5、天才と凡人


 二度目の甲子園。春大会の地区予選を勝ち抜き昨年の壁である二回戦を突破した阪野第二高校は相手にも恵まれ準決勝まで勝ち進んだ。その間も危うい試合は多々あったのだが、裕達は大阪府明石商業との試合の日を迎えた。


 ザワザワと賑わう球場。少しずつ、観客席は埋まっていく。準決勝が行われるこの甲子園のベンチに座り、これから戦場になるグラウンドを見つめた。
 二年半をかけて、ようやく辿り付いた約束の場所。昨年の二回戦コールド負けを思い出すと胸が痛む。

 「…ようやく、笹森と対決か。」
 「ああ。」

 爾志の言葉と共に敵ベンチに眼をやった。敵は常時甲子園出場高校なだけあって落ち着いたものである。そこに笹森エイジの姿は無かった。
 笹森エイジ。裕の中学時代のチームメイトで、甲子園での再会を約束したライバルにして親友の一人。怪物と呼ばれるプロからも注目されるスーパープレイヤーである。笹森の魅力は、攻撃的な打撃はもちろんの事、常に相手の裏をかく絶妙な配球と、ピッチャーの力を最大限に生かすプレー。頭脳戦を得意としたキャッチャー。それが笹森エイジ。

 「…絶対に、負けない。」
 「その言葉、そっくり返したるわ。」

 突然の声に驚き、振り返るとそこには笹森がいた。扉に寄り掛かり、誰にも気付かれずに当然のように笑っている。

 「やっと試合やなぁ。待ち草臥れたで。」

 笹森は糸目を歪ませて楽しそうに笑った。

 「今、俺達は敵なんやな。たった一つの席を懸けて戦う…。」
 「そうさ。手加減なんてしねぇぞ。」
 「……最近、あの頃をよう思い出す。お前等と一緒に野球しとった頃を、な。」

 懐かしむように笹森は言う。裕は黙った。

 「あの頃は、こうしてバラバラになって戦う日が来るなんて考えられへんかった。…愚痴ってもしゃあないけどな。」
 「……。」
 「ま、今日は本気でやらせてもらうで。」

 後ろ手を振りながら笹森は堂々と帰って行った。その後姿を暫く裕は見つめていた。
 “あの頃”と口にした瞬間の、何処か寂しそうな笹森の表情が目に焼付いていた。それにつられるように思い出すのは、一瞬の幻想。その幻も、風と共に消え失せた。



 「只今より、神奈川県立阪野第二高校と大阪府明石商業との準決勝戦を始めます。両校、互いに礼!」
 「お願いしますッ!」



 先攻は明石商業。迎え撃つピッチャーは市河俊。キャッチャーは爾志。構えるトップバッターは浅黒い小柄の選手。そこに、俊の強烈な直球が走った。
 内角低めの直球。ギリギリボールか、と爾志は頭の端で思う。見送るか、手も足も出ずに空振りか。そう思った矢先に。

 「ショートッ!」

 弾丸のようなライナーが飛んだ。だが、ショートの真正面。裕が捕球しバッターはアウト。一番打者はベンチへと戻って行った。
 先頭を出さずに済んだ阪野二高だが、不安が浮かぶ。打たれた事、それに皆が衝撃を受けている事。その双方の事実を受け止め、裕は小さく舌打ちをした。

 (…やっぱり、な。)

 予想通り。そう思いながら裕は次の打者に備える。
 一方、俊は初球をいきなり打たれ、手の中の白球を握り締めた。

 二番バッター。ワンアウトランナー無し。バッターは構える。
 ランナーを背負っていない俊は大きく振り被って投げた。ボールから入るカーブ。外角高めの球。爾志はミットを構え球を追う。だが。

 二番打者はヒッティングからバントに切り替える。コンッ、と軽い音がして打球は三塁線傍に転がる。那波が打球を捕球し、一塁に投げようとしたが、審判はセーフを告げていた。

 (…今のバッター、足速かったな。)

 冷静に爾志は記憶した。
 一番打者と並ぶ足の速さを持つ選手。明石商業にはスポーツ推薦枠がある。そして、甲子園の常連校と言う看板が全国から猛者を引き寄せる。阪野二高には無い特権である。

 (足で掻き回そうたってそうは行かねぇぞ。俊足を想定しての守備なら、もう何百とやって来たからな。)

 足の速いランナーを背負っても、緊張は誰も無い。
 裕の俊足が知れて以来、練習では裕をランナーとしてやって来た。牽制はもちろん、送球、併殺。このランナーは確かに足が速いが、裕ほどじゃない。
 だが、大きな問題がある。ランナーが出てしまった。塁のランナーをアウトにしなければ、どう足掻いても四番に回る。それもランナーを背負って。

 三番打者がバッターボックスに入る。爾志はちら、とネクストバッターズサークルに目をやった。そこには、四番の笹森エイジが楽しそうな笑顔を浮かべていた。

 (…ここでランナーをアウトにして、三番を打ち取れば四番には回らない。最悪、笹森にホームランを打たれたとしても一点しか入らない。)

 笹森は全国でも有名なパワーヒッターだ。体格は決していいとは言えない。爾志に比べれば細い。だが、技術がある。爾志に比べパワーが無くても、笹森は少ない力で球を抑え込む術を知っている。
 今大会、彼はここまでの試合、全てホームランを打って来た。ソロホームランもあるが、満塁ホームランも。まだ一回表だ。それだけは避けたい。

 (…ゴチャゴチャ考えても仕方ねぇ。今やる事は、このバッターを抑える事!)

 爾志はサインを送り、俊は構えた。一つ牽制を挟んだがアウトにはならず。
 いつ強烈な打球が来ても良いように裕は構えた。だが、一瞬楽しそうにしている笹森の方を見た。

 (…あ。)

 小さく、気付かれないように笹森は身動きをした。それは、サインのようだった。
 バッターはそれを確認すると俊の方を向く。

 そして。


 「センター、ライトの間だ!」

 斎が打球を追う。大会初出場の滝も追うが、斎が捕らえ送球。一塁ランナーはとうに二塁を蹴って三塁へ滑り込んでいた。

 「セーフッ!」

 審判の声。これで、ワンアウトランナー一塁、三塁。お陰で守備が分散された。


 (…斎君の送球は悪くなかった。ただ、バッターの当たりがよかった。…落ち込んでる場合じゃないよ?次は、明石商業の最強打者が来るんだから!)

 右京はサインを送りながら試合展開を見守る。
 バッターボックスに立った笹森は楽しそうだった。嬉しくて嬉しくて、仕方ない様に。そして、笹森はショートの裕へ君が悪い程の笑顔で笑い掛けバットを構えた。

 (配球には十分注意してね。笹森君は多少のアウトゾーンなら構わず打ってくれる。でも、彼には力がある。アウトの球を外野奥まで飛ばす力が。…その一発が、恐いのよ。)

 右京のサインを受け取り、爾志は俊へのサインを送る。
 ビリビリとした重い空気が流れていた。さっきまでとまるで違う笹森エイジの打撃時の表情。
 それでも、一瞬、何処か挑戦的に、意味深にショートの裕へ笑いかけた。


 第一球。インコース低めの直球。膝を襲うような剛速球。俊の球は走っている。だが。



 ギンッ

 響いた音と共に笹森は走ろうとした。打球はショートの前を跳ねた。だが、打球はグローブに納まる。裕はすぐにホームへ打球を返した。これでツーアウト。

 「セカンッ!」

 爾志の力強い送球が来る。一塁ランナーは滑り込んだが敢え無くアウト。
 この併殺によりスリーアウト。チェンジとなる。次は一回裏、阪野二高の攻撃である。



 「…やっぱ、すげぇな。市河の球、あんなに打てるもんな。」

 新は言った。

 「偶然だって、偶然。そりゃー、四番は違うかも知れないけど。」

 禄高が軽く笑う。だが。

 「偶然なんかじゃねぇよ。」

 裕がメットを被りながら言った。トップバッターとしての準備をしている最中だった。

 「…俊の球は悪くねぇよ。今日も絶好調に走ってる。」
 「じゃあ、何でこんな打たれんだよ。」
 「コースが読まれてるんだよ。」

 思い当たる節がある。それは笹森の凄まじい分析能力。多分、その読んだコースをただバッターにサインで送っているだけ。

 「情報収集が趣味みてぇなヤツだ。俺達の事もバッチリ調べられてるだろーよ。」

 笹森エイジは時としてこう呼ばれる。その優れた分析力故に。まるで、始めから何処に球が来るのか解っているかのように錯覚させる事から“予言者”と。…そう呼ばれている。

 「浅賀恭輔が唯一認めたキャッチャーだ。ただ捕球が上手いだけじゃねぇよ。…頼むぜ、爾志。この試合、キャッチャー勝負だ。読み負けたら呑まれるぜ。」

 笹森の最も得意とする戦い。それが頭脳戦。
 裕はそう言い残すと打席に向かった。



 『一回裏、阪野第二高校の攻撃です。バッター一番、蜂谷君。…背番号六番。』
 「お願いします!」

 アナウンス終了と同時に打席に入る。そのすぐ後には、笹森が待っていた。

 「お前一番なんやな。四番はチビで下ろされたか?」
 「うっせぇな。違ぇよ。…一番を馬鹿にすんなよ?俺は気に入ってるしな。」

 笹森が軽く笑う。

 「まぁ、お前割りと足速かったから当然やね。それに、中学から俺を知ってるお前を一番に当てておきたかったんちゃう?」
 「その通りさ。」
 「はは。馬鹿やなぁ。あの頃の俺と今の俺を同じにすんなや。まったくの別人やで?」

 裕は小さく笑って、静かに構えた。
 ピッチャーは俊ほどの長身だが細身。名前を菖蒲浩輔と言う。二年生のエースである。
 このピッチャーは球威でグイグイ押して行く俊とは違い、変化球でスパスパ行くタイプ。そして、抜群にコントロールがいい。

 一球。菖蒲のモーションに合わせて裕は備える。地面を蹴ってバットを思いきり振り切った。同時に鋭い金属音が響いた。
 打球はサード方向のファウルゾーン。

 「…この程度?」

 裕は鼻で笑った。
 外角低めの直球。速度は大体130kmくらい。ボールとの境目ギリギリを抜けるストレートだった。抜群にコントロールがいいと言うのは嘘ではないようだ。
 だが、打てない球じゃない。速度なら全然俊の方が速いし、重い分やっかいだ。

 「…まさか。本気で行かせてもらうわ。」

 笹森は菖蒲にサインを送る。
 二球目、コースは高い。内角だ。裕のバットが追う。

 (…あ?)

 球はバットから逃げるようにミットに綺麗に納まった。
 審判のストライクを告げる声がやけに大きく聞こえた。

 (今の…変化したな。フォークかな?)

 直球だと思ってタイミングを間違えた。小さく反省しつつ次の球に備える。
 そして、菖蒲は投球した。

 フォークは球の回転が見える。裕はバットを振った。だけど。

 「ストライクッ!」

 球はバットから逃げて行く。さっきのフォークの記憶を頼りに振ったら騙される。そんな気がして今度はしっかりと計った。

 (次は、打つ。)

 裕は構えた。そして、菖蒲は投げた。
 フォークの回転を確認しながら、バットを振り切る。…が。

 「ストライクッ!バッターアウトッ!!」
 「……ッ!」

 すぐに笹森の持っているミットに目をやり、確認する。ミットは下。

 (確かに、フォークだった…。なのに…。)

 裕は小走りにベンチへと向かう。笹森の口元が僅かに歪んでいた。

 (…何で、打てねぇんだ。ちゃんと計ったのに!)



 『バッター二番、新君。背番号四番。』

 新がバッターボックスに入る。禄高はそれをネクストバッターズサークルで見守っていた。
 丁度裕がベンチへと戻って来たところだった。

 「裕。」
 「…お、ありがとう。」

 メットを爾志に渡しベンチへと倒れるように座り込んだ。

 「…ありゃあ、フォークだな。随分綺麗に落ちてた。」
 「ああ。でも、俺はちゃんと計ったんだ。なのに、何で打てない…!」
 「計ったってお前…。」

 (たった一打席でフォークの軌道を読んだのか!?)

 爾志は訊こうとしたが、裕は水分補給に入っていた。
 まだ春だと言うのに今日は随分暑い。従って給水タンクの減りも早い。

 「打てよ、新!!」
 「振ってけー!」

 ベンチから応援が飛ぶ。新は、内角高めに入った直球を前に転がした。打球は三塁方面。新は走ったが、菖蒲は打球を捕らえて軽く一塁へ送った。

 「アウトッ!」

 審判の声を聞き新が帰って来る。直球だけだった。

 (…サードに捕らせる筈だったのに、ピッチャーが捕っちまったな。)

 メットを脱いで新はベンチへ戻る。

 「ピッチャー守備範囲広いね。」

 戻って来た新に右京が言った。

 「新君の打球は悪くなかったよ。でも、ピッチャーの守備範囲が広い。…一応、事前に見て来たんだけどね。あのピッチャーは随分動くんだよ。よっぽど体力に自信があるんだろうね。大事な試合では交代した事なんて一度も無い。完投だから。」
 「でも、あのピッチャー二年っすよね?」
 「そうだよ?ただ、明石商業にはスポーツ推薦枠がある。菖蒲君はシニア出身のピッチャーなの。」

 そう言って右京は禄高に目をやった。カウントはワンストライク、ツーボール。

 「監督。」

 裕は応援から振り返り右京を見た。

 「さっきの俺の打席…。投げられたのって確かにフォークでしたよね?」
 「…あたしも、そう見えたけど。気になるところでもあった?」
 「いえ…。」

 (やっぱり、ただのフォークだった。俺の判断が甘かったんだ。…次の打席は、見るか。)

 丁度、禄高の打球がサードフライに終わった。
 チェンジ。二回表、明石商業の攻撃である。バッターは五番から。



 五番打者がバッターボックスに入る。それを見ながら笹森は飲み物を喉に流し込んだ。

 「笹森先輩。」

 つい今まで声出ししていた菖蒲が振り返る。

 「先輩の言ってた人って、さっきの一番の人っすよね。あの小さい…。」
 「ああ、そうや。」
 「…先輩の言う最強も対した事無いんっすね。そりゃ、初球はビビりましたけど、フォークめっちゃ空振ってましたし。」

 菖蒲は笑った。
 バッターボックスに立つ裕の姿を思い出し笹森はニヤリと意味深に笑う。

 「お前はまだ、アイツの本気を知らん。恐ろしさを知らんねん。」
 「え…?」

 その会話の間に、バッターは次々アウトを取られチェンジになった。笹森は一度としてサインを出さなかった。



 「…今の回、笹森全然サイン出してなかったな。」
 「ああ。そうだな。」

 手を抜いたのか。そう思い嫌悪感を抱いた。だが、笹森はそんなヤツではない。何か考えがあるのか、と考えると嫌な予感がした。

 二回裏の阪野二高の攻撃。バッターは四番、爾志。両校互いに四番はキャッチャーである。
 バッテリーは引き続き菖蒲と笹森。菖蒲の球は確かに速い。だが、俊に比べれば軽い球だ。特筆すべき点があるとすればコントロール。そして、フォーク。
 剛球には弱いが、変化球には専ら強い裕も、菖蒲のフォークは打てなかった。菖蒲の持ち球はフォークだけではないが、恐らく決め球はこのフォークだ。

 第一球目。外角低めの直球。ボール…に際どいコース。爾志は見送るが、審判はストライク判定を出した。そして、二球目。内角高めの直球。

 「ストライクッ!」

 審判の声。

 (コントロールすげぇな…。)

 対角線の配球を綺麗に投げて来る。流石は全国ナンバー2…。
 三球目はボール。カウントは2−1。次に来るのは、決め球。

 (来い、フォーク!)

 四球目。爾志はバットを振った。だが、それを避けるように笹森のミットへと納まって行った。

 「ストライクッ!バッターアウトッ!」

 (…ん?)

 そのフォークに、裕は違和感を覚えた。



 ベンチに戻った爾志はメットを禄高に預け、監督の右京に報告に行き、裕の傍に向かった。
 裕は珍しく応援もせずにベンチに座って投球を凝視していた。

 「裕。」
 「あ、爾志ナイススイング。」
 「馬鹿にしてんのか。」

 爾志は笑ってベンチに座った。

 「あれがフォークか。…速いな。」
 「あ、うん。俺も思った。多分、120kmくらいあるんじゃねぇかな。」
 「綺麗に落ちるよな。でも、速いだけで対してすげぇって訳でもねぇだろ?」

 裕は少し考え込む。

 「…さっきのフォークと、一回で蜂谷君に投げられたフォークはまるで別物だよ。」

 右京は言った。

 「速度も、変化の幅も。確かに爾志君に投げられたのはいいフォークだった。だけど、蜂谷君に投げられたフォーク…何か違和感って言うのかな?そんなのがある。」

 裕は考える素振りをとったが、すぐに顔を上げた。

 「…ま、ごちゃごちゃ考えても仕方ねっすよ!俺が次の打席で見てきます。」

 グラウンドでは、バッターが丁度アウトになった。

 (…次の打席、このまま一回に三人だけしか回らなかったら俺は四回のトップバッターになる。)

 それまでに、あのフォークの秘密を見つけないとこの試合は勝てない。



――観客席。
 0−0のまま三回を迎える。明石商業の攻撃。この後準決勝が行われる為、浅賀はこの試合を見ていた。いや、この後試合が無くても見に来るつもりだったが。

 「…お前が一回からちゃんと試合見るなんてなぁ。」

 一人の男が笑う。

 「そらなぁ。…この試合は特別やねん。」

 笹森はともかく。裕が、ここまで上がって来た。その試合だから。この試合は、約束の舞台だから。

 「でも、阪野二高が勝てるかぁ?去年二回戦コールド負けやろ?正直、難しいんちゃう?」
 「…別に、どっちが勝ってもええねん。」
 「そうなんか?」

 浅賀は頷く。

 「そら、俺も毎回当たる明石商業よか初めて当たる阪野二高とやった方がおもろいと思うけど。」
 「ほらなー。」

 男はケラケラと笑った。

 「どの道、阪野二高はあの投手のフォークを見破らなきゃ勝てん。ま、見破ってようやくスタート地点やけど。」

 浅賀は鼻で笑った。



 三回表。バッターは八番。下位打線を含むが、ギリギリ一番まで回る。一番は俊足バッター。

 (出来るなら、一塁にでもランナー残して壁にしておきてぇな。)

 ランナーが壁になる。裕をランナーに想定しての練習では、それ以外の方法が見つからなかった。その方法ならもう皆が慣れているから落ち着いて出来る。

 爾志はサインを送った。



 「…ランナーは二人出るで。」

 笹森は呟いた。

 「俊足のバッター…フリーにしときた無いもんなぁ。」

 その言葉通りに、八番は打ち取られ、九番はフォアボールで歩かされていた。そして、一番打者に回る。ワンアウトランナー一塁。



 一番。打者としては今日二回目である。つまり、ここから二順目が始まる。

 (この打者がもし出塁しても九番打者が壁になる。ここでコイツを打ち取れりゃいいんだけどな…。)

 でも、その次には二番がいる。出来るなら、一、二番でアウトを取っておきたい!
 爾志はサインを出す。



 その様子を見ながら、笹森は笑っていた。

 「うまい事、掛かってくれたなぁ。…ウチの九番は、ただの下位打線からの繋ぎちゃうで。」



 コツンッ、と軽い音がした。

 「…ファースト!」

 打球は一塁線。これは犠牲バント。問題は、ただの犠牲バントで済むかどうか。
 間違い無く一塁ランナーはセカンドに辿り付く。だが、バッターは俊足。

 禄高が一塁から飛び出す。
 だが、バッターは一塁に滑り込んだ。セーフ。

 「ちくしょう!」
 「まだだ!禄高!!」

 裕の声が聞こえた。

 「早く、三塁だ!」

 一塁を蹴ったランナーは三塁に滑り込もうとしている。

 (速ぇ!)

 すぐに禄高は三塁へ送球するが、セーフ。



 「…九番まで、俊足かよ…!」

 禄高が呟いた。

 (…やられた!!)

 ランナーはこれで一、三塁。守備が大きく開いた。次も俊足打者。二番バッター。
 俊はランナーを警戒しつつ爾志のサインを確認する。先取点の危険があるからこそ、彼方此方から声が飛ぶ。牽制するも掛からない。二番のバントを予想して前進守備を張る。

 だが、二番打者はバントの姿勢からヒッティングに切り替える。

 打球はライト・センター間に落ちた。ライトの斎が捕球し送球する。三塁ランナーはすでに三塁を蹴っている。送球がショート、裕に届いた。だが、ランナーは滑り込む寸前だった。

 「無理だ!投げんな!」
 「間に合わせるッ!!」

 裕は爾志の声を聞かず投げた。ホームは砂埃が舞う。


 「アウト!」

 審判の判定を聞いて裕はガッツポーズをした。

 「よしっ!」
 「よしっ!じゃねぇよ、この馬鹿!」

 軽く俊が裕の頭を叩く。だが、その目は笑っていた。



 「すっげー肩。」

 菖蒲は言った。

 「当たり前やろ。元サードやで。」

 悔しそうな笹森の表情は、何処か楽しげだった。



 「ツーアウトー!」

 爾志の声が響く。これでランナーは一、二塁。次の打者は三番。

 (三番にはさっき、でかいのを打たれてる。)

 ランナーに注意しながら爾志は配球を組み立て、サインを出す。
 裕は、ふと明石商業の方へ目をやった。ネクストバッターズサークル。笹森エイジは楽しそうに見ていた。小さく舌打ちをして裕は打球に備える。

 でかいのが、来る。
 そんな予感がしていた。

 その矢先に、金属音が響く。

 「レフトー!」

 レフト、久栄が追うが打球は落下した。

 「三塁蹴ったぞ!」

 その送球も虚しくランナーは本塁に滑り込んだ。

 「セーフッ!」

 先取点。観客席が沸いた。



 (すげー簡単に、点入っちまったな…。)

 1−0でツーアウトランナー一、三塁。迎える打者は明石商業最強打者。



 (やっと一点か。長かったなぁ。)

 笹森はバッターボックスに立つ。二順目。最初の打席はショートへのライナーでアウトに終わったが。

 (やっぱ、打たなきゃあかんやろなぁ…。出来ればもうちょい遊びたいんやけど。)

 ショートを見る。そこには変わらず裕が構えていた。

 (ま、ええか。)

 にや、と口を歪ませバットを構えた。



 「…エイジのヤツ、まだ遊んどるなぁ。」

 呆れたように浅賀は呟いた。

 「そやね。本気やったら、とっくにホームランやもんな。」
 「アイツ遊び好きやねん。昔っから。」
 「はは。ほんま、あのキャッチャーは恐ろしゅうて適わんわ。どんな配球しても読んでまうんやから。」
 「笑い事ちゃうで!お前、毎回毎回読まれてるやんか!」
 「しゃあないやんかー。でも、お前がおるから点は取られへん。なんせ、解ってても打てん球やからね。」

 誇らしげに男は笑った。

 「野球って九人でやるスポーツやけど、どうしてもピッチャーの力が大きいって思うねん。」
 「何で?」
 「当たり前やんか。ピッチャーが投げるとこから始まるんやで。」

 その時、グラウンドから金属音が響いた。

 「打ったか!?」
 「…いや。まァだ遊んどる。」



 打球はショートへのライナー。一打席目と全く同じ。裕が真正面の打球を受け取りスリーアウトとなった。
 戻って行く笹森の楽しそうな笑顔を裕は見逃さなかった。

 (あの野郎…。)

 笹森が遊んでいる事くらい手に取るように解った。手加減ではないのも知っているが、くやしい。
 これがどう出るか。



 それから、三回裏は笹森の巧みな配球によりランナーは出ずチェンジ。一方、明石商業も四回表は五番がヒットするも続かずチェンジとなった。
 そして、四回裏。ここから阪野二高は二順目になる。トップバッターは裕。一打席目は初球のストレート以外は全てフォークだった。

 「お願いします!」

 今度こそ、あのフォークの謎を解く。しっかりと見なければいけない。
 そう思いながらバットを握る。ただのフォークのはず。なのに、打てない。
 打席に入るとすぐに一球目が来た。回転が見える。フォーク!

 (〜〜ッ!!打っちゃ、駄目だ!)

 もどかしい。が、見送る。
 ストライクが聞こえた。

 (やっぱ、ただのフォークだよな…。)

 バットを少し地面に置いて、俯いていた顔を思い切り上げる。

 (でも、打てなかったんだ。理由がある!…今度は振る。)

 地面を軽く均す裕の様子を見て笹森はサインを送った。

 (…コイツにはフォークの回転なんて見えとるはずや。なのに、見送った。って事はきっと、そういう指示出てたんやろな。でも、地面を均した。打つ気になったみたいやな。)

 菖蒲のモーションに合わせるように裕は踏み込んだ。
 また、フォーク。ここまで連続でフォークを打って来るって事は、よほど打たれない自信がある。裕は振り切った。
 だが、当たらない。ストライクの声が聞こえた。

 (何で、当たらねぇんだ!)

 一打席目もちゃんと見た。この打席の一球目も。なのに、当たらない。まるで、球が逃げて行くようだった。

 (…逃げてく?)

 裕はバットを握り直した。そして、真っ直ぐにピッチャー、菖蒲を見据える。
 そして、菖蒲は投げた。当然、来るのはフォーク。

 (…ここだ!)

 裕はバットを振った。だが、当たらない。ミットに納まった球。審判はアウトを告げた。
 数秒間、裕は愕然として動かなかった。

 「…裕?」
 「あ、ああ。」

 笹森の呼び掛けに気付いて慌ててベンチへ戻って行く。その表情を一つとして変えずに。



 「消えたぁ!?」

 斎が大声を張り上げた。咄嗟に右京は耳を塞ぐ。

 「何言ってんすか。球が消える訳無いっすよ!」
 「そうですよ。あれは、ただのフォークでしたし…。失礼ですけど、蜂谷先輩が打てない方が不思議ですよ。」

 斎に続いて那波が言う。だが、裕はその言葉を変えなかった。

 「でも、あの球は消えたんだ。バットに当たる直前に。」
 「消えるって事は、それまではしっかり見えてたんだよね?」
 「もちろんっす!俺、ギリギリまで見たんですから!」

 バットに当たる直前に消えた。そうとしか考えられなかった。

 「…消える魔球か?」

 ポツリと俊が楽しそうに呟いた。

 「裕、お前。そんなものがこの世にあると思うのか?昔の漫画じゃねぇんだ。そんな動きは不可能だ。」
 「そのくらい解ってる。だけど、俺には消えたように感じられたんだ…。」

 俊は鼻で笑ったが、裕は結局その言葉を変えようとはしなかった。だが、その後。俊自身がその言葉を体感する事になる。その、消える魔球と言うものを。



 1−0のまま試合は動かず後半戦を迎えた。互いに譲らない投手戦。そのまま後半戦を迎え、裕は菖蒲の“消える魔球”の正体を掴めないまま八回の裏を迎えた。

 「…結局、阪野二高はあの球を打てないまま終わるんかな。」

 欠伸をしつつ浅賀は言う。

 「そうやね。あの球は、消える。…俺らも最初はそう思った。」
 「けど、正体掴めば大したもんやない。」

 男は笑った。

 「お前の言う、最強の打者は打てんまま終わってまうで。」
 「…ここで終わるような男を、俺は最強なんて呼ばん。」

 浅賀はグラウンドに向き直った。



 阪野二高のベンチではあの“消える魔球”についての意見が割れていた。

 「…絶対、あの球は消えてんだよ!」

 禄高は言う。
 前半はストレートとカーブの緩急で打ち取られて来たが、後半戦からはあのフォークで打ち取られて来た。つまり、あの謎を解かなければ勝てない。

 「球が消える訳ねぇだろ!」
 「でも、そうとしか見えねぇんだ!…裕、そうだろ?」

 暫く考え込んでいた裕は顔を上げた。

 「あの球は消えるよな!?」
 「あ、ああ…。」

 曖昧に返事をしてまた考え込む。

 「…蜂谷君。何か?」
 「あ、いえ…。」

 右京の問いに裕は顔を再び上げる。

 「…俺も、球が消えるとは思わない。」
 「ほらみろ!」
 「だけど、そう見えるんだ。」

 何かカラクリがある。そのヒントをもう知っている気がする。
 その答えを必死に考えて打席に立って来たが、答えが出ない。

 「…俺が一番あの球を見て来たんだ。次は、必ず打つ。打てなくても、情報は持って来るよ。…最後の打席かも知れねぇからな。」

 裕は立ち上がった。

 『八回裏、バッター一番蜂谷君。』



 ただのフォークが消える。周りからは本当にただのフォーク。確かにキレはいいみたいだし、コントロールもいいからかなりいいところに決まる。でも、フォークなんだ。

――蜂谷先輩が打てない方が不思議ですよ。

 那波はそう言った。そのくらいなんだ。
 だけど、打てなかった。今日バットに当てたのは初回、それも初球のファールだけだ。あの球に一度として触れられなかった。

――でも、俺はちゃんと計ったんだ。なのに、何で打てない…!

 何度計っても打てない。幾らしっかり見ても。それに、三回裏気付いた事が一つあった。何気無く思った事。それが違和感。“まるで、球が逃げて行くようだった。”と。
 球が逃げて行く。そんな事は有り得ない。球は生きてはいない。自らの意志なんて持っていないのだから。逃げて行くとしたら、それは錯覚以外の何者でもない。そして、それを仕掛けたのはピッチャーだ。

――だけど、俺には消えたように感じられたんだ…。

 答えは、一つだ。


 「お願いします!」

 裕は構えた。

 「…何か、気付いたみたいやね。」
 「ああ。」

 そう言って、球は投げられる。フォーク。


 ギィンッ


 暫く聞かなかった音。打球はキャッチャーの後ろへ。ファールだ。
 久しぶりの感覚に裕は自分の掌を見た。何打席ぶりだろう。球にバットが当たるのは!
 観客席が揺れる。

 「…やっと、解ったんだ。」

 裕は構える。そして、二球目もファール。

 「この球は消えない。やっぱりフォークなんだ。ただ、変化の角度が半端じゃねぇ。緩やかなカーブなんかで落ちて行かねぇんだよ。」

 直角とまでは行かないが、このフォークはバットの直前で綺麗に落ちる。だから、消えたように感じられたんだ。バットに当たる瞬間なんて凝視出来ないから。

 「幾ら計っても打てない謎。それはお前だ。」

 裕は笹森を見た。

 「このフォークは、自在に落とせるんじゃねぇのか?」

 笹森は、ニヤと笑った。

 「お前がバットの振り位置読んで、ピッチャーが落とす。そうすると、俺達は消えたと錯覚しちまうんだ。バットのギリギリまでは同じコースだったんだからな!」

 裕は構えた。応援の声が大きくなる。
 そう考えた途端気持ちが軽くなった。謎が解けたような感覚だった。

 「…謎解きご苦労さん。…で、お前は打てるんか?それが。」

 笹森は楽しそうだった。

 「打てるかって?」

 裕は踏み込んだ。


 キィンッ!


 打球は、内野を抜けてライト前まで飛んだ。裕は走り出す。ワンバウンドした打球をライトが捕球し投げる。投げた先は一塁。だが、そこに裕の姿は無い。

 「セーフ!」

 審判が告げた。裕の今日の初ヒット。

 「…打てるかどうか何て問題じゃねぇんだ。…打つ。俺が一番見てる球だ。俺が打たねぇでどうする。」

 砂を叩きながら裕は言った。
 笹森の楽しそうな表情とは別に菖蒲は悔しそうにしている。

 「速ぇな。もしかして、ウチの一番より…。」
 「速いで。」

 笹森が言った。

 「アイツはウチの誰よりも足が速い。いや、今大会で一番やと思うで。」

 ガリガリと頭を掻きながら笹森は仕切り直す。

 (やから、初球からフォーク使てまでアイツを出塁させたなかったんやからな。)

 二番打者が入る。
 そして、一球目を放る前にランナーを確認する。

 (…センター前ヒットでランニングホームランするヤツや。油断せんとこ。)

 1−0で、たったの一点しかリードしていない。このランナーが盗塁したらもう一点入ってしまう。



 (…頼む、新!当ててくれ…!)

 当ててさえくれれば、三塁にはいける。祈るような気持ちで打者を見つめた。



 (…ったく。なんて顔してやがるんだ、俺らのキャプテンは。)

 泣きそうな顔で裕は新を見つめていた。

 (ここで打たない訳にもいかねぇ。あいつがやっと尻尾掴んだんだ。)

 新は構える。バント。
 今までもバントは構えて来た。だが、バントの時に限ってフォークは投げられなかった。

 (今考えればそれはヒントだったんだ。)

 新は身構える。直球ならヒッティングする。フォークなら転がす。俺はアウトでもいい。蜂谷を、三塁まで送るんだ。
 菖蒲が、投げた。

 球は落ちない。ヒッティングに切り替えようとした瞬間。

 (落ちた!)

 すぐにバント。打球は三塁方面へ転がった。同時に裕が二塁を蹴る。バントに備えた前進守備故に送球が早い。だが、裕は滑り込んだ。

 「セーフ!」

 応援の声が大きくなる。これでランナーは一、三塁。守備が開いた。次の打者、禄高はきっと打つ。その期待を胸に裕は立ち上がった。



 (鋭く落ちる、変化自在のフォークか。なるほどね。これがカラクリか。)

 禄高は構えた。すぐに投げられたフォーク。一球目を空振る。やはり、消えたように見えた。

 (…悪いが、ここまでや。もう出塁はさせん。)

 笹森はサインを出した。そして、あっという間に追い込まれる。ツーアウト。
 バットを握り直し最後の球に備える。遊び球はもう無い。バントはもう無理だ。警戒が強過ぎる。

 (…来い!)

 呼び込むように禄高は構える。
 投げられた瞬間、踏み込む。まだ、解らない。禄高にはフォークの回転が見えない。直球か、フォークか。
 だが。

 「うあああッ!」

 打席から飛び出した。打球はピッチャーの正面。変化前の球を叩いた。
 裕は三塁を蹴った。勢い良く倒れ込んだ禄高。

 (…ここで行かなきゃ男じゃねぇよ!)

 禄高が必死に打った球だ。無駄にしたくない。
 だが。

 「…ここは通さん!」

 笹森は菖蒲からの素早い返球を受け取った。裕は突っ込んだ。



 「アウトッ!!」

 カバッ、と裕は起き上がった。

 「…間に合わなかった…!」

 肩で息をしながら裕はヨロヨロと立ち上がる。禄高がそれを聞いて悔しそうに拳を握り締めた。
 これで、ツーアウト。ランナーは二塁。



 それから、選手の疲れからかヒットやエラーが続き満塁になるも得点までは至らなかった。



 九回表。明石商業最後の攻撃――。バッターは二番。俊足の打者から。
 だが、最終回だと言うにも関わらず目覚めるような俊の投球により、二番、三番がアウトになる。問題は次の打者。四番、笹森エイジ。
 運命としか言えない。この次の阪野二高の攻撃は四番から。互いに最強打者が打つ。

 (…ここで、打たせてもらうで。)

 笹森は構える。
 これまで、裕のショートを狙い打って来た。まるで遊んでいるように。だけど、その表情が今は無い。真剣だと言う事が解った。

 (もう、こっちには来ない。でかいの一発狙ってんだ。…踏ん張れ、俊!)

 裕は構えた。
 第一球、直球。もう終盤なのに、まったく衰えていない。だが。



 キィンッ…



 誰も動けない。時が止まったように。そして、審判の声で動き出す。

 「ホームラン!」

 ソロホームラン。ここで、阪野二高への追撃。2−0である。最終回だって言うのに。

 「そんな…。」
 「……ッは。」

 俊は膝に手を付いた。だが、汗を拭ってすぐに持ち直した。

 (弱いところは見せねぇ。)

 誰に言われた訳でもなかったが、俊は必死に立った。腕が痛い。肩が痛い。マウンドから、離れたい。こんな事を思ったのは初めてだった。
 視界が霞む。足がふら付く。駄目だ。

 「俊!」

 ダイヤモンドを回る笹森を余所に裕は俊の傍に駆け寄った。

 「どっか、痛いのか?」
 「…痛くねぇよ。試合中だ、戻れよ。」

 息が荒い。だけど、ここで引き下がらなかったら俊のプライドが傷付く。裕はそっとその場を離れた。

 (…俺は馬鹿だ。一番体力消耗してんの、俊じゃねぇか。)

 キャプテンなのに、気付いてやれなかった。本当の、馬鹿野郎だ。



 五番を何とか打ち取り、阪野二高の最後の攻撃2−0で負けている。絶望的かも知れない。
 打者は四番の爾志からだ。

 「…俊。俺、お前の消耗気付いてた。けど、放っておいた。…やっぱ、止めるべきだったよな…。」
 「何、言ってんだ。俺が立ちてぇから立ってんだ。」

 爾志はバッターボックスへ向かう。



 (ここで、俺が打たなきゃ俊は骨折り損だ。)

 バットを構える。

 (俺にフォークの回転は見えねぇ。それに、振り位置も読まれてる。バントじゃ駄目だ。でかいのを、打つしかねぇよな。せめて、直球…。それが解れば…。)

 一球目のフォーク。だが、ボール。
 連投で珍しく菖蒲が疲れている。コントロールが甘い。上手く行けばフォアボールになる。でも、それじゃ駄目だ。

 「爾志ッ!」

 ベンチで、裕が叫んだ。
 そして、サインを出す。それはピッチャーの、いつも爾志が出しているサイン。
 フォーク。

 (あいつ、解るのか?何が来るのか。)

 爾志は構えた。そして、その読み通りフォークが来た。だが、ボール。
 裕はすぐにサインを出す。笹森は解っていない。

 (…直球!)

 裕の読みでは次は直球。フォークの連投。そして、連続のボール。

 (俺は直球とフォークの回転の違いは見えない。)

 ここで直球を入れてストライクを取ろうって事だ。
 爾志はバットを握った。

 (来いよ!)

 投球。その予想通り、直球が一直線に走った。爾志は力強く振り切った。



                   キ…ンッ!



 「入った…!」

 打球は伸びて、観客席に落ちた。

 「ナイバッチ爾志ー!!」

 ベンチから声援。爾志は慌てて走った。



 愕然とする菖蒲の傍に笹森が寄った。

 「悪い、菖蒲。俺の配球ミスや。」
 「…ちゃいます。俺のせいです。先輩は、俺が連続でフォークミスったから…。」

 菖蒲の表情は暗い。

 「次、抑えるで。」

 笹森はネクストバッターズサークルを見た。



 それから、菖蒲は幾つかのボールで危なくなりながらもツーアウトを取る。ランナーはいない。命運を懸けた打者は、俊。だが、俊は。

 「代打を出そうか。」
 「え?」
 「ここで市河君が故障したら大変な事だよ。」
 「そりゃあ、そうっすけど…。でも、誰が…。」
 「決まってるじゃない。」

 右京は笑った。裕はその笑顔にただただ首を傾げた。



 『バッター七番、市河君負傷につき代打…蜂谷君。背番号六番。』
 「何やて!?」

 裕はバッターボックスに入った。

 「そんなアホな…。」
 「何だ?…俺が代打だと困るのか?」

 ニヤと裕は笑う。

 「…何で、お前が入れんねん。」
 「さぁ。俺達の監督は多少強引でね。」

 応援の声が遠くなる。でも、確かに聞こえる。「打て」と「蜂谷」の声。

 「負けない。」
 「当然や。」

 笹森はサインを出す。そして、菖蒲は投げた。

 「…もう、フォークは効かない!」

 裕は打った。打球は一、二塁間を抜けた。ライトが捕球し、送球した頃にはもう裕は二塁だった。



 「…どっちが勝つんやろ。」
 「さあ。ただ、おもろい事にはなっとるな。」

 浅賀は呟いた。



 ツーアウトランナー二塁。背負ったバッターは今大会一の俊足。次の打者は斎。ゆっくりと打席に入る。

 (…まったくいいとこねぇな、俺。)

 斎は構えた。

 (なのに、こんな場面で出ていいのかよ。)

 でも、誰も斎だからって諦めたりしない。打てると、打ってくれると思うからこそ必死に叫んでいる。

 (この期待に応えられなかったら、男じゃねぇよなぁ。)

 一球目、フォーク。斎のスイングは空を切った。

 「ストライクッ!」

 斎は構え直す。

 (頼むぜ、斎。俺を本塁に帰らせてくれ…。)

 裕は少しリードする。牽制に注意しながら。
 二球目、また、フォーク。斎のバットは当たらない。これでツーストライク。追い詰められた。

 三球目…。
 最後まで、フォーク。斎は唇を噛み締めてバットを振った。手応えを、感じた。

 「行け!」

 ボテボテのゴロ。三塁までは届かない。運悪く三塁方面。だが、場所はサード、ショート、ピッチャーの真ん中に転がった。しかも、遅い。


 「突っ込め!!」

 ここ以外にもうチャンスは無い。誰もが解った。だからこそ、裕は三塁を蹴った。

 「俺が取りますッ!」

 菖蒲が掴む。裕は滑り込む寸前。そこに、菖蒲の肩が襲う。裕は、頭から突っ込んだ。



 もうもうと砂埃が舞う。静かだった。そして、静かに審判は告げた。



 「アウトーッ!!」

 誰も、動けなかった。



 (…届かなかった……!)

 裕は自分の手を見た。よく見ると、届いていない。ベースに届いていなかった。あと、5cmくらい。それだけあれば、届いた。

 「クソォ…!」

 砂だらけの掌を、握り締めた。



 「ゲームセット!両校整列!」

 裕はユニホームの砂も叩かずにそこへ向かった。

 「この試合、2−1で大阪府明石商業の勝ち!互いに礼!」
 「ありがとうございました!」



 ザワザワと、空気が揺れていた。裕は呆然と立ち尽くしていた。声を掛けようにも掛けられず、伸ばした手は虚空を掴んだ。そんな斎の様子を見ていた新は「そっとしておいてやれ。」と言った。

 一方。

 「…市河って言うたか?」

 笹森はベンチで俯く俊に言った。

 「お前の球、すごかったで。捕ってみたいって思ったくらいや。」
 「…うるせぇ。」
 「お前は間違い無く天才や。とんでもない才能持っとんねん。」
 「黙れ!」

 俊は叫んだ。一瞬、笹森は驚いた。
 慰めや同情を拒絶ように俊は再び俯いた。

 「…一つ、言わせてくれ。これは俺の格言なんやけど。」

 静かに笹森は言った。

 「…天才は、最強になれない…。」
 「…じゃ、アンタもか?」

 俊は鼻で笑いながら言った。
 世間で騒がれる笹森。彼は紛れも無く天才。

 「…せやな。俺も、最強にはなれへん。」

 もしも、本当に自分が天才ならば。と付け加えて。

 「最強になれるのは、凡人だけや。誰に認められなくても、報われなくてもひたすらに努力を重ねて来た凡人だけ。」

 笹森はグラウンドの方を見た。そこには、呆然と空を見上げる裕の姿があった。かつてのチームメイトの姿を…。

 「あいつなら、なれるってか?」
 「どうやろなぁ。途中で折れへんかったら、なれるんちゃうか?」

 笹森は笑った。

 「…俺は、あいつも天才だと思う。あいつは認めねぇけど。」
 「裕が天才?そんな訳無いやろ。ただ、諦めの悪い凡人や。…あいつの努力、そんな一言で片したらあかんねん。」

 少し、悲しそうに笹森は笑う。
 諦めの悪さ。それが、彼を強くする。この敗北をバネにまだまだ強くなる。叩けば叩くほど鍛えられる刀のように。

 「皮肉なもんやな。」

 頂上に最も近い天才達に届かない其処は、その足元で足掻く凡人にのみ届く聖域。蹴落とした天才によって、更に強くなる。
 笹森は空を見上げた。

 「…俺は裕と言う人間が好きやねん。変な意味やなくて。俺らは上へ行くほど人を蹴落とさなあかん。その過程で俺らは多くのものを背負う。期待、責任、夢、憎悪。」

 その重さを、俊は知っている。

 「当然、時には仲間だって見捨てる。勝たなあかんねんもん。当然やろ。…でも、あいつは違った。誰も、置いて行かんねん。一人も見捨てないで、上に行く。どんなに苦しくても。」

 笹森は軽やかに笑う。

 「…俺、初めて知ったわ。キャプテンになって。こんなに、重いんか…って。やのに、あいつは今までそれを背負って来てたんやろ?あのチビでヒョロヒョロの裕は!」
 「あいつは、グラウンドのヒーローだからな。」

 俊は小さく笑った。馬鹿にするような口調だったが、何処か誇らしげだった。

 「…ほんま、あいつのグラウンドは広いなぁ…。」



 観客席に座っていた浅賀率いる朝間高校は移動の準備を始めた。同じく準決勝が行われるのだ。

 「…準決、相手どこ?」
 「慶徳。知らんのも無理無いで。埼玉や。ここまで来るのは初ちゃう?」
 「なんや。楽勝やなー。」

 浅賀は笑った。
 そして、グラウンドを見る。勝者の明石商業の野球部員がグラウンドを整備していた。ベンチへと戻る小さな後姿を見つけ、笑った。

 (早く、ここまで上がって来い。チャンスは、あと一回やで?)



 裕は浅賀の視線に気付かない振りをしながらベンチへと戻った。

 「さー行くか!」
 「馬ァ鹿!皆お前待ちだよ!」

 軽く小突かれながら裕は甲子園球場を後にした。こうして、阪野二高の春の甲子園は終わった。残すところ、裕が甲子園に来るチャンスはあと一度だけになっていた。