を待っている。まるで手付かずだった数学の問題集、理科のレポート、読書感想文など、面倒くさいものが山積みの裕は少しだけシャーペンを走らせてすぐに止めてしまった。 今はもうすっかりやる気を無くし、中年のように新聞を読み漁っていたところ。 「…また、サボってんの?」 脩が呆れたように言った。 入り口のドアからゲッソリとした表情を浮かべている。真面目な脩はコツコツと宿題を進めていたのでもう終わってしまっている。また、俊もマメなものでほとんど終わりに近付き現在ラストスパート。性格は真逆だがこういった面を見ると改めて双子なんだと思った。 「なんかやる気出ねーもん。」 「さっきからそればっかだなぁ。もっと頑張れよ。」 散らかった机の片づけを手伝いながら脩は足元に落ちていた新聞に目を向けた。 「お、甲子園終わったんだ。優勝は……兵庫か。」 兵庫県立朝間高校。野球の強豪校ではあったが、優勝にはまだ足りなかった。一年前そこに現れたのが浅賀恭輔と言う怪物。天才と呼ばれ恐れられる最高の投手。 そして、裕の中学時代のチームメイト。そして、甲子園での決着を誓ったライバルの一人でもある。 「4−0って、結構余裕勝ちじゃないか。相手は大阪の明石商業だろ?」 「ああ。…毎年毎年、信じらんねーほどの速さで成長してやがる。プロが欲しがる訳さ。」 「即戦力とか言われてるからね。」 春の甲子園では、2−0だった。点差が開いている。 何よりも特筆すべきは、相手の得点が0と言うところ。決勝戦だと言うのに、完全試合に近い試合を展開して見せたのだから。 「壁、高ぇなぁ。」 「それも今年限りさ。来年はうちが優勝する。」 思わず脩はドキリとした。 (…すっげー自信。信じて、疑わねーのな…。) こんな怪物相手に本気で勝てると思っている。 (俺から見りゃ、コイツも立派な怪物だよ。) 相手がどんなに弱小だと解っていても、自信満々だったなら足をすくわれたりするもの。そう言う意味では、もっとも油断のならない相手になる。 「…まぁ、そう言って結果を出さなきゃ意味なんてねぇぞ。」 「結果ならすぐに出るよ。任せろ!」 そう言って、裕は親指を立てて満面の笑みを浮かべた。 ミーンミンミンミン… ジージジジジ… 蝉の声がやけに五月蝿かった。 「…はい、お疲れ様。」 「え?ああ、サンキュ。」 手渡されたスポーツドリンクを一気に喉の奥へ流し込む。ゴクゴクと喉が鳴った。 マネージャーも三年生が引退して外岡達がリーダーとなって進めている。 「どう、主将初日は。」 「ああ…意外と疲れた。」 主将なんて楽なもんだと笑っていたいつかの自分を今なら全力でぶっ飛ばせる。 メニューを監督に聞き、皆に伝え、纏め…。それに、主将ならばそれなりの実力がなければならない。かと言って自分だけ特別に沢山練習する訳にはいかない。 「赤星先輩とか、尾崎先輩とか、よくやってたよな。」 「そうだね。尾崎先輩は、根っからの天才だから実力で誰も文句なんて言えなかったんだよね。もちろん、文句なんて無かったけど。赤星先輩は実力よりも人柄だよね。憎めないって言うか…。」 顎に指を当てて語る外岡を少し驚いたように裕は見ていた。それに気付いた外岡は首を傾げる。 「…お前って、すげーな。」 「何で?」 「よく見てるって言うかさ…。」 ふ、と外岡は笑う。 「当たり前だよ!マネージャーだもん。洗濯とか雑用だけが仕事じゃないの。選手の体調管理、練習の様子、そう言うのも全部見てるんだから!」 「すげー…。俺よか主将向いてるよ。」 「何言ってんの!…あたし、実は蜂谷君が主将って聞いた時すっごいびっくりした。だってさ、この部活で一番ちっちゃくって、細くって頼りなかった蜂谷君が選ばれたんだから!でも、それを聞いた時“ああ、なるほどな。”って妙に納得した自分もいた。だからもっと胸張っていいんだよ。」 裕は可笑しそうに笑った。一生懸命に語る外岡。それを見て裕は笑った。心の何処かがむず痒いような感覚がした。 「…なぁ、あの二人って仲いいよな。」 ポツリと禄高は言った。 「確かに。…くっつけちゃおうか。」 外岡と仲のいい同い年のマネージャー草壁絵美子は言う。禄高が興味ありげに尋ねると草壁はヒソヒソと話し始めた。その様子を俊達は「くだらねぇ事やってんな。」と呆れながら見ていた。 部活が終わり、皆が帰った後のマネージャー部室に外岡は一人残っていた。今日は草壁と残って部日誌の整理をする予定だったが、急用が入ったとの事で早々に帰宅して行ってしまったからだ。 静かな部屋に時計の針の音だけが響く。 「禄高帰ろうぜ。」 「おー。」 新しい主将と副主将と言う事で色々と仕事をしている間に皆は帰り、広い部室に残った二人。だが、仕事も粗方終わったので帰路に着く事にしたのだった。 禄高はチャリ通学だったので、駐輪場まで歩いていく。他愛の無い会話で盛り上がったりしながら。 その時、放送が入った。 『…現在校内に残っている生徒は、すぐに職員室に来なさい。部室にいる生徒は他の生徒と一緒に扉に鍵をかけて静かにしているように…。』 「何だ、この放送。」 「さあ…。」 とにかく、部室の鍵を閉めてしまった二人は放送に従って職員室へと向かった。職員室には集まった生徒と先生、数人の警官がいた。 「…一体何があったんすか。」 裕が吉森に聞くと、吉森が答えるより早く警官が口を開いた。 「変質者が出てね。ここに逃げ込んだ可能性が高いんだ。」 「マジすか…。変質者って、露出狂とか?」 禄高が笑う。 「…通り魔だ。」 「ええっ!」 「刃物を持っているだろう。だからここにすぐに集めたんだ。鍵をかけられるならそこに隠れてた方がいいしな。」 吉森が言う。 それを聞いて、背中に冷たいものが走った。 「……マネージャー部室のスピーカーって今、壊れてるよな…?」 ポツリと呟いた裕の一言に空気が揺れた。 マネージャー部室のスピーカーは今壊れていて修理中。そして、今そこにいるのは。 「マネージャーは皆帰っていないのか?」 「…外岡が、部日誌を草壁と纏めるって…。」 「草壁はもう帰ったぞ。俺、見た。」 生徒の一人が答えた。 咄嗟に、裕は走り出した。先生や警官の声も聞かず。 外は、雨が降り始めていた。 もう暗くなりつつある。帰宅の準備をする時間だ。もしも、その通り魔と鉢合わせたら。 外岡は部日誌の整理を終えて帰宅の準備に取り掛かっていた。その時、ドアノブが回った。 ドアの方を見ると、頭から灰色の布を被った人が見えた。 ひっ、と小さな悲鳴を上げる。 恐くて竦んだまま、逃げられず、その一点を見つめた。そしてとうとう、その人物は部室へと足を踏み入れた。 「きゃあああああっ!!!」 外岡の悲鳴が響いた。それに驚いたのか、ビクリと人物は少し跳ねた。だが、ゆっくりと、外岡へと迫る。 その手が、届こうと言う時。 「…この変態野郎!!!」 裕の飛び蹴りがクリーンヒットし、布ごと倒れる。裕は外岡を背中に庇って構える。 「蜂谷君!」 「大丈夫か!?」 その布を被った人はよろよろと立ち上がり、その布を脱いだ。 「……草壁?」 恐る恐る裕は尋ねた。だが、そこにいたのは紛れも無くマネージャーの草壁絵美子。 「いたたた…。」 「お前、何して…。」 「え?…禄高は?」 冷たい空気が流れた。 通り魔確保の放送が入ったのは、その数分後の事だった。 草壁の話では――。 一人残った外岡、そこに現れる変質者。悲鳴。助けに来る裕。くっつく。と言う計画だったらしい。だが、全ては無駄に終わった。 その計画は禄高と二人で立てたものだったらしいが、肝心の禄高はまさか今日速攻で実行するとは思っていなかったらしく…。 二人の計画は失敗に終わった。 だが。 「……なんだ、これ。せっかく、走って来たのに。」 呆然とする裕を見て外岡は爆笑した。つられて裕も笑う。 「ありがと。心配して来てくれたんだ。」 「そりゃあなぁ…。」 「部員だから?」 一瞬、裕は答えに詰まる。だが。 「…外岡だからだよ。」 ヒューヒューと古い合の手が禄高から跳ぶ。 「うっせ!言っとくけどな、草壁みてぇなヤツが残ってたんだったら心配はいらねぇだろ?そう言う事だよ。」 「じゃあ、あたしの為に来てくれたんだ。」 外岡は笑って御礼を言った。 思わず裕は俯く。 「…当たり前だろ。」 「…もしも、相手が刃物持ってたとしても来てくれた?」 「当然。尚更だ。」 外岡は微笑む。 裕は、堪え切れず、くっと笑った。思わず外岡も笑った。部室には二人の笑い声が響く。 「…なぁ。」 ポツリと裕は言った。 「俺と付き合わねぇ?」 照れたように、裕は言う。外岡も顔を真っ赤にして突然の状況におどおどしている。だが。 「うん、付き合おっか。」 余りに簡単に、突然の予想外の展開について行けない禄高と草壁を余所に二人は爆笑している。その笑い声が部室に響き渡っていた。 後日、四人が先生に呼び出されこってりと怒られた事は言うまでもない。 |