5、朔


 静かな時間の流れる病室で一人、如月は新聞を読んでいた。
 春の甲子園も終わり、参加していないとは言え一息吐けたような気がする。
 ふ、と一呼吸。すると、見計らったかのようにノックが転がった。

 「はい。」
 「あ…失礼します。」

 聞き覚えのある声。声の主はカラカラと戸を引いて入って来た。
 果物の入ったバスケットをぶら下げて、忘れる事の出来る筈の無いライバルと呼ぶに相応しい男。

 「…よお、蜂谷。久しぶりだな。」

 裕は遠慮がちに入ると、如月の傍の椅子に腰掛けた。
 枕もとの机に見舞いの品であるフルーツバスケットを置き、裕は笑う。

 「如月…久しぶり。」
 「見舞い来てくれたのか?ありがとよ。…甲子園準決勝敗退だってな。惜しかったじゃん。」
 「ああ…。ありがとう。」
 「……どうした?」

 普段と様子の違う、余所余所しい裕に如月は首を傾げつつ尋ねる。

 「…朝倉の事だったなら、気にすんなよ。そんなの気にするような男だったならお前は見込みねぇよ?」
 「はは。生憎だけど別件だ。…いや、そうでもないか?」

 苦笑しながら裕は頭に触れる。短い髪が揺れた。

 「…お前、確か誰かと約束してるって言ってたよな?」

――お前が笹森と浅賀との約束を果たす為に甲子園を目指すように、俺もあいつとの約束を果たす為に甲子園を目指す。

 「……それを聞きに来たのか?」

 裕がゆっくりと頷くと、如月は僅かに僅かに顔を上げた。

 「…もう、話してもいい頃なのかもな。…昔の事だ。」

 そうして、如月は語り始めた。



 † † †

 今から大体五年くらい前の事。当時、俺は周りの同級生に比べ大きくて、それ故にピッチャーとして優れていた。それで、猿山の大将だった俺は自分で言うのも何だけど、のさばっていた。当然先輩からもやっかまれてたしあからさまな態度も取られていた。
 そんな中で、ある男に出会った。俺と同じピッチャー。長身だった俺に比べて遥かに小さく、期待なんて出来なそうな男だった。でも、そいつは技術も球威もずば抜けていて俺と同じ…いや、それ以上に力を持った男だった。

 名前を、高砂 祐と言った。


 † † †



 「…ゆう?」
 「ああ。お前と同じだ。字は違うけどな。」

 如月は空中に「祐」の字を書いて見せる。

 「だから、お前を見た時びっくりしたよ。ちびっこい“ゆう”ってヤツがグラウンドで走り回ってんだから。」
 「それで、名前聞いただけであの時解ったのか。」

 あの冬の日を思い出す。如月と初めて出会ったCDショップ。如月は裕の名前を聞いただけで、「蜂谷裕」が「桜庭裕」であると気付いた。

 「ああ。…続けるぜ。」



 † † †

 高砂祐は…。俺とは逆の男だった。体格にしてもそうだし、俺が球威でグイグイ押していくピッチャーだったとしたらアイツは変化球でスパスパ行くタイプだった。お山の大将だった俺に比べたらアイツは皆の中心でわいわいやってるヤツだったし…。全てが違ってたんだ。根本的に。

 同じところって言うと…。まあ、先輩にやっかまれてたって事くらいだな。



 「……ッ。」

 誰も来ないような校舎裏の水道に高砂はいた。
 何をしているのか解らなかったが、偶然通りかかった俺は何してんのか、なんて考えながら少し覗き込んだ。声なんて掛けなかった。俺とは真逆の人間だったからな。出来る事なら関わりたくなかったし。
 でも、小さく呻くような声が聞こえて来てて、ちょっと心配になって声掛けようかなって思いながら近付いたんだ。

 「……高砂?」
 「!」

 高砂は相当驚いたらしい。肩をビクッと跳ねさせて手元にあったタオルで顔を半分くらい隠しながら振り返ったんだ。

 「…なんだ、如月か。」

 なんだとは何だ!なんて怒りはしなかったけど、いつもとまるで様子が違って見える高砂に俺は違和感を覚えたんだ。こいつ、本当に高砂か?って。

 「何やってんだよ、こんなところで。」
 「そりゃーこっちの台詞だよ。俺は偶然通りかかっただけだよ。高砂こそ、何やってんだ。」
 「いや?別に。水分補給?」

 高砂は苦笑した。だけど、俺は気付いたんだ。高砂の持っていたタオルが赤く染まっていた事に。
 本人は気付いてないみたいで、笑っていた。

 「…お前、どうしたんだ?タオル真っ赤だぞ。」
 「え?あ、やっべ。」
 「怪我したのか?」
 「いやいや。鼻血だよ。暑いからなー。」

 その日は別にそんなに暑くは無かった。夏に入ろうとしている春の終わりだったけど、久しぶりに涼しくて助かるなって誰かと話しながらさっきまで歩いていたんだ。

 「…鼻血出るほど暑く無いだろ。とにかく、さっさとマネージャーの所行けよ。」
 「ああ。そうするわー。」

 高砂は苦笑しながら歩いて行く。
 すれ違う時に、その身長差に随分驚いた。こんなヤツが俺と同じようにマウンドで投げてんだって思って。後姿なんかすっげー頼りなさそうだったし。
 そうやって戻って行く高砂の姿少し見届けて、俺も練習に戻ったんだ。



 それから数日後。また、何の気無しにそこを俺は通り掛った。また、アイツがいるんじゃないかって思いながらふと水道の方を見たんだよ。そうしたら。

 (……いた。)

 高砂はまたあの日と同じように水道にいた。タオルを手元に置いて、顔を洗っているようにも見えた。だけど、赤く染まった水が見えたんだ。

 「高砂?」

 今度はすぐ後まで近付いて声をかけた。そうしたら、また高砂は驚いたみたいでタオルで顔を隠して笑った。今度は色の濃いタオルで。

 「またお前かよー。驚かせんなっつの!」
 「別に驚かせてねぇよ。何やってんの?顔洗うの趣味な訳?つか、また鼻血か?病院行った方がいいんじゃね?血管切れてんのかもよ。」

 高砂は苦笑するばっかで。

 「さっき転んだら口の中切ったんだよ。」
 「馬鹿かよ。」

 俺は罵りながら気付いたんだ。呂律の回っていない高砂。口の中切ったってのは本当なんだって思った。

 「……なぁ、高砂。」
 「何だ?」
 「どんな転び方したの?」

 俺は気付いてた。初めてここで見かけた時から。高砂が無理に顔を半分タオルで隠している理由。
 赤く腫れた頬が全てを語ってた。

 「…なあ、どうしたんだよ。その頬。本当に転んだのか?」
 「そうだよ。しつけーな。他にどんな理由があるんだよ。」
 「…先輩に、殴られたのか?」

 先輩は、一年のクセにレギュラーに程近い俺達を好ましく思っていなかった。俺は体も大きく力も強かったから先輩も手を出せなかった。代わりに、チビで非力なコイツが。

 「なあ、どうなんだよ!おい!」

 人事じゃなかった。
 同じ境遇なのに、体が小さいってだけでこんな目に遭っている高砂。俺の分まで殴られてんのに。

 「…そうだったら、どうすんだ?」

 高砂が、答えた。

 「どうって…。」
 「そうだとしても、どうする事も出来ねぇだろ?俺達は後輩で、相手は先輩。仕方無いじゃん。」
 「ふざけんな!そんなんで片付けていい事かよ!悔しくねぇのか!俺だったら悔しいぞ!殴り返してやんなきゃ気が済まねぇよ!!」

 すると、高砂は腹を抱えて笑い出した。何かが吹っ切れたみてぇに。
 初めて見る高砂の爆笑に俺はただただキョトンとしていた。

 「…お前、本当は良いヤツだったんだな。知らなかったぜ。…改めて、俺は、高砂祐。祐でいいよ。」
 「…俺は如月昇治。…昇治でいい。」
 「そうか、昇治か。…俺はピッチャー。もちろんレギュラー狙いだ。お前には負けねぇからな!」
 「その言葉そっくり返してやるよ。」
 「…今はまだ、先輩がいるけど…。俺達の時代がもうすぐ来る。その時は、こんなのは終わりにしよう。俺達だけで十分だ。こんな思いは。」



† † †

 「…俺は、祐の意見に賛成だった。もう、こんなのは俺達で終わりにしたかった。…でもさ、普通、やられたらやり返してやりたくなるだろ?それなのに、祐は平然と言ってのけたんだ。すげぇと思ったよ。」

 如月は何処か誇らしげに笑った。そんな如月を見て裕は笑う。

 「それから…俺と祐はすげー仲良くなったよ。先輩とゴタゴタがあればお互いに庇い合ったり、よく遊びに行ったし、勉強もした。一緒にいるのが当たり前だったよ。甲子園に行く約束もした。その時は互いの長所を生かして優勝しようなって。」
 「…いいなぁ。」
 「お前にとっての浅賀や笹森と一緒だよ。」

 裕は苦笑した。

 「それから月日は流れて、俺達はやっと三年…。上級生になったんだ。」

 裕は相槌を打ちながらすっかり話に聞き入っていた。そんな裕を見て小さく笑いながら如月は続ける。

 「…やっと自由になった時から、歯車は少しずつ狂い始めていたんだ。」
 「え…?」
 「最初は、祐のスランプだった。」

† † †



 やっと三年になったってのに、あいつは調子を崩していた。
 その頃俺はだんだんと変化球を覚え投げれるようになり、コントロールもどんどん身に着けて行った。スピードは才能だけど、コントロールは努力だもんな。そうしてる間、逆に高砂はどんどん不調になって行った。

 それを機に、俺達は対立していった。遊んだり練習したりする事もなくなったし、会話さえしなくなった。
 俺はそれを当然の事で…仕方の無い事だと思っていたんだ。だって、エースはたった一人なんだから。

 そうやって距離を置くようになって、俺はあいつの顔を見る事も少なくなっていた。
 まぁ、顔を合わせてもお互い無視に近かったな。その間も高砂はスランプのまま。自分で言うのも何だけど、俺との差はどんどん開いていった。そして、俺はエースに、主将になった。


 「…祐休みか?」
 「ああ。体調悪いらしいぜ。」

 それからと言うもの。祐は部活を休むようになった。不調の為に持ち直そうとしてんだって思った。当然俺はあいつがいない分どんどん試合にも出た。

 それからもあいつは来なかった。部活にも、学校にも。
 そして、俺はチームのエースとして大会にも出場しいい成績を沢山残すようになった。高砂の事、忘れた訳じゃなかったけど、だんだん気にならなくなったんだ。俺も、皆も。

 そんな時、ある噂を聞いたんだ。



 「…祐が入院してる?」

 それは、高砂のクラスの担任が言っていたのをクラスメイトに聞いた事だった。高砂は学校を休んだあの日からずっと入院してたらしい。



† † †

 「入院…。」

 如月は頷く。

 「心臓の、病気だったんだ。…俺と同じな。」
 「!」

 これは偶然なのだろうか。高砂の病気が時を越えて如月に襲い掛かる。

 「俺は…、それを知らなかった。いや、知ろうとしなかった。だから、これはきっと天罰なんだ。」
 「馬鹿言うなよ!天罰って言うほどの事でも、あったって言うのか…?」

 如月は力無く笑う。それは、肯定を示していた。
 そして、如月は続ける。

† † †



 あいつの入院する病院へ行き、病室へ入った。その時ほど、俺は自分の愚かさを後悔した日は無い。
 青い顔して、痩せ細って、ベッドの上で魂が抜けたみたいにぼうっとしてたんだ。まるで、別人だった。確かに小さくて頼り無さそうなヤツだったけどよ。

 「…祐…。」
 「…昇治?」

 高砂は…。まるで死人みたいな顔だった。声には抑揚も無くて…。今まで見て来た高砂とは明らかに違っていたんだ。まったくの、別人。

 「だ、大丈夫かよ。顔色悪いぞ。」
 「…はは。大丈夫に見えるんだったら、お前の眼は腐ってるよ。」

 そこには、絶望しかなかった。俺は一生、こいつのこんな顔は見ないだろうと思ってた。どんなにピンチの試合で、負け寸前でも。対立していたあの頃であっても、見る事はないだろうと断言出来たのに。

 「…俺、死ぬんだ。もうすぐ。」
 「えっ!?」
 「心臓の病気で…、手術しても生き残る確率はほとんどゼロだって。」

 俺は…、愕然とした。それ以外に何も出来なかった。言葉を掛けてやる事も。始めは冗談だと思った。でも、冗談にしては高砂の表情は暗すぎたんだ。

 「なあ、信じられるか?信じらんねーよな。俺だって信じられないんだ。」
 「…祐…ッ。」
 「何でだよ!何で俺だけがこんな目に遭わなきゃなんねーんだよッ!!!」

 それの真偽を確かめる事も出来ないまま、俺はそれを真実だとつき付けられた。残酷過ぎる事実だった。否定したかった。それでも、出来なかった。

 「何でだよォ…。」

 ベッドのシーツをぐしゃぐしゃに握り締めて高砂は叫んだ。そんな悲痛の叫びに、俺は応えてやれなかった。ただ俯いて、自分の頭の中を整理する事しか出来なかったんだ。


――祐が、もうすぐ死ぬ。


 それが、頭の中を占拠していた。何も考えられなかった。
 そうしている間に高砂はフラッと立ち上がって部屋を出て行った。虚ろな目のまま。


 そのまま、数分経った。高砂は、帰っては来なかった。

 「…祐?」

 ようやく自分を取り戻した俺は高砂が気になった。帰る様子も無くて、あの虚ろな目。嫌な予感がした。

 「…祐!」

 嫌な予感が体を動かした。足は真っ直ぐに嫌な予感のする方、屋上へと向かった。



 「……祐ッ!!」

 予想通り、そこに祐はいた。
 フェンスの向こう側に、もう、俺には届かない場所に。

 「何で…祐!!危ねぇだろ!」
 「…昇治。…知ってたか?」」

 高砂は笑った。自嘲気味に。

 「…俺は、お前が嫌いだったよ。」
 「…祐…!」
 「始めっから。無愛想で、自分勝手で、自己中で。なのに、才能があるからって皆に慕われて。努力なんて知らないくせに。」

 そこには、怒りがあった。今まで苦汁を嘗めて来たのは、他ならぬコイツだったんだってようやく解ったんだ。コイツは皆の分まで努力して、俺の分まで辛い思いをして。誰にも認められなくて。
 それでも、諦めずに努力を続けたコイツを俺達は見捨てたんだ。コイツの事、何も理解しないまま。

 俺は、何も言えなかった。ただ、呆然としてた。
 そうしたら、高砂は虚ろな目のまま、絶望の表情のまま、僅かに微笑んで。



 「バイバイ。」

 そう、呟くように言って、落ちて行ったんだ。



† † †

 「…そんな…。」
 「嘘みてぇな話だろ?でも、真実だ。アイツは、死んだ。即死だった。」

 自殺。

 「…そんな事するようなヤツじゃなかったのにな…。俺は、アイツがそんなに追い詰められていたのに気付かなかったんだ。…俺は、愚かな自分への怒りで一杯だった。」

 そう言って、如月は今も自分を責めていた。

 「俺はあの時、どうすれば良かったんだ?どうすれば…正解だったんだろう。」
 「如月…。」

 裕の表情は、如月の哀しみを映しているようだった。

 「…俺は、あいつとの約束…。甲子園優勝を目指して来た。罪滅ぼしに。だけど、時を越えてアイツの病が俺に来た。アイツは、こんな事を望んでんじゃねぇって解ったよ。アイツは俺に・・・。」
 「違う!」

 裕は叫んだ。

 「そいつは、お前に、そんなもんを望んでんじゃねぇ。…だから、お前は生きろ…!」
 「……アイツと同じ病気が俺に襲って来る。これが、ただの偶然だって言うのか?そうは思えねぇよ!どう考えたって、これは運命…いや、罰が下ったんだよ。そうじゃなきゃ、何だって言うんだ。」
 「試練さ。」

 平然と裕は答えた。

 「そいつは、お前の死なんて望んじゃいねぇよ。俺が保証する。だから、お前は生きろよ。最後の最後まで!」


 諦める事は簡単だと、教わった。
 それが誰からだったのか、思い出せずにいた。だけど、今、蘇った。夏だった。中学最後の夏。決勝戦までの道のりで、もう負け寸前の試合をした。炎天下で、頭がぼうっとして、思考が追いつかなかった。
 皆負けるって思っていて、俺が何とかしなきゃならなかったのに、何も考えられないで。そんな中で恭輔が言ったんだ。

――諦めるのは簡単なんだよ!だから、勝とうぜ!こんなところで終わったら、絶対に後悔する。

 一番苦しい筈の、恭輔が言ったんだ。あいつのお陰で皆はやる気を取り戻した。そして、勝利した。


 「…お前に、何が解るんだよ。お前には解らないだろうが!お前と違って、俺の約束したアイツはもうこの世にはいねぇんだよ!……お前に、何が解るんだよ…。」

 そう言い残して、如月は病室を出て行った。残された裕は、ただ俯いた。言葉が見つからなくて、何も出来ない自分の無力さを呪った。言わなきゃいけない言葉なんて沢山あるのに。
 でも、そんな自分の後ろを、あの日の浅賀の言葉が押してくれる。


 「…如月ッ。」

 後悔、したくないッ!
 その思いだけで、裕は走り出した。




 強い風が吹いた。晴天だったのに、何時の間にか怪しげな雲が出て来ている。一雨来そうだと思いながら空を見上げていた。
 屋上には、誰もいなかった。如月はあの日の高砂と同じように立っていた。フェンスの向こう側に…。

 「お前も、これを望んでいたんだよな…。」

 高砂は、俺を恨んで死んでいった。無念で絶望の中。
 そうして、フェンスに添えた手を離した。


 「……やめろ!」

 屋上の扉を思い切り蹴り開けて入って来たのは裕。息を切らせて。

 「……まさか、来るとは思わなかった。あの日と、同じだ。何もかも。」
 「同じじゃない!…駄目だ、如月。」

 くっ、と如月は笑った。

 「何が、駄目なんだよ…。俺はどうせ死ぬんだ。それが早いか、遅いかの違い。」
 「だったら、お前はまだ逝くなよ・・・!死んだら、終わりなんだ。誰も何も救われない。永遠に!」
 「……俺は、お前のその“綺麗事”が嫌いだったよ。」

 ふ、と鼻で笑う。

 「ごちゃごちゃ綺麗事並べて…。結局のところ、お前は才能にも仲間にも恵まれてただけじゃねぇか!何も知らないくせにズカズカ土足で人の心の中踏み込んで善人ぶって…。お前に何が解るんだよ!綺麗事じゃ何も変わらねぇんだよ!!」
 「…綺麗事だって、構わない。人は救えるよ…。」

 泣きそうな声で裕は言う。
 だが。ふらっと如月の体が揺れた。その刹那、如月は呟いた。


 「バイバイ。」


 落ちて行くのが、解った。





 「…如月ッ!!!」

 フェンスギリギリに足を掛けて、身を乗り出して間一髪のところで裕は如月の手を掴んだ。宙ぶらりんのまま如月の体が風に揺れる。

 「蜂谷…。」
 「如月、死ぬな…。」

 如月よりも遥かに小さい裕が、引き上げられるとは思えない。手がギリギリと音を立てた。
 下を見ると、そこは眩暈がするほど高かった。

――祐は、こんな場所に落ちて行ったんだ。


 「蜂谷、手、離せ。お前まで落ちる。」
 「離さない。」

 裕の目は真剣だった。

 「この手は、死んでも離さない。」

 必死の表情。何処か、泣いているようにも見えた。

 「…もう、俺の前で誰も死なせない。あんな思いはもうたくさんだ。」

 汗で手が滑った。そこに、雨が降り出した。思うように動かない上に、状況は悪くなるばかり。それでも、裕はその手を離そうとはしなかった。

 「…お前がここで死んだら…。残った奴等はどうすんだよ…。お前と同じ思いをさせるのか?」

 ポタッ、と雫が如月の頬に落ちた。雨か涙か解らないが。そして、一瞬、高砂祐の顔が浮かんだ。

 「俺は、自分に才能があるなんて思った事は無いよ。周りの天才達を見て、俺もそうだったらよかったのにって憧れるだけの卑小なヤツだよ。俺の言葉なんて筋の通らない綺麗事ばっかりかも知れない。でも、その綺麗事だって…人は救える。」

 手に力が篭る。
 例え、地震が起こっても、手すりが落ちそうになっても、この手は絶対に離さないだろうと確信した。
 自分が死ぬかも知れないのに。救う価値なんてないのに。手を離せば楽になれるのに。絶対にその手を離そうとしない。


 (…どうして俺は。)

 涙が、溢れた。

 (こんなに簡単な事が出来なかったんだ…。)

 あの時、どうすればよかったかなんて。答えは目の前にあったのに。
 あの時、コイツのように何も考えずに手を伸ばせばよかったんだ。必死に、がむしゃらに。

 「……ゆう…。」

 笑ったのは…裕だった。

 「死にたく、ねぇよ…。」

 あの時、助けられなかった。それをずっと後悔していた。もう一度、あの頃みたいにキャッチボールしたかったのに。


 「……また、勝負しようぜ。俺が勝つけどな。」

 裕は笑った。その裕の笑顔に、高砂が重なる。そして、如月の視界は滲んだ。


 丁度その頃、下の方がザワザワとしだしていた。そして、数分としない内に屋上には人が駆けつけ、二人は救出された。



 騒がしい病院の一室で、如月はベッドに座ったまま言った。

 「…なぁ、蜂谷。俺、手術受けるよ。成功するとか…そんなのは解んねぇけど、絶対にまた、グラウンドに戻るから。だから、勝負しような。」

 その表情は明るかった。何処か、すっきりしたようにも見えた。

 「…当たり前だ!夏大会、絶対に戻って来いよ!決着を着けようぜ!!…手術、成功するように祈ってっからな。」
 「ああ。…あの時、お前に祐…高砂の顔が重なったんだ。笑ってた。だから、俺はもう…許してもらえたのかなって思ったんだ。」
 「…そうだな。辛い記憶を誰かに話すと言うのは、一つの覚悟だ。だから、その覚悟をちゃんと認めてくれたんだよ。」

 そう言って、裕は外を見た。
 そこには青い空が広がっている。誰が苦しんでも、泣いていても、死んでも変わらぬ残酷な青。それでも、いつだって綺麗に青く、深く広がっている。
 今は、それが希望にしか思えなかった。