3,獅子鳴々


 「ダウンー。」

 春の選抜まで残り一週間を切った。練習も日々厳しくなるばかりで夏に近付いている為に日照時間も長くなり、比例して練習時間も長くなった。
 ヘトヘトの体を引き摺って選手はグラウンドをゆっくりと走る。そして、柔軟。ダウンが終わると集合し、監督の話を聞いた後、グラウンド整備のある一年生を残して解散となる。

 「春甲かー。」

 ブラブラと部室へ戻る。禄高はぼんやりとしながら言った。

 「もう…最後の年なんだなぁ…。」

 それを聞いて、裕は胸が絞め付けられるような思いをした。
 浅賀恭輔、笹森エイジらとの約束。その為に、その為だけに今まで頑張って来た。だが、その結果は余りいいものとは言えない。二人が二年連続で甲子園出場を果たしている中で、裕が甲子園に辿り付いたのは一回だった。たったの一回。それも二回戦コールド負け。
 もう、甲子園、約束を果たすチャンスは二回しか無い。その内の一つはもう目の前に迫っている。

 「早いなぁ…。」
 「ジジイみてー。」

 俊が笑う。
 グラウンド整備をする一年生とすれ違うと、「お疲れ様です。」と言う元気な声が帰って来た。それぞれ言葉を返しながら歩いて行く。
 その内に、一人の少年に目が留まった。

 帽子を深く被って、黙々とグラウンドを均す少年。


 「…そうだ。」

 思い出したように裕は呟いた。それを聞いた俊が疑問詞を浮かべる。

 「…俊、爾志、ちょっと付き合え!!」

 訳の解らないままの俊を引っ張り裕は走り出した。その後姿を同じく禄高や新が首を傾げながら見ていた。




 「何だよ、一体!」
 「ちょっと見て欲しいもんがある!…久栄!!」

 呼ぶと、久栄は顔を上げた。

 「ちょっと、投げてくれないか?…お前確か…。」
 「ピッチャーっす。」

 久栄は答えた。俊は裕の意味深な行動に首を傾げつつそのやり取りを見ていた。

 「えっと、キャッチャーは…。」
 「俺がやりましょうか?」

 振り返るとそこには滝がいた。ニコニコと楽しそうに笑いながら。

 「俺一応キャッチャーっすから。…な、隆輔。」
 「一応っすけどね。」

 滝は楽しそうに笑った。

 「俺ら同じ中学なんす。三年間受けて来た球ですから、それなりの投球は出来ると思います。」
 「へぇ。じゃ、頼むわ。」

 走って行く滝と久栄の背中を見ながら裕は首を傾げた。爾志が尋ねると、裕は答えた。

 「…あの二人同じ中学でバッテリーだったんだろ?で、滝はキャッチャーであんなに注目されてんのに、なんでピッチャーの久栄が無名なんだ?」
 「まあ…確かに。まあ、それは後で聞けば解るよ。今はこいつらの力量見ておこうぜ。」

 爾志は言った。それに相槌を打つと、裕は二人の方を見た。軽く肩慣らしした二人はいよいよ投球に入ろうとしている。滝は三人の方を合図を送るように見た。それに裕が頷くと久栄は構えた。

 真っ直ぐに、滝の構えるミットを見つめて大きく振り被る。ほぼ同時に足が上がって行く。右足のバランスは崩れずしっかりと地面を踏み締め、後に折れる。左足が滑るように移動し大きくテークバック。肘は肩よりも高いまま下がらずに真横から鋭いスイング。そして、体は少しだけ倒れながら腕は振り切られた。

 (…サイドスロー!)

 裕は息を呑んだ。ここまで見事なサイドスローを見た事が無い。放たれた球は真っ直ぐに滝のミットに納まった。恐らく、狙った通りのど真ん中。

 「…サイドスローか。」

 俊は言った。
 最速の投法であるオーバースローの俊。その球は重く速く140kmを越える。それに比べ久栄の球は…。

 「…120kmってとこだな。」

 爾志が冷静に判断する。

 「そうだな。…おーい、お前等!変化球は投げられるか?」

 久栄は頷く。当然のように。
 確かに、当然と言えば当然。サイドスローで変化球が無かったら話にならない。

 久栄は再び構えた。
 そして、ゆっくりと投球。

 「…すげぇ。」

 パンッ、と綺麗な音が響いた。

 「シュートだな。」

 綺麗なシュート。驚くほど綺麗に曲がる。通常の変化球よりも速い。

 「これが、決め球か?」

 遠くで久栄が頷いた。
 サイドスローの投手は希少だ。それも、ここまで綺麗なフォームを身に着けた投手は。それに、シュートを得意としている。右投手のシュートは、右打者には胸元に食い込み、左打者からは逃げて行く厄介な変化球だ。シュートを扱う投手が少ないのには、理由がある。
 それは、故障に繋がり易い事。久栄は、この見事なシュートを身に着けるのに一体今までどれほど投げたのだろうか。

 「…今のシュート、結構速かったな。」
 「そうだな。…ストレートと同じくらいの速度じゃないか?」
 「…久栄、お前の最高速度は幾つだ?」

 久栄は首を傾げた。すると、滝が声を張り上げて答えた。

 「131kmです!ここ数ヶ月測ってなかったんでわかんないっすけど!」

 滝が誇らしげに笑う。つられるように裕は笑った。

 「130kmのストレート、120kmのシュートを持つサイドスローか。これは武器になるな、俊。」
 「そうだな。」

 俊は素っ気無く答えると踵を返して部室へと戻って行った。

 「あれ?怒った?」
 「まさか。ただ火がついただけだよ。」

 爾志が笑う。

 「今年のあいつはすげぇぜ、きっと。浅賀なんてメじゃねぇくらいな。今年も甲子園だ。そして、優勝だな。」
 「はは、当然。だけど、油断は出来ないぜ。」
 「え?」
 「…俺達の地区には獅子がいる。隙を見せれば食われてしまう。」

 それが誰の事なのか。爾志はすぐに解った。
 私立東光学園のエース、如月昇治。一年の頃、いきなりこの地区に現れ甲子園の出場権を奪って行った。如月率いる東光学園に勝利したのは去年の夏が初めてで、今まではガンとして歯が立たなかった。

 「…ま、それでも。甲子園に行くのは俺達だ。」

 久栄と滝のピッチングを見ながら裕は嬉しそうに笑っていた。爾志は沈んで行く夕陽を見ながら去年の夏の東光戦を思い出していた。



 それから数日後、阪野二高にある噂が届くようになる。
 その噂は瞬く間に広まり、多くの部員が喜びを隠し切れなかった。そんな中で、裕だけがそれをまったくの嘘だと思っている。その噂とは。

 「…如月が入院したって本当かな。」

 禄高が何気無く言った。
 東光学園の主砲、如月昇治。彼が入院したらしい。怪我か病気か。それは解らないが、ある部員が確かめたところ、病院には如月がいたと言う。

 「俺は嘘だと思うけどなぁ。」
 「何で?」
 「あいつがそんな簡単に入院するかよ。」
 「…まぁ。」

 嘘だと噂を否定し、裕は練習に入ろうとした。その時。

 「蜂谷くーん!」

 遠くから、外岡が呼んだ。

 「誰か来てるよ、お客さん。」
 「へーい。」

 裕は駆けて行く。
 だが、其処まで行く前に大きな人影が正面に現れた。驚いた裕はそのまま尻餅をついてしまった。

 「…お前は…。」

 見覚えのある大きな男。忘れるはずが無い。忘れるものか。
 彼の名前は。

 「朝倉陽治…!」

 東光学園の四番、スラッガー。そして、如月昇治と組むバッテリー。
 朝倉の表情は暗く重い。いつもとまるで違う朝倉の様子に、あの噂が過った。

――如月が入院したって本当かな。

 「…蜂谷…だよな。」
 「あ、ああ…。」

 こうして話すのは初めてで、まともに朝倉の声も知らない裕だが、朝倉の尋常じゃない様子に思わず焦った。そして、朝倉はゆっくりと口を開く。

 「……如月が入院した。」
 「え…?」
 「噂くらい知ってるだろ…?」
 「…本当なのか…?」

朝倉はゆっくりと頷く。いや、項垂れたと言う表現の方が近い。

 「…心臓の、手術をするんだ。今度。成功する確率は低い。下手すりゃ死んじまう。あいつもすっかり弱きでさ…。甲子園行きたかったな、なんてもう行けないみたいな事言ってやがる。」
 「嘘だろ…。」

 また、人がいなくなろうとしてる。
 目の奥が熱くなる。指が強張ってうまく動かず震える。足が立つ事を拒否し逃げようとする。心臓が早く鼓動を打つ。

 「どうにか…出来ねぇのかよ。」
 「…俺は、あいつを元気付けてやりてぇんだ。」
 「ああ、そうだな。」
 「甲子園なら、何度だって行けるんだって。だけど、昇治…エースを欠いた俺達がお前等に勝てるとは思わねぇよ。」
 「え…?」

 朝倉は土下座した。
 突然の事に驚きを隠せない裕はわたわたと困惑する。そんな裕を余所に、朝倉は口を開いた。

 「負けてくれ…。俺達を、甲子園に行かせてくれ…。」