1.噂 ――最強の打者に告ぐ!俺達は約束の地にておまえを待つ!!・・・早くここまで上がってこい。 世間を騒がせた浅賀恭輔の発言からおよそ八ヶ月。阪野第二高校は相当騒がれ、浅賀の言う“最強の打者”をまるで犯人探しのようにするマスコミや生徒が多くいたが、時と共にだんだんと納まり、今は過ぎ去った話題として落ち着きを取り戻しつつあった。 だが、その話題に火が点く季節が来た。 ――春。 春の甲子園である。 各高校、各地域では甲子園を、優勝を目指し練習に励んでいる。そんな中、阪野二高野球部は誰も予想しない事態が襲っていた。 「…監督が転任!?」 大会を目前に控えた野球部にとっては衝撃だった。裕達三年生は最後の年である。だからこそ、二年間も付き合い慣れ信用出来る吉森監督がいなくなると言うのは考えられない。 しかし、彼等は子供だ。大人の決定、事情にはまだ首を突っ込む事は出来ない。それをただ事実として受け入れる他、術は無かった。 「ああ。で、新しい先生が監督…いや、顧問になるらしい。どうせ、野球なんてホームランと三振くらいしか知らねぇようなペーペーだよ。」 禄高は大きく溜息を吐いた。 監督。その存在は大きい。野球をまったく知らない、興味が無い。そんな人の元で強い部が出来るとも思えないし、何より選手はやる気を削がれる。そして、練習も簡単で楽なものばかりになるかも知れない。新人なら部費も安くなるかも知れない。…いや、部費は平気だろう。甲子園出場を果たすだけの力はある。 そんな事を考えながら裕は新しい監督を想像していた。 「…強豪校とかの監督だったらいいのになぁ。」 「そんな人が来る訳ねぇよ。」 呆れながら禄高は呟いた。 去年の三年生が卒業し、裕達二年生が最上級生になった。野球部では、主将は裕に、副主将は禄高へと受け継がれ新しい年を迎えていた。 そして、春は出会いと別れの季節。今年も阪野二高野球部は新入部員で賑わっていた。 ――バッティング。 ピッチングマシンの放つ130kmの直球。それを次々に打って行く。一年生はそのメニューの真最中。裕は新入部員の名簿を見ながら品定めするように見ていく。 そんな中で、鋭く澄んだ音が響き渡る。 「うわー、飛ばすねぇ。」 禄高は言った。 何処までも真っ直ぐ伸びて行く打球。センター返し。バッティングの基本と呼ばれるが、ここまで綺麗にセンター返しを量産する選手は余り見た事が無い。 あったとすればそれは去年。現二年生の那波光輝のバッティングである。彼は中学から期待されていた天才プレイヤー。 「…今年は皆粒がでかいな。やっぱ甲子園効果かな。それか、あの言葉だよな。」 テレビの中の、浅賀恭輔の言葉が脳裏を過った。 裕は口元にだけ笑顔を浮かべて名簿を見る。 「…滝、鋭一か。」 「ああ。今年の注目ルーキーは滝で決まりだな。」 メットのつばを軽く上げて打球の行方を見つめる少年を見て禄高は少し自慢気に言う。それに対し裕は意味深に笑いつつ他の選手に目を向けていく。 鋭いスイングを見せる者、豪快で当たればホームランにしてしまいそうな大柄な者、バント技術に優れた者、滝のような天才。それぞれを見ながら裕は時計に目をやった。 「…おっと。休憩ー!!」 一旦水分補給の為に休憩を取る。部員はバラバラと散って行き、マネージャーの作ったジャグジーの元へ行ったり、日陰で座り込んだり寝転んだりしていた。 その中で。 「…見つけた。」 裕は嬉しそうに笑った。 休憩にも関わらず、一心不乱に素振りをする少年。顔は見えない。ただ、その眼光だけが妙に鋭く輝いていて…。 その少年は、袖で汗を拭おうとメットを外した。 「…あいつは…。」 「あん?」 裕はパラパラと名簿を捲り探す。そして、一つの名前で目を止める。新入部員が入った時の自己紹介を思い出しながら。 ――久栄隆輔です。三陽中学出身で、…投手やってました。 「久栄…か。」 「なんだ?あいつがどうかしたのか?」 「…いや。」 …確かに滝や那波のように、天才と呼ばれる選手と対戦するのは恐い。だが、それ以上に、努力を怠らない、真っ直ぐな選手が恐ろしい。どんな状況でも、絶対に諦める事はしない。例え、最終回に大きく点差が離れていてツーアウトでバッターボックスに立たされても、絶対に希望を捨てない。 「…今年は楽しみが一杯あっていいなぁ。」 裕は楽しそうに言って、大きな青空を見た。 数日後。野球部に新しい監督が来た。 「右京涼子です。よろしく、皆。」 部員は、皆、呆然としていた。 (…女。) 監督が女。ある者は酷く驚き、ある者は不安をあからさまに表情に出し、ある者は完全に戦意を喪失させていた。そんな中で裕は自分でも驚くほど冷静に事実を認めた。 「…じゃ、皆今日はいつも通りのメニューをやってくれる?」 「あ…はい。」 部員はバラバラと纏まり無く散っていく。その様を見て裕は髪をクシャリと握り締めた。 (一気にやる気削がれたみてぇな…。) 監督が女性と言う事実に対する驚き、部員達のだらけた態度に対する怒り。その他もろもろが交じり合って裕は半ば呆れていた。 「…さて、蜂谷君。」 長い黒髪をなびかせて右京は振り向いた。カラカラと手に持った金属バットで遊びながら。裕は軽く返事をして顔を上げる。 「…一応、皆の事とか調べさせてもらったよ。」 右京はニヤリと笑った。 「去年の夏、ある天才ピッチャーの発言が世間を騒がせた。」 それは間違いなく、浅賀恭輔の“最強の打者”と言う発言だろうと裕は思った。もう、聞き慣れた話題だ。話の流れに大体の見当がついた裕はどうでもよさそうに相槌を打つ。 「“最強の打者”、ってね。しかも、それはここ…阪野第二高校にいるとね。」 何処か気の抜けた表情を浮かべる裕に対し、禄高だけがその話に聞き入る。 右京は続けた。 「学校内では…それはあれだけ活躍した市河じゃないか。副主将の禄高。キャッチャーの爾志…。色々なところに目が向けられた。その中で、多くの人が目を向けたのは主将。だけど、そうじゃないか、と疑ったのはごく僅かだった。何故なら、主将は部内一と言っても過言ではないくらいに小さくて、頼りなさそうだったから!」 反論出来ない裕は唇を噛み締めながら好戦的な笑顔を浮かべた。 「小さい」。それは裕にとって最大のコンプレックスだった。周りの同世代の仲間に比べ裕は格段に小さく、非力だ。こればっかりは、裕がどんなに頑張っても変わらない。どんなに努力したって、身長だけは伸びてくれないのだ。 「…そうして、皆の目は次々に動き…。とうとうその打者の正体は解らなかった。そのまま、迷宮入り。」 「…何が言いたいんすか?」 右京は、待ってましたとばかりに笑う。そして、持っていた金属バットを裕へ向けた。 「浅賀恭輔君の言う“最強の打者”…。その正体は、君じゃないのかな?蜂谷君。…いや、桜庭君。」 ピクリと裕は反応する。 「あたしの調べたところ…君は兵庫から引っ越して来たそうだね。そして、その前は大崎中学に在学し、野球部に在籍していた。その頃の名前は…桜庭裕だった。」 金属バットがカラカラと音を出す。 「…大崎中学は三年前、全国優勝を果たしている。その時の四番バッター、そして主将の名前は桜庭裕。君だよね?」 右京の挑戦的な目に裕は口だけで笑った。目は真っ直ぐにギラギラと右京を見つめる。 「…確かに、監督の言う事は事実です。」 一瞬、禄高はギョッとした表情をした。 「俺は三年前にこっちに引っ越した。それに、その前には主将と四番を務めた大崎中学の野球部で全国大会優勝をした。その時の名前は桜庭だった。…でも。」 裕はここで笑う。 「監督の読みは外れです。…俺は最強なんかじゃない。何より、天才ってもんじゃないですから。」 ずっと、天才になりたかった。浅賀や笹森、俊や爾志、禄高や那波を見る度に思った。天才だったなら、どんなにいいだろうか、と。 天才には天才の悩みがある事は知っている。だけど、才能に恵まれなかった裕にとっては喉から手が出るほど羨ましいものだった。 だが、それだけ。天才にはなれない。だからどうした。裕は天才じゃない自分に誇りを持っている。溜息が出るほど凡人な自分に。だからこそ、ここまで来た。 「…最強。それは天才って言う事なのかな?」 「違うとは思えませんよ。監督も否定は出来ないでしょう?…ああ、それより練習を見なきゃ。普段はこんなにだらけてはいないんですがね。」 気の抜けた練習を見て裕は溜息を吐く。 「監督が女だったからでしょ?」 「…まぁ、そうでしょうね。前の監督である吉森先生は、自身野球経験のある人でしたからね。」 「言うじゃない。…言い忘れたけど。」 右京は傍に転がっていた球を拾い上げる。そして、少し離れたところに軽く投げると、バットを思い切り振った。鋭い風を切る音と、球が当たる音が聞こえ…。 打球は真っ直ぐに、バックネットに突き刺さった。 「…あたしは野球経験者よ?」 裕と禄高はその打球の行方を見て息を呑んだ。 真芯で捕らえて、全力で振り抜いたとしても…女の力でバックネットまで飛ばす事など出来るのだろうか。グラウンドはそれなりに大きいし、両翼で120mはある。 「…さて、ノックでもしようか?」 「…明日からで、お願いします。」 裕と禄高はぎこちない笑顔で返事をして走り出した。 「…やべー。なんだあの女。…いや、本当に女か?ゴリラの化身じゃねぇの!?」 「声がでかいぞ、禄高!…ああ、やべぇ。絶対聞こえたな。」 「え!?マジで!?」 「嘘。」 「コノヤロー!」 禄高が怒りながら周りをキョロキョロと見回す。 「なんか、今年はなんか起こりそうな気がすんぜ。」 「ああ。俺もだ。」 天才の新入生、努力家の新入生。ホームランを打つ女監督。 「…ま、何にせよ面白い年になりそうだな。」 期待と不安を胸一杯に抱えながら裕と禄高はグラウンドへと消えて行った。 |