4、譲れない


 春の甲子園、地区予選が始まった。高校最後の春大会。
 緊張の中行われた一回戦は、前回の大会記録のお陰で弱小高校と当たる事が出来て9−0のコールド勝ちで二回戦へと進出した。また、二回戦では5−1と一点取られるも圧勝。次々へと駒を進めた。

 そして、あっという間の決勝戦。昨年に比べて遥かに楽な道のりだったが、決勝戦ともなれば話が違う。相手は昨年の準優勝高校、東光学園である。


 投稿学園と言う、気を抜けば負けてしまう学校相手だからこそ上げなければならないチームのテンションは下がっていた。その理由は、ある男がいない事。
 東光学園のエース、如月昇治の姿は何処にも無かった。

 「…やっぱ、如月いねぇよな。」

 ポツリと禄高が呟く。途端にベンチが暗くなったような気がした。

――負けてくれ…。俺達を、甲子園に行かせてくれ…。

 朝倉のあの言葉が浮かんだ。
 皆が何を考えているのか、手に取るように解った。皆、悩んでいる。

 (…馬鹿だな。)

 裕は思った。
 悩んだまま戦って勝てる相手なんかじゃないのに。
 確かに、ここで東光学園が甲子園出場すれば如月にとっても希望になるだろう。だけど。

 「…どうすりゃいいんだよ。」

 そんな勝手な理由で負ける訳にはいかない。
 皆、そう思ってるでも。敵に土下座までして勝って仲間を励まそうとする相手と、まともに戦えるだろうか。
 恐らく、如月はその事を知らない。そして、この試合を見ている。

 「…皆、何悩んでんだ?」

 皆の前に立って、裕は言った。

 「裕…。」
 「俺達は、何の為にここに立ってんだ?負ける為かよ。違うだろ!」

 一呼吸置いて、再び口を開く。

 「…勝つ為だろ?お前等はこの程度の気持ちで野球やってたのかよ。」

 誰も口を開かない。静まり返ったベンチに裕の声だけが響く。

 「お前等が何考えてるかなんて大体解る。けど、迷ってんなら試合には出なくていい。…邪魔なだけだ。」

 数秒の沈黙が流れた。そして、頃合を見計らったようにアナウンスが聞こえた。


 『一回表、阪野第二高校の攻撃。バッター一番、蜂谷君。背番号、六番――。』

 そして、裕はベンチを出て行った。




 バッターボックス。東光学園と試合するのは四回目だが、裕だけはまだ三回目。そして、勝ったのはたったの一回だけ。それもギリギリの試合だった。
 どの試合も投手は如月で、苦戦を強いられた。でも、如月はここにいない。
 マウンドに立っているのは見知らぬ投手。控えの投手だと解るが、まるで違う。

 「お願いしますッ。」

 頭を下げてバッターボックスに入り、構える。
 マウンドに如月がいないと、東光学園と戦っていると言う気がしないのは何故だろう。そう思いながら裕は一球目を見送った。
 審判のボールと言う声が響く。

 (…俺にとって、東光戦は、如月昇治との唯一の対決の場なんだなぁ。)

 その如月がいない。
 だからと言って、負けるつもりは毛頭無い。

 俺達、いや、俺は。何の為に今まで野球をして来たのか。ただ、約束の為だろうか。
 きっと、違う。本当はもっと単純なんだ。

 勝つ為に。その為に今まで野球をして来たんだ。こんなところで簡単に理由が奪われていい訳が無い。

 (…このピッチャーの球、随分回転するな。)

 自分でも驚くほど冷静に観察し、裕は構える。こんな事、東光戦では考えられなかった。甘い球が一球でも来たら打つ。そうでなければ点なんか取れなかったから。
 このピッチャーは確かにコントロールがいい。だけど、軽い。

 放たれた二球目。右足で踏み込みスイングする。確かな手応えを感じた。
 良い当たりだと、裕自身そう思って走り出した。

 「センター前落ちたッ!」

 声が聞こえて裕は走り出す。センター前。三塁までなら行ける。余裕だ。そう考えながら、裕は疾走する。
 三塁を踏んだ時、足が動き出した。

 (…ホーム間に合う!)

 そして、三塁を蹴った。三塁で終わりと思った瞬間だった為か、返球が遅い。その間にも裕はホームインしてしまった。 仲間の歓喜、敵の動揺。その全てを聞きながら。ランニングホームランだった。

 (間に合った…!)

 自分自身驚きながら、肩で息をする。
 愕然とするキャッチャーの朝倉を見て、裕は唇を噛み締めた。

 「……負けられないのは、うちも一緒だからよ。これだけは譲れない。」

 独り言のように呟き、裕はベンチに戻った。



 「…ナイバッチ、ナイラン、裕!」

 禄高が笑った。新が打席に向かったので、丁度ネクストバッターズサークルへと向かう途中だった。それに軽く対応しながら裕は座った。

 「…お前は間違っちゃいねぇ。だから、自信持てよ。」

 俊が言った。

 ベンチに戻るのが恐かった。
 誰も喜んでくれなかったらどうしよう。間違いだと責められたらどうしよう。そう思いながらダイヤモンドを回って来た。でも、杞憂だった。

 「皆、ついて来てくれる。だから心配しないで、胸張ってりゃいい。」

 爾志が言う。
 態度に出したつもりは無かったが、伝わっていた事に驚く。そして、何故か肩が軽くなった気がした。

 「…先輩、緊張してんすか?」

 茶化す斎。那波がそれを止めると見せかけて拍車を掛けたり。
 ベンチに戻ると、そこにはもうさっきまでの暗さは無かった。ただ、いつもの試合と同じ明るさのチームメイト。その光景に安心する。


 (…朝倉、悪いが負けられない。勝つのは俺達だ。)

 どんな理由があったって、高校野球は強いチームが勝つ。
 残酷に思える摂理は当然の事。それを胆に命じつつ裕はグラウンドに眼をやった。丁度、新が一塁をセーフになったところだった。



 そして、試合は4−0、阪野二高の勝利に終わった。互いに礼を済ませた後、トボトボを帰路を辿る東光学園ナイン。その中から大柄のキャッチャーである朝倉に声を掛けた。

 「朝倉。」
 「…蜂谷か。」

 自嘲気味に朝倉は笑う。

 「…試合…。」
 「何も言うなよ。」

 裕は黙った。

 「…お前は間違ってねぇからさ。こんなんで勝ったって、昇治は絶対に喜ばねぇよな。…バッテリーの俺よりも、お前の方が解ってたなんて、皮肉だよな。」

 そう言って、後ろ手を振りながら朝倉は戻って行った。グラウンド整備をする阪野二高の仲間を少し見つめながら、裕も自分のベンチへと戻って行った。




 そして、阪野二高は甲子園へと駒を進める。昨年の夏大会で二回戦コールド負けをして以来だった。
 そんな姿を興味深そうに見ていた男がいた。

 「…ランニングホームランなんて懐かしいなぁ。」

 楽しそうに笑いながら、テレビ画面を通して笹森は言う。手に持ったキャンパスノートには細かい文字でびっしりと文字が書かれていた。
 表紙に書かれた“神奈川県立阪野第二高校データ”の文字。そこに新たなデータが加わる。

 “蜂谷裕…ランニングホームラン。”

 そのデータを加えて笹森はノートを閉じた。丁度、大阪でも地区予選が終結し、明石商業が甲子園出場を決めた日でもあった。