2,選択 カチカチカチ…。 秒針の音がやけに大きく聞こえた。秒針が一周し、十二を通過すると分針が動き、つられて時針が動いた。そして、チャイムが鳴る。 「…ふーっ。」 椅子に思い切り持たれかかり裕はだらしなく天井を見上げた。 近々行われる春の大会へ向けてのメンバーの調子や練習など。その話を裕と禄高は監督の右京と共に接待室を貸し切ってしていた。接待室にはゆったりと寛げる大きなソファーが二つ、ガラス張りのデスクが一つ、更にはクーラー・暖房までついている。 生憎、クーラー・暖房の使用許可は下りなかったが。 「…ま、こんなもんね。」 分厚い大量の資料を束ねながら右京は言った。 右京は間違い無く野球経験者。それも、かなりの。もしかしたら、いや、間違い無く前監督の吉森よりも野球に詳しく技術は優れて統率力もある。 監督が女だと知ってだらけていた部活も今ではすっかり気合が入り前以上にキビキビと皆動くようになった。 「…じゃ、今日はお疲れ様。助かったわ。」 「ドーモっす。ありがとうございました。」 二人は立ち上がり部屋を出て行こうとした。 「…ねぇ、蜂谷君。」 「何すか?」 「四番を打ってみたいと思わない?」 裕の今の打順は一番。もちろん、その実力を買われてだ。他の誰よりも球を見る目、俊足、そして、度胸を持っているから。当然、裕はそれに誇りを持っている。何よりも、トップバッターと言う役割が好きだった。でも。 「…思わない…訳でもないです。」 「今の四番は爾志君…。さらに五番は市河君。二人はバッテリーだし、出来れば打順を後にして楽にしてもらいたいの。禄高君は三番に大体落ち着いているみたいだし…。那波君も中々いいとは思うんだけど、まだ、四番は重いね。」 相変わらず、この監督は選手一人一人をよく見ているな、と思う。 上位、クリンナップに市河・爾志のバッテリーがいると言う事は裕もどうにかしようと思っていた。確かに体力もあるが、出来れば投球に専念してもらいたいと思うから。 右京はあえて言わなかったが、新はバントやらエンドランなどの小技が巧く足も速い典型的な二番バッター。斎は守備は巧いが、打撃はまだ波があるようでいきなりホームランを打ったりするが逆にまったく打てなかったりもする。 「…今のトコ、四番に入れそうなのは蜂谷君しかいないんだよね。」 「…すんません。消去法で選ばれた四番は、頼りにならないです。俺は四番の器じゃない。」 裕は笑った。 「…そうかもね。ああ、今のところ人が足りないなぁ。長打を打てるバッター…。あと、バッテリーだな。市河・爾志のバッテリー一つだけじゃなぁ。」 そう、赤星・松本のバッテリーはもういない。 事実上、バッテリーとして動けるのは市河・爾志のバッテリーしかいない。三年生の中には、市河と爾志がいると言う事でピッチャーとキャッチャーを作らなかったし、二年は戦力になる程のバッテリーはいない。一年はまだ未知数だが、ピッチャー経験のある者の中にはめぼしい者は無かった。 「長打…。」 ――ありがとう。 一瞬、懐かしい声が通り過ぎた。最近会っていない、御杖拓海の声だった。 昨年、両足の難しい手術をし、何とか成功して今はリハビリに励んでいる阪野二高野球部の幽霊部員だ。先の見えないリハビリ生活。だが、裕は席を空けて待っていた。 「…どうかした?」 右京の声でふっと我に返った。 御杖が大会までに来る確率は低過ぎる。それに、御杖には二年以上のブランクがある。 「あ、いや…。本当だなって思いまして…。」 裕は適当に笑った。 そして、時計を見て驚いた。 「あ!すんません!!俺この後用あるんでお先失礼します!」 裕はバタバタと走り出した。 残された禄高の方を右京は見る。 「…すっごい慌ててたね。そんなに大事な用だったのかな。悪い事しちゃった。」 「ああ。バイトですよ。」 禄高は笑う。 「あいつ、親いねーから従兄弟の市河ん家で暮らしてんですけど、悪いからって毎月食費入れてんすよ。バイトして。」 「そうなんだ…。何時から?」 「えーっと。一年の頃からしてましたよ。…おっと。」 人の家庭事情を話してしまった事に後悔と罪悪感を抱えながら禄高は曖昧に笑った。 「まぁ、そんな感じですよ。俺もそろそろ帰りますね。」 軽く頭を下げて禄高は帰って行った。 数日後。 裕は居間で脩と共にテレビを見ていた。時刻は八時を迎えバラエティは気合の入った番組が多い。その中の一つを見ながら二人は笑っている。その時、電話が鳴った。 丁度近くを通った俊が受話器を取る。 「…はい、もしもし。…あ、新?ああ、裕ならいるけど。……裕!新から電話だ!」 コードレスの子機を裕に投げて渡すと俊は二人と同じくテレビの前に座った。 裕は立ち上がり廊下へと移動する。 「…おう、どうした?」 『……めるわ。』 「え?」 新の声がくぐもっていて聞き取り辛い。裕は聞き返した。 『……俺、野球部辞めるわ。』 「は!?」 裕の声が余程大きかったのか、俊と脩が揃って様子を伺う。 思わず落としそうになった受話器を持ち直して裕は続ける。 「ど、どうしてだよ!?」 『…親父が倒れた。』 ドキリ、と。心臓が高鳴った。 『ついさっきだ。俺の家、親父とお袋と、弟しかいねぇからさ。俺、野球辞めてバイトする。』 「…そんなに、お父さんの容態は悪いのか?」 『良くは無い。過労だって。仕事命みたいな親父だったから、なんか納得出来たよ。だから、下手したら過労死なんてあるかも知れねーじゃん。』 「そんな…。」 『まぁ、そういう事だから。皆には明日言う。今週一杯は続けるから。それに、俺なんていてもいなくても同じだろーが…』 「同じじゃない!!」 電話だと言うのも忘れて裕は叫んだ。 「お前がいなくてどうすんだよ…!これから始まる大会…お前を計算に入れて練習進めてんだぞ…?レギュラーとか、それ以上に…仲間なんだよ。」 突然の事態に指が震えて受話器が落ちそうになる。 「仲間が減るのは…もう、嫌なんだよ…!どうにかできねぇのかよ…。」 親がいない。自分以外頼れるものが無い。その状況が、自分と似ていた。だからこそ、どうにかしてやりたい。そう思った。 『……わかんねぇよ…。』 ポツリと新は呟いた。 『…俺だって、辞めたくねぇよ。ここまで頑張って来たのに、こんな中途半端に辞めるなんて…。』 「新…。」 『でも、仕方ねぇだろ?方法なんてねぇだろ。俺以外、誰が家支えんだよ…。』 新の声は消え入りそうだった。泣いているんじゃないか、と思うような。 「…裕、どうしたんだ?」 俊が訊いても、裕は答えられなかった。 声が震えていて。それに、言えなかった。だが、俊は強引に受話器を取る。 「おい、どうしたんだよ。」 怒った口調で俊は問う。 答えない、答えられない新に代わって、裕がようやく口を開いた。 「…新が、いなくなる…。野球部から…。」 「なっ…!」 裕は立ち尽くしていた。思考回路が上手く働かない。ショートしそうだった。ようやく新は俊に口を開き、事の経緯を説明し始めた。 打つ手無し、と言う状況で絶望が浮かぶ三人。大体の状況を把握した脩がひょい、と顔を出した。 「…ね、お父さんはどんな仕事をしていたんだい?」 「え?…ああ、外資系企業の営業部長だってさ…。」 「お父さんの過労の原因は、会社にあったんじゃないのかい?」 「まあ、そうだろうけど…。」 脩はニヤリと笑う。 「じゃあ、話は簡単だ。その会社、訴えてやろうよ。」 「は!?」 「大手企業なんでしょ?だったら、慰謝料は沢山もらえる。一家を支えられるくらいに、ね。」 「訴えるって、簡単に言うなよ…。」 「じゃあ、どうすんの?このまま泣き寝入りするのは、悔しいじゃんか。」 脩の笑顔が一層邪悪に見える。 「…確かに、脩の言う事は最もかも知れない。正しくて賢い選択かも知れない。でも、それじゃあ駄目なんだ。解るか?」 裕は言う。 「人を訴えるってさ、そんなに簡単なもんじゃねぇだろ?…重要なのは、金じゃねぇんだ。…家族を支える人がいない。自分しか頼るものが無い。そうなったら、金云々じゃねぇんだよ。」 新は、あの頃の自分に似ている。親を失ったばかりだったあの頃に。 頼るものを失って、何も無くなって。保険金とか、慰謝料とか。金はあったのに、救われなかった。 「……大切なのは、自分の覚悟とケジメだ。その事に対して、あるべき場所に自分がいる事が大切なんだと思う。」 裕は、あの頃の自分と重ね見ていた。 あの頃何が出来ただろう。いや、すればよかったんだろう。 (正しい答えなんて知らないけど、俺は俺の進んで来た道に後悔はしていない。) 何もかもを背負って生きて行く事。 その生き方を誓った。それを見つけた自分を、少しだけ褒めてやりたかった。 「…そうだ。」 裕は呟いた。 「…お前、バイトと部活…両立出来ねぇかな?」 『え?』 「俺、今バイトしてんだ。でも、部活も出てる。…な?両立、出来るよ!お前なら!」 光が見えた気がした。気のせいかも知れないけど。 「戦う前から負けちゃ駄目だよ。何かを捨てる時は、捨てずに済む方法を探し回ってから。親父が言ってた。今じゃ俺の信念だ。」 『………ああ。』 聞こえるか聞こえないか、そのくらいの声で新は言った。 『…その通りだよ。俺も、やれるだけやるよ。』 裕と俊、脩は顔を見合わせて笑った。 その後、電話は切れた。 数日後、新はバイトを始めた。だけど、部活にも学校生活にも支障は来さなかった。 |